6
――何の為に。
思い悩む表情でクリスは呟き、答えを求めるように天井を見上げた。
その様子を見届ける顔に様々な思惑が見て取れる。
トマスの地で商才を認められ、大商家の末席に名を連ねる青年は商いに対する態度で愛想よく笑みを崩さず、その彼と比べれば若いというより幼いという表現がより妥当である公爵令嬢は、真剣味の強い眼差しを真っ直ぐに相手へ向けている。残る一人、クリスの古い知己である男だけが場に浮いて、目の前で観劇でもしているような気楽な表情だった。
「アルスタ女爵。貴女はそれをご存知のはずです。あるいは――貴女こそが、お知りになるべきではありませんか?」
コーネリルが言った。
穏やかな口調で聞かせる相手の気色を煽ぐ、柔和な表情の男をクリスが見やる。忌々しげな顔は男の本音を見透かして、だからこそ容易く怒声を返せなかった。
ニクラス・クライストフが何の為に。そして何を知っていたか。
最早、それは考えるまでもないことのように思われた。少なくとも、迂遠に迂遠を重ねて男が示そうとしているものは明快だった。
「……知っていた? 水が枯れ、そして湧くことを?」
馬鹿な。心の底からの感情を乗せてクリスは吐き捨てた。そうした反応は過剰ではなかった。
地から湧き、枯れる水源は母なる大地の御業と信じられてきている。それはこの世界に生きる人々を支配する絶対的な法則だった。
死の砂。水天の教え。様々な形をとって理解されるそれらは人の手が届かない上位者としての認識であり、人々はそれを神や魔、吉兆と凶兆の具体として畏れ敬う。人の手でその枯渇や、あるいは再湧を知るという行為は、その領域に人が足を踏み入れることに他ならなかった。
何かの無形の重圧が、ぞくりとした寒気をクリスにもたらした。
「ありえない」
頭を振り、繰り返す。
「そんなことがあるわけがありません」
彼女の呻いた結論は半ば以上、他から誘導されたものだった。そして、その言葉を彼女が自ら口にしたことに商人は満足した様子で微笑んだ。
駄目押しのように男が囁く。
「そう線引いた先に存在するものを、我々は既に知っています」
河川水路。
流れる砂の海を拓いて水源と水源を繋ぐ大水路は、今なおいったいどうやってそれを成し得たか疑問視されている。それはまさに人の域を越えた業だった。
初代トマス領主ジュスター・ベラウスギの残した悪魔的な所業。その建造事業物の実存が重くのしかかり、クリスは喘ぐように息を漏らした。
その歴史上の人物がとった手法の詳細は秘匿されたまま、彼が人ならざる先見性と実行力を持ち得ていたことは確かである。そしてその偉大な人物像に、まるで似るはずもない相手が瞬間、重なって見えた。
ニクラス・クライストフ。稀代の変人といわれたその男がよく物を知り、よく考える人物であったことは他の誰より彼女が知っている。世俗離れした思考に突飛な言動。不意に思い返されるそれらが不吉な想像を与え、彼女は恐れを振り払うように目を閉じた。
六年前の戦争。男の出奔。二つの起こった時期が確かに近かろうと、それが直接に絡んだ問題であるなどという証拠はない。事態はただ状況の羅列にしかず、だがその彼女の脳裏に先日聞かされた言葉が蘇った。
大学時代にケッセルトがニクラスから聞いたという、まるでラタルク一帯が近い将来に枯れ果てることを予見していたかのような一連の台詞。男はどういった思考の末にそのような考えに至ったのか。もう一つ、先ほど公爵令嬢が残した台詞もあった。
クリスは自らを見る令嬢を見た。年少の相手は真っ直ぐに彼女を見て、言った。
「父には、クリスティナ様とお話する機会を持つ考えもあるはずです」
――彼は、知っている。
つまりは令嬢に与えられた伝言は、始めからそこに至るものとしてあった。
クリスは落ち着いた公爵の表情を思い出す。昨年に起こったトマスの暴動で、そこにふと現れたニクラス・クライストフの存在は街の噂にのぼり、それがただの噂で終わらないことを知る者もトマスにはいる。ただ、それを確かな事実として胸に秘めるのは二人だった。
その相手へ、ニクラス・クライストフというカードを切ってみせたのは他ならぬクリスである。共犯者の間柄だからこそ通じる符丁。それに対する返答は簡潔で、しかし内包された意味は深刻だった。
令嬢に任せられた公爵の伝言は、あくまで彼女が望むのならという前提を示している。彼女が自分の意志で足を進みいれなければ道は拓かれないが、その先にあるものはあるいは帝都とトマスの緊張した関係に留まらない恐れもあった。
水天教。ツヴァイ。それこそ今現在の水陸そのものの在り方に至るまで。十分な決意と覚悟をしてきたクリスにとっても、そこまでの話は一顧も想像だにしていなかった。
躊躇はむしろ生まれて当然だったが、話を持ち出したのが彼女である以上、振りあげた剣の行方を示さないまま終わらせることはできなかった。なにより、今この場で出された話題と提案は、この場だからこそだった。
何かしらの即断をクリスは求められていた。しかもそれは彼女一個人ではなく、彼女の立場や背景までを含めた上での政治的判断だった。
そうした重大な決断をするのに熟考する時間を持ちえていないことが、まず彼女の失策と言えた。やはりクリスティナ・アルスタにはそうした政治的な才幹があからさまに欠けているのだった。
厳しい立場に立たされて苦悶するクリスを、柔和な表情の商人と、真剣な令嬢の二人が見つめている。
それぞれの物腰で代わる代わるに語りかけた彼らは、そうすることでクリスの意識を大きく揺さぶることに成功していた。それがあらかじめ互いに意図したものであったかはどうかはともかく、若いが名のある商人の側が意識してそうした流れに仕向けたことは確実だった。
両側から押され、引かれ、いつしかクリスの足元は見る見るうちに崩れ、細まり、今や一本の縄の上を綱渡りしているような状況だった。少なくとも、今のクリスの心境はそうしたものだった。
退くか、あるいは進むか。
一旦そこで退いてしまえば、二度と彼女の前に道は拓かれないという恐れがある。
そして、その道の先にニクラス・クライストフの存在がある以上、彼女にとっての最終的な回答はやはり決まりきっていることではあったが、
「――、」
廊下から部屋の扉を叩く音が、今まさに答えを口にしかけていたクリスの行為を押し留めた。
ノックの後に続いて顔を見せたミセリアと姿を現したのは、その場にいる全員の知る人物だった。ふくよかな肉づきの中年男性が、貼り付けたような微笑を顔に浮かべている。
「これは、フリュグト様」
「やあ。これはお揃いで。偶然ですな」
とってつけた台詞を男は吐いたが、その言葉を信じる者は誰一人としていない。
歌手としてまだ駆け出しのミセリア・ラグルと、トマスを代表する商家の一員であるフリュグトがパトロンととしての関係にあることは、クリスも既に承知していることだった。
個人的にひいきにしている女の家を男が訪れることは、別に不自然ではない。パトロンとそれを受ける側が一種の愛人関係にあることは珍しくなかった。
だが、タニルからやってきたケッセルトにミセリアを宛がったのが、フリュグト自身である可能性が高い以上――でなければ、愛人の家に別の男がいるのを許容できるわけがない――今、この場にやってきたことは偶然などではないはずだった。
男の真意がわからない以上、発言には慎重にならざるを得ない。発しかけた言葉を飲み込んで口をつぐんだクリスは、微妙な気分を味わっていた。男の登場に救われた心地だったからだった。
「カザロ男爵が体調を崩されたと聞いてやってまいったが、いかがですかな。具合の方は」
「そいつはどうも、わざわざ見舞いまでかたじけない。この間の酒宴で、美味い物を食べ過ぎてしまったようで。いつも食ってるものと違いすぎるんで、胃が驚いたんでしょう」
「ボノクスとの国境では、常に気を張っていて疲れがたまっていたのかもしれませんな。後で、なにか消化のよい果物を届けさせましょう」
「ああ、それはありがたい」
一通り世間話じみたやりとりを交わした後、フリュグトは半ば脂肪に埋もれた目つきをさらに細めて、早々に本題を告げた。
「しかし、あれですかな。男爵の体調が宜しくないとなると、無理にお誘いするべきではありませんか」
思わせぶりな台詞に、苦笑じみた表情でケッセルトが反応を返す。
「さて、いったいどんなお話で?」
「いえ。実は少しばかり珍しいものを手に入れましたのでな。商人仲間の皆様にお話したところ、いずれも興味がおありのようでしたので、明日、我が屋敷でお披露目もかねた茶会を開くことになっているのです。よろしければ男爵にも、是非お越しいただければと思っていたのですが」
「ほう。茶会をね」
「もちろん、少しばかりキツめのお茶も用意しておりますとも。それに――」
フリュグトはそこで言葉を区切り、脂ぎった眼差しを移した。
「是非、アルスタ女爵もお越しいただけたらと思うのですが、いかがですかな?」
「私がですか?」
突然の申し出に、クリスは驚いて目を見開いた。
トマスにおける有力者達の集まりに、これまでひたすら蚊帳の外にされてきたのが彼女だった。前回の夜会は、ケッセルトの同伴という形で参加することができたとはいえ、それだけで次回以降も継続して参加できるようになるはずがない。
クリスは返答に困惑してその場にいる他の人々の顔色を窺った。
ケッセルトは他人事のように面白がる表情のまま変わらず、イニエ令嬢も少しだけ眉をひそめた素直な感情を露わに話の推移を見守っている。そして三人目、コーネリルだけが不自然な程に感情を表にしていなかった。
それを見て、クリスはふと脳裏に思い出していた。
評議会の一員であるコーネリルとフリュグトが微妙な関係にあるらしいという精度の低い噂と、夜会でそのフリュグトが話題の持ち出し方にあからさまな失態をしたこと。それを取り繕って話を進めたのが、コーネリルであったこと。
「ええ。明日の茶会には、公爵様もおいでになるご予定になっておりますでな。女爵さえよろしければですが」
評議会という組織も、一枚岩ではありえない。
トマスの富を独占する大商家達も、実際はそれぞれが同じ戦場で争う商売敵なのだ。あるいはトマスにおける大商人が、実際にはその政治にも強い影響力を有しているのなら、当然のようにそこでの争いにも発展する。
仲違いや、足の引っ張り合い。嫉妬や怨恨。彼らもまた人であることは変わらない。いや、商人という強欲に身を焼かれる彼らこそ、もっとも象徴的に人間性の一面を表す人種であることは間違いなかった。
フリュグトの発言と、コーネリルの無反応を装った顔色に、クリスは一瞬で自らの中の舵を切っていた。政治的な問題には疎くとも、戦場で危機的状況を脱してきた経験が彼女にはある。少なくとも、目の前に降った状況が自分以外の誰かにとっても予想外であり、自分自身にとっては最悪ではないことを肌に感じていた。
「私などでよろしければ、喜んで伺わせて頂きます」
慣れない社交的な笑みを精一杯に繕い、クリスは微笑んだ。
「おお、それはよかった。女爵には我が屋敷に来られるのは確か初めてのはず。楽しみにしておりますぞ」
「こちらこそ。お招きに感謝いたします」
クリスの承諾を得たフリュグトの表情に演技以上の感情が浮かぶ。喜悦に似た輝きを目に宿した眼差しが、ちらりとコーネリルに投げられた。それを受けたコーネリルは、やはり無反応に近い微笑で静かに応えただけだった。
再びその場の話は世間話へと移り、クリスは幾らか応答につきあった後に早々とミセリア宅を辞した。時間が惜しかった。
彼女がコーネリルから聞かされ、踏み入れかけた内容は途方もないものだった。明日の茶会までに考え、調べておかなければならないことは多すぎる程にある。
あるいは、フリュグトの訪問からの一連の流れまでが、あらかじめ予定されていたものだったかもしれない。だとするならば、彼女はまさに喜んで罠にかかった愚か者にすぎないが、既に実行したことを悔やむより先のことを考えるべきだと彼女は自分の弱気を叱咤した。
自らの未熟さは今日も思い知った。不得手な交渉事の腕をたった一日で上達させられるはずもなかったが、だからこそ、なし得る限りの準備をして事には臨むべきだった。
クリスの退出にはイニエも伴った。アルスタ家の送迎馬車で、そのまま令嬢を公爵邸まで送り、その降り際に振り返ったイニエが穏やかに微笑んだ。
「クリスティナ様。本日は急にお伺いなどしてしまい、申し訳ありませんでした。また是非、お伺いさせてくださいますか?」
「もちろんです。こちらこそ、ありがとうございました。公爵閣下にもよろしくお伝えください」
「はい。よく申し伝えておきます」
華のように可憐な令嬢が小さく付け加える。
「明日のお茶会には私も父に同伴することになると思います。どのようなお話ができるか、とても楽しみです。それでは――」
優雅に腰を落として、去っていく。
その後ろを姿をしばらく見送って、令嬢の消えた豪邸を盗み見るように、クリスは硝子窓の影から目線を上げた。トマスを支配する大商人、そしてツヴァイでも第一位の大貴族である公爵家の威風は、ただの家邸からすらその厳かな迫力を存分に醸し出している。
それに対しようというのは、名こそ古くから続いているにせよ、少し前まで貴族社会の爪弾きにあっていた弱小貴族であり、その当主名代は戦場で剣を振ることしかできない粗忽者と来ている。
権謀術数の渦巻く中でしのぎを削り、生き延びてきた老練な輩を相手に、自分がどれほど無茶なことをしようとしているか、クリス自身にもそうした意識がなかったわけではなかったが、そこにニクラス・クライストフの存在が影を落としている以上、彼女に後退という二文字はなかった。
明日、馬上槍を交わす敵方を見つめる眼差しで豪邸を睨みつけた後、クリスは前壁を叩いて馬車を発進させた。
クリスとイニエ令嬢が去った後、しばらくしてフリュグトも用事があるといって部屋を出て行った。
目当ての相手がいなくなればそれまでという露骨さだったが、露骨な態度は既に十分にひけらかしてしまっていた為、今さら隠す必要がないのも確かだった。
最後に残ったコーネリルが、それでは自分もそろそろと腰を浮かしかけたところに、ケッセルトが声をかけた。
「残念だったな」
「……残念とは? なんのことでしょう」
男を見る視線にまったく動揺した様子はなかったが、にやにやと厭らしい表情でケッセルトは続けた。
「本人から言質をとりたかったんだろう? それが、実にいいタイミングで、迷惑な客がやってきたもんだ。あれじゃあ、クリスはあくまでお呼ばれしただけだ。あれだけ上手く揺さぶれたんだから、せっかくなら、自分から泥沼にまで足を踏み入れさせておきたかったとこだよなあ」
画策した全てを見透かした発言に、コーネリルは表情を変えないまま、
「――こちらの家主に、貴方が呼ばせにいったのかと思いましたが」
「そりゃ考えすぎだ。俺はただ楽しんでただけだよ。ま、気にすんな。世の中、上手いことも不味いこともそうそう続きゃしない。満点じゃなくとも、及第点ってとこだな」
ケッセルトが肩をすくめる。
教師が生徒の回答に口をはさむような発言に、コーネリルは浮かべた苦笑を大きくして、首を振った。
「貴方はいったい、どちらの味方なのでしょうね」
「だから、言っただろう。楽しんでるだけだってな」
気楽な口調で告げる、精悍な男の真意を探ろうとするかのように厳しい眼差しを送ってから、コーネリルはそれを成しえぬまま嘆息した。
「厄介なお人ですね。本気でそう言っていそうなところが、特にやっかいだ」
「本気だって言ってるだろうが。まあ、明日もいいものが見れそうだ。楽しみにさせてもらっとくさ」
「……外に出てしまってかまわないのですか? 男爵は、体調不良の為に帝都にあがる予定を遅らせているのでしょう」
「おいおい。俺だけ仲間外れにしようってのか? つれないこと言うなよ」
大仰な身振りで両手を広げ、男は野獣に似た笑みを浮かべた。
「まあ、確かに俺もいつまでもさぼってるわけにもいかんさ。この芝居もそろそろ終盤ってところだろう? せいぜい、最後まで楽しませて欲しいもんだな」
「ご期待に添えるよう、努力いたしましょう」
控えめな言葉を残して、今度こそ部屋から出ようとコーネリルは歩き始めた。
その後ろ姿に声がかかる。
「――ああ、なんなら約束しといてもいいぜ。俺から手助けするような真似はしないから、安心しな。あいつも、いつまでも世間知らずのお嬢様じゃあるまいし、少しは痛い目だってあうべきだろうしな」
コーネリルは立ち止まり、振り返った。
寝台に王者然とした態度で寝そべる男の真意は、やはりどこまでも見通せそうになかった。むしろ、目をあわせればあわせるほど、見透かされるのは自分の内面ばかりのような気がしてしまい、フリュグトは目線をそらした一礼を残すと、黙したまま部屋を出た。