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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 誰何の幻想
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 アルスタ邸を出た使者は、一刻程で屋敷に戻った。

 男の携えた手紙を受け取ったクリスの眉が寄った。裏を見ると、当然あるだろうと思われた署名とは異なる文字が躍っている。意匠の凝った華押にも見覚えこそあるが、やはり細かなところには違いがみてとれた。


 イニエ・ベラウスギ。筆をとった人物の人柄をあらわすように繊細な書体で、右下にひっそりと差名がある。使者に立った執事の顔を見ると、男は主観的な判断をそぎ落とした表情で答えた。

「公爵様のお屋敷を辞そうとしたところでご本人様よりお預かりいたしました。私が着いてから、さほどの時間はなかったはずですが」

 文字の端をこするとわずかに字がにじむ。あらかじめ用意されておいたものではないことを確認して、クリスは封を開けた。


 文面そのものは短かった。先日の夜会の御礼が述べられた後、控えめに本題が続いている。――先日のお茶を頂きに、近く遊びに伺わせて頂いてもよろしいでしょうか。

 手紙そのものに不自然さはない。夜会で知り合った相手や世話になった人物に手紙を送ることは、人脈を広げるという貴族の基本的な生態に沿っているし、それを届ける手間を省くために相手方の使いに託すということも、間が良かったという偶然ですむ。


 クリスは自分に長く仕える執事に訊ねた。

「こちらからの案件について、何かあったか」

「特には伺っておりません」

 クリスは薄く笑う。

「わかった。ご苦労だった、仕事に戻ってくれ。それから誰か使いの用意を頼む。もう一度、公爵家に出向いてもらう」

「私が参りましょうか」

 男が言った。クリスは首を振った。

「お前には他に頼むことがある。茶の準備を整えておくよう、家の者に伝えておけ。アソカット家から届いたばかりの茶葉があっただろう。あれがいい」


 クリスは自室に戻り、筆を走らせて返答をしたためるとすぐに使いを出した。

 公爵家紋を彫った馬車が公爵邸から出たのは、その手紙が届けられてほんの半刻もしない間のことだった。薄い硝子窓から顔を覗かせる人物は、まだ十代半ばの若さに見える深窓の令嬢である。



「突然のご訪問をお許し頂いて、本当にありがとうございます」

 アルスタ邸に降りたベラウスギ公爵の令嬢は、客間を訪れたクリスの顔を見て心から申し訳なさそうな表情だった。

「とんでもない。こちらこそ、急なお誘いをしてしまって心苦しくしていたところでした。せっかくの茶葉ですので少しでも風味があるうちにと思いまして」

「嬉しいです。お茶の香りに誘われてしまったようではしたないようですけれど、笑わないでやってくださいね」

 恥ずかしげに頬を染める相手に、クリスは口元を緩めて席を勧める。


「もう少し日が柔い時間なら、外でお茶というのもよかったですね。葉茶の香りが花のそれとまざるのも好きです」

「本当に素敵ですね。クリスティナ様の愛でられるお花というのも、とても興味がありますわ」

 植物の世話は、高貴な人々の間でされる贅沢としては特に一般的な種類のものだった。アルスタ邸にも主人好みに整えられた菜壇はある。

「そこまで大したものではないですが、――それはまた、いずれの機会に」

「はい。またの折に」

 自分の作る表情の意味を理解している態度は、女としてではなく高貴な家に生まれた者としてのものだった。十代半ばで既に社交を知り尽くしている。それは上級貴族としてむしろ当然のことかもしれないが、少なくとも同じ歳の頃のクリス自身はそうではなかった。相手を年少と見て油断してかかるつもりは微塵もなかった。


 とりとめのない会話をしているうちに、アルスタ家の侍女が茶の用意をして現れる。丁寧に淹れられた葉茶の香りに、陶器の器を持ち上げたイニエがうっとりと目を細めた。

「――よい香り」

 音をたてるような無作法をするはずもなく、完璧な所作で一口を終えると、体内に落ちた雫の全てを味わうようにしばらく瞳を閉じる。

「とっても美味しいです。ハビア……とは少し違いますね。北国のお茶葉なのでしょうか」

「はい。同じ地方出の友人が送ってきてくれました。最近できたばかりの品種で、その者の領地で栽培され始めているものらしいです。寒さに強いとか」


「そのお方というのは、もしかして、アソカット家のブライ様でいらっしゃいますか?」

「そうです。ご存知でしたか?」

「ブライ様でしたら、今でも時々に大学の社交歓宴会へお顔をお出しになられますので……」

 答えた令嬢が控えめな表現にすませたことに、クリスは思わず浮かべかけた苦笑を手の碗で隠した。

「今でもやはり、変わってはいませんか」

 クリスの態度に気づいたイニエも、慎ましく笑う。

「そうですね。とてもお話が面白くて。子女の方々には特に人気がおありです」


 クリスが帝都の大学に在籍していた頃、学生達の社交場で様々に浮き名を流していたのがその男だった。決して人として悪い男ではなく、クリスの知己でもある。今でも親交が続いている数少ない一人だった。

「実は、わたくしが知るクリスティナ様のご活躍というのも、夜会の折にブライ様からお聞きしたのがほとんどなのです」

「ああ、なるほど。あいつめ、さぞ好き勝手に言っていることでしょう」

 クリスが苦々しく言うと、とりなすようにイニエが微笑む。

「皆様のご活躍をお話しするブライ様は、本当に楽しげで。わたくし達は皆、いつも胸をわくわくさせて続きを聞きせがんでおりますわ」

 自分の過去話を肴に貴婦人達の興味を惹くというのは、決して気持ちがいいものではない。それでもクリスが友人を責める気になれなかったのは、やはり彼女自身その頃を懐かしく思う気持ちが強いからだった。


 黄金時代。神話にいう、人が罪に塗れる前にあったとされる輝かしき時代の意味から転じて、物事の全盛期、絶頂期を指すようになった言葉が脳裏に浮かび、クリスの口元の苦味が増す。

 過ぎさった過去に心がいってしまうのは、懐古と追慕に囚われているからだ。それが決してよいものではないことは、重々わかっているつもりだったが。


 吐息をはく。

 琥珀色の水面に自らの顔を映しこみ、ふとクリスが顔をあげると公爵令嬢がじっと確かめるように彼女を見つめていた。その表情がこちらからの行動を待っているものだと知れて、クリスはもう一度紅茶の表面に揺れる自分の姿を見つめた後、口を開いた。

「……あの頃のことは、今でも昨日のことのように鮮明に思い出すことができます。同時に、だからこそ、とても遠いことのようにも思います」

「ヴァルガードと……トマスは。遠いですね」

 令嬢のささやかな相槌に微笑を浮かべる。

「昔は、そんなものは一足飛びで駆け抜けられると。どれだけ相手が距離を離そうとしても、こちらからかまわず踏み込んでいってやる。それで思い切り、相手の嫌がる顔を見て、勝ち誇ってやると。そんな風にも思っていたのですが」

「今では、違われるのですか?」

 慎重な質問に答えを返さず、クリスは顔を上げた。 


 突然の訪問をした公爵令嬢が真摯といってよい表情で静かな眼差しを向けている。世間話から半歩踏み外した彼女の態度が、果たしてどういった心理によるものか考えて、自分もまた既にそこからはみだしてしまっているだろうということを自覚して笑う。

「どうでしょうか」

 会話の駆け引きなどではなく、本心から彼女は言った。

「よくわからないのです。もしあいつが目の前に現れたら、どうすればいいのか。とっくにそんなことは決めてあったはずなんですが。もう何年も前に」

 比喩であった単語を一人の人物に置き換えて、当然のように話を進める。それを聞く相手も戸惑う様子はなく、じっとした様子で耳を傾けていた。

「――いえ、本当はどうすればいいのかはわかっています。私はアルスタの者です。そう在れ、と幼い頃から教えられてきたとおりに行動するでしょう。あいつからも言われました。それでこそ私だ、と」


「あの方のお噂は……帝都でも、あまり表にするようなことではありませんが、宰相様もああしたお人ですし、やはり大学でもいまだにお話にのぼることはあります」

 イニエが言葉を継いだ。

「私はその方と直接、お会いしたことはありません。耳にはさむ噂と、ブライ様からお聞きするお話が全て。いったいどのような方だろうと不思議に思っておりました。それから昨年のことがあって、その思いはもっと強くなりました」

 トマスで起きた騒動。魔女狩りという妄念が街を焼き、何百人が死に、何十人かが行方がわからないまま終わった。彼女の知己がそれだった。そして目の前の少女の母親は、騒動の責を負うように街から遠ざけられた。

「恨んでいらっしゃいますか」

 クリスが訊ねた。十と半ばの令嬢は笑った。

「わたくしは貴族の女です、クリスティナ様。弟を失った母の苦しみは痛いほどわかりますが、それで母のしたことが許されるわけではありません。わたくしが思うのは、どうしてもっと側にいてあげられなかったのかということ――今はただ、少しでもはやく母の心が癒えてくれることを願うばかりです」


 そうですか、と息を吐いて、クリスは手に持った碗を置いた。

「イニエ様。では、ベラウスギ公爵からのお言伝をお聞かせくださいますか」

「はい。クリスティナ様」

 令嬢が微笑む。

「父からは二つ承っております。昨年のこと、これからのこと。どちらもクリスティナ様のお知りになりたいことと関わりのあるものです。ですが、その前にもう一つ」

 情報があると明かした上で、そこに話を進める為の条件を持ち出す。相手からの要求に身構えるクリスに、イニエは柔らかい表情のままで続けた。

「先日の夜会から、カザロ様が体調を崩されているらしいとお聞きしました。父からは、カザロ様のお見舞いにいってくるようにとも言われております。よろしければ、わたくしをご滞在先までお連れいただけませんでしょうか?」


 まるで予想になかった発言に、クリスは眉を持ち上げた。怪訝な思いを確かめるように訊ねる。

「それは、今すぐにというご要望でしょうか」

 令嬢はまっすぐに頷いた。

「クリスティナ様さえよろしければ。すぐに、是非に」

 話をする前。あるいはその場でこそ話を開きたいという意図は、ケッセルトを巻き込みたいということ以外には考えられない。水路のことならともかく、ニクラスの話題にケッセルトを必要とするのは、ただ男が大学時代を知る人物だからなのか、それとも。

 ケッセルトがトマスに現れた際の台詞を思い出した。次いで、昨夜にコーネリルから囁かれた言葉も脳裏に蘇り、クリスは息は吐いた。

 やはり、ニクラスはどこまでもニクラスだと呆れるような気分だった。いなくなった後までも、のうのうと面倒の中心に顔を出す。本当に迷惑な男だ。


 だが同時に、彼女の心は沸き立つような喜びにも打ち震えている。ケッセルトの述懐はともかく、昨日のコーネリルと公爵の伝言を携えた令嬢の反応を顧みれば、もはや一つの事実が燦々として彼女の頭上には輝いている。


 サリュのことを思う。今この場に少女がいないことをひどく残念に思った。

 今どこにいるのか。トマスに向かってきているのか。あいつに会えているのならいい。もしまだ男を求めて砂海を彷徨っているのだとしたら、すぐに帰って来い、と心の中で呼びかけて、クリスは席を立った。

「わかりました。すぐに馬車を用意させますので、しばらくお待ちください」

 部屋の外に控える家の者を呼び、用意を急がせながら、鼓動が高く律動するのを抑えられない。

 改めてその実感を噛み締めるように、彼女は胸中に囁いた。 


 サリュ。ニクラスは、生きているぞ―― 



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