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用意された馬車に乗り込み、クリスはイニエとともに街へ向かった。
出発にあたり、周辺に散らばる間諜への工作は行われていない。イニエが堂々とアルスタ宅を訪れた以上、それが必要とされる場面ではなかった。そう言ったのは当の公爵家令嬢であった。
程なくして馬車は街の内縁部端にある一軒家まで到着し、戸を叩く。
「あら。アルスタ様。それに、――イニエ・ベラウスギ公女様……?」
扉を開けた人物がクリスの顔を見ておだやかに微笑み、その後ろに並ぶ令嬢の姿に目を見開いた。
「はじめまして。ミセリア様」
「は――、はじめまして。お会いできて、光栄ですわ」
先日のクリスの訪問には驚きながらも余裕があったが、街を治める公爵家の一人娘までがやってくることは想定外だったのだろう。目の前の異常な出来事に立ち尽くす女性に、クリスが言った。
「イニエ様がケッセルトのお見舞いにとおっしゃるのでご案内しました。ミセリア、お邪魔してもいいでしょうか」
「ええ。――どうぞ。ごめんなさい、びっくりしちゃって」
困惑した様子のまま招き入れる家主に一礼して、足を踏み入れる。
ミセリアの案内で奥に案内され、短い廊下を歩いた先の部屋で扉をひく。その中にいるケッセルト以外の人物の姿にクリスは眉を持ち上げた。
「――ああ、これはこれは」
柔らかい表情のコーネリルが目礼とともに微笑んだ。
「こんにちは、コーネリル様。コーネリル様もお見舞いでいらっしゃいますか?」
「つい先ほど。ということはアルスタ様とイニエ様も、お見舞いで」
「はい。私からクリスティナ様にお願いして伺わせていただきましたの」
「なるほど。同じ時間に顔をあわせるとは、偶然ですね」
白々しい台詞を聞き流しながら、クリスは黙って室内に入った。苦笑気味の表情を浮かべてベッドに横になった男を見ると、男は肩をすくめてみせる。
「ごめんなさい。椅子が足りなくて、今、客間から持ってきますね」
ミセリアが部屋から去る。ケッセルトが言った。
「自分で言い出したこととはいえ、外にも出られず退屈してたところではあるんだがな。こりゃまた面白い顔ぶれだ。このあいだあったばかりの面子じゃないか」
男の言った通り、居合わせたのはコーネリル邸で行われた宴席の途中、外で身体を涼ませる時間を共有した四人だった。それぞれ立場の違うお互いを確認するように視線を交わしあい、くすりとコーネリルが笑う。
「長旅でお疲れのカザロ男爵が、夜風にあてられたせいで体調を崩されたとしたら、その場にいた者が心配になるのも無理はありませんよ」
「ほう、あそこでそんなに肝を冷やす会話でもあったのかね」
「さあ。どうでしょうか」
ケッセルトの言葉をやんわりと受け流す。鞘当てのような会話に参加するつもりはクリスにはなく、黙ってミセリアが戻ってくるのを待った。
「カザロ様、お加減は如何ですか?」
「ご心配いただけて光栄です、ご令嬢。もう若くないとは思いたくないのですが、少し船の疲れが残っていたようで。あの水上に揺れる感覚というのは、あまり得意ではないのですよ。馬ならいくらでも乗っていられるのですがね」
「お船。私もあまり慣れませんわ。胸のあたりにもやもやと残る感じがして」
「ああ、船病ですな。あれはきつい。あれを平然としているだけで船乗りというのはたいしたものだ」
つらつらと見舞いの言葉と、それに付随する形で世間話が交わされる。決して礼儀一辺倒ではないが、それが本題ではないことはその場にいる全員が理解しているようにゆるやかな流れだった。
両脇に椅子を抱えた家主が戻り、すぐに茶の準備に戻る。盆の上に新しい二杯を持ってきて、ケッセルトとコーネリルの既にあるものも新しいものにとりかえた女性が申し訳なさそうに言った。
「本当に、ごめんなさい。この部屋にはろくな卓もないから、置き場所が不便になっちゃうけれど」
「とんでもありません。ありがとう、ミセリア」
クリスはケッセルトへ視線を向ける。
「必要なら部屋を移ればすむことだ。そうだろう、ケッセルト」
「おいおい、俺は病人だぜ」
頭の後ろで手を組んだ男が平然として言った。
「それに、内緒話をするならこっちの方がいい。寝室で交わされる密談ってのは夜だけに限ったわけじゃないさ」
クリスが顔をしかめたのは男の台詞に下世話な意味を感じ取ったからだが、別のこともある。
「あ。……それじゃ、あたしはこれで失礼しますわね。どうぞごゆっくり」
慌てた様子でミセリアが言い、その場を去った。
「男爵もお人が悪い」
相手の心情を思いやったかのようにため息を吐くコーネリルに、ケッセルトが鼻を鳴らした。
「ミセリアがフリュグトに飼われていることを知らないわけじゃないだろう。向こうだってそうだ。わかりきったことをわざわざ迂遠にやるのは嫌いでね。こう見えても俺は効率って言葉が大好きなんだ」
「無駄を省く、という意味では商人として納得も出来ますが。いえ、やはり違いますね。商人であれば、必要でさえあればいくらでも迂遠なことでもやってのけますから」
「そういう生き方だって否定はせんよ。威を払うことが必要な生き方だってあるだろう。個人の問題さ」
そこでケッセルトが令嬢を見たのは、威を払い、時に無駄と思える装飾をもって飾ることを務めともする貴族という在り方への皮肉のようだったが、年若い令嬢はまったく気分を害した様子を見せなかった。
「人には人の、場所には場所の有り方というものがございますものね」
にやりと男が笑った。
「ならばここは俺の流儀でいかせていただこう。なにせこの数日、他にも客なら大勢来たんだがね。皆、追従に疑念に懐柔と、そんなことに必死なばかりでちっとも楽しくなかった。これで相手が妙齢の女性というなら会話だけでも心が弾むってもんだが」
軽口に付き合う者はない。ふん、と再びケッセルトが鼻を鳴らした。
「この場のやり方に納得してもらえたなら、さっそく始めてくれてかまわんよ。さ、いったいどんな話で俺を喜ばせてくれるんだ?」
傲慢ともとれる物言いを受けて、その場に沈黙が下りる。
クリスが真っ先に口を開きづらかったのは、他の三人の立ち位置について把握しきれていなかったからだった。ケッセルト、コーネリル、イニエ。それぞれと少なからず言葉を交わしてきたが、交わされた内容のどこまでがその四人の共通した認識であるかわからないうちは下手なことを話すこともできない。
あるいは他の二人も同じ思いでいるのだろうかと彼女は考えたが、
「――私は」
牽制の気配の中で、最初に口火を切ったのはイニエ公女だった。
「私は父ルートヴィヒ・ベラウスギの意を受けてここにおります。クリスティナ様にお話したいことがあり、それについてカザロ様にもお聞きいただくようにと父からあったからです」
「となれば、コーネリル男爵はいささか間が悪かったかな」
「問題ございません」
令嬢が首を振った。
「そのことについてはコーネリル様も既にご存知のことでいらっしゃいます。いえ、コーネリル様もお知りのことも含まれるという方が正しいでしょうか」
「ほう。つまり、評議会の」
はい、と見目麗しい令嬢が頷くのに、面白そうにケッセルトが顎を撫でる。
「となると前の遊技場ではまだ聞いていない話ということになる。なるほど、それはちょっとばかし興味深い」
男の意味ありげな視線に気づいて、クリスは仏頂面でそれを無視した。
「クリスティナ様。お訊ねの件について、この場でお話させていただいてもかまいませんか?」
クリスは無言で顎をひいて応えた。
既にその一端について彼女に漏らしていたコーネリルはともかく、ケッセルトまで含めた上で話を進めようとする狙いは不明だったが、それがイニエの、というよりはむしろその後ろにいる公爵直々の条件だというなら、否応はない。
「……これは、トマスに流れる水についてのお話ですわ。いえ、トマスというよりは、ツヴァイ。その帝国全土に関わることになるでしょう」
ゆっくりとした口調で令嬢は始めた。
「ご先祖様が拓いたトマス。そしてそこから伸びる河川水路。これが今あるツヴァイの繁栄の大元となっていることは自国ならず水陸中のどの国も知るところです。水上の運搬。人と物の流れ、その安全な移動。まさにツヴァイの骨格にして血流。それが全てここトマスを介して行われ、そのことがトマスに水陸一の富みを栄えさせることになりました」
ツヴァイの、トマスの成り立ちを年少者に講義するように、同時に自分自身にも語り駆けるように続ける。
「それは富の集積と拡散です。私には、経済という大きなものについて詳しくありませんが、幼いころから過ごし、また近頃は帝都ヴァルガードに出て外側から知ることで、一つだけわかりました。それはつまり、無限の富などありえない、ということ」
耳を傾ける三人に視線を送り、憂いのある眼差しで問う。
「そうですよね、コーネリル様。誰も彼もが富めるわけではない。ここトマスでは成功すれば巨万を得て、失敗すれば全てを失う。決して楽園ではありません」
「……はい。そのとおりだと思います」
「そして一度富を得たものが、さらに富を得るためにはさらに走らなければならない。それも、それよりももっと速く。もっと大きく商売をしなければならなくなる。……商人とは業の深いもの。水天教の方々から非難されるのも、そうした生き方にこそあるのでしょう」
人の身に刻まれた業を嘆くように令嬢は言った。
その恩恵を生まれながらに受けておきながら、業の深さを嘆くばかりでは失笑に終わるが、その幼い容貌にはあるのは悲嘆にくれてそのままですませる儚さではなかった。
「ですが、それが持ち合わせた業であるというのなら、その業とともに生きるのが商人というもの。無限ではないのなら、せめて無限に近しい有限を求める。今ある状況でこれ以上が稼げないのなら、もっと大きな状況を求めるのが商人です。だからこそ、トマスには新しい水路が必要なのです」
話が別の話題に繋がったことで、ようやくクリスは合点がいった。
前置きにしては長いイニエの口上は、つまりこれまでの話題を総括して話をしているのだ。そのことはもう一つの事実も兼ねている。それはつまり、ベラウスギ公爵が交わされてきた全ての事実を把握しているということにも成り得る。
「二百年の前にトマスとヴァルガードを繋ぐ一本の河川ができて以降、今では四本の河川水路がこの水陸には流れています。それぞれ基水源ではと目されるほどの豊富な水量を用いて、場所を繋ぐ。それがツヴァイを発展させ、同時にそれによって方向性も定まったのでしょう。骨格にして血流。つまりそれがなければツヴァイは成り立たないほどに」
「……そしてそれもやはり無限ではありえません。経済は常に前よりも大きく張ることが必要です。当然としてそこには歪みが発生し、摩擦も生じます。立ち行かなくなった需要と供給の調整を中で対処できないのなら、外に求めることもあるでしょう」
「需要を生むために他国に小競り合いをしかける。戦争需要。戦場で流れるのは人の血だけではない。食料、医薬品、武具、糧秣。まあ、よく知られた話ではある」
ケッセルトの言葉に揶揄する響きはなかったが、イニエは沈鬱に顔色を落として、
「噂としてあるそれらは、全てではないにせよ、事実も含まれているのでしょう。先日、お父様から直接お話を聞かされてそう思いました。トマスの膨れ上がった経済は、そうでもしなければバランスがとれないほどのところに来ているのだと。……だからこそなのです」
だからこその、河川水路。
「トマス、そしてツヴァイには水路が必要なのです。長く走り続けてきたトマスの経済は、既に新しい水路がなければもはや現状維持すらも困難な状況にまでなっています。もちろん、河川はどこにでもひけるというわけではありません。水場、砂海、航路。多くの条件があってはじめて線引ける機会は、僥倖としか申せません」
そこで一旦、令嬢の話が落ち着いたことを悟り、クリスは感想を述べる気分で告げた。
「お話はよくわかります。私は軍人です。戦場で流れる兵達の血については意見もありますが、トマスと水路がツヴァイにとって必要なものだということはわかります。必要とされる需要が新しい水路の建築で見込まれるというなら、反対する理由はありません。ですが」
そこで言葉を切る。彼女が聞きたいのはそんなことではなかった。
省略された台詞を汲むように令嬢は頷き、表情をいっそう真剣なものへと変えた。そこから続けられた内容こそが本題であった。
「トマス、そしてツヴァイの在り方を深くお考えなのはなにもトマスの商人ばかりではありません。その解決方法についてももちろん、様々にお考えでしょう。立場、境遇。そして信条。流通の基幹となって膨れ上がったトマスという存在はあまりに危険です。そのことはトマスにいる誰もが自覚するところですが、もっと深刻に心配されている方もいらっしゃいます。――例えばそれは帝都ヴァルガードにいらっしゃる、水陸でも有数の見識の高さで知られるお方のように」
眉根を寄せるクリスに令嬢が告げる。
「ナイル・クライストフ様。クリスティナ様のよく知られるお方の、お父上でいらっしゃいます」
夜が明けぬうちにウディアの集落を出たサリュとシオマは、日が高くなるまでに目的地の周辺に辿り着いていた。
平らに敷かれた砂海を無言で歩き続けるうち、徐々に風景に変化が現れる。それはぽつぽつと浮き出るような岩や石を見かけることから始まった。
砂海でそうしたものを見るということは、地下で行われている変動が激しいということの証明といえる。その頃には視界の先にはただ薙いだ砂面ではなく、ごつごつと盛り上がった地形が確認できていた。
「この先ですか?」
「……はい。あの、ちょうど山のような。あそこが――ンジ、です」
ウディア族の聖地。聖なる土地、というのはサリュにとってあまり理解できる概念ではなかったが、とにもかくにも大事な場所なのだろうと深く考えなかった。そういえば、ユルヴは部族はそうした場所をもたないと言っていた。他にもなにか。――おおいなるものがいる。
自分に名前をつけて育ててくれた老婆も昔、同じようなことを言っていたことを思い出しながら、サリュは歩いた。
しばらくして、視界のほとんどを岩と礫が覆うようになった頃に彼女達は足を止めた。
「――ここで休みましょう」
頭上では既に日が中天にさしかかろうとしている。
陽射しの強い時間帯の活動は避けるべきだった。特に今はこぶつき馬も連れておらず、携帯している水にも限りがある。周囲には人の高さの倍もある岩が立ち並び、やりすごす為の影を見つけることは容易だった。
「クアル」
呼びかけて、砂虎の腹を撫でる。くぁうと鳴いたクアルが音もなく彼女の元から駆け去った。
「なにを……?」
「今のうちに様子を見てきてもらいます。話し合いだけですむかどうか、わかりませんから」
そうですか、と呟くシオマにサリュは囁くように告げる。
「着いた後、どうするかは。シオマさんにお任せします」
ウディア族の神子が気弱そうな表情をしかめさせた。
「……わかって、ます」
神子という役柄を務める自分自身に疑問を抱いた彼女が、どうすればその悩みを解決できるのか。ンジにこもっている人々と話をすることでそれが何かのきっかけになるのか、サリュにはわからなかった。
彼女の弱さが今の事態を作り、部族の人々を争いに導いたとしたら。それを神託だと誤り、砂の声だと誤解したのなら――いったい、正しい声とはなんなのか。
自分が解釈するものなら、それを決めるのも自分自身ということになる。つまりシオマがどう決断を出すかどうか。あるいはそれが部族と西から来た一行の争いを決定付けることになるかもしれないし、平和的な解決を模索できるかもしれない。
普通に考えれば、後者の道はひどく困難としか思えなかった。ウディア族にも、西から来た一団にも既に死者が出てしまっている。どちらが良い悪いではない主観的な感情は容易く人を争いに向けさせるだろう。
目の前にいる儚げな女性に、それらを円満に収めるような手腕はとても期待できそうにない。それでも、と内心でサリュは呟く。それが彼女の意思で、それを手助けようと自分が思ったのだから。
善意からでた行為などではなかった。サリュはただ自分を知るために、自分と似た悩みを持つ部族の神子の結末を見届けたいと思っていた。
不意に影が差した。
思考から意識を戻し、鳥でも空を横切ったかと見上げかけた瞬間、サリュはわずかに耳に届いた砂利を踏む音に総毛立てて声を発していた。
「動かないでっ」
腰の短剣を抜き払い、音の先へ向かう。回り込もうとして、その彼女の背後から殺気が襲った。
「ッ――!」
短剣を振るう。手応えは生まれず、自分がまんまと相手の誘いにかかったことにサリュは気づいた。
声もなく現れた人物が手にした得物を繰り出す。刃渡りの長さだけを確認して、とにもかくにも急所を守ろうとするその手を狙われた。
「……っぁ」
手の甲に鋭い痛み。はじめから武器を狙っていた一撃を避けようとして叶わず、鮮血が舞った。
「――動くな」
サリュに短剣を突きつけた男が言った。
男は冷ややかな声と、それに劣らぬほどに怜悧な眼差しを持っていた。喉首に刃物を突きつけられ、サリュは目線だけを動かして自分の右手を確認した。
もう少し反応が遅れれば指を切断されていたところだが、傷は決して深くはない。だが浅くもなかった。落とした短剣を拾っても、思い切り握りこむこともできないだろう。奇襲され、利き腕を傷つけられた以上、戦闘能力は半減したといってもいい。
「何者だ。部族の者か?」
サリュはあえて目線を伏せたまま、相手の気配を探った。
目はあわせられない。戦闘の教育を受けた相手からは怒られかねないが、異相の瞳を見られれば警戒されてしまいかねなかった。それに、こうすることでこちらを素人だと相手が考えてくれれば――
「……そこにいる女。お前は確か、ウディアの――?」
声に小さな驚きの感情が乗った。それと同時、目の前に突き出された刃先がわずかにぶれたことを確認して、サリュは動いた。
左手で腰元のもう一本を引き抜き、そのまま相手に突き出す。利き腕ではない為に足りない筋力は傷む右手を添えることで補った。
「ちっ」
舌打ちと共に相手が受け、払った。武器を落とし返そうとしたサリュの一撃は失敗に終わり、男は一歩をひいて距離をあける。
――不味い。サリュは内心で焦っていた。
利き手がやられた以上、普通に戦っても不利なのはこちらだ。相手の技量も決して低くなかった。少なくとも自分と同等かそれ以上。隠し持っていた二本目での奇襲が失敗に終わった時点で勝ち目は薄い。
指笛でクアルを呼ぶことができればこの場の勝利は揺るがないが、近くに男の仲間がいないとも限らなかった。遠くへ向かったクアルが戻ってくるまでには時間もかかるし、それを相手が待ってくれるわけでもないだろう。なんとか隙をついて吹くことができても、むしろその行為が相手を焦られ、短期決戦に持ち込まれればそれで詰みになる。
対峙しながら、何かこの場を切り抜ける策はないかと頭を働かせるサリュは、相手の表情に気づいて眉をひそめた。
感情を凍らせたような冷ややかなつくりの表情が、静かな動揺を瞳に浮かべて彼女を見ていた。その目線は正確には彼女ではなく、彼女の手元に向けられている。
「……その剣は、アルスタの。どういうことだ」
困惑した様子を見せる相手に、油断しないままサリュは柄の持つ手を握りこんだ。この剣の出自を知っている。つまり、相手は貴族。
知人の名前を出せば切り抜けられるだろうかという考えが浮かぶが、そのことで相手に迷惑をかける可能性も同時に思いついて、判断できないでいる彼女に男が告げた。
「話がしたい。お前がもしアルスタ家に縁ある者なら、剣をひけ」
「……そちらから教えてください。どうしてこの剣を知っているかわからなければ、ひくことはできません」
慎重に応えるサリュの眼差しに気づいたらしく、男が片方の眉を持ち上げて、ああ、と納得した息を吐いた。
手に持った短剣をおろし、答える。
「――俺はヨウ。クライストフ家に仕える者だ」
言葉が意味するものを一瞬理解できず、サリュは驚きとともに手にした剣を落としかけた。
クライストフ。――ニクラス・クライストフ。
それはまさしく、彼女の探し求める人物の姓名に他ならないからだった。