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砂の星、響く声  作者: 理祭
 ニ章 食べて殺して
7/107

 約束の時間になっても、クリスは食堂に姿を現さなかった。代わりに身綺麗な格好をした若い男がやってきて、「クリス様からのご伝言です」と告げた。

「少し遅れるので、先に食事を始めておいてほしい。とのことです」

 了解して、リトは適当なメニューと果汁水を二人分注文した。机の下に案外行儀よく座っている砂虎の子供用に、ミルクも頼む。人の良さそうな顔をした宿の主人は、心得た顔ですぐに常温のミルクが入った平皿を持ってきてくれた。


 昼間に遭遇済みの主人はともかく、少しずつ入り始めた食堂の客達は皆、好奇の視線を彼らに送っていた。なかには露骨に顔をしかめている者もいる。面倒事になるかもしれないとリトはサリュに部屋においておくように言ったのだが、彼女は頑として頷かなかった。

 少女が初めて見せる不可解な頑固さにリトは驚いたが、しかし考えてみればこれはいい話のきっかけだった。砂虎の子がミルクを舐めとる様を見つめているサリュに、リトは訊ねた。


「どうするんだ、それ」

「……クアル」

 なんのことかと眉をひそめて、

「飼うつもりか」

 信じられずにリトはうめいた。

 名前までつけて。睨むように見ると、サリュは無言で頷いた。

「知ってるのか?それは砂虎だぞ。大人になれば人間なんて数秒で食い殺す」

「私の村にもいました」

 目線を合わせずに少女は言った。


「あの子は人なんて襲いませんでした。私が、育てたんです」

 リトは驚いた。獣を子供の時から手なずけることで優秀な供とする話はあるが、彼の知る限り最も凶暴な獣だと考えられている砂虎でもそれが可能とは聞いたことがない。

「その砂虎は?」

 少しの興味もあって訊ねると、サリュは感情のない口調で、

「死にました」

 殺されたということか。

 考えればすぐにわかることではあった。水源が無くなり始めた集落では、不必要なものから切り捨てられていく。何も生み出さない家畜以下の行く末など一つしかない。

「あの子は殺される時も唸り声一つ出しませんでした。この子も。だから」


 だから助けた?


「くだらない」

 言葉をさえぎり、彼は一言で切り捨てた。

「動物なんてそこら中で売られてる。親なしなんてどこにでもいる。それを全部救おうとでも言うつもりか。いったいお前は何様なんだ」

 辛辣な言葉を投げるリトに、しかし少女はそこで初めて顔を上げて、

「でも、あなたはわたしを守ってくれました」

 それが何かとても大切なことのように、そう言った。

 まっすぐな視線を受けて、一瞬、なんのことかリトにはわからなかった。昼間の件か。それとも昨夜のことか。もしかするとあの集落で声をかけたことなのかもしれない。


 ――とんでもない勘違いだった。

 だが、この上なく真摯な表情で見上げる彼女の姿を見ると、横道にそれるようなことをわざわざ口に出すのもおっくうに思えて、リトはため息をついた。話を戻す。

「どうやって飼うつもりだ。食費は。住処は。自分一人の食い扶持を稼ぐあてもないだろう」

「わたしはもう子供ではありません。生きることならできると、そう言われました」

 何を言われたというのか。胸が悪くなって、彼はテーブルにきた果汁水を喉の奥に流し込んだ。それでも不快感は消えず、胃の辺りに溜まっている。

 サリュは果汁水に手をつけようとせず、少し戸惑うようにしてから、口を開いた。

「あなたが、かってくれませんか」


 不明瞭な言葉は、あるいはわざとだったのかもしれない。その程度には少女の頭がいいことを彼は知っていた。だから意地悪く訊ねた。

「なにを」

 答えはない。ため息をついてリトは言った。

「断る」

 自分の手で新しい商売女を一人作るつもりはなかった。この際、相手が自分の趣味であろうがなかろうがそんなことは関係ない。

「……わかりました」

 ほんの一瞬だけ傷ついた表情を閃かせて、サリュは席を立った。

宿屋の主人のもとに行って、話している。驚いた表情になった主人が、困惑した顔でこちらを見たのがわかったが、リトはそれを無視した。


 やがて渋る主人から何かを書きつけてもらったサリュは、テーブルに戻るとクアルを抱きかかえた。砂虎の子供はミルクの入った皿から離されて文句の鳴き声をあげたが、彼女が少しだけ抱く力を強くすると渋々と押し黙った。

「さようなら」

 顔を背けているリトの耳に、その言葉がいやに大きく聞こえた。

 そして少女は宿から出て行った。

「……お客さん。いいんですかい」

 テーブルに近づいてきた主人が非難するような目を向けてくる。

 なにがいいんですか、だ。文句があるなら自分が引き止めて、養ってやればいい。俺なんかよりよほど幸せにしてやれるはずだろう――八つ当たりに噛み付きたくなるのを堪えて、不貞腐れたようにリトは告げた。

「親父。エール」

 ため息が返ってきた。


 すぐに運ばれてきた酒を、一気にあおる。久しぶりの酒だというのに、ひどく喉に不味い。店のせいではないことはわかっていたので、文句も言えなかった。

 それからリトは、友人が現れるまで酒を飲み続けた。

 運ばれてきた食事には手もつけなかった。



 約束の時間を一刻ほど過ぎてから現れたクリスは、仕立てはいいが簡素な服装に身を包んでいた。恐らく周囲をはばかってのことだろう。この宿は庶民からすればかなり質はよかったが、それでも彼女のような貴族が顔を出すのは場違いでしかない。

「なにかの嫌がらせか、これは」

 すっかり冷え切った料理を嫌そうに突つきながら、クリスは料理を下げさせようとはしない。

 あの子はどうしたんだ、と聞かれ、リトは肩をすくめただけで答えなかった。クリスは問いたげな視線で、しかしそれ以上何も言ってこなかった。


「勝手に飲んでいて悪いな」

 エールをいくら飲んだところで酔いはなかったが、旅の疲れもあってか少し眠気は感じていた。

「遅れたのはこちらだ。気にするな」

「忙しいのか?」

 そういうわけではないのだが、とクリスはわずかに疲れたような息を漏らした。

「いつものことだからな」

 トマスを支配しているのはベラウスギ公爵家である。ツヴァイ建国からの忠臣であるその家は、臣下というよりはむしろ盟友としての立ち位置から始まった。高位高官ではなく、当時まだ一地方都市でしかなかったここトマスの受領を望んだという初代ベラウスギは、その先見の明を生かして一代でこの街を大商業都市へと築き上げた。


 最大の軍はヴァルガードに。最大の富はトマスに。

 やがて両者が危険な天秤の両側と例えられることになるのに時間はかからなかった。五代皇帝アンドレスの暗殺など、その影にトマスの手があったことを囁かれる事件も多かった。一方のヴァルガードにも過去にトマスの軍事的占領を試みた事実があり、現在は一触即発とは言わないまでも、蜜月とは程遠い関係になっている。

「いまの私は名代のようなものだからな。肩が凝ることさ」


 少なくとも三年前までは、アルスタ家はヴァルガード側に立っていたはずだ。その彼女がここにいる理由としては、あまり多くの可能性は考えられない。目付け役、といったところだろう。

 ふと昼間のことが気になって、リトはクリスに訊ねていた。

「それじゃあ賓客じゃないか。なんで憲兵隊なんて真似をしてたんだ」

「暇だったからな」

 あっさりと彼女は答えた。それに、と続ける。

「騎士たる者、人々の生活を守るのは当然のことだ。役目云々ではない」

 大した騎士の鑑と言うべきだった。呆れたように頭を振って、リトは手に持ったエールを飲み干した。それを呆れる様な、しかし羨ましそうにも見える表情で眺めているクリスに気づいて、

「飲まないのか?」

 と訊くと、彼女は心底嫌そうな顔になった。


「暴れて欲しいか?」

「……治ってないのか」

「病気のように言うな。が、酒は飲まん」


 彼女がそう言うからには、きっとあれ以来二度と飲んでいないのだろう。

 仲間内での飲み会の時だった。学生達が酒を飲むことは禁じられておらず、飲み会が開かれるのもそう珍しいことではなかったが、その日は堅物で有名なクリスが参加するということで皆が驚いていた。

 不機嫌そうに眉間に皴を寄せたまま杯に酒を受けた若き彼女は、無言で果実酒を一気にあおり――弾けた。

 それは、今までいったい何を溜め込んでいたのだろう、と誰もが思うほどの暴れっぷりだった。歌って笑って騒いで、危険を感じてその場から逃げだそうとしていたリトはあっさり彼女に捕まり、一晩中その相手をさせられることになった。


「あれは酷かったな。あれからクリスには酒を飲ませるな、が俺達の合言葉だった」

 懐かしそうに笑う男を軽く睨み、クリスは視線を外した。

「誰のせいだと思っている」

 ん、と問う彼に「なんでもない」と邪険に返して、

「たまに、酒を飲みたくなる時はあるがな」

 忌々しげにつぶやいた。

「そうなのか?」

「私をなんだと思っている。私だって事に思い悩むことぐらいある」

 気分を害したふうに言われて、リトは苦笑いを浮かべる。


「……初めてそう思ったのはお前が家を出ると言った夜だ」

 クリスは果汁水をあおって、酒が入っているわけでもないのに酔ったような半眼で彼を睨んだ。不思議そうにしている彼に、

「許婚を失くすことになったのだぞ。当然だろう」

 彼女の言っている意味がわからず、やがてそれが徐々に浸透していってリトは大きく目を見開いた。言葉のめぐりが悪いのは、やはり酔っているのかもしれない。そうだとしても、あまりに突飛な言葉ではあった。

 ふん、と鼻を鳴らしてクリスは続けた。

「やはりいまだに知らなかったか。そんなことだろうとは思っていたが」

「……初耳だ」

「知らなかったのはお前だけだ。お前のご両親はもちろん、私も、私の両親も知っていた。大学の連中だって知ってるやつは知っていた」

「俺だけ。知らされてなかったのか」

「聞けばどうした。お前は嫌がっただろう」

 それについては否定できなかったので、沈黙するしかなかった。


「少しは私の怒りも理解できたか? 大学で未来の主人と出会って、それをまんざらでもないと思っていたら、当の本人からいきなり近いうちに家を出て行く相談だ。おかげで今では立派な次期女当主。暴れたくもなる」

 それで思い出した。クリスが酒を飲みたいと言ってきたのは、彼が家を出るつもりだと彼女に相談した次の日だった。誰でもわかるようなその因果関係に気づけないのは、迂闊としかいいようがない。

「――すまない」

 五年越しの真実を受けて、彼は言った。それ以外、口にできる言葉はなかった。

 感情を凍らせた瞳で彼を睨んでいたクリスは、やがてその鎖を解いて口元を緩ませた。

「まあいい。昔のことだ。私だってもう、姓が変われば自分の名の響きがどうなるかなどと口ずさんで頬を染めるような、乙女ではないよ」

 言葉に一抹の寂寥感を伴っていた。

 やはり、変わらないわけがないのだ。確かな現実を受け止めて、リトは碗をあおった。中にはなにも入っていなかった。


「それにしても、だ」

 主人に互いの飲み物を注文して、場の空気を換えるように彼女は話題を転じた。

「お前があんな連れと一緒なのにも驚いたがな。昔は子供嫌いだったじゃないか? 大学の後輩連中もあれだけ邪険にしていたお前が」

 肩をすくめる。今でもそのつもりだ。

「それにしてはお前に懐いているようだったぞ」

「気のせいだろう」


 鼻で笑われる。

「お前と私、どっちに人を見る目があると思っている」

 昔の色々な出来事の記憶に頭を巡らせてみれば、納得するしかない言葉ではあった。

 冷えた剥き豆を口に入れて、リトは壁にかけられた時計を見た。嫌なことを思い出してしまった。

 少女がここを出てそろそろ二刻が経とうとしている。時間に罪はないが、不快になる「間」だった。古い壁時計を親の敵でも見るかのように睨んだまま、彼は旧友の名を呼んだ。

「クリス」

「なんだ?」

「あの子は、お前から見て幸せそうに見えたか?」

 クリスはすぐに答えず、からかうような口調で言った。

「――何が幸せかは当人にしかわからない。他人がそれを決め付けるのは傲慢だろう。少なくとも俺は、そんなのご免だ」


 リトの表情が歪んだ。その台詞には覚えがあった。他でもない、彼自身が五年前に舌の上に乗せた青くさい言葉だった。

「だが、その上で私から言わせてもらうなら、悪くはなさそうだったがな」

 その言葉も、むしろ彼の方が使うような表現だ。彼女はわざとそういう言い方をしていた。

「……悪くなさそう、か」

「ああ。それ以上なにを求める、贅沢者め」

 クリスへの返事に唇の端を上げて、リトは飲み物を持ってやってきた宿の主人に声をかけた。

「親父。さっき言ってた店の場所を教えてくれ」

 ぎょっとして、クリスのことを気にする様子を見せる主人に肩をすくめる。彼女はジョッキを口に、そ知らぬ顔をしていた。

「この宿に迷惑はかけない。頼む、教えて欲しい」


 店の場所を聞き出すと、リトは席を立った。

「剣は要るか?」

 そっけなくたずねてくる友人に、しかしリトはこれ以上迷惑をかけるつもりはなかった。果汁水を傾けながら訊いてくる彼女に首を横に振って、詫びる。

「クリス、すまない。用事ができた。近いうちに改めて挨拶にいかせてくれ」

 実直な女騎士は、薄く笑って見せた。冷ややかな笑みだった。

「なに、そのまま座って酒を飲み続けるつもりだったら私が叩き斬っていた。気にするな」

 彼女らしい言葉に笑い、リトは外套を羽織って外に出た。



 宿屋の主人から聞いた建物は、宿から貧民街に向かって少し歩いた路地裏にあった。位置的に貧民層とのちょうど境目になるような場所で、だからこそ、その手の建物も多く立ち並んでいるのだった。

 立て付けの悪い扉を開くと、褐色の男が歯の欠けた口を大きく笑わせてリトに近づいてきた。

「いらっしゃい、お若い旦那。今日はどんな女をお求めで?」

「銀髪に褐色の女が来ただろう。小さな砂虎を連れた。どこにいる?」


 男はとぼけるように自分の顎を撫でた。

「さて、なんのこと、で」

 そこで言葉が途切れる。男の喉元にはナイフが突きつけられていた。

「どこにいる?」

 繰り返すリトの目が、暗く沈んでいる。そこに単純な脅し以上の気配を感じて、男はひきつった悲鳴をあげた。

「お、奥に……奥の部屋に」


 それきりその男には目もくれず、リトは店の奥へ向かった。

 進むにつれ、据えた匂いが鼻をさした。蝋燭が燃え、男と女の体臭と、汗と香料の交じり合った香り。一番奥の部屋の前にたどり着いたリトは、一気にその部屋に入った。


 中には三人がいた。正確には三人と一匹だった。

 扉のすぐ横には、ここの店の女主人だろうか、中年の女が驚いた表情でこちらを見ていた。その足元に砂虎の子が力なく伏している。

 部屋の中央にいたのは頭部が禿げ上がった屈強な男で、右手に黒光りする鞭を掲げていた。もう一方の左手には鈍い輝きの鎖を握っていて、その鎖は一度地面に落ち、それからまた伸び上がって最後の人物の元へと続いている。左の頬が赤く腫れ上がり、見覚えのある服にはあちこち裂け目ができていた。薄く涙の溜まった瞳が、驚きに見開かれて彼を見上げた。

 ――状況を確認するには、それだけで十分だった。


「……あら、気の早いお客だねぇ」

 女の問いかけを無視してリトは部屋の中央に向かった。男が野卑な笑みを浮かべて、

「おいおい兄ちゃん、もうちょっと待ってなって。いまこいつを躾けてるところさ。なんなら、その後であんたに――」

 それ以上の言葉を吐かせず、リトは男の股間を容赦なく蹴り上げた。声にならない声をあげて悶絶する男の顔面を、大振りの拳で真横から打ち抜く。

 男は倒れた。加減を間違えたせいで、殴ったリトの拳にもかなりの痛みが走ったが、気にせずに彼は首輪を外すとサリュを抱きあげた。呆然としていたサリュは、やがて少しずつ身体を震わせ始める。首にしがみついた。

 それからクアルに近づき、抱きかかえるリトの後ろで、女が震えた声であとずさった。

「……な、なんなんだい。いったい、あんた」


 女をじろりと睨んで、リトは一方的に告げる。

「これは俺のものだ。連れて帰る」

 部屋を出た。

 外には店の人間がいたが、誰も止めなかった。奇妙な沈黙の中をいっそ堂々と、彼は店を出た。耳元ではわずかにすすり泣くような声がしていた。


 宿屋に戻ると、すでにクリスの姿はなかった。食堂の奥から顔を覗かせた主人が安堵したような表情を見せて、リトは彼に一つ頷いて部屋に戻った。

 扉に差し込まれていた紙片を開くと、住所が書かれてあった。「落ち着いたら顔を見せてくれ」達筆な文字が踊っている。

 なにか嗅がされたのか、目覚める気配のないクアルをソファに寝かせてから、彼はサリュをベッドの上に座らせた。洗面台に行って水の張った桶と手ぬぐいを持ってきて、少女の服を脱がせる。そして傷跡から滲む血を拭っていった。


「……なぜですか?」

 サリュが口を開いた。売春窟を出てから初めて喋った言葉だった。

 リトは答えなかった。傷の手当てが終わると、手ぬぐいを洗って水を切り、赤みがさした左頬にあてる。少女と目が合った。灰色の二重の瞳はもう乾ききっていた。

「あなたはわたしが、嫌いなんだと思っていました」

「俺は、俺が嫌いなんだ」

 唸るような声で本心を告げ、彼は手ぬぐいを押さえておくように促して立ち上がった。

 少女が脱いだ服を確認する。もとがつくりの粗末なものだったとはいえ、あちこちが裂けてこれ以上はとても使えそうになかった。それを見ているうちにまた怒りがぶり返してくる。あの男、腕の一本ぐらい折っておけばよかったかもしれない。


 サリュはじっと彼を見つめていた。

 意識してそれに気づかない振りをしていて、やがて耐え切れなくなってリトは口を開いた。

「すまなかった」

 サリュが眉を寄せたのが気配でわかった。

 少女のほうを見ずに続ける。

「なにをしようと勝手だって言ったのは俺なのに、邪魔をした。すまない」

 リトの言葉を聞いて、サリュは心の底から不思議そうな顔になった。

「わたしは、あなたのものじゃないのですか?」


 なんのことだ。

 思ってからリトは売春宿で自分が言った言葉を思い出した。首を振る。

「そうじゃない。君は自由だ」

 人は自分自身のものであるべきだ。例えその立場が貴族でも、奴隷でも。

「――自由」

「ああ。だから好きにすればいいんだ。俺は止めない。そんな権利はない」


 そう、止める権利なんかなかったのに、いったい俺はなにをしているんだ。

これからどうするというのか。少女に身体を売らなくても生きていける術を教えるとでも? 読み書きからものの数え方まで? いったいどんな偽善だ、それは。

 クリスが変なことを言うからだ、という思考が脳裏をよぎる直前に、彼はそれを押さえ込んだ。この上、自分が起こした行動を他人のせいにするような愚劣さだけは受け入れるわけにはいかなかった。全て自分の意思であり選択なら、せめてそのぐらいは責任を取れ―― 


「わたしの、自由にですか?」

 いつのまにかサリュがベッドから立ち上がっていた。ベッドに腰掛けているリトの目の前まで来て、訊ねる。彼は頷いた。

「ああ」

「それなら――」

 静かな瞳で、真っ直ぐに彼を見て、彼女は言った。


「わたしは、あなたに食べられたいです」


 真摯な表情は、冗談を言っているようには聞こえなかった。突然の言葉に笑おうとして失敗して、リトは唇を歪めて聞き返した。

「なに?」

「わたしの意志です」

 聞いたことのある台詞だった。

 死の砂に覆われた集落に泊まった夜、サリュが言った言葉だ。あの時の彼女はサジハリという老人に吹き込まれていただけだった。だから、言葉はともかく彼女の身体は震えていた。

 いま、彼の目の前にいる少女はあの時と同じように裸で、身体も震えてはいなかった。


「意味がわからない」

「どうか、わたしを食べてください」

 リトは苛立った。さっきから目の前の相手は何を言っているんだ。

 食べろだと? 焼いて食えとでもいうのか。そんな趣味はなかった。自分は小悪党かもしれないが、人肉を喰らうような趣味までは持ち合わせていない。

 いや、本当はそれが比喩表現だということはわかっていた。ただ、それで何を例えようとしているのかが、彼にはちっともわからなかった。一つだけわかるのは、彼女が決して自分を売ろうとしているわけではないらしいことだけだった。


 ――こいつは、なんだ?


「あの夜、思ったんです」

 不意に少女の手が伸びて、リトの手を掴んだ。そのまま自身の胸に近づけて、僅かな脹らみに触れさせる。

 温かい体温を感じる。穏やかな心臓の鼓動が響いた。そこにあるのは生命だった。

 ぞっと背筋が粟立つ。それを見透かしたかのように、

「あなたはなにが怖いのですか?」


 少女が囁いた。


 その時、リトを支配していたのは確かに恐怖だった。他者。それによって映し出される自己。共通する命という存在。生という概念。その何が彼を恐れに駆り立てるのか、彼自身にもわからなかった。ただ怖いのだった。怖くて怖くてたまらないのだった。

 だからこそ彼は昂ぶっていた。それは恐怖とは全く違い、少ししか異ならなかった。

 彼の中にある深淵から、黒い衝動が突きあがってくる。少女の右手に覆われたリトの右手に力がこもり、未発達な胸が乱暴に歪められた。僅かに顔をしかめ、しかしサリュはその行為を拒絶しなかった。その手を包み込む。


 深く暗いものを瞳の奥に宿して、彼は言った。

「お前は、誰かに食われてもいいのか」

 少女は頷いた。

「はい」

 その返事が彼の耳に届いて、そして少女は身体ごと強引に引き寄せられた。



 彼は混乱していた。

 錯乱といっても良かった。思考はまとまらず、自身の行動と結果に因果を見つけられない。何を考え、何を求めているのかすら遠く意識の外でしかなかった。

 唯一つ、これが決して高尚な何かなどではないということだけは彼にはわかっていた。


 例えば貴族令嬢達が、流行の物語を読んで甘ったるく想像するような、そのようなものでは決してなかった。そんな理想概念でしかない代物が自分の中にあるとは彼には思えなかった。思えない以上、それは彼の中にはなかった。

 これはそんなものではない。もっと違う何かだ。

 では何だ。わからない。もしかすると、そういった曖昧な何かこそを、人はある概念で表現するのかもしれなかったが、しかし彼はそれを認めなかった。自己を正当化するような逃避などまったく認められるはずがなかった。

 だから彼は、これをただの食事だと結論づけた。


 俺は食っているのだ。

 血と肉をではない。一個の人間としての尊厳や自由、決して侵すべきでないそれらを食い尽くしているのだ。生きる為に。自らの為に。

 なんという傲慢。なんという罪か。そう思いながら行為を止めることができない、それこそがまさに罪であった。

 やがて、泥のように意識を侵食していく闇が訪れる中で、彼は願った。

 他の誰でもない、自分が殺されることを願った。



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