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「リト――」
思考が吹き飛び、感情が沸騰した。
「落ち着いて、俺の話を聞け」
「リト!」
男の言葉など耳に入らず、サリュは獣の如く歯を剥いて襲いかかる。鞭剣を大きく振りかぶり、間合いの外から一足飛びにかかる彼女に、
「――落ち着けと言っている」
男は冷ややかな眼差しで応じた。
踏み出した一歩を狙われてあっさりと払われる。横転びに倒れた彼女を蹴り飛ばし、その背中を男の脚が踏み抜いた。
「っ……、っぁ!」
的確に急所をついた一撃は、悲鳴すら満足に漏らすことを許さなかった。そのまま、男は靴裏だけでサリュの自由を封じてみせた。
「リ、ト……ッ!」
「……まるで獣だな。砂虎に育てられたという噂は本当か」
冷徹に見下して、サリュの左手から鞭剣を蹴り飛ばす。
「動くなよ、ウディアの神子。別に殺そうというわけじゃない」
立ちすくむシオマに牽制しながら、男はゆっくりとサリュの背中にかかる重みを増やしていった。強制的に息を吐き出され、サリュの口からうめきが漏れる。
「ぁ――くぅ」
「話を聞け。ニクラス――リト、と名乗っていらっしゃるのだったか。その方は、そういう人物ではなかったか? だとしたら、お前の探しているのは俺の知る方ではない。ただの人違いだ」
淡々とした口調だった。
地に這いつくばったまま男を睨み上げ、日射を背に受けて暗く沈んだ相手の眼差しに脳裏に残る男の面影を思い出し、サリュは唇を噛みしめた。痛みをこらえてゆっくりと身体の力を抜くと、それに呼応して男の足から体重が外れていく。
「起きろ。そんなところに倒れていたら干からびるぞ。休むつもりだったんだろう。このあたりまでは誰も来ないから、安心していい」
短く状況を伝え、サリュの短剣を拾い上げる。まじまじと確かめるように確認して、遠くに転がったもう一本へと歩いていった。
咳き込みながら身体を起こし、サリュは男の背中に向かって掠れた声で問いかけた。
「……あなたは、誰」
「聞いていなかったのか。ヨウ。姓はない、ただのヨウだ」
男は振り返らないまま答えた。
「クライストフ。あなたは、リトのことを知っているんでしょうっ」
「ニクラス・クライストフ。その方のことならよく知っている。帝都にいらっしゃった頃、俺はニクラス様のお傍についていたからな」
「リトはどこに。お願い、教えてください。彼はまだ」
――生きているの。後半の言葉は呑みこみ、必死な表情で勢い込むサリュを、男は冷たい眼差しのまま見据えた。
「その前に答えてもらおう。一年前、ニクラス様とトマスに現れた少女。砂虎を連れた魔女というのは、お前だな」
「私です。お願い、リトはどこ」
「まだだ。……アルスタの短剣に、鞭剣。そして不可解な瞳か。聞いたとおりだな。噂の砂虎はどうした、一緒ではないのか」
男が怪訝そうに言った瞬間、サリュもそのことを思い出していた。
音もなく気配もない。ただそれまでの付き合いから察することのできる何かに、切羽詰った声を張り上げる。
「クアル、駄目!」
空を跳んだ巨体が、あわやその爪で獲物を切り刻もうとした瞬間に動きを止めた。
しかし勢いよく飛びかかった動きまでは制動できず、体当たりの格好で男を押し倒す。喉元に噛みつくことはせずに不機嫌そうな顔が向いた。
「おいで。私なら、大丈夫」
サリュが手を伸ばすと、不承不承といった表情で男から離れて彼女の元に寄り添う。血に濡れた彼女の手の甲を心配そうに舐める、ざらついた舌の感触がかえって痛みを誘発したが、サリュは痛みをこらえて砂虎の頭を撫で、押し倒された男へと目をやった。
「大丈夫ですか」
「……肝が冷えた」
むくりと上半身を起こす表情が落ち着いたまま、やや青ざめている。
「ごめんなさい」
「いや。同行している可能性を失念していたのはこっちだ」
仏頂面での返答が誰かの表情を思い起こさせて、サリュの口元がわずかにほころんだ。少し、似ているかもしれない。
中折れした話題をたぐりよせるような沈黙の後に、男が口を開いた。
「さっきの話だが。日が下るのを待つ間、少し話をしないか。情報は聞いて損はない。殺しあうならそれからでも遅くないだろう」
男の提案にサリュはシオマへと目線を向ける。この場の展開に何も出来ずただ立ち尽くしている同行者に視線で問いかけ、まったく能動的な返答を得られず、結局は自分の意思で決めた。
「わかりました」
「感謝する」
話を続ける前に日陰へ移動する。
サリュとシオマは岩陰に座り込み、男は二人からやや離れた岩に腰をおろした。
「そちらの聞きたいことは理解できているつもりだ。だが、その前にもう一つ聞かせてもらいたい」
「なんでしょうか」
「今ここにお前がいる理由。それは、アルスタ家に関わりがあるか?」
男の質問の意味がわからず、サリュは眉をひそめた。
「……私がリトを探しているのは、自分の意思です。ここには、偶然の縁でやってくることになっただけで」
言葉の真贋だけでなく、その裏側までじっくりと濾して意図を読み取ろうとする眼差しで男はサリュを見つめ、それから息を吐いた。
「嘘ではないらしい」
「嘘なんて、そんなものをつく理由がありません」
いったいどういうことだろうか。サリュは考える。
彼女がリトとはぐれてから短い間、彼女を保護してくれた恩人の家のことを、どうして聞かれるのか。頭に閃いたものをそのままに訊ねた。
「アルスタ家と敵対している人達が、来ているのですか?」
男は微妙な形に唇を歪めた。肯定とも否定ともとれる表情で答えず、
「質問の内容はそれでいいのか?」
わずかにからかうような調子を口調に感じとって、サリュは眉をひそめた。
「いいえ。リトの居場所を。リトは今、どこにいますか?」
強い口調で訊ねた気配に煽られ、隣に伏せたクアルの耳が揺れた。主人が見る相手を油断なく見つめている。砂虎は命令があればすぐに男に飛びかかれる態勢だった。
ヨウと名乗った男は二対の眼差しを受けてしばらく黙した後、短く答えた。
「さあな」
「ふざけないでください」
声を苛立たせるサリュに肩をすくめる。
「ふざけてなどないさ。ニクラス様の行方は我々も探している。一年前からな。あるいは直前まで一緒だった相手なら何か知っているかと思ったが、どうやらそれもないか」
男は嘘を言っているようには見えなかったが、言葉の中に微妙な引っ掛かりを感じてサリュはじっくりとその違和感の元をたどった。先ほどまでの会話まで遡り、程なく突き止めたそれについて、
「……貴方は、私のことを聞いていないのですね。クリスティナさんから」
鋭く問いただす。
リトとクリスティナは古くからの知人で、家同士の付き合いがあるはずだった。その両家の人間が、行方知れずとなった当の人物について情報を共有していない理由を考えれば、自然とリトが家を捨てて放浪していたという事実に行き着く。
つまりは、クライストフ家とアルスタ家は一体などではない。彼の生家というだけで味方と判断するのは早計だった。
「頭は回るようだな」
警戒の様子を見せるサリュに、男が鼻を鳴らして言った。
「まあ、そう過敏になる必要はない。ニクラス様の捜索で足並みを揃えるどころではないのは確かだが、それはアルスタ家から話がまわってこないからだ。その理由もわかっている。義理を果たそうとしているのだろう。まったく、相変わらず頑固な方だ」
男は呆れるのと感心するのがないまぜの口調だった。
「貴方は、クリスティナさんとも」
「お二人は学友として親しい間柄だった」
じくりと胸に滲むものに、サリュはあえて気づかないようにして質問を続けた。
「リトのこと。本当に何も知らないのですか」
「ああ。そういうそちらこそ、何か知っているか?」
「……いえ、何も」
南に下った町にリトを知るかもしれない相手がいることをサリュが告げなかったのは、相手が全てを話していないことを察したからだった。理由もない確信だった。
「そうか。お互い残念だな」
特にそうとも聞こえない声を聞きながら、サリュは男の感情の乏しい表情を観察している。
目の前の男は、少なくとも自分などよりは会話の詐術にも長けている気配だった。手にした情報を用いるのには、よほど切り時を計る必要がある。
「貴方は私に二つ質問しました。私ももう一つ、聞いてもいいですよね?」
男が薄く笑う。
「答えられることならな」
「教えてください。ここで何をしているのですか」
男はちらりとシオマを見て、すぐに視線を戻した。
「それはむしろ、こちらからの質問だな。答えてもいいが、聞き逃げされるわけにもいかない。確認しておくが、お前はそこのウディアの神子の代理人か」
「代理人?」
「その質問はウディアの人間の立場からのものか? それとも無関係の人間の、ただの興味本位のものなのか」
サリュはシオマを見た。質問者の権利を譲るつもりで視線で問いかけると、シオマが大きく顔を歪めて、首を振った。
「……前者ととってもらってかまいません」
「我々は今、あまり好ましくない状況にある」
男が言った。
「遠くからここまで調査にやってきていて、そのまま留まっている。見過ごせない事態に遭遇したからだ」
「ウディアの部族は今、戦いの準備をしています。彼らにとっての大事な場所を、西からやってきた集団に占拠されているからです」
「男が一人、そちらに向かったはずだろう。数日前。お前達がやって来たのはそれへの反応と考えていいのか」
「その男の人なら、砂漠に眠っています」
遠まわしな表現を受けて、男は軽く目を伏せて息を吐いた。
「そうか。あいつが死んだか」
「……はい。部族の人間が殺された、報復にと」
「ああ、やはり間に合わなかったか。死んだのはこちらにやってきた若者の一人だな。部族の人間が激昂するはずだ。となると、状況はますます悪くなった」
淡々と呟き、男はそれでと話を向けた。
「今から殺し合いが始まろうという所に、その部族の神子と、魔女と噂された女がいったい何をしにきた。わざわざ危険が迫っていると教えに来たのか。それとも何かの不吉を送ろうと?」
ここからは自分の幕ではない。サリュはそう判断して、強い眼差しをシオマに向けた。びくりと肩を震わせたシオマが唇をわななかせ、
「わたしは」
掠れた声で言った。
「知りたくて。これから起こる惨劇が、本当に正しいものなのか」
「部族の神子はこれから先の未来を知るのか」
皮肉げに続ける。
「もっとも、誰にでも予想がつきそうな結末ではあるが」
「ンジ、から。引いてはくれないですか」
「ないだろう」
男は言った。他人事のような発言に聞こえてサリュが眉を上げると、
「俺は随行だ。今回の調査の正式員ではない。連中の中では外様で、当然、率いるような立場にもない」
男の言葉には控えめな現状への不満が含まれていた。
「部族との争いは、貴方の本意ではないのですね」
「戦に来ているのでもないのに、悪戯に土地の者と諍いを起こしてどうする。そんなものは馬鹿のすることだ」
言って、さらに自嘲するように唇を歪める。
「わかっていて止められなかったのだから、同じことだがな」
「貴方は今、ここでなにをしているのですか」
さっきからはぐらかせているように思える質問を、サリュは再度繰り返した。
「部下の帰りを待っていた。もう帰ってくることはないと、たった今知ったばかりだ」
「部族とのあいだに話し合いをもつつもりだったのですか?」
「あの若者を死なせるつもりはなかった。死なせてしまった以上、どう言い訳しても始まらない」
淡々と男は感情の乾いた瞳を砂海に投じて、それは遠い砂漠に眠る自分の知り合いを悼む動作にサリュには思えた。
静かな眼差しが、やはり彼女の知る人物に重なる。思わず呟いていた。
「――リトみたい」
「俺がか?」
不意をつかれたように瞬いて、男は次の瞬間に大きく笑い出していた。
「勘違いだ。俺とあの方を一緒にするなど、笑い話にも――いや、笑えるかもな。家の者達にはいい土産話になりそうだ」
くつくつと肩を揺らし、息を吐く。
「まあいい。部下が戻って来なかった以上、俺の企みも無に帰した」
「いったい何の企みですか」
「見つけたものを持ち帰る。安全にだ」
「部族の大事なものを、奪い去って?」
「そうだな。そういうことになる」
ぎゅっとシオマが唇を噛みしめる。
「だから、争いが――」
「だから。早急に帰るべきだった。占拠など考えず」
男は言葉を遮り、唾棄するように言った。
「必要なものだけを手にしてすぐに帰ればよかった。それを、余計な功名心などに心を奪われるから、こんなことになる」
「そこに、一体なにがあるんです」
サリュは訊ねた。
「そんなことも知らないのか。本当の意味で知っている者などどこにもいないのかもしれないが。それこそ、」
男は途中まで言いかけて、醒めた眼差しで首を振る。
「あの場所には我々の知りたいことの手がかりがあった。我々のような者がずっと昔から知りたくて堪らなかった世界の秘事。――いったい水はどこから来て、どこから来るか」
サリュは眉根を寄せた。
男の言った台詞は、この地に生まれ生きる者なら必ず一度は胸に抱く疑問だった。不定期に湧き枯れる水。それがいったいどのような仕組みで生じているのかがあらかじめわかってさえいれば、少なくとも人は明日、自分の手元から水が失われるかもしれないという不安な思いからは解放される。次に水が湧く場所さえわかれば、あらかじめ避難することもできる。
「……そんなことが、本当にわかるのですか」
容易に信じられなかった。
水が気まぐれなものであるということは、ほとんど絶対的な常識として誰の意識にも根をはっている。この世界で枯れない水源というのは極めて珍しく、それが許されているのは例えば彼女が以前に訪れ、僅かな期間を過ごした都市だけである。
「まさか」
東に湧いた水源を思い出し、それがサリュの脳裏で今の話と繋がったのは、湖に浮かぶその商業都市トマスから伸びる四つの河川の絵を頭に描いたからだった。
流れる砂に逆らって人が架けた水の線。それを成しえたのは彼女には想像もできないほどの人と、費用。そして試行が繰り返された結果であることはわかりきっており、それだけでもありえなかった。
――あんなものが、どこにでも架けられるわけがない。水が湧いてさえいれば可能とも思えない。水が枯れてしまえばおしまいだし、多少の水があったところで圧倒的な砂の流れはそれを押し流してしまうだろう。
つまり、その場所にはまず枯れない水が在り続けることが必要で。さらには、砂に流されない何かが必要となるはずである。
男が唇の端を持ち上げた。
「その想像は、口にしないでもいい」
「あなただって、知りたくはありませんか」
「見返りを求められても困るからな」
情報をちらつかせてみた魂胆をあっさり見破られ、サリュは舌打ちをこらえた。
「お願いします。私は、リトのことが知りたいんです」
「結局はそれか。正直も素直も悪いとは思わないが。――まあ、実際、やぶさかではないんだがな。お前がどちらかであるかという話だが」
「どちらか?」
「ニクラス様に拾われた孤児。それだけならいいが、お前には別の立場があるだろう」
「ウディアのことですか」
男は黙って、手のなかで玩んでいた短剣を投じた。サリュは目の前の砂地に転がったそれを見おろして、気づく。
「――アルスタ?」
言質にとられることを避けるかのように、男は無言で肩をすくめるのみだった。
「どういう意味ですか」
ちらりとサリュの感情を見て、
「さっき言っただろう。アルスタ家と足並みが揃っていないのは事実だ。それは何も、ニクラス様のことについてだけではない」
困惑の表情を浮かべるサリュを嘲弄する表情で、男は言った。
「アルスタ家がクライストフ家の味方であると、いったいいつ、誰がそう決めた?」