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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 誰何の幻想
76/107

11

「間違いない。ウディアだな。あの詩人、別に期待はしていなかったが一日ももたせられなかったか」

 遠く地平の端を見通してユルヴが呟いた。

「ラディさん? それじゃ」

 部族の集落に残ったままだった男の安否に、サリュは眉をひそめる。ユルヴが肩をすくめた。

「連中がここへ来ているということは、無事ではないだろうな」

「……そう」

 不思議な人柄だった男に申し訳なく思い、しかし悔やんでいる場合ではないとサリュはすぐに気持ちを切り替えた。

「お昼には、ここまで来るわよね」

「もう少し早い。高さがあるところから見ているわけではないからな」

 とにかく一刻を争う状況ということだ。サリュは頷き、すぐに地下へと戻った。


 撤退の指揮をとっているヨウに部族の接近を伝える。良くない知らせを聞いた男は顔色を変えず、思案した時間もほとんど一瞬だった。

「――荷をほどけ。装備を整えろ」

 兵士たちに指示を飛ばす。それを聞いたサリュが眉を跳ね上げた。

「どうするつもり?」

「どうするも何も。戦うしかないだろう」

 淡々と答える。サリュは男に詰め寄って、

「何故。今すぐにここを出れば、まだ――」

「無理だな。こちらには疲労もあるし、部族の足から逃れられるとも思えん。身を隠す遮蔽もない砂漠の真中で、馬鹿げた撤退戦を演じろとでも? 御免こうむる」

 サリュは勢いよく頭を振った。

「そうではなくて。貴方たちがここから出て行きさえすれば、彼らはそれ以上は追わない可能性もあるでしょう」

「可能性というだけだろう」

 男が答えた。


「我々は部族の聖域を侵した。皆殺しにしようと執拗に追われる羽目だって十分に考えられる。それならまだ、この場所で地形を盾にしたほうが間違いはない。自分達の大事な場所を血で汚すことに、連中がどんな反応を見せるかはわからないが」

「部族の人たちは、大勢です。……勝てると思うの?」

「それはやりよう次第だろうさ」

 ヨウがちらりと視線を飛ばす。

 男の意図を察して、サリュは鋭く呼びかけた。

「クアルっ」

 咆哮。サリュ達の背後から足音を忍んで近づこうとしていた兵士の一人が砂虎に睨まれ、立ち尽くすシオマに伸ばそうとしていた手を慌てて引き戻した。

「事態が変わればさっそく人質か。相変わらず、町の連中はころころと約を違えることだ」

 酷薄にユルヴが笑った。手にはすでに弓を握っている。

 ヨウは悪びれた様子もなく頷いた。

「撤退が不可能になった時点で、約束は破談になって然るべきと思うが」

 兵士達がサリュ達の周囲を取り囲むようにじりと輪を狭める。

 サリュは鞭剣を構えた。クアルが低く唸り声をあげる。ユルヴは静かに、地面に投げ捨てていた毛布の固まりに手をかけた。

「なるほどな。それで、お前達の隊長をこちらで預かっていることも忘れたか?」


 毛布をひきはがす。

 年の頃は三十あたりの、ふくよかな金髪の男の顔があらわになった。その気絶した男のたるんだ頬に鏃を突きつけられると、包囲する兵士達の表情に動揺が浮かぶ。

 ただ一人、顔色を変えなかったヨウが息を吐いた。

「……わかった。お前達には手をださない。身柄を置いて、ここから出ていくといい」

「上からの物言いができる立場か」

「なら、ここで部族の連中がやってくるまで、この人数を相手に大立ち回りでもやってみるか? 悪いが、我々にも時間はない。長々と条件交渉にかまけている余裕もな」

 怜悧な表情を氷のように、男は言った。

 相手の鉄面皮を穿つように射すくめてから、ユルヴはサリュに目線を向けた。

「サリュ。行くぞ」

「でも」

「諦めろ。こいつらが、少しでも戦闘に有利な場所を手放そうとするはずがない。この期に及んで我々に出来ることはないぞ」

 はっきりと断言され、サリュは唇を噛みしめた。

 ここまでの全てが徒労に終わってしまうことに、受け入れがたい気分はもちろんだった。だからといって何か妙手が思い浮かぶこともなく、歯がゆさだけが胸の中に広がる。

 シオマを見る。

 サリュより年上の、風が吹けば飛ばされそうな細身の部族の神子がサリュを見つめていた。相手のすがるような眼差しから、サリュはそっと視線を外した。それを見たシオマが顔を俯かせる。

「……わかった」

 サリュは力なく同意した。

 クアルが慰めるように彼女の足元へ寄った。その頭を撫で、先に地上への出口に向かっているユルヴに続くためにシオマを促そうと改めて顔を向けて、


「――待って、ください」

 震える声が言った。

 気弱な神子が蒼白の顔を上げた。

 サリュを見て、それからヨウへと視線を向けて、息を呑む。ごくりと喉を鳴らしてから、囁くように彼女は告げた。

「待ってください。戦うのは、止めて……」

 周囲からの注目に萎縮して、徐々に声が途切れがちになる。ついには全く聞こえない程にまで落ち込んで、

「――私がっ」

 喉に詰まった何かを吐き出すよう、一際大きな声になった。

「私が、話を、してきます。から、戦うのは。待ってください……」

 声をつかえさせながら、聞き取れないことはない声量で言い切る。感情の読めない一瞥で、ヨウは冷ややかに応えた。

「待ってどうなる。話をして事態が好転するとでも? 俺達がここから撤退する間、部族の連中を押し留めてくれると言うのか。悪いが、とてもそんなことが可能とは思えないが」

 冷静に告げる。

 シオマがくしゃりと顔を歪め、息を吐いた。

「――やらせて、……ください」

 懇願するように女性が頭を下げる。

 わずかに眉をひそめたヨウが、ちらりとサリュを見た。サリュは少し迷ってから、口を開いた。

「……貴方がたが、ここに籠って抗戦しようというなら。最悪、時間稼ぎにはなるでしょう。失敗したら戦うだけ。どちらにしても、損はないはずよ」

「どうだか。確かに、今さらこちらの状況を報告されたところで、あまり害はないが」

 顎に手を当てて、ヨウは小さく首を頷かせた。

「まあいい。好きにしろ。こちらはこちらで準備を進めておくだけだ。もし、こちらの撤退を認めてくれるというなら、おとなしく我々はここから引き下がろう。認められる条件はそれだけだ」

 サリュはシオマを見た。

「わかり、ました。それで――けっこうです」

 頷いた女性が、歩き出す。ふらふらと頼りない歩調にサリュは顔をしかめ、ヨウがまったく同じ表情をしているのに気づいて顔をそむけた。

 幽鬼のように歩き出した神子の女性を追って、その途中でもう一人の少女と目が合う。


 ぶすりとした顔のユルヴがサリュを睨みつけ、忌々しそうに口を開いた。

「……いったいどこまでお人よしだ」

「ごめんなさい」

 謝罪して、逃げるように立ち去ろうとして、サリュは足を止めた。小柄な少女を振り返る。

「ユルヴ。お願い、助けて欲しいの」

 真っ直ぐな視線で声をかけられた部族の牙巫女は、彼女が得意とする弓手の一射のように鋭い眼差しをサリュに向けた。

「当たり前だ。今さら後は私だけでなどとほざいてみろ。今度こそ本当に殴っていたからな、わたしは」

 怒ったような口調で、怒りとも笑みともとれる表情でそう言った。



 遥か地平の果てに現れたかのようだった部族達は、刻を追うごとにゆっくりとその姿を鮮明にしていった。

 ンジと呼ばれる岩石群から少し進んだ場所でそれを眺めながら、サリュにはまだ見えないその詳細について彼女に教えた。

「数は三十、四十程か。集落の総出でやってきたな。他の部族からの応援はないらしいが、馬は予備まで連れている。確かに追撃にでれば背中から討たれ、全滅していただけだったろうな」

 馬は移動の足でもあり、いざという時の食糧にもなる。乗り換えの馬まで用意していることで、サリュにもウディア族の本気を窺い知ることができた。

「……ヨウが正しかったのね」

「いけ好かないが、頭のキレる男だな。だからこそ陣地は固守の構えというわけだ」

 三人がやや離れた後方の地上には、そのヨウが指揮をとる男達が姿を現していた。密集し、地下から衝きあがってそびえる岩礫を陰にするように、散開して陣をとっている。

「遮蔽があれば弓は通らん。馬の速度も殺される。消耗戦になるな」

「数は全然違うけど、それでも?」

「ただでさえ、攻める方の被害が多くでるものだ。勝敗はともかく、どちらもひどい有様になるだろう」


 ――多くの血が流れることになる。

 そうした事態を止めようと、押し寄せる部族達の元へ出向こうとする神子役の女性は、口を閉ざしてじっと集落の男達がやってくるのを待っていた。顔色は相変わらず蒼白で、表情には自信の欠片も見えない。目尻にはうっすらと涙がたまり、わずかに痙攣する端から今にも零れてしまいそうだった。

 とてもこれから交渉、あるいは説得に向かい、それを成功させようという態度には思えず、それを間近で見るサリュは不安を感じないではいられなかった。ユルヴに視線を向けると、肩をすくめられる。

 その場に立っているだけでも精一杯といった風の女性の姿に、クアルまでもが同情を覚えたらしかった。そっと近づいた砂虎が、太ももに押しつけて握りしめられた女性の拳をぺろりと舐め上げた。

 びくりと身をすくませたシオマが、自分を見上げる大きな猫の眼差しを見下ろす。強張った笑みを向けた。

「……ありがとう、ございます」

 にぁとクアルが鳴いた。気にするな、と言っているようだった。

 すぐにサリュの元に戻り、褒めろといわんばかりに擦りつけてくる大きな頭に手をあてて撫で擦りながら、サリュはユルヴに向かって口を開いた。


「部族の人たちだって、不利なら一度引くことだってあるはずよね」

「部族といえど狂信の群れではない。部族同士の諍いなら、一方が全滅するまで殺しあうことの方が稀だろう。だが、逆に言えばそうした事態もないわけではない」

「……今回は、そっち?」

「集落での様子を見る限りはな。聖域とやらの奪還に猛っていれば、早々に諦めることはないだろう」

「なら。調査の人たちが、あそこから出て行ける状況で考えられるのは――」

 異相の瞳を細めて考え込むサリュをちらりと横目で見やって、ユルヴが答えた。

「恐らく、互いにいくらかの被害を出したところで改めて交渉というのを、あの男は考えているんだろう。ウディアの連中が死に狂いだとするなら、無理だろうが」

「……そうね」

「互いにある程度の被害と疲労がでたところで、闇に乗じて逃げ出すあたりか。その程度の算段はしているかもな。だが、それだと問題になるのはやはり弓と馬だ。連中は南に逃げるだろうが、どう急いだところで数日はかかるのだからな。昼も夜も駆けたところで、途中で枯れるのが落ちだ」

「――その二つさえどうにかしてしまえば、彼らが逃げ出す可能性もある?」

「そうだな」

 熱のない口調で、ユルヴは同意を示した。

「だが、弓と馬はどちらも部族の民にとっては命より大切なものだ。それが失われる状況というのは、つまり命そのものが危うい状況だろう」

「じゃあ、」

 口にしかけた言葉を、サリュはすんでのところで飲み込んだ。

 自分とクアル、それにユルヴで彼らの馬を奪うか、逃がしてしまえば、と彼女は考えたのだった。それを実際に口にせずに思い止まれたのは、一方にだけ肩入れし、部族の人々が命より大切なものをどうにかしようなどと、しかも違う部族ではあっても彼らと近しい立場であるユルヴの手を借りてそれを成そうとすることの意味に気づいたからだった。激しい羞恥に、サリュは顔を俯けた。

「……ごめんなさい。すごく馬鹿なこと、考えてた」

「気にするな」

 むしろ優しげな声音でユルヴは頷いた。

「お前は死の砂じゃない。お前がこの事態を収める必要なんかない」

「……うん」


 死の砂と呼ばれることを疎いながら、一方ではそうした特別性を自分自身に求めてしまっている。以前にも他の誰かに指摘された無意識の厚かましさに、サリュは唇を噛み潰した。

「やっぱり、ユルヴは偉いね」

「はなから他人事というだけだ。上等な話か」

 ユルヴが言ったのは、自己嫌悪に陥りかけているサリュを慰めるものではあったが、本心でもあった。彼女はこれから起こる流血より、その先の事態について考えていた。


 点のようだった人の群れが高さを得て、次に横幅を増やしていく。徐々に気温をあげる地表と大気との温度差がその姿を歪め、幻めいた像を作り上げる。


 やがて、サリュの目にも、近づく人々の輪郭さえはっきりとわかる距離になったところで、覚悟を決めた表情でシオマがそちらに向かって歩き出した。頼りない足取りで砂地を進む女性の後に、サリュとユルヴ、クアルが続いた。

 戦化粧に身を包み、槍と弓を持って馬に跨った男達が、厳めしい表情でサリュ達を出迎えた。奥から女性が姿を現す。

 腰の折れ曲がってめしいだ風貌の老婆は、視覚に拠らず目の前を見通すように、萎びて枯れた細い腕を目の前に掲げた。

「シオマか。……探し物は見つかったか」

「……いいえ」

「そうであろう」

 老婆が息を吐いた。体内に残る命そのものを吸吐するような息吹だった。

「そなたの求める応えなど、初めからどこにもありゃせん。いや、そなたは答えなぞ求めてはおらんのだ。ただ自分の役目から逃げておるだけよ」

「……そう、かも。しれません」

 伏し目がちに、しかし視線を地面に逃げずに腰を折った老婆へと向けて、シオマが答えた。

「でも、だから――私が、半端に口にしたことで。集落の、人達を、間違わせるわけにはいきません……」

「そうではない」

 老婆が嘆息する。

「神子の言葉は、大地の言葉。そこに個人の意思は関わらぬ。正しかろうが、過とうが。吐いた言葉は取り返せぬのだ、シオマよ」


 湧いては枯れる一時の水場を求め、砂海を流れる一族。神子とはその人々を精神的に支える絶対的な標、つまりは象徴として求められる。

 集団としてまとまり、明日への不安を失くす為の信仰の対象が、いつしか手段と目的を取り違えて、絶対的な盲信と化してしまう。そうした現実にサリュが強い違和感を覚えるのは、何よりまず彼女が部族の人間ではないからではあった。異なる価値と生き方。そこから縁遠い人間が、それを安易に否定などするべきではなかったが、目の前で異を唱えているのは他ならぬ神子役の女性だった。

「私が……言った、ことが。ここへ皆を呼んだのなら。私が今から続ける言葉を、聞いて。ください」

 一音一音を区切るように、ウディアの神子は言った。

「戦う必要は、ありません。……彼らは、これからンジを離れます。血を流す必要なんか、もう、ないんです」

 必死な表情で告げる。

 それに対する反応は冷ややかだった。

「では、そなたが以前に言ったことはなんとする。あれは間違いでこれは正しい。前の自分を否定することが、今の自分を成り立たせなくなると何故わからぬ」

 思わず、サリュは口を挟んでいた。

「間違うことだって、あるでしょう……! 人間なのだからッ」

「神子は人ではない。神子は間違わぬ」

 老婆は断言した。自分と相手があまりに隔絶していることに、サリュは言葉を失った。


 嘲るような笑い声が響く。

「随分と必死なことだ、ギナ婆よ」

 アンカ族の次代を継ぐ族長であり、牙巫女と呼ばれるユルヴは、自分の何倍も生きるであろう名づけの人物に対して正面から罵倒してみせた。

「神子は絶対か。ならば、どうしてこんなところまでノコノコと姿を見せた。未熟な神子に懇願され、男どもが混乱することを恐れたからではないか。自分自身がまず、その不安に揺らいでいることの証だろう」

「……そうさな。だが未熟な神子に薫陶するのは、先の短い老人の仕事だろうて」

 皺の奥から自嘲するように老婆が言った。何事かを悟った口調だった。ユルヴが眉を上げる。彼女が言葉を続けるのを遮るように、老人が震える腕を持ち上げた。


 男達が動き出す。

 サリュ達の左右に分かれ、屈強な騎馬がンジの密集群に殺到していく。砂煙をあげ、雄叫びと共に死地を進む男達に、説得の甲斐なく終わったシオマが打ちひしがれてその場に膝をついた。

「顔をあげよ」

 老婆が叱りつけた。

「吐いた言葉の重みを知れ。神子という役目の意味を受け止めや。でなければ、何が為の流血か」

 血を吐くような老婆の言い様にひっかかりを覚えて、サリュは顔をしかめた。彼女の横ではユルヴが何事かを悟った表情で沈黙している。

 シオマが顔を上げた。彷徨う視線を向ける、それに誘われるようにサリュも同じ方角を見た。

 そこでは既に戦端が開かれていた。

 砂海に盛り上がった岩の群れ。そこに散らばって潜む兵士達に向かって部族が吶喊する。

 騎乗したままの弓と槍の投擲は、聳える岩々を盾にすることでほとんどが防がれてしまう。返礼の投擲。上空へ曲射される槍の雨を、部族の男達は馬の機動でかわす。


 ンジにこもった兵士達は二十に満たず、攻め寄せる部族達もそれに倍するとはいえ、決して大規模な戦闘ではない。無論、だからといって戦闘に付随する悲惨さが失われるわけではなかった。

 大軍同士が正面からぶつかるのではなく、障害物を盾として互いに小突きあう戦いは、ユルヴが指摘したように消耗戦の展開となる。攻める側の部族達は身を晒しているが、馬を駆る彼らに対する有効な攻撃手段を相手側の兵士達も持ち合わせてはいなかった。

 複雑に岩の突き出す地形へは騎馬での突撃も叶わないが、かといって馬を降りてその中へ乗り込んでしまえば、それこそ数の優位の一切が失われてしまう。一瞬、行動に迷った部族達へ二度目の投槍が降り注ぐ。

 狭い範囲に集中的に投じられた槍雨。避けきれずに馬の横腹を貫かれ、部族の男が馬上から振り落とされる。そこを追い撃つような投槍が降って、男は地面に打ち貫かれた。


 別の場所では不用意に近づいた部族の一騎が、岩陰からぬっと姿を見せた数人の兵達に槍を刺されている。血の塊を吐き出して、男は自身に刺さった槍の柄を掴むと、倒れこみながら兵士の一人を岩陰から引きずり出す。そこに駆け寄った別の部族の男がすかさず兵士の足を掴み、岩陰から日出る砂漠へと連れ去った。

 部族の男達が兵士の四肢に槍を打ち込む。わざと急所を外して、痛みに悲鳴をあげる兵士はそのまま砂の上に放置された。腱も切られて動けない、距離の離れた味方へ兵士達が情けない声で助けを求めるが、岩陰の兵士達は動かない。


 一人やられ、一人の犠牲で一人を砂への贄に捧げた部族の男達は、ぐるりとンジを包囲するように取り囲んだ。最終的には突撃するしかないとわかって、その抵抗が少しでも弱い部分を探ろうとしているかのようだった。

 一方の町の兵士達は部族の挑発にも乗らず、さらに槍の投擲を連続して残数を無駄に消費することもなく、巣穴にこもる小動物のように声すら潜めてそれに対していた。少数での戦いと集団戦の経験、そしてそれを率いる人物の統率を感じさせる行動だった。


 まったく自分とは関わりのないところで繰り広げられる闘争と流血を視界に、サリュは虚しい気分でそれを眺めていた。目の前の事態に対して、結局なにを出来るでもなかった自分自身への憤りは、しかし彼女がそう思っていただけのことだった。

 砂漠に取り残された兵士の苦悶の呻きにまじって、金切り声のような響きが耳に届いた。声の主を探したサリュは、岩陰の奥でなにかを怒鳴っている男の姿を見つけた。

 金髪のふくよかな男が、大きく腕を振って喚いている。周囲の兵士が動揺している気配が見て取れた。わめく男にヨウが何かを応える。頭をかきむしった金髪の男が指をさしたのは、周囲を囲む部族の男達でも、助けを求める兵士でもなく、少し離れた場所で戦闘を傍観するようなサリュ達の姿だった。

「ユルヴ、クアル……!」

 二人に呼びかけて、サリュはシオマと老婆に覆いかぶさった。


 十数本の槍が一斉に投げ放たれた。


 例え自分が目の前の事態になんら影響を及ぼせなかったとして、事態が自分達を見逃してくれるわけではない。まるで他人事のように気が抜けていた自らの迂闊さに歯噛みして、サリュは幸運を祈りながら目を瞑った。

 一瞬の空白の後、砂を貫く鈍い音が連続する。その一つが耳元を掠るようになぞり、サリュは身を震わせた。顔を上げる。

「ユルヴ、クアル!」

 砂虎の元気な一声と、牙巫女の少女の声が重なった。

「……こちらは問題ない。が――」

 声につられて、サリュは目線を落とした。赤い血が広がっていた。


「婆様!」

 シオマが悲鳴を上げた。

「婆様! 婆様!」

「……がならずとも、聞こえとるわ」

 降り注いだ槍雨に、右胸にその一本を貫かれた老婆は、まるで痛みのない表情でシオマを見上げた。

「婆様! すぐに手当てを――」

「阿呆。間に合うものかい。それに、わかっておった」

 皺くちゃの顔面が笑う。

「ほれ、シオマ。血は流れた。そなたの言った、過去は成ったぞ。現在はどうする。未来、は――」

 濁った眼差しで、台詞の途中に老いた神子の老婆は事切れた。


 あまりにあっけなく失われた命に、サリュはほとんど実感に乏しいまま小さな老婆の姿を見下ろした。

 ――わかっていた? 自分が死ぬことを。

 いったい何の為に、と考えて、脳裏に老婆の言葉を思い出す。吐いた言葉は覆せない。過去は否定できない。ならば、目の前の現在を変える為にはいったいどうすればいい――


 ……そういうことか。

 苦々しい血の味がサリュの中に広がった。無意識のうちに唇を噛みちぎっていて、その痛みも感じない程に自分の間抜けさを呪う。サリュはユルヴを見た。静かな眼差しが返る。彼女も、わかっていたのだった。

 老婆の亡骸に覆いかぶさって、神子の女性が泣き叫んでいる。

 遠くから老婆の死を知った部族の男達が、怒りの怒号を上げた。もはや様子を窺う手間も省いて、馬ごとンジに突撃していく。迎え撃つ兵士達に全身を槍で貫かれ、その屍を踏み越えるようにして別の男が殺到する。――ヨウが目論んだであろう、決定的な惨劇を避ける為の状況の膠着は、その時点で破綻した。

 あとは血みどろの結末へと突き進むしかないそこから、目の前へと改めて視線を戻して、サリュは拳を握りしめた。


「――立って」

 眼前で咽び泣く相手へ告げる。

「立ちなさい。……貴女には、やれることがあるはずでしょう」

 唸るような強制に、シオマは老婆にすがったまま大きく頭を振った。

「血は流れた。貴女の託宣は成ったのよ。だから、これからは、今から決まる。それをその人が教えてくれたのに! これからどうするの!」

「私! なんにも、できません……!」

 シオマが絶叫した。

「なんにも! 私のせいで、大婆様が……!」

 泣き叫ぶことしかしない女性に、サリュは眦を吊り上げた。


 今、目の前にいるのは、過去の彼女自身だった。何かを失って、ただ死の砂がやってくるのを待ちわびていた。誰かを失って、ただ干からびようとしていた。

 何もできなかった自分自身。その過去の亡霊に噛みつくように、サリュはシオマの肩を掴んで、強引に引きずりあげた。


「いい加減に――」

 そして、気づいた。


 女性は遠くを眺めていた。

 ひたすら遠く、どれほど距離の先でも焦点の定まらない眼差しを、呆然とシオマは空に投げかけている。――心が壊れてしまっていた。

「……ッ!」

 やり場のない怒りに、サリュは目も眩む思いで足をよろめかせた。


 現実から逃避してしまった女性の肩から手を放し、俯く。すぐに顔を上げた。

「……サリュ」

「ごめん、ユルヴ。私、やっぱり」

「何度、ごめん、とお願い、を言うつもりだ?」

 押し殺すように囁くサリュにそれ以上続けさせず、部族の牙巫女はそっけなく告げた。

「手伝うとわたしは言った。ありがとうとお前は言った。やりとりは一度で十分だろう。言ったはずだ。物事の正誤、その結果は貫徹した意思が最後に生み出すものだと」

「……うん」

 視線を向ける。


 瞳に二重の輪を描いた異相の瞳をたぎらせる。そこには、果ての見えない殺し合いに興じる男達の姿が映っている。



 もはや戦況もなく、ただ目の前の殺人行為に没頭するかのようだった男達の意識を、一本の矢が貫いた。

 甲高い音を響かせる鳴り矢が注意をひく。

 その矢の飛んだ反対側から地を駆けて、サリュは十分に距離を詰めたところで隣を並走するクアルの首に抱きついた。

 砂虎の成獣と比べればまだ幾らかか細い、しかし小柄な人間を短時間運ぶのであれば十分な筋量に覆われた体躯が、しがみついたサリュの身体ごと低く疾走する。

 子どもの腰回りほどある後足が地面を蹴り上げて、優美な黄白模様が空を舞った。


 視界を一気に蒼が占有する。自分の身体が重さを取り戻す前にサリュはクアルの首から手を離した。その間際、心優しい獣の背中をぐいと力強く足の裏で押し込んで、さらに加速を得る。

 天然の要害であったンジの密集群に、サリュは文字通り大空高くから舞い降りた。


 四方に伸びる岩の枝を躱すように落下。地面からぽかんと見上げる兵士の一人に、着地と同時に鞭剣を振り下ろす。彼女自身の力以上の一撃に、男の手に持った槍が半ばで叩き折られた。

 返す刃、その鞭剣の腹で男の頬を殴りつける。男は声もなく吹き飛ばされた。


 彼女の背後では、サリュの突撃を支援した若い砂虎が、自身も宙で華麗に受け身をとって体勢をたてなおし、地面に着地していた。

 その周囲には大勢の部族の男達。

 突然の猛獣の襲撃に彼らが反応を示す前に、クアルは張り裂けんばかりに大きく顎を開くと、猛々しく咆哮した。

 足元の砂が波紋を打つような声量に、馬達が一斉に恐慌する。馬上の主を振り落とし、そうでない馬もあらぬ方向に駆け出していく。一瞬で半数が壊滅した包囲を掻い潜って、クアルもンジの岩の群に侵入した。


「貴様――!」

 人虎の奇襲を受けて、もっとも早く我に立ち返った一人の兵士が振りかぶった槍を叩きつける。左右を岩に圧迫されて窮屈な一撃を、サリュは余裕のある回避ですり抜けると、這うように相手に接近して剣腹を叩きつけた。

 顎先に受け、膝から崩れ落ちる相手は一顧だにせず、次の獲物を探す。

「お前は……」

 戸惑いを見せる部族の一人に、にこりともせずに鞭剣を振るう。サリュを敵か味方か確認する前に、頬を張られた部族の男は意識を失って昏倒した。


 不意に背後から殺気を感じて、サリュは前方に身体を投げ出した。岩陰から突き出された短剣の一撃が空を切る。小さな舌打ちとともに、怜悧な眼差しの男が姿を現した。

 ちらりと周囲に倒れた数人に目をやって、ヨウが冷ややかに笑った。

「敵も味方もなく、とはな。気が触れでもしたか」

「……私は、貴方たちのどちらの味方でもないもの」

「ほう。だから、どちらにも制裁を加えようと? まったく何様のつもりだ、死の砂にでもなったつもりか」


「私は死の砂じゃない」

 男の侮蔑の眼差しを正面から見返して、はっきりとサリュは告げた。

「それと同じ名前をつけられただけの、ただのおかしな目をした女よ。――だからって、馬鹿げたことが目の前で行われているなら、それを黙って見過ごすことなんかできない」

「随分と傲慢なことじゃないか」

 男が嘲笑した。

「思えばそれが叶うとでも? 望むことですべてが満たされるなら、乾いて干からびる者などあるものか。ここは神に打ち棄てられた土地だ。世は全て上手くいかず、人は何事も為しえない。たとえどれほどの才があったとしてもだ。――あの方でさえ、そうだったのだからな」

 表情が沈鬱に歪む。それまでひたすら冷徹だった男が不意に見せた感情の綻びに、サリュは目を細めた。

「……リトの昔のこと、私はなにも知らない。そこでなにがあったのかも。リトがどうして一人で砂海を彷徨ってたのかも。私は彼のこと知らないもの」

 でも、と続ける。

「それがなに? 貴方が知らないリトを、私は知ってる。誰も知らないリトが、今もどこかで生きてる。彼は失敗なんかしてない。終わってなんかいない。……あの人は、私を救ってくれた。抱きしめてくれた。生きろと言ってくれた。彼が、私を生かした。リトが砂の海に出た理由なんて、私にはそれだけで十分だわ」

「それが傲慢というのだ……!」

 激しい怒りに身を震わせた男が、明確な殺意と共にサリュへ襲いかかった。



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