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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 砂上の幻聴
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「お前はここを離れろ」

 強制するわけではなくとも、向けられた口調には強い響きがあった。隣に立つ人物に視線を巡らせると、小柄なサリュよりさらに背丈のない少女が彼女を見つめている。

「わたしも集落に戻る。父様はもう少し外に出しておきたいところだろうが――今となってはな。ウディアがどうあれ、戦火は必ずやってくる。河川沿いもすぐに物騒になるだろう。ワームにいるという男に、はやく会っておいたほうがいい」


 返事をせず、サリュはすぐに目の前に広がる砂の海へ戻した。大海は一見して落ち着いており、そこから響く声も今はなかった。

「聞いているか、サリュ」

「聞いてるわ」

 今も砂海のどこかで躍動しているクアルの姿を探すか、黄土色の果て、その先の河川にある町の姿を見通すように遠くを眺めながら、ぼそりと呟く。

「ユルヴは。いつも迷わないのね」


「なに?」

「なんでもない」

 ユルヴが顔をしかめた。

「……連中に言われたことを気にしているのかもしらんが、やるべきことを取り違えるな。お前には自分の目的があるだろう」

 それはそうだ。相手の忠告に頷いたサリュは、でも、と口の中で言葉を弾いた。

「気になるの」

「なにがだ」

「シオマさんのこと。それに、東の水場のこと。知っている人達が関わっているのかもしれないから」

「探し人より優先してか?」

「……そういうわけじゃ」

 反射的に答えて、それに続く台詞が浮かばなかった。


 細めた目で探るように見ていたユルヴが息を吐いた。

「なるほど。確かに惑っている」

 言葉に実感を込め、嘆息とともに彼女は言った。

「あの女と同じだな」

 サリュは問いかける視線を向けたが、ユルヴは吐いた台詞の意味を説明するつもりはないと背を向け、天幕の並ぶ集落へ戻っていった。怒った気配の背中から声がかかる。

「好きにしろ。明日には戦に立つ集落で何を探そうと、お前の勝手だ」


 しばらくその後ろ姿を送ってから、サリュは再び砂海と向き合う。

 目に見えない穏やかさで流れる砂を送り、ふとした懐かしさを思い出した。

 旅をしていれば、日の強い時間帯に影から砂を見て時を過ごすこともある。肌に触れた感傷は近しい時のものではなく、側に誰もおらず、日がな一日を過ごしていた記憶は彼女がずっと幼い頃のそれだった。

 崖に囲まれた小さな集落で疎まれながら過ごしていた幼少時代。彼と出会い、別れ、他にも幾つかの出会いと別れを経るなかで砂を見送ることなど何度もあったことなのに、何故今この時に思い出すものが幼少の頃なのか、自分でも不思議に思った。

 あの頃は、待っているだけだった。そうして失ったものがある。今の自分はその時とは違うはずだと思い、いったい何が違うのかという疑念が生じて、考えたが答えは見つからなかった。


 思考を遮断しようとして、逃げるなよ、と見知った商人が脳裏で諌めるのを振り払うために空を見上げる。

 蒼穹に彼女の心を落ち着かせてくれる標は見出せず、そこには白く乾いた陽射しが輝いていた。



 昼を越えた辺りから、集落では祭りの準備が始まりだした。

 一軒の天幕を崩し、その材木を中央の広場に組んでいく。それぞれの幕の前で地に突きたてられた槍や弓には布が巻かれ、窯からは勢いよく煙が立ち昇った。男達はさきほど武器を手入れしていた時の真剣さとまったく変わらない表情で祭りに捧げるための家畜を捌きにかかり、午前までは仕事をしながら軽やかに談笑していた女達からも笑みが消え、石臼をひいて煎じながら何事かを念じるように力を込めている。


 戦を前にした祭りの気配は、すでに戦そのものの様相だった。子ども達も大人達の異様な雰囲気を察してのものか、腕白な嬌声は鳴りを潜めている。黙々と準備がなされる集落に時折、家畜の鳴き声が響いた。


 組み上げた木材をさらに積み上げ、男達が鐘楼のように聳え立たせる頃には地平に日が翳ろうとしていた。


 細部に違いはあるが、どこの部族でも似たような手順をたどる祭事の準備の中を、ユルヴは厳しい面持ちで歩いていた。彼女はここから東に数日戻った周辺で遊牧している自分の集落に向けて、早馬を飛ばすよう手配を終えてきたばかりだった。

 彼女自身が馬に跨らず集落に留まっている理由は、浮かべている表情の理由でもあった。サリュがまだここに残っている。勝手にしろと言った手前、それをどうこう言うつもりはないが、不可解な気分ではあった。


 いったい何を考えている、と胸中に吐きながら、天幕に向かう。与えられた幕の入り口に垂れ下がった掛け布を持ち上げ、彼女はさらに顔を不機嫌なものに変化させた。

「おかえりなさい」

 抱えた竪琴の弦を爪弾いていたラディが穏やかに微笑んだ。中にいようが、集落全体の緊迫した空気までが全く感じ取れないはずがない。自身の命の行方に震えず、平然としている態度は異様だった。


「――サリュは戻っていないか」

「先ほどまでいらっしゃいましたが、少し前に出ていかれました。荷物を触っていたようですが」

 隅にまとめられた荷はいつでも出立できるようにまとめられていたが、ユルヴの記憶ではサリュが自分の荷を開いていた覚えがなかった。

「何か持って出たか?」

「布に包まれたものを。さほど大きなものではありませんでした」

 それは恐らくサリュが毎晩、時間を見つけては目を通しているものだろうと思われた。彼女が探している人物の持ち物だといっていた本。まさかこんな状況で外に読書でもないだろうが、と踵を返しかけたところへラディが告げた。

「サリュさん、何か悩まれているようですね」

 ユルヴは冷ややかな表情で見返した。鼻を鳴らす。

「自分の心配をしていろ」

 苦笑する男を残して外に出る。


 サリュが向かいそうな先で思いつくところは一つだった。奥の大幕の前には誰も立っていない。中を覗くと、籠もった暗がりに二人の人物がいた。

 老婆が何事かを囁いている。その前に膝を抱えたサリュは、じっと身動きせずにそれに耳を傾けているらしくあった。

 部族の多くには文字という習慣が浸透していない。故に伝歌や物語はほとんどが口伝の手法をとる。神子とはそうした役目でもあり、ユルヴ自身、幼い頃にはそうして幾つもの説話や教訓を覚えてきていた。無言で二人の側に腰を下ろすと、気づいたサリュがちらりと彼女を見た。ユルヴは床に古びた書物が開かれてあることに気づいた。


 老婆は皺の重い瞼を持ち上げないまま、吟じるように呟き続けている。地を這うしゃがれ声が囁いているのは、ユルヴも知るものについての詞だった。

「空に吹くもの。ようようしく在って見えず。地にあるもの。奥底で呑み敷いて止まらず。水にあるもの。物事を占して定まらず……」

 それに名前はない。部族の民が大いなるものと呼ぶ不可視の存在について言葉が続き、果てがなく思える程に流れてから不意に止まる。

 濁った瞳を開けた老婆が哂い、顔中の皺が歪んだ。

「いくら聞いても望む答えはなかろうが。砂子よ」

 サリュは黙っている。その表情は暗がりに隠れて読みづらかった。

「同じようなことを。育ててくれた人が言っていたのを聞いたことがあります。……私は、部族の生まれなんでしょうか」

「我らを知る者でなければ、サリュなどと。その名は知らんよな」

 頷いて、老婆は哀れむようにゆっくりと頭をふった。

「だとしても。世は全て留まらぬ。埋もれ、消え逝くのみが必定なれば、後ろを振り返ってなんとする。見てみい。延々と砂が広がるのみであろうよ」


「――私は」

 言いかけたサリュが言葉を切る。眼差しが揺れ、隣に座るユルヴを見て、その不可思議な瞳に苦悩が含まれていることに気づきながら、ユルヴはあえて沈黙していた。友人の心情を察して手を差し伸べないのは、サリュが自身、何に溺れているのかということに気づいていないように思えたからだった。

「私は」

 取り残された子のような様子が痛ましく、やがてサリュが黙したまま老婆に頭をさげた。

「ありがとうございました」

 立ち上がり、何かをこらえるように言って天幕を出るサリュの後ろ背を、ユルヴは黙って見送った。



 幕を出たサリュは集落から離れて物思いに沈んだ。

 時を忘れて放心し、砂を踏む音に空へ散った意識を戻すと、背後に人影があった。サリュの近くに立ったシオマは無言で、表情は何かを憂うように眉を寄せている。どちらとも口を開かないまま、仕方なくサリュから呼びかけた。

「何か」

 女性は答えなかった。開きかけた口から吐息だけが漏れていた。サリュは顔をしかめ、大きく息を吐いた。


「私に何かしろと? 名の通り、今すぐここに死の砂を呼んでみせろとでも?」

「違います。……私は、」

 言葉が途切れた。続きを待ちながら、ユルヴがいれば癇癪を起こしていただろうと思いつき、その彼女が目の前の女性と自分と同じだと言ったことを次に思い出した。――惑っている。

「貴女は、何に迷っているんですか?」

 サリュは目の前の女性に訊ねたが、返事はやはりなかった。


 部族の人々にとって標となる役柄にある女性は、風が吹けば飛びそうな儚さだった。口ごもる様子を見て、サリュがはじめて苛立ちに近い感情を覚えたのは先ほどユルヴから受けた指摘のせいだった。似ていると、そう言われた理由がわからない。違う。違うはずだと半ば自分に言い聞かせるように、反発してしまう感情の出所さえ曖昧で、噛み締めるように口を開いた。

「貴女が思うようなことは。きっと私にはできません。私は自分がサリュと呼ばれる理由も知りません。生まれたときからそうでした。生まれた時から、瞳はこうでした。育ててくれた人は何も教えてくれませんでした。私はただ、声が聞こえるだけです」

「――声」

 わずかにシオマの睫毛が震えた。


 凪いだ場で無音の声を聞くよう、両者は見つめあった。そっと視線を外したシオマが囁いた。

「……私も。私も、そうです」

 声が、と彼女は言った。サリュは黙って先を促した。

「土巫子という柄は、それが役目です、から。地に拝み、来るものと行く先を知る。巫子は集落の人々に伝え、集落は此れの旅路を定める。私達は、ずっとそうやって流れてきて。だから、神子は……恐れてはならない」

 語尾が震えている。砂漠の日中に在って寒さに凍えるように、巫子役の女性は続けた。

「疑うな。迷うな。神子が惑えば集落が彷徨う。幼いころからずっと、そう教えられてきました。けど、」

 唇を噛む。薄い口唇に潰されたものが、未来への恐怖ではなく過去にあることを感じ取って、サリュは一層注意深く相手を見つめた。

 持ち上げられた視線は集落の外れを向いている。そこにあるものを察して、訊ねた。

「死なせてしまったことを、悔いているのですか」


 サリュの問いかけに、干からびた死者から発せられた声であるような表情で仰ぎ見て、シオマは激しく首を振る。

「いいえ――いいえ。あの男の人も、あの人達に殺されてしまったイギリも。変わらない。同じです。これから死ぬ人達も。全部聞いてしまった。赤い夢、いったいあれは――」

 声から何かが抜け落ちた。

 サリュは自分を見つめる相手の瞳に不可解なものを感じた。水気のある瞳孔が、同時に乾いているような印象があった。矛盾して成立しているのはそればかりではない。眼差しは彼女を透過してその背後を見ているようですらあった。

「砂が……あんなことを望むはずが。もしかしたら、あれは。声も、夢も全部。私が聞いてきて、今まで皆に当然のように言ってきたことは、違うんじゃあないかって」

 誰に向けての発言かまったく明瞭ではない。シオマの呟くところの意味を正確に読み取ることは困難だった。老婆やユルヴの言葉を思い出しながら、サリュは可能な限り類推を試みた。


 大地の声を聞くという役柄が、自分の聞いたものについて懐疑の思いを抱いてしまう。砂とともに生きる部族にとって砂という存在が信仰そのものであるなら、それはとてつもない重大事であるはずだった。それまで彼女の言葉を標に砂海を流れてきた人々は、皆が自身の在り方を喪失してしまうことになる。


 喪失。奇妙に心地の悪さを感じる言葉に、サリュは理解を持って苦味をおぼえた。砂に響く声を拠り所としているのは彼女も同じだった。


 トマスでの騒動の夜、河川に流されて目覚めた先で聞いた声がなければ、こうして旅なんかしていない。それどころか、あのまま干からびていたかもしれない。

 私は生きなければならない。――何の為に。……もちろん、あの人を探す為に。なら、怖がってなんかいないで、はやくワームに急ぐべきだ。ユルヴからそう言われた通りに。


 整然としてあるはずの結論、紛うことなどないはずの指標に何故か心から頷けない。指標、目標、自分自身。シオマの瞳孔に映りこんだ異相が彼女を見つめていた。

 自分自身。サリュ、――死の砂。連想して浮き上がっては泡沫に消えるそうした疑問を、くだらないと切り捨てることができない。確かに惑っているのかもしれないと今さらながらに自覚した。でも、いったい何に私は迷っているのだろう。


「……ユルヴが言いました。貴女と私が同じだって。彼女は迷わない。――でも、だから少し腹が立つんです」

 シオマが顔をあげる。

「貴女がどうしたいのか教えてください。何かをしたいというのなら、手伝います」

 震える女性に向けて、サリュはそう静かに告げた。

 瞳孔に二重の環を描いた瞳には、惑いとともに一つの決意が浮かんでいた。



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