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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 誰何の幻想
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「宰相閣下? ナイル様がどうなされたのですか」

 ツヴァイ帝国宰相ナイル・クライストフは皇帝からの強い信任を得て国政を振るう、帝国の最重要人物である。

 アルスタにとっては主流から外れていた家が中央に復帰するきっかけをもたらしてくれた大恩ある人物であり、両家の息子と娘は気の知れた学友として長く行動を共にしていた時期もあった。その息子、ニクラス・クライストフが帝都を出奔して以降、両家の私的な交流はさすがに少なくなっていたが、公務の折、彼女が宮廷に参内して顔をあわせれば宰相から声をかけることもある。


 自分の父親と同じく尊敬する相手である名前を耳に、途端にきな臭さを感じるクリスにイニエ公爵令嬢が答えた。

「宰相様は素晴らしい政治見識をお持ちでいらっしゃいます。私どもトマスの商人が思い悩み、トマスが抱える問題についても当然、それにお気づきでないはずがありません。特に国内での需要に目を向けた国家成長は、以前から宰相様が進められてきた方策でもあるとお聞きしています」

「ええ、そうだと思います」

 クリスはあいまいに頷く。政治経済といった内容に彼女は疎かったが、そうしたことについては彼女がまだ学生の頃に変わり者の友人からあれこれと伝え聞いてもいる。


 そもそもがツヴァイとは軍事国家として興った歴史を持つ。その源にはバーミリア大水陸の中央とも呼ばれる大水源を抱えていた為、他の遊牧の民に見られる征服と移動を繰り返す集団構造とは微妙に異なりはするが、その国家性質が武力を背景にした侵略であることは紛れもない事実である。

 水源と河川の両者が人と物を呼び込み、もたらされた富を用いて武力の充実を図り、他を併呑する。そこから得られた物でさらなる暴力を溜め込み次へ向かうことを続け、ついに水陸一の版図を築き上げたのがツヴァイという大国だった。


 外征を中心とした政治戦略は建国以来、実に二百年もの間ツヴァイという国家の根幹にあり続けている。もちろんその時代によって停滞もあれば敗北もあり、東の大国ボノクスとの緊張などはもはや恒常的なものと化してしまっている。国内でまずは内政を重視すべしという気運が高まり、実際にそうした行いもあったが、しかしそれも結局は戦争のための準備であり、雌伏でもあった。ツヴァイが戦って勝つことで成り立ってきたことは疑いようがなく、いわば今日に至るまでのツヴァイにとって戦争経済という代物は呼吸をすることにも等しい。


 クリスが顔をしかめたのは、そうした拡張志向とは異なる手法を国内に根付かせようとしているのが件の宰相ナイルであり、それが先ほどの話との間にひっかかりを覚えさせたからだった。需要や資源を外に求めるのではなく、国内で循環させようとする。いわば内需経済という試みがそれだとして、ならば、それはいったいこのトマスとどのような関わりを持ってくるのか。

「むろん、全てを国内だけで終わらせるというわけではありません。貿易、あるいは交易。ツヴァイの“領内”にも多くの部族がありますからね。あくまで内需を主導とした在り方ということであれば、我々としても大いに賛同するところです。実際、最近でも宰相様が新たに定められた嗜好減税など、それを扱う商人にとりまったく喜ばしいものでありました」

「本題を、お願いできますか」

 令嬢から代わって口を開いたコーネリルのかわすような口調に、焦れたクリスが言った。

「失礼しました。トマスの経済は常に前進を求めています。私どもはそうした行いでツヴァイの繁栄に貢献してきたと自負しておりますが、一方ではそのことで懸念されてしまっていることも確かです。もちろん、アルスタ女爵もご存知のことでしょう」

 それについては頷くまでもないことだった。クリスが駐在していることがまずその証明になる。


 帝都ヴァルガードと商業都市トマスの関係が微妙なものであることは常識ですらあった。一方が帝国の中心であればもう一方は水陸の中心であると持て囃す声が下々からあがるほどに、トマスの存在感は帝国の中で抜きん出ている。


 いまだに相手方の話の本題が見えず、ため息が漏れそうになる気分を紛らわすために目線をさまよわせたクリスの視界に退屈そうなケッセルトの表情が映った。視線に気づくと、肩をすくめてみせる。

「宰相閣下はトマスとの問題について、穏健派であられたかと思いますが」

「そのとおりです」

 クリスが慎重に口にのぼらせた発言にコーネリルが頷く。

「宰相閣下が第三者としての政治的立ち位置を貫いておられることは無論、私どもも存じ上げております。アルスタ女爵、貴女のような人物をトマスに送られたことを考えればそれは明快でしょう」


 クリスは微妙な表情になる。

 彼女が名代としてトマスに駐在する理由は帝都とトマスの関係性に加え、帝都内部での様々な思惑があってのことであり、それは必ずしも彼女が望んだ全てというわけではない。

 名門でありながら政治社交に疎いアルスタは帝国にあるいずれの閥にも与さず、必然、弱小な発言力しか持たなかった。一方で宰相家と近しい関係を持ち、先年起こったボノクスとの争いにおいても武勲をあげているからこそ、その立場は微妙なものとならざるをえない。

「私はただ皇帝陛下からの御命を受け、その任を果たしているだけです」

 クリスがそう牽制したのは、相手の言葉がつまり自分を通して宰相ナイルに向けられているのかと考えたからだが、男はにこりと余裕のある微笑を返した。

「はい。そして帝都とトマスの関係を真剣に案じていらっしゃる。であるからこそ、私どももアルスタ女爵ならばと考えることができるわけです」

 やっと本題かと身構えた彼女に、コーネリルはそこからさらに話題を転じた。


「ところで女爵は、水天の教えについても薫陶が篤いとお聞きしますが」

「……戦ともなれば、この手で多くの血を流すことになります。剣を振る者として、人並み程度には信仰心を持っているつもりです」

「水天の御心は血の穢れをも洗い流す。欲罪にまみれた我々商人も、常に敬虔であらねばと思っております」

 不思議なものですと男はさりげない口調で続けた。

「この地における争いはほぼ全てが水源に端を発するといっていいでしょう。人も物も、富も、全てが水場に集まり、その営みのなかでこそ生じるのが水を巡る争いです。つまりそれは、水という存在が呼び込む不可避のものといってもいい」

 クリスは言葉を呑み、意識して低く抑えた声を押し出した。

「恵みはただ自然としてそこにあり、それを奪いあう者にこそ罪があるのでしょう」

「いかにもその通りです」

 男が頷いた。

「自然にあるものを自侭に、我欲のまま独占することが罪。だからこそ、私はそうした水天の教えに皮肉なものを感じてなりません」


 クリスは思わず目の前の男を凝視した。コーネリルの言葉は直接的ではなくとも、明らかに何らかについての批判を示唆したものだった。何かとは水を支配する存在。それは水天教であり、あるいは国家そのものともいえる。


 ほとんど年中に渡って空が晴れ渡り、限られた水が地下から沸くことで生命が営まれるこの惑星では、権威も権力も、水を背景にもたなければ成立しない。それはツヴァイに限らず、国家的勢力、集団は必ず水源や水場を支配しているものであり、特にツヴァイではそのことを「治水権」として明文化してもいる。

 それは要するに自然の恵みを支配する理由づけを自ら公言しているに過ぎないのだが、そのツヴァイで国教として扱われる水天教の存在が、支配者の後押しとなっている部分もあった。


 ツヴァイで水天の教えが信仰されるようになったのは帝国の初期、二代皇帝軍王シェハンが外征の途で討ち死にし、帝国内部で生じた勢力争いで早々に疲弊しかけた国内をまとめるために親王カカがそれを国是として打ち出したことによる。

 敬虔な水天教信者であったとされるカカは三代皇帝となり、死して信王と追尊されたが、実際には勢力地盤の弱い自らの立場で後継争いに打ち勝つための極めて現実的な政治選択であったともいわれている。それは危険な選択であったとも。いずれにしても、帝国と水天教の関係はそこから始まった。


 水天教はそれまで民草で信仰される土俗宗教でしかなかった。創始はさらに遡り、ガヘルゼンや太古のハペウス集合郡の頃から既にその原型はあったとされているが、水という貴重な存在を万人に平等に分け与えられるべきものとして説くその教えは、立場の弱い者達はともかく支配する立場にある者達から好まれるはずがなかった。

 その水天教が水陸の中央とも目される大水源を擁し、大量の水とその水源を支配するツヴァイ帝国の国教として崇められることになったのは滑稽な皮肉であるが、ありえない話ではない。人が死に、国家が滅びることと同じく、宗教やその教義もまたその時代や立場によっていかようにでも変容するものであるからだった。

 万人に平等な水、という教義は水天教を信じる者たちに限った話となり、他の文化形態や宗教的価値感をもつ者はその例外とされた。時には自分たちと異なる人々を「水を汚す蛮族」と非難して積極的に排斥し、水源や水場を奪うことをも奨励することもあり、同時に他の土俗宗教をとりこむことで水天教はその勢力を増していった。

 今ではバーミリア水陸で最も影響力のある一大宗教として、水天教は他国にまでその名を轟かせている。

 その発言力は、同時に彼らの裕福さからくるものでもあった。水陸中にある教会への寄付寄進だけでも莫大になるが、さらに水天教は彼らだけの資金源を独占して有しているからである。


 水天の教えでもう一つ特徴的なものとして、火の扱いについてがある。火とはすなわち人類が文化を興す上で欠かすことの要素であるが、水天教はその火こそが人類を過たせ、この惑星を煤けた砂の星と化したものであると教えていた。その必要性、有用さを認めてもいたが、過度な使用は人々を不幸にし、再び天罰を与えかねないとされていた。

 火に対する潜在的不審と警戒。水陸で広く信じられる水天の教えはそのまま水陸全体の文化的な制限になっている。この惑星でこの時代、鍛冶技術の進歩が停滞していることなどがまさにその為だが、水天教関係者はその制限だけではなく、さらには一部の独占までを行っていた。


 代表的な例が貴重な工芸品として知られる硝子である。灰や砂、そして高い火力を用いて作られる硝子はこの時代、大変に貴重な代物であり、またその液体とも個体ともとれる不可思議な性質はまさに水天の奇跡そのものであるとされていた。

 その生産や販売は全て水天教によって行われている。硝子は教会の天井窓だけでなく、貴族や裕福な商人達の一部に普及しているが、その利益はほとんど水天教が吸い上げている形だった。

 他にも火を用いる工芸の多くに水天教の手は伸びており、自由な商売を阻害される商人ばかりでなく国家権力との間にもその摩擦は生じている。ツヴァイが先に成功した砂鋼などにも、果たしてそれが工業品であるか工芸品であるかなど、ほとんど言葉遊びにも近いやりとりがかわされた事実もあった。砂鋼の研究にはアルスタも関わっていた為、そうした問題はクリスも身近なものとして体験している。


 国家、教会、商人。それぞれの立場はツヴァイという大帝国の中で複雑に絡み合い、さらにはそこに派閥や因縁、好悪を軸とした人間模様が彩りを深めて混沌とした状態を作り出している。

 だが、今ここでコーネリルがそれをぼかし気味にでも口にした理由がクリスにはわからなかった。確かに自由な商売にとり、水を支配する存在やそこにかかる税は好ましいものではないのかもしれない。しかし、それで教会や国家を非難しては命があろうはずもない。異端の烙印を押され、首が飛ぶ。


「金と砂。そして銀と灰か」

 危険な発言を聞いて、むしろ面白がるようにケッセルトが口を挟んだ。男が用いた二つの対比はそれぞれ、商人と教会を表すのによく使われる暗喩だった。

「商人は砂を集めて金と成す。それには自らの血で塗り固める必要があるというが、大いなる水天ではどうやって灰を銀にするんだろうな。泉に灰を投げ入れて、熱心に祈れば銀が湧いて出てくるってんなら今日から祈りを欠かさないようにするが」

「大きな成功を収めた商人に、敬虔な信仰をお持ちの方がいらっしゃるのは確かですね」

「ほう。なら、どこから灰を持ってくるかが問題か。灰を得るためには、何かを焼かなければならないわけだが」

 化かしあいじみた会話を聞きながら、クリスはこっそりと息を吐いた。本題を明かされないまま、事態だけがずるずると深い沼にひきずられている感がある。帝都、さらには水天教まで話に関わってくるとあれば、これはもう国家の大事以外の何物でもない。

 それにいったいどうニクラスが関わってくるというのか。彼女にはそれを確認する必要があった。

「それで」

 あらためて意識を引き締めて、クリスは言った。

「帝都、水天教、トマス。それがいったいどのような問題に結びつくのですか」

「結局は水の問題になります」

 コーネリルが言った。


「つまり国家とは水を支配するものであり、教会とは水の教えを説くものであり、商人とは水に流れて商うものです。水あるところに人は生き、水が枯れれば一切が去る。だからこそ我々は欲するわけです。水を、枯れない水源を」

 クリスは片方の眉を持ち上げた。視線を動かさず、視界のなかでケッセルトが笑顔のまま何も言わないのを確認してから、

「それは、タニルの近辺に湧いたという水場のことでしょうか」

「一般論としてのお話です。もちろん、そのようなものが見つかれば素晴らしいものですが……そもそも、枯れない水源とは本当に存在するものなのかどうか。あるとしたら、それはいったいどこに。このトマス、あるいは帝都ヴァルガードのバーミリア大水源こそが? あるいはまったくの未知の場所に。まず我々はどのようにして水が湧くかも理解しておりません。全ての水源は繋がっている、これは通説として広く知られていることですが、果たしてそれが正しいかどうかも確たる証拠はありません。もしかしたらトマスとヴァルガードの水はまったく異なる場所から湧いているのかも。あるいは、本当に全ての水源の源となるものがあったとしたら、――基水源。我々が求めているものとはまさにそれに尽きます」

「失礼ですが、話が見えません」

「例えばの話です。アルスタ女爵、もしどこかで新しい水場が発見され、それがどこからも派生していないまったく別の水源であると認められたのなら。その水場はいったい誰のものになるのでしょうか」

 クリスは顔をしかめさせて答えた。


「……帝国法において、治水権はその上流にあるか、それによって認められた者に与えられる。そうされています」

「はい。そして現在、全ての水源の最上、基水源はバーミリア大水源であると目されています。その純粋量を根拠としてのことですが」

 しかし、と続ける。

「それが真実、基水源であるという確証はないのですよ。ある日、突然ヴァルガードの水源が枯れることもありえるのです」

「それは。しかしそれは、言いがかりというものではありませんか」

 クリスは反論した。

「基水源という、全ての源というその存在が実際に確かめられていない以上、それはただの御伽話でしかない。重要なのはあるかもしれない架空の存在ではなく、現実に湧き、人々の喉をうるおしている水源であるはずです」

「おっしゃるとおりです。だからこそ、新しい水場の存在は恐れをももたらします。水源とは命であり、富でもある。権力者にとって自身の管轄にない水場とはそのまま、新しい国にも成り得るわけですから」

 ふん、とケッセルトが鼻で笑った。

 クリスはちらりと男を横目に見てから、視線を戻す。

「……恐れている。誰が、何に対してですか」

「少なくとも、我々は恐れています。新しい商いの機会、その期待と喜びに胸を打ち震わせているのと同様に。新しい水場、あるいは基水源。そんなものが他所で見つかってしまえば、それは我々の足元にあるものはそうではないということの証明になってしまいます。唯一の源でない以上、いつか枯れ果ててしまうかもしれない。安定した水場に住む者にとって、これは恐怖以外の何物でもありません」

 男の静かな口調には確かに恐れる含みがあった。


 水陸各地にある大水源、ヴァルガード大水源やトマス大水源は、湧き枯れる数多の水源のなかで変わることなく大量の水を供出し続けている。

 だが、それも永遠ではありえない。

 例え百年続こうが、先年、万年と続こうが、いつかの果てに終わらないという理由はない。そんなことは常識としてわかっていながら、しかしいつしか在り続けることことそ当然と考えてしまうのは、何も水源に限っての話ではなかった。――それは人であり、国でもある。クリスは頭を振った。

「真実とは知ることが恐ろしいものです。ですが、それでも我々はいずれそれを知ることになります。知る以上は求めるしかない。優しい幻想に生きられないなら、血で血を争ってでも。飢えれば求め、手に入れればそれを失わんとすることこそが例え罪でも、そうしないわけにはいかないのです」

 コーネリルが言葉を区切り、息を吐く。

「その真実を伝える者を、我々はある時は神の如く褒め称え、また悪魔の如く罵ります。事実は事実として在りながら、それは聞く者により福音ともなれば破滅の予言にもなる。あの方、ニクラス・クライストフ様はいったいそのどちらでいらっしゃるでしょうか」

 唐突に持ち出された名前に虚を突かれ、クリスはすぐに相手を睨み返した。

「ニクラスが、なんとおっしゃいましたか」 

 苛烈な眼差しを受けて平然とコーネリルが言う。

「あの方は幼くからひどく探究心の強い方だったとお聞きしています。帝都にいらっしゃった頃も、一風変わったお人柄と、知識欲で有名であられたと」

「だからなんだと聞いています」

 剣呑な気配をにじらせるクリスを落ち着かせるように、清涼な声でイニエが口を挟む。

「クリスティナ様。昨年、あの魔女騒動の日。ニクラス様がトマスを訪れた際、あのお方は私の父とお会いしているのです」


 クリスは自分より年少の令嬢の姿を見つめ、激しかけた気持ちを落ち着かせた。

 確かにあの日、魔女の疑いをかけられたサリュを救い出すために、ニクラスは公爵に会ったといっていた。裁判で弁護に立つには素性が定かでなくては適わないからだった。

 ニクラスはトマスで蔓延しようとしていた魔女騒動を収束させることを条件に、公からサリュの弁護に立つ許可を受けた。その結果、火あぶりに処されるはずだった一人の少女は救われ、何者かの工作により街には暴動の火が起こり、その騒ぎのなかに男の姿は消えた。

「公とニクラスの間で、何かのお話があったということですか」

「……父からのお言葉をお伝えします。彼は、知っている。そうお二人にお伝えするようにと、そのように申し付かっております」



 公爵令嬢の発言の後には長い沈黙が落ちた。

 言葉を失ったクリスをコーネリルとイニエが見つめ、それに対する反応を取り繕うことさえ忘れてクリスは困惑していた。知っている? いったい何を。いやその前に、それが過去形で語られないということは。


「いきなり昔の知人の名前を出されて、しかも謎掛けみたいなことを言われても困る」

 ケッセルトが言った。

 唐突な話の流れにまるで動じた素振りもなく、大げさに首を振る。

「あの変わり者がなんだって? いったい何を知ってるってんだ」

 イニエはあいまいな微笑をケッセルトに向けた。公爵令嬢が何かを答える前に、沈黙するクリスへ向けてコーネリルが口を開いた。

「――アルスタ女爵。不躾な質問をお許しください。貴女はあのお方が何故六年前に出奔されたのか、その理由をご存知でしょうか」

 クリスは答えず、無言で男の視線から逃れた。


 遠い昔、彼女が友人であり許婚でもあった男から帝都を出る話を聞かされたのは、まさに藪から棒の出来事だった。当然の如く彼女は激怒し、男を問い詰めたが、最後まで男から満足いく回答は得られなかった。

 結局のところクリスは男の説得を諦め、男は帝都を出た。その理由はあれこれと噂され、その中には下世話な類のものもあった。彼女と男との仲は公然の秘密のようなものだった為に、彼女にとって聞くに堪えない悪辣なものを耳にしたことも一度や二度ではない。

 それを他人から聞かれることは決して愉快なことではなかった。正直に答えてしまえばそれはそれで恥ともなる。クリスの内心を察したように男が頭を下げた。

「失礼しました。どうか今の質問はお聞き流しください。これから私が口にすることは全て個人的な想像に過ぎませんが、お話させて頂いてもよろしいでしょうか」

 クリスは睨みつけるように男を見て、わずかに顎をひいた。


「ありがとうございます。……水という我々が生きるために必要不可欠な存在について、様々な思惑があることはご承知のとおりです。無論、それはこの地に我々が生き、連綿と続く歴史そのものでもあります。水を巡る策謀。それは例えば六年前にもありました」

 六年前。それはニクラス・クライストフが帝都を出奔した年である。

「その年、ラタルク地方において我が帝国と東のボノクスとの間に久しくなかった会戦が生起いたしました。カザロ男爵、アルスタ女爵も参陣なされたその戦いもまた、水を巡る戦い。水源不安定という状況下において、お二方のご活躍もあり、我が国は優勢に兵をすすめ――そして」

 効果的な間を計るように、男はそこで一呼吸を置いた。

「その戦いの最中にラタルクの地が枯れ果てました。戦いは頓挫し、互いに余力を残したまま両軍ともに兵をひき。それからラタルクは人の住めぬ不毛の枯れ地として在り続け、そこに湧く水場をカザロ男爵がつい先頃お見つけになったわけですが」

 話を振られたケッセルトが肩をすくめる。

「その六年前に、帝都から一人の人物が姿を消した。これはとても興味深いことです。もちろんそのお方とは、ニクラス・クライストフ様でいらっしゃいます」


 クリスが不意に思い出したのは、彼女の邸宅を訪れたケッセルトが口にした言葉だった。大学にいたニクラスが、ケッセルトとの会話で漏らしたというラタルク云々という台詞。

「……偶然でしょう」

 自身の思いつきを否定するように、クリスは短く吐き捨てた。

 コーネリルが頷いて続ける。

「確かに、ただの偶然ということもありえます。ですが、物事にあまりにも偶然という縁が重なりすぎている場合、その出来事にはもはや必然として成り立つ何かがあることも確かです。たとえば六年前、ラタルクに河川を渡す計画があったということのように」

 クリスは息を呑んだ。

 国中の人と物を消費する規模で行われるような大河川の工事計画が、たかだか一月の間に整えられることなどありえない。そう彼女に教えたのは先日の夜会の途中、公爵達と共に姿を消したケッセルトが彼女に話したことである。

「女爵も既にお気づきのように、我々が計画している河川水路とは実はそのことなのです。トマスの商人にとっては六年前に果たせなかった念願ということになりますが、その計画についてはもちろん帝都、そして宰相ナイル・クライストフ様にもご存知のことでありました」

 そして、と男は意味ありげに笑みを深めた。

「宰相様はこの計画に反対であられたそうです」


「ナイル様が?」

 眉をたわめるクリスに如才ない笑みのまま、

「その頃の私は商人としてただのしがない見習いのような身の上でした。もちろん詳しいお話までは存じておりません。ですが、どうしても疑問は沸き、興味は尽きません。ラタルクでの戦と水の枯渇、頓挫した河川計画。その同じ年に帝都を出奔なされた帝国宰相のご次息。これは本当にただの偶然なのでしょうか。アルスタ女爵、貴女は本当にそのように思われますか? 貴女の知るお方はいったい何を知り、そして何の為に都を出られたとお思いになりますか」

 男の言葉は、彼女の身に深く鋭く食らいこんだ。



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