8
ヨウから聞き出した内部の詳細を基に、算段を整えたサリュ達はしばし岩陰で身を休めた。襲撃は夜半を迎えてから、少しでも相手方の隙をつく形でという話になっていた。
潜んだ場所からンジまで多少の距離があったが、もちろん警戒の必要はある。見張りがやってくる可能性があり、それ以前に、捕らえた男が戻らなければ、中にいる誰かが不審に思って探しにでてくるはずだった。
「どうだかな。別に帰らなかったところで気にもされないと思うが」
皮肉げに男が言った。
嘘や誤魔化しのつもりではなさそうだったが、サリュ達の立場で、それを鵜呑みにするわけにもいかなかった。サリュとユルヴは交代で見張りを務め、遠い西の地平に太陽が沈むのを待った。
じりじりと日が灼く時間を越す間、陽射しにつくられる岩陰がゆるやかに移動していく。薄い防砂布にくるまりながら、サリュはその日照の変化を見つめていた。彼女のすぐ近くにはクアルが、巨体を影のなかに小さく器用に丸めている。日陰とはいえ、さすがに今は毛皮と触れられるのは難儀だった。
「眠らないのか」
時々、思い出したようにぴくりと震える砂虎の尻尾をなにげなく眺めていると、見張りの番についているユルヴから声がかかった。
見張りを交代してからしばらく時が流れていた。背中からの声に、サリュは振り返らないまま息を吐く。息遣いだろうか。ばれないように上手く休んでいたつもりでも、それが空寝であることはあっさり見透かされてしまっていたらしかった。
横たわらせた身体を半分転がして、少し離れた岩に腰を下ろす相手を見る。全身をしっかりと布に巻いた部族の少女は、そっけない視線をサリュではなく彼方に放っていた。手元には弦を張った弓を握り、何かあれば即応できる用意をとっている。視界の端には顔を突っ伏すようにして休む男の姿が抜かりなく入ったままだった。
「……眠れないの」
眠れる時に少しでも眠っておける技術もまた、長い旅に耐える為には必須のものである。水の飲み方。食べ物の採り方。初歩的なそれらと同じくとうに会得したはずのことが、何故か今は寝付けなかった。
「中にいる連中を襲うのが嫌なら、考え直せ。さっきも言った通り、ここでどうこうしようと大勢は変わらない。これからわたし達がやろうとしているのは、ただの自己満足だ。我々ではなく、そこの女の為のな」
目線を動かさないままユルヴが顎で指した先には、防砂具にくるまった女性の背中がある。かけられた言葉に震えるような反応は見せず、ただし寝息も聞こえなければ呼吸でのわずかな身体の上下もない薄い背を見やって、
「そんなことない」
サリュは強く囁いた。
「人が、死んで。血が流れるんだもの。――変わるわ。変わってもらわないと、困る」
ユルヴがちらとサリュを見た。
もしかすれば起きているかもしれない相手に、わざと聞こえるように言ってみせたのは、あまり性格のいいものではなかった。それでも確かに、身に受けなければならない言葉はあるはずだ。サリュは息を吐き、頭を振った。他者に偉そうに言える立場ではないことも自覚はしていた。
「変わる。それとも、変える? どっちかはわからないけど」
自嘲する形に唇を歪める。
「これが正しいかどうかも、わからないけれど」
「決断は、正誤を定めるものではない」
部族の少女が言った。
「決断が結果を生むのではない。定めた事を貫徹する意志こそが、思い抱いた結果へと導くのだ。それがどんな大言壮語でも、夢物語でも。決断とは結果ではなく、行動だ」
「――ユルヴは。いつも迷わないわ」
サリュはため息を吐いた。感嘆と、そこにまじる僅かな嫉妬を、彼女は隠そうとしなかった。
「神子だから? 天意、を信じてるからなの?」
「……天意に添っている限り、確かに恐れはないが。わたしだって迷うこともあれば、不安に思うこともある」
自分より年下の少女から受けた言葉を意外に思って、サリュは二重の環を描く瞳を瞬かせた。表情を不本意そうに、ユルヴが顔をしかめた。
「なんだ。その顔は」
「そんな風に見えたことなんて、一度もなかったわ」
「わたしはそれほど傲慢か?」
防砂布の奥からむっとした声で、ユルヴは言った。
「わたしはただ、自分の程度を知っているだけだ。わたしには部族の将来を占うことはできないからな。足元の砂を読むことならできるが、未来を遠見することまでは無理だ。裁縫だって不得手だし、他にも苦手はいくらでもある。だから、自分にできることをやる。それで牙巫子なら、いいだろう。それがわたしの在り方だ」
「……やっぱり、ユルヴは強いのよ。私はそんな風に思えない。私は、」
漏れかけた言葉がただの愚痴になっていることに気づき、サリュは両手で膝を抱えた。顔を伏せる。他人に自らの内心を吐露していることが、ひどく恥ずかしかった。
「私は、なんだ」
「――結局、それなんだと思う。自分のことだって、わからないから」
どこまでも果てのない砂の海で、足元が流れているのは皆同じだ。ならば自分と彼女の差は、自らの在り方に拠るのだろう。それは、目指す先や指標ではない。
だからこそ、ウディア族の老婆や、ユルヴが自分に言った「惑っている」という言葉の意味も、サリュには理解できていた。それは、砂に流れることとは別のことなのだ。
「それでも、私はリトを探さなきゃ」
ぽつりとサリュが呟く。
それを聞いた遊牧民の少女が顔をしかめた。口を開き、吐きかけた台詞を飲む。いくらか迷う素振りを見せてからユルヴは言った。
「……わたしが怖いと思うのは、お前のことだ」
サリュは目を丸め、それから寂しげに微笑んだ。
「“サリュ”だから?」
「違う」
はっきりと否定して、ユルヴは天を仰いだ。
「わたしは、お前を死の砂などと思っていない。お前のその目も、名付け親が名づけた理由も知ったことか。お前はノカや、ノカの家族。そしてアンカを救った。そんなお前を不吉だと、誰が思う。一族の誰一人、決してそのようなことはない」
真っ直ぐに向けられた視線には、誠心が込められていた。気恥ずかしさを覚えてサリュは視線をそらしかけたが、なんとか相手から逃げないまま、頷いた。
「ありがとう」
「なんの礼だ。わたしが怖いというのは、お前ではなく――やはりお前のことだ。すまない。こういうのは苦手だから、上手くまとまらない」
自分の舌先を呪うように、小柄なアンカ族の次代族長は舌打ちした。そこからさらに長い沈黙を置いて、ゆっくりと確かめるように告げる。
「……サリュ。お前がウディアの巫子を助けるのは、自分と似ていると思ったからか? いや、それが悪いと言っているんじゃない。それが、お前がお前を知ることに繋がるのなら、それでいい。相手の為などではなく、自分の為なのだというなら、いっそ正直だろう」
少し考えてから、サリュはこくりと頷いた。
「多分、そうだと思う」
惑っている者同士の共感。あるいは連帯感というものは、確かにあった。
「今でもか?」
「……どういう意味?」
サリュは眉をひそめる。
「ンジを襲うという提案に乗ったのも、それだけか。そこの男の存在が、お前の決断に関わってはないか?」
岩にもたれかかった男を視線で刺し、遠まわしにかけられた言葉の意味を理解するのに、時間が必要だった。心外な気分で、サリュは相手を凝視して訊ねた。
「リトのことがあるから。私が、そうした? それを利用されてるってこと? でも、言い出したのはその人じゃなくて、ユルヴ。貴女じゃない」
「そうだ。お前の決断を非難しているんじゃない。ああ、クソ、歯がゆいな。つまりわたしが言いたいのは――お前が知りたいというお前というのは、お前のことなのか?」
今度は、相手の言っている意味がサリュにはわからなかった。沈黙する。不理解を察したユルヴが、自分に失望するように長嘆息を吐き出した。
「今日ほど自分の口下手さを忌々しく思ったことはない。……わかりやすく言い直させてくれ。サリュ。お前はリトという男を探しているな?」
「……ええ」
「その男を探して、無事に見つけ出した。それから、お前はどうするつもりだ」
「どうするって、」
当然のように答えようとして、その台詞がサリュの喉元で唐突にひっかかった。
リトを見つけたら。それはもちろん、トマスに帰るに決まっている。水と石の商業都市。そこで彼を、そしてもしかしたら少しは自分を待ってくれているかもしれない、あの女性の下へ、リトを連れて帰る。それから。
サリュは言葉を失った。その先の展望がないことに気づいたのだった。
男との再会がどのようなものになるか、ある程度の想像ならあった。辛い旅路の、長い時間を費やして、少しずつ砂に吹かれてとぼける男の輪郭を確かなものにする為にも、それは必要だった。
だから正確には、ある時点から先の光景についての思考が彼女にはなかった。
再会する。それが叶うのは別離からどの程度の時間が経ってのことか、砂にまみれた自分の姿を見て、男はなにかしら感想を抱いてくれるだろうか。自分にはなくとも、クアルにはあるだろう。大きく育った砂虎に、彼はどんな反応をするだろう。呆れるか、怒るか。怯えることは、ないだろうけれど。
本を、返そう。少しは字が読めるようになったことも伝えよう。自分で読んでみて、わからなかったことを訊ねよう。面倒そうに、しかし恐らく彼は答えてくれるはずだ。
――それから。
……トマスに戻って、クリスティナさんに会おう。
――それから?
トマスで再会した彼と彼女を前にして、自分はいったいどうすればいい。
サリュはずきりとした痛みを覚えた。彼女の意識の外で起こった身体反応が、理由もわからず全身をまさぐり、這い回った。不快な気分がせりあがる。寒さがあるはずもないのに背筋が震えた。
「サリュ?」
呆然とするサリュにユルヴが声をかける。はっとして、サリュはぎこちなく口元を持ち上げた。
「……ごめんなさい。ちょっと、びっくりして」
「……それで、どうするつもりだ?」
訊ねる少女の表情は沈痛そうだった。目の前の相手が既に理解していることを悟り、サリュは目を閉じた。口を開く。
「――何も。何もないわ」
乾いた声で彼女は言った。
「どうするつもりなんて。リトを見つけることが、私の全部だもの」
「だろうな」
大きく顔を歪めて、ユルヴが頷いた。
風が吹いた。十分な熱気を伴ったはずのそれが寒々しく、サリュは震える心地で肘を抱えて抱きしめた。遊牧民の少女が告げようとしていることに、彼女も気づき始めていた。
「……この間の夜、私が言ったことを覚えているか」
気遣う口調で、そっとユルヴが言った。
「お前にとって、リトという探し人はお前そのものなのだろうと。それを否定するわけじゃない。自分自身を知るのに、他者を介在するのも間違っているとは思わない。誰かの瞳に映る己だからこそ、自分にも見えるのだから。だが――」
言葉が途切れる。
まぶたを持ち上げたサリュは、常に明快な態度であり続ける部族の少女が、迷っている態度を見た。自分を心配してくれているのだと察して、彼女は無理に微笑んだ。
「大丈夫。聞かせて。……聞かせて欲しい」
表情を見れば、ユルヴがどのような心情でそれを口にしているかもサリュには理解できた。彼女はそれを聞くべきだった。何故ならそれは、今まで彼女が考えることから逃げ出していたことだった。
「お前の中からリトという存在を抜き出した後、何が残る。――なにもない、とお前が答えるのが、わたしは怖い」
重苦しい沈黙が生まれた。
サリュは黙って、自分より小柄な少女を見つめた。すまなそうに、しかし顔をそらさずに目線が返る。少女の瞳の中で、彼女自身が彼女を見つめ返していた。
サリュの内心は静かだった。
動揺や衝撃より、むしろ納得に似た気分が強かった。彼女は少し前、若い商人から受けた言葉を思い出していた。
「似たようなこと、メッチにも怒られた」
ぽつりと言う。
「自分のやってきたこと、やることを死の砂のせいにして、悲劇ぶるなって。すごく反省したつもりだったのに、結局なにもわかってなかったのかしら」
本当にそうか? サリュは唇を噛みしめた。
ちりと反感の種が胸に湧く。確かに、自分のとった行為の責任を誰かのせいにするのは間違っているだろう。だが、リトを探すことに全てを賭けているというのは、まぎれもない彼女の本心でもあったのだ。それすらも、男のせいにしていることになってしまうというのなら、それこそ自分の中から全てが失われてしまう。
「――違う。そうじゃないんだ、サリュ」
だが、牙巫子と呼ばれる猛々しいアンカ族の次代族長は、激しく頭を振った。
「わたしとあいつが、似たような不安を抱いていたのは事実だ。集落を出る前、そのことで奴から頼まれもした。お前を頼むとな。だが、わたしが怖いのはそれじゃない」
――だったら、なんだというのか。
もはや口にする手間さえ煩わしく、サリュは視線で訊ねた。
「お前の中からその男の存在を抜きにすれば、お前がなくなる? そんなことはありえない。お前の旅の動機や、目的にその男が居座っていようと。その途中で出会った私やノカは、必ずお前の中にいるのだから。その我々に映りこんだお前もまた、お前自身の中にはいるはずなのだから。だから、お前の中に、お前自身がないなどということはないんだ」
そこでユルヴは言葉を切り、自嘲気味に笑った。
「だが、お前はそうは思わない」
サリュは答えず、相手の言葉を待った。
息を吐き、ユルヴは続けた。
「男を探すのはいい。自分自身を重ねるのもいいだろう。容易に別ちがたい程、お前の根底に関わる存在なのだから。それならどうして、その男との再会が成った後について、お前は希望を持たないのだ。伴侶になるでも、共に旅をするのでもいい。別にその男と一緒にいなければというわけではない。男とお別れというならそれもいい。なら、その後は。男と別れた後、お前はどう生きる。それすらもないというなら――まるで、その男と再会してしまったなら、お前の生命そのものがそこで終わってしまうようじゃないか」
遊牧民の少女は、ほとんど怒るような口調になっていた。それでいながら、表情には必死なまでの真摯さがある。まだ一月も共にあったわけではない彼女は今、サリュと接することでどうしても拭えず、長らく胸に溜め込んでいたことを吐き出していた。
サリュは答えない。
答える言葉がなかった。先ほど抱きかけていた納得感など、ただの錯覚でしかなかったことを痛感していた。胸の裡は静かなまま、しかしそれはあまりに大きすぎる衝撃に彼女が動揺を自覚できないでいるだけだった。
顔の表情を動かすことすら忘れるサリュを、痛々しい眼差しで、ユルヴは最後の言葉を述べた。
こればかりは口にするべきか彼女も迷い、しかしここまで話がいってしまった以上、言わずにいられない台詞を静かに叩きつけた。
「サリュ。わたしには、お前ではなく、そちらのほうがよほど不吉なものに思える。リトという名前こそがお前にとっての“死の砂”なのではないかと、そう思えてならないんだ」
◆
同刻。
遠く離れたトマスでは、外出先から戻ったクリスが家人の出迎えを受けて馬車から降り立っている。
「お帰りなさいませ」
主人を出迎えた若い執事の男は、すぐに異常に気づいた。
凛とした佇まいでトマスでも評判の彼の主人は、いつになく表情を青ざめさせていた。ひどく憔悴している様子でもある。出先で何事があったのかと、彼は内心で慌てた。
「クリス様」
呼びかける。クリスは男を見て、薄く微笑した。
「ああ、ただいま」
平静を努めたその返答の仕様で、むしろ男は事の重大さを把握した。
しかし、彼には立場があった。例えなにがあろうと、使用人から主人にそれを訊ねることはできなかった。
「……ご不在の間、集めた情報は書斎にてまとめてあります」
「ああ。助かる。少し考えることがあるから、書斎にいる」
「葉茶をご用意いたしますか」
「そうだな――いや、欲しくなったらその時に頼もう」
無言で頭をさげる男の横を過ぎて、主人が立ち去っていく。その後ろ姿を見送って、男はこれから成すべきことを考えた。
主人がここまで動揺を見せることは、二つしかありえない。一つはただ一人のこと、もう一つはただ国のことであった。どちらか、あるいはそのどちらとも。ならば自分はどうするか――忠実な若い執事は、虚しさに似た気分を味わった。
主人からの声がかからない以上、彼にできることは多くなかった。主がいつでも動けるよう情報を仕入れ、整理し、準備に努めるのが彼の仕事だった。
そのことに不満を覚えたことは今までなかったが、今、男の視界を遠ざかる背中を見れば、そのあまりの心細さに歯噛みする思いだった。
誰かがいてくれれば、と慨嘆する。使用人ではなく、家族。あるいは友人。決して人づき合いの得意な主人ではないが、そもそも敵地といってよいトマスでそうした関係性など望めるものではなかった。
ふと、男は不可思議な瞳をした、毛玉のような小さな砂虎を連れた少女のことを思い出した。
一年前、短いながら主人と姉妹のようなむつまじさで過ごした、あの少女が今も傍にいてくれたなら。そう考えることがただの逃避でしかないことを自覚して、男は息を吐いた。
気を取り直す。主人から声がかからなければ何事もできなければ、主人から声がかかって万全以上の準備を整えておくことこそが彼の職分だった。
振り返った先では、男と同じ気概をもって仕える数人が、彼の指示を待っていた。
忙しく指示を飛ばす。
自身も率先して行動に移りながら、サリュと呼ばれた少女の存在を思い出した男の脳裏に、その少女以上に主人が頼り、心待ちにしている存在が浮かんだ。
頭を振る。自分への戒め以上に、その誰かへの悪意へ近い感情で男はその思いつきを抹殺した。
その男こそが、主人の心を縛る呪いのような存在であることを、彼は理解していた。