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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 誰何の幻想
77/107

12

 眼前に男が迫る。

 三度目の対峙。一度目は軽々と捻られ、二度目は相手の僅かな隙を突くことができたが、それも再度は通じる道理はないとわかって、サリュは冷静に相手を待ち構えた。

 負傷した右手はほとんど使い物にならず、体格、技量ともに自分より勝る男の突撃に対して、内心で生ずる動揺はない。それはサリュが自分自身の状態を客観して見限っていたからだった。


 ――別に勝てなくたっていい。目的は、この人に勝つことなんかじゃない。

 今、目の前で繰り広げられつつある惨状、もはや止められようもないと思われる血の抗争に徹底的に抗うことを、呪われた名前を戴く少女は心に決めていた。


 半身にとった姿勢で、左手に握る砂鋼の鞭剣を前に突き出す。

 短剣を逆手に握ったヨウが、小柄なサリュよりさらに低く身を屈めて疾走する。その額を擦るようにサリュが送り出した剣先が払われる。周辺を突き出した岩に囲まれた状態で、容易く後ろへ下がることに危惧を覚えたサリュは、自ら相手に向かって接近した。


 燃え盛る氷の眼差しで、男が左拳を繰り出す。殴るか、掴むか。体重差のある組み合わせではそのどちらを受けても彼女に勝機はなかった。サリュは身体に巻いた防砂の外套を剥ぎ取り、男に向かって覆い被せるように投げつけた。

 僅かな間、互いの視界が遮断される。

 地面との間に覗く相手の足元を見て、サリュがその横をすり抜けようとしたところに、投じられた防砂衣を突き破って蹴りが撃ちだされた。目測がわずかに逸れていた為に直撃は免れて、しかし離脱する時機も逸して踏みとどまる。右足の一振りで目くらましを薙ぎ払った男が、冷ややかな目線を投げつけた。

「何処へ行くつもりだ」

「……貴方をどうにかすれば、この場が収まるわけじゃないでしょう。今は、貴方のことはどうでもいい」

 時制を強調して、サリュも冷たい視線を返す。男が嘲笑した。


「なるほど。だが、俺がいつまでもこんなところにいると思うか? 不毛な殺し合いに巻き込まれるなど御免だ。帝都まで持ち帰らないといけないものがあるからな」

「……他の人たちを見捨てるの」

 睨みつけるサリュにあっさりと肩をすくめる。

「一人だけで戻るのはなるべく避けたかったがな。今さら、あの愚かな男を連れて脱出する手立てもない。俺一人なら混乱に乗じて馬を盗むくらいはできるさ」

 ああ、と男は頷いた。

「俺がここから逃げ出すのを手伝ってくれないか? それが出来たら、お前が知りたがっていることを話してもいいが――」

「もういい。黙って」

 静かな声音に怒気を込めて、サリュは男の言葉を遮った。

「絶対に、貴方は逃がさない。リトのことも話してもらう。この場だって止めてみせる」

「出来もしないことをほざく前に、ならまずこの俺をどうにかしてみせろ!」

 男から仕掛けた。


 重く、鋭い一撃が立て続けに繰り出される。息をつく暇もない連撃を浴びて、サリュは守勢にまわることでなんとかそれを凌ぎきった。

「今さら事態は変えられん。こちらの馬鹿が、そちらのまとめ役を殺めた時点でその他の可能性は失せたと分かれッ」

「止められなかった貴方が言う台詞……!」

「だから無力と言った!」

 ヨウが吐き捨てる。自分自身の失態に怒りを覚えた口調だった。

 横薙ぎにされる。サリュは地面に転がって剣先を回避しつつ、すぐ傍に落ちた防砂衣の端を掴んだ。それを相手に投げつけるのではなく、素早く右手に巻きつける。この程度ではナイフ程度の斬撃も防げるものではないが、それでも無いよりはましだろうと即席の防具に仕立て上げた。


 鞭剣を左手に、絡めた防砂衣を右手にその端を長く地面まで垂れさせて、考える。――やはり強い。正面から戦って勝てる相手ではなかった。周囲では今も殺し合いが繰り広げられている。いつまでも男一人にかかっていていい状況ではなかった。

 もちろん、それで周囲が彼女を放っておく理由もなかった。サリュの視界の端に、横合いから彼女に向かって襲いかかってくる兵士の姿が映った。

 振り回しにくい槍を力任せに投げつけて腰の剣を抜き払う。男が投擲した槍を避けたサリュは、奇声とともに剣を振り上げる兵士に、右手の防砂衣を鞭のように叩きつけた。

 兵士が剣を振り下ろす。防砂衣を切り捨てようと地面を叩き、体勢が揺らいだ男の隙に接近して、サリュはその首筋に容赦なく肘を叩きこんだ。

 苦悶に呻き、しかし気絶させるには至らなかった男が、そのまま抱えるようにサリュを押し倒した。男の目が零れそうなほどに見開かれる。サリュに圧し掛かった兵士の下腹部に、彼女の膝頭が深々と突き刺さっていた。

 世の全てを呪うような絶叫があがる。ごろごろと地面を転げまわる兵士から逃れて、ふと背後に殺気を覚えたサリュは立ち上がる間もなく横に転がった。

 体重を乗せた靴裏が地面を踏み抜く。一撃を避けられて舌打ちしたヨウが、サリュに体勢を整えさせる前にさらに襲いかかった。

「……ッ」

 振りぬかれた蹴りをかわしきれず、サリュは防砂衣を巻いた右手で受けた。体重の軽い彼女はそれだけで吹き飛ばされ、背後に突き立つ岩壁に叩きつけられた。


 意識を飛ばしかける。強い衝撃に肺から強制的に押し出されて咳き込んだ。むしろ、それがあったおかげで意識を手放さずにすんだのかもしれなかった。

 涙目になりながら、男を睨みつける。即座に追撃にも出ず、ゆっくりと近づきながら相手が口を開いた。

「身の程を知れ。せっかくあの方に助けられた命なのだろう。ならばせめて少しでも生き長らえることが、あの方への恩に報いることになる」

 そうした台詞を、よりにもよってその人物に似た気配の相手が吐くことに怒りを抱いて、サリュは感情に任せて立ち上がった。

 震える膝に手を添えてふらつきながら、

「うるさい。リトなら、きっと……」

「ニクラス様がなんだ? あの方なら、このような事態もどうにかできると? 大層な狂信だが、そんなことがあるものか」

 薄く笑った男が断言した。

「あの方は救世者でもなければ、善人でもない。お前が抱いているのは幻想だ。孤独で虚しい自分を慰める為の、腐った自己憐憫なだけだろう」


 サリュは反論しない。激高した頭で、けれど男の言っていることは正しいと、意識のどこかでもう一人の彼女が呟いていた。先ほど彼女自身が口にした通り、彼女と男が知る男の顔が違う以上、互いの信じる人物像が異なることも当然でもあった。

 だから、サリュは男の台詞を抗しなかった。かといってそれを受け入れるつもりもなく、ただ残った全力を痛んだ身体に込めて、誰かの面影に近い相手を睨みつける。

「リトを想って生きることの。なにがいけないと言うの。……私は、またリトに会いたい。絶対に探し出してみせる。その為に生きてきた」

 脳裏に、怒ったように自分を見つめる部族の少女の姿を思い浮かべる。クアルやこぶつき馬。水と石に囲まれた街で世話になった人々や、旅に出てから今までに出会った人々の顔を思い出し、頭を振った。

「――それで終わりでもない。リトと会って。それから、始まるんだから……!」


 サリュは突進した。

 防砂衣でくるんだ右腕を盾のように突き出して男に向かう。右腕一本を犠牲にしてでも、相手を無力化する覚悟だった。

 捨て身を仕掛けた前進に、ヨウは冷ややかにナイフを構えた。叩きつけられた防砂衣を左手で受け、掴む。握力が効かずに強引に腕に巻きつけることでそれを補っていたサリュは、掴まれた防砂衣を捨てるのが遅れた。

 ヨウが右手のナイフを閃かせる。

 サリュは鞭剣で受けた。右手に絡めた防砂衣を剥そうと腕を振ろうとするが、その前に防砂衣の向こう端を掴んだ相手に力任せに引っ張られ、体勢を崩した。

 相手の不利を冷静に見て取ったヨウが蹴りを繰り出す。前掛かりに姿勢が傾いていたサリュは、そのままの勢いで飛び込むしかそれを回避する術がなかった。


 地面に転がったサリュの眼前に、男のナイフが突きつけられた。

「……その無様で、まだたった一人でこの場をどうにかしてみせるとほざくか」 

逆光になった影が、それよりさらに暗く冷ややかな視線で見下ろしていた。 男の怜悧な眼差しのような刃先に吠えるように、サリュは叫んだ。

「一人なんかじゃ、……ない!」


 彼女の咆哮に応えるように。

 空を割き、甲高い音が鳴り響いた。


 抜けるような蒼に響き渡った鳴り矢の音に、ヨウの全身が強張る。

 遮蔽のない砂原などではなく、岩の針に囲まれた地形で遠距離から狙撃される可能性などほとんど在り得ない。それでも、日々を砂海に生きる部族の人々の弓腕を知り、実際にそれをこめかみに受けた身であれば、どれほど僅かな可能性でもそれを思い出さずにいられるはずがなかった。

 弓の音に相手が気をとられた隙を見逃さず、サリュは左手に握った鞭剣を振るった。

 手首を狙って平打ちで叩きつける。男の顔が激痛に歪み、手からナイフが零れた。舌打ちしたヨウがそれを拾おうとするのに構わず、サリュは相手から距離をとりながら続けて吠えた。

「クアル!」


 上空に大きな影がよぎる。

 狭隘な地形で砂面にもがき、障害物に邪魔されて満足に武器を振るうことも叶わない人間達を嘲笑うように岩々を跳ねた砂海の王者が、近くの岩針の上に姿を現したかと思うと、そのまま一直線に男へ襲いかかる。

「ちッ……!」

 頬をひきつらせたヨウがナイフを構えた。

 どれほど腕が立とうと、刃先の短い得物一本でまさか砂虎をどうにかできるとは思えなかった。だが、だからといって男が大人しくクアルに組み伏せられてくれるとも思えない。加えて、サリュには相手を忠実な砂虎の爪に引き裂かせるつもりもなかった。


 防砂衣を叩きつける。直撃したところで痛みなど皆無だが、それ以外の意図があった。男の意識をそらそうとしたのでも、目くらましでもない。

 急降しながらの砂虎の襲撃を避けようと、ヨウが大きく後ろに下がった。クアルは着地と同時に強靭な後ろ足で砂を蹴り、その追撃に入る。

 目標は違わず男の元へ、真っ直ぐに掛かるのではなく右斜めから抉るように奔る。決死の表情で迎撃に構えるヨウの横合いから、相手に向かってサリュが防砂衣を“掛け”た。

 賢い砂虎は彼女の意図を一瞬で把握した。

 男に襲いかかるのではなく、横から伸びた防砂衣の端を咢に咥えると、強靭な顎の力で噛みしめたまま、クアルは真っ直ぐに男の脇を駆け抜けた。


 砂虎の力は重さも速さも人間の比ではない。サリュとクアルに挟まれ、防砂衣を引っかけられたヨウは、大型獣の突進の勢いそのままに薙ぎ倒された。

「がっ!?」

 受け身も取れずに転倒し、悶絶する。

 サリュはすかさず駆け寄るとその靴裏を鞭剣で切りつけた。厚い皮底を裂いて、男の足裏に裂傷を刻む。ほっと息を吐いた。

「クアル……!」

 自分の元に駆け寄ってくる砂虎を抱きしめる。くあうと嬉しげに鳴いた砂虎が、すぐに叱咤するように頭を振った。

 サリュもすぐに気を引き締めて、改めて足元に視線を向ける。後頭部から激しく地面に叩きつけられたヨウは、意識を朦朧としている様子だった。この状態で、足に怪我を負ってここから逃げ出すことは不可能だろうと判断して、サリュは傍らのクアルに呼びかけた。

「お願い」

 柔毛に蔽われた太い頸元に抱きつく。


 クアルが跳んだ。人間には不可能な急勾配を駆けのぼり、サリュはそこから周囲の状況を確認した。

 張り出した岩の隙間から何人もの男達が蠢いているのが見える。周囲を取り囲んでいたウディアの男達が中に侵入していた。いたるところから彼らの奏でる怒号と悲鳴、苦悶の呻き声が彼女の耳を満たして、サリュは絶望を抱きかけた。


 ――こんな状況をいったいどうすれば止められるの?

 すぐに自分の弱気を振り払う。どうにもならないかもしれない。でも、どうにかしないといけない。


「なんだあれは! 落とせ、落とせ!」

 甲高い声にサリュが視線を向けると、密集群の中央、地下洞窟への出入り口がある場所の周辺に数人が固まっていた。太った金髪の男がほとんど半狂乱の態でサリュを指さし、腕を振り回している。

 男を護衛するように周囲を固める兵士達が投擲の姿勢を見せるのと同時、サリュはクアルの耳元に囁いた。

 岩肌を滑って地上に着地する。すぐ近くにいた部族の一人を蹴倒して、サリュはクアルの横腹を撫でた。目標が定まっていた。

 部族側のまとめ役であった老婆は死んでしまった。彼らを止めることは難しいかもしれないが、もう一方の調査隊の兵士達の側にはまだ“それ”が生きている。

 とにかく、こんな殺しあいは止めさせないといけない。その為にあの太った男を人質にすることを考えて、サリュはそちらに向かって駆けた。


 クアルは追ってこない。言葉に拠らず、彼女の意図を読み取ったかのように、砂虎はサリュを支援するための行動に出ていた。

 再び岩肌を駆けのぼる。己だけが到達できる高みから地上を睥睨した大型の肉食獣が、高らかに咆哮した。

 周囲の注意が集まる。恐慌を果たしたのは特に調査隊の兵士達だった。一方の部族の男達にあまり反応がなかったのは、既に彼らが死兵と化していたからだった。

「殺せ、殺せ!」

 一斉に槍が投げつけられる。

 優雅に身を翻してそれをかわしたクアルは、岩針を飛び回りながら気まぐれに地上に降り立つと、そこにいる人間を町側、部族側に関わらず蹂躙するを繰り返した。

 狭隘な地形は明らかに一方だけに有利だった。若い砂虎が障害物など気にもかけないのに対して、相手側は戦力を集中できず、連携をとることも難しい。その気であれば、あるいはこの場にいる全員を皆殺しにすることさえ可能かもしれなかった。


 そうしてクアルが注意を惹いてくれている間、サリュはンジの中央に向かって駆けた。張り出した岩のせいで迷路じみた地形をひたすらに走る。途中で遭遇する男達を蹴り倒し、反撃をかわしながら、やがて目の前に覚えを感じるのと同時、不吉な予感に襲われて足を止めた。間髪入れず横に跳ぶ、その彼女の横を数本の投槍がかすり、地面に突き刺さった。

 地下洞窟への入り口がぽかりと穴を開ける、周囲に比べてやや開けた場所に詰めた兵士達が、少ない人数ながらも陣形をとって身構えていた。

 臨時の指揮所の奥には何事かをがなり立てている男。指示らしきものはほとんど支離滅裂であるようにサリュには聞き取れたが、それ以前に、護衛に並ぶ数人の男達はそれを始めから無視してかかっているようだった。


 ならば、こちらから声をかけたところで意味はないだろう。奥にいる男は話を聞く様子ではないし、その手前の男達はただ忠誠心でその人物を護ろうとするはずだった。つまりはあの太った男をどうにかする為には、目の前の兵士達を突破しないといけない――サリュは鞭剣を握りしめた。

 訓練を積んだ兵士達を複数人、正面から相手取って今の自分に敵うとは思えなかった。だからといってクアルを呼ぶわけにはいかない。彼女の砂虎は、今、ここ以外にいる兵士と部族の双方を相手にして時間を稼いでくれているからだった。

 ユルヴとの合流を図って一旦引く選択肢もなかった。調査隊の兵士達がこの場所に陣をとっている理由は迎撃に向いた場所であるのともう一つ、いざという時の逃げ場所として地下洞窟を考えているからに違いなかった。

 兵士達がその中に逃げ込めばそれ以上の退路はないが、入り組んだ地下ではますます戦闘が長引くことになる。これ以上、事態を悪化させるわけにはいかなかった。

 この場でどうにかするしかない。こうしている間にも、周囲では双方の血が流れていた。その中には彼女の友人や砂虎が含まれている可能性もあった。


「どいてください。奥の人に、話があります」

 声をかけてみるが、やはり兵士達に反応はない。言葉による説得を諦めてサリュは駆けだした。

 兵士達が槍を構える。向かい来るサリュに投げつけるのではなく、穂先を揃えてサリュの突進を阻もうとしていた。

 右手の防砂衣を兵士達に投げつけ、サリュは男達の左を抜けようと足を向ける。


 線に並んだ五人の男はその程度で乱れなかった。

 すり足で陣形の向きを修正しながら、サリュからもっとも離れた二人がすかさず槍を投げつける。サリュを狙うのではなく、彼女が向かおうとする先に槍が降り、それにサリュが足を止めた瞬間、今度は彼女からもっとも近い二人が前に進み出ると、無言で槍の穂先を繰り出した。

 サリュは慌てて後ろに下がる。

 二人の兵士はそれ以上深追いせず、すぐにまた陣形を整える。


 戦闘による興奮もなく、ただ事前に身体に刷り込ませた動作を行っているかのような男達の表情に、サリュは歯噛みした。手馴れている。やはり、連携をとれている相手にたった一人で立ち向かおうというのはあまりに無謀が過ぎた。

 なら、直接にいくのではなく周囲の岩を盾にして向かう。あるいは背後から回りこむのでもいい。ともかく、相手の陣形を崩すことが先決だった。

 どちらに向かって駆けるか周囲に目を配り、そこに見えたものにサリュはぎょっと目を剥いた。


 ふらふらとした足取りで歩いているのは、ウディア族の神子シオマだった。


 いったいいつの間に、途中で戦闘に巻き込まれずにどうやってここまでやってきたのか。手には武器も持たず、表情は先ほど見た心を手放したそのままで、何かに誘われるように足を前に投げ出している。

 その向かっている先が、男達が槍を揃える奥の地下穴であるとわかって、サリュはあわてて彼女に歩み寄るとだらりと下げられた手をとった。

「シオマさん、なにを――」

 至近から覗きこむ。


 ぎょっとした。


 気弱で儚げだった女性の瞳は先ほどまで流していた涙で濡れ、その跡が頬まで続いている。しかし、その瞳にはなんの感情も浮かんでいなかった。

 怒りや悲しみも、絶望もない。

 茶色の瞳孔に見える虚無の広がりにサリュはぞっと背筋を震わせた。それはどこか、自分が知っている何かを思い出させる瞳だった。


「のいて」

 自分の手を掴むサリュには目もくれず、女性は洞窟前に並ぶ男達へと囁いた。

「のきなさい。……邪魔しないで」

 兵士達の顔に困惑の色が浮かぶ。

 淡々とした女性の声には力も覇気もなかったが、どこか抗い難い響きがあった。命令するのではなく、そうすることが自然なことであるかというような口調に、サリュは思わず手を離していた。


 ゆっくりとシオマが歩く。

 得体の知れない存在に慄くように兵士達が下がった。

「なにをしている! 突け! 殺せ!」

 兵士達の奥から男が怒鳴る。それでも下がり続ける手下に業を煮やした男が、自ら槍をとってシオマにそれを突きつけた。

「……!」

 横っ飛びに女性に抱きついて、サリュはシオマと共に転がった。

「死ね! この蛮族どもめ……!」

 たるんだ頬を引きつらせて槍をふりあげる男に、サリュは転がったまま足を振り上げて相手を蹴り飛ばした。

 周囲の兵士達は動かない。彼らの視線は部族の神子役に注がれていた。

 まるで魅入られたかのように自分に注視する男達に取り合わず、シオマが緩慢な動作で立ち上がる。転んだ拍子に頬をいくらが砂で汚しながら、女性は再び地下洞窟への入口にと歩き出した。

 表情はほとんど超然と、彷徨うような足取りで歩みを進める。


 血と狂乱にまるで似合わない雰囲気をまとった女性に、声をかける相手も槍を向ける相手もいなかった。

「シオマさん! どこにいくんですっ」

「サリュ!」

 追いかけてシオマの肩を掴んだサリュの後ろから、声が響いた。

 振り返る。頬と服装をいくらか血に汚したアンカ族の牙巫女が、血相を変えた顔で姿を見せている。

「なにをしている! 逃げるぞ!」

「――逃げる? ユルヴ、シオマさんが」

「放っておけ!」

 言い切りながら、早足でやってくるとサリュの手を掴む。周囲の兵士達を睨みつけて吐き捨てた。

「お前達もだ! あれが見えないのか!」

 目の前の少女がこれほど慌てる理由がわからず、サリュは言われるがままに少女の見る先へと目線を向けた。


 そこには、なにも変わったものはなかった。

 四方に盛り上がった岩と、一面には砂の黄土色。視界を染めるそれらはどこを見ても変わらず、しかしそこに違和感を覚えて、サリュは眉をひそめた。

 すぐに理由に気づく。


 ――地面を見ているわけでもないのに、どうして横側に黄土色が見えるんだろう?


 その疑問にサリュが答えを得る前に、クアルもやってきた。脇目も振らずサリュの傍まで駆け寄ると、耳を垂れ下げさせて頭を押しつけてくる。砂海にあって誰より勇猛なはずの砂虎が、何かに怯えきってしまっていた。

 二人の只事ではない様子に戸惑い、理由もわからないままその不吉さを感じ取って、サリュはユルヴにシオマの身体を預けると、自分は近くの岩に駆けのぼった。


 絶句する。

 折り曲げられた地面を、そこで見た。


 サリュの眺めた方角が黄土色に塗りつぶされていた。空の青を駆逐して上空に伸びたその色は縦も横も、ほとんど視界いっぱいにまで広がっている。

 音はない。

 そして、その黄土は見ている間にも、少しずつ視界に占める大きさを広げていた。


「くそ。間に合わないか……!」

 シオマを引きずるように、サリュの横に立ったユルヴが呻く。部族の少女は素早く防砂衣を脱ぐと、それを引き裂いて紐の長さにして自分とサリュの身体に結びつけた。同じ処置をシオマの身体にも施す。クアルにも同様だった。

 自分が目にした光景を理解できず、呆然とサリュは呟いた。

「ユルヴ。あれは、なに――?」

「鼻と口をしっかりと覆え! 耳も塞げ。目は閉じて、口は決して閉じるなよ。いいな、絶対にだぞ!」

 きびきびと指示を出す。それでもなお事態を飲み込めないで立ち尽くすサリュやそれ以外の兵士達に、怒鳴るようにユルヴが言葉を叩きつけた。


「死にたくないならさっさと動け! 周囲の誰かと自分を紐で結べ! 重そうなものにしがみついて、姿勢を低くしてあとはなにかに祈っていろ!」

 そこで言葉を区切り、唾を飲み込む。恐れと共に彼女は叫んだ。

「……山風だッ!」


 直後。

 急激に轟音が響き渡り、巨大な砂と風の塊が辺り一帯を包み込んだ。



 一瞬で巻き込まれ、怒涛の勢いで吹きすさぶ風に吹き飛ばされかける。

 わけがわからないままユルヴの指示に従ったサリュは、ユルヴやシオマと互いに捕まりあい、彼女らを護るように包んで丸まったクアルの毛皮にしがみついた。


 それでもなお、砂虎の巨体ごと押し流そうとするかのように暴力的な強風が荒れ狂う。微細な砂や礫を含んだ風は、ほとんど凶器にも近かった。それらが防砂具をまとった上から容赦なく叩きつけ、痛みに声をあげることもできない。きつく巻きつけたはずの隙間から入り込む砂利に思わず口を閉じかけて、ユルヴの忠告を思い出したサリュは咳き込みたくなるのを必死になって抑えこんだ。

 きつく目を閉じ、耳には砂の轟音しか響かない。全身を余すところなく石礫に殴打されてしまっては、五感などまるで正常にはなりえなかった。ほとんど上下左右の間隔さえ失って、ただ手に握る暖かさだけを頼りに、サリュはひたすら事態が過ぎ去るのを待った。


 どれほど時が経ったのか。

 ふと身体を叩く痛みが去っていることに気づいて、サリュが恐る恐るまぶたを持ち上げると、目の前の状況が一変していた。

 地面がそのまま迫り来るようだった黄土の群れは何処かへと消え去って、しかしそれが幻などではなかったことの証明に、あたりに砂が降り積もっている。

 地面から突き出た岩個の高さが明らかに低くなって見えた。それだけの砂の量が降り注いだという証だったが、サリュは足元を完全に埋もれる程度ですんでいる。クアルが護ってくれたおかげだった。

 彼女の目の前で、巨大な体躯が半ば砂に埋もれかけてしまっている。砂の重量に身動きが取れないでいるらしいクアルが情けない顔で見上げて来た。サリュはあわててその周囲をかきわけてクアルを砂の中から救い出した。


「……まったく。酷い目にあった」

 すぐ側で起き上がったユルヴがぼやくが、その声がひどく遠い。耳の中にまで砂が入り込んでしまっていたからだった。

 全身に降り注いだ砂を振り落としている部族の少女にサリュは問いかけた。

「ユルヴ、――今のは。なに?」

「山風だ」

 ユルヴが答えた。

「海原に現れる砂の山だ。音もなく生まれて、すぐに失せる。あとに残るのは砂だけだ。それが吹くと、どれだけ豊かな草原でも消えうせる。埋もれるからな。一瞬だけ吹く死の砂のようなものだ」

「死の、砂――」

 確かに、集落の終わりに現れて全てを砂に埋もれさせる、その自然現象に近しい代物ではあるかもしれない。サリュは改めて目の前の惨状に目をやった。


 岩と砂が広がるあちこちに、多くの男達が倒れていた。調査隊の兵士達も部族の男達も分け隔てなく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて苦悶の声を上げている。恐ろしいことに、全身の半ば以上を砂中に埋もらせた男の姿もあった。

 それまで殺し合っていた双方とも、もはや戦闘どころではない。大半の男達は準備も身構える暇すらなく砂と礫の強風に襲われて、ほとんどが虫の息のような状態だった。


 死と流血以外にどうしようもないとしか思えなかった状況が、一瞬で解決してしまっている。


 目の前の状態を僥倖と考えるより、なにかの空恐ろしさを覚えてサリュは肩を震わせた。つい今しがたに起こった事態を幸運と考えるのは、あまりに都合がよすぎるように思えた。

 まるで、誰かがそれを呼び込んだよう――と考えたところで思い出す。

「そうだ。シオマさんは――」

 ずっと掴んでいたはずの手を、いつの間にか放してしまっていた。

 ウディア族の神子の姿が、すぐに見つけることができた。さほど遠くもないところに女性は立っていた。


 互いを縛り付けていたはずの紐が解けている。あるいは解いたのかもしれなかったが、ともかく自由の身になった女性はサリュに背中をむけて、その場に立ち尽くしていた。

 その肩がわずかに震えているように見えたことに、サリュは訝しんだ。……泣いている? いいや、違う。だったら、なに。


 女性の震えが止まった。

 顔を持ち上げる。空を見上げるようにしてから、

「――争うのはおやめなさい」

 流暢な口調が響いた。


「ウディアの民。託宣はくだりました。あなた達が血を流すべき時は、今ここではありません。やがて来る争いの時、貴方がたはみな、全て命をささげることになります。部族の誇りを守り、その為にわが身を投じるのもこれからです。その為に。いつか来る死の為、こんなところで無用な争いはおやめなさい」


 女性の声はやはり大きくなかったが、たとえどれ程遠くにいても誰一人聞き漏らすことはないだろうと思えるほど、はっきりとその場に透き通った。

 周囲で倒れる部族の男達は一言もない。

 先ほどまであった闘争への猛りも、強風に叩きつけられた痛みへの苦悶の呻きもない。彼らはただ一心に女性を見つめていた。


 女性が続ける。言葉の行き先は、もう一方の男達へと向けられていた。


「……愚かな人々。お帰りなさい。貴方がたは自分たちがどれほど愚かかわかっていない。しかし、それこそが貴方がたが生きる意味なのでしょう。ならば自分たちの住処へ戻って、思うがままに行動しなさい。やがてそれが、貴方がた自身を血の海に埋もれさせることになるのですから」


 自分達にかけられた言葉を聞いて、調査隊の面々も黙したままだった。彼らの何人かは気味悪そうに女性を見上げており、もっと露骨に顔を青ざめさせている者もいた。


 その彼らとほとんど同じ気分を抱いて、サリュは後ろからゆっくりと神子の女性に近づいた。

 シオマが振り向く。

 振り返った女性の顔に、サリュは息を呑んだ。


 女性の顔面、頬に流していた涙の跡にびっしりと砂がこびりついている。それはまるで砂によって彩られた化粧のようだった。


 砂粒の涙を流した女性が微笑みながら口を開く。


「砂の子よ。あなたは、あなたの道をお歩きなさい。そうすれば運命はおのずとあなたの前に現れるでしょう。あなたにもやるべきことがある。あなただけが成すべき、あなたの生まれて来た理由。それは決してあなたの前から逃げない。だから、あなたもそれからは逃げられないのです――」


 ――誰だ。サリュは胸中で呻いた。今、私の目の前にいる相手はいったい誰。


 淀みなく、迷いもなく語りかける女性は、少なくとも先ほどまでの女性ではなかった。儚げな気配や、風の音にさえ怯えるようだった仕草は全て、砂に吹き飛ばされてしまったかのようだった。


 それに代わって、目の前の相手にあるものがサリュには理解できなかった。達観。あるいは諦観。ただ、それに近しい誰かを彼女は知っているような気がした。

 透明でいて濁った瞳。彼女がごく僅かな間を共に過ごした人物が宿していたものとまったく同じ、それは眼差しだった。


 これは彼女じゃない。もちろん、彼でもない。

 それなら今、これを言っているのは誰なのだろうか。シオマという女性の身体を通して、彼女に言葉を囁かせているのはいったい何者なのか――震戦くサリュに淡々とした声音のまま、感情のない黄土色を瞳に映した女性は告げた。


「あなたが自分の生まれてきた意味を知ったとき。あなたは、あなたの大切な人を失うことになるでしょう。他ならぬあなた自身の手で。それが、あなたの天命なのですから……」


 ◆


 丁度その頃、遠いトマスの地で先日に招かれた茶会へと出向いていたクリスティナ・アルスタは、到着した馬車から降りて邸宅の門を叩いていた。


 すぐに家人が現れ、驚いた表情で彼女を見る。鋭い眼差しを向けると、恐縮したように頭を下げ、中へと案内した。

 厳しい顔つきのまま案内を受けながら、クリスは薄く呼吸を繰り返して気分を落ち着かせた。

 茶会や社交の苦手な彼女にとって、それらはどれほど経験を積んだところで気の休まるものではなかった。彼女の家の者達が今日も出送りの際に口にした、つまりは戦場に赴くのとまったく変わらない心地で彼女はこの場に立っていた。


 今日に限ってはそれ以上でもある。自分がこれから成そうとしていることについて、一晩考えた上で彼女はある決心をしていた。

 それから起こるであろう様々な事態を考えれば、早まった行為ではないかと自分でも危惧するところはある。しかし、それでもやはり彼女の立場と、それ以上に彼女自身の在り方がクリスにその決心を定めさせた。


 扉が開かれる。

 その奥で談笑する、大勢の貴人達に向かってクリスは一歩、足を踏み入れた。


 それに気づいた一人が顔を向ける。白銀の髪を撫でつけた壮年の男性が、静かな表情で頷きかけた。

「アルスタ女爵」

「閣下。お聞きしたいことがあります」

 社交の挨拶もそこそこに、クリスは会話を切りだした。これが戦闘である以上、まず重要なことは先手をとるべきことだった。

 ベラウスギ公爵は悠然とそれを受け止めた。わずかに小首を傾げる。

「なにかね」

「我が友ニクラス・クライストフについてであります。閣下は彼が今どこにいるかご存知でしょうか」

 大上段に構えた言葉の剣を、彼女は真っ直ぐに相手へ向かって振り下ろした。



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