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「――シオマさんは。私に、どうして欲しいんだろう」
呟いた言葉が風に乗り、遠くに流れ去る。吹いた風が足元のまばらな短草を薙ぎ、その後には砂の流れる音が耳に聞こえそうな沈黙が続いた。
「戦いを止める。その為にできることなんて」
「戦いは戦う者達のものだ」
ユルヴが言った。叱られたような響きを感じたサリュが目線を上げ、ふと気づく。遠くの天幕の一つに手を置くようにウディアの神子が立ち、二人を見つめていた。
「……終わったらしいな」
呟き、そのまま歩き出したユルヴの後ろにサリュも続いた。自分の集落の中だというのにおどおどとした態度のシオマに連れられて、奥の天幕へ案内される。
幕を開いて中に入った途端、燻った匂いがサリュの鼻をくすぐった。遮光された暗がりにうっすらと靄がかかっている、その奥座に座った小柄な老婆は入ってきた二人に背を向け、地面に平伏するように身体を折り畳んでいる。
入り口でサリュは戸惑ったが、ユルヴはさっさと進み、中央に置かれた布敷きを拾って座り込んでいる。サリュも彼女の隣の一枚を拾って腰を降ろした。
地を拝んだ格好のウディア族の老婆はぴくりとも動かない。老婆の前に、何か信仰の対象となるような偶像や祭壇の類はなかった。
居心地の悪さを感じ、咳き込まないよう気をつけて息を吸う。不快ではない香りが記憶のどこかに触り、サリュは懐かしさを思い出した。それは彼女の生まれ故郷、今はもう砂に埋もれてしまった集落で嗅いだことのあるものによく似ていた。彼女を育てた人物がよく煎じていたものだった。
実際の両親の記憶を持たない彼女を育てた老婆のことをサリュはよく知らなかった。名前さえ知らない。名前があったのかどうかも。薬を煉り、呪いじみたことをやっていた老婆は偏屈な性格の主だった。
サリュと老婆の関係は冷えていた。語り合うこともなければ、肉親の情を感じたこともない。ならば何故、とは最近の彼女だからこそ考える疑問である。どうしてあの老婆は、自分を育ててくれたのだろうか。奇妙な瞳をした幼子に、サリュなどという名前をつけて。
物思いを、衣擦れの音で中断する。上半身を持ち上げたウディア族の老婆が、ゆっくりとした動作で二人を振り返った。
そうして改めて正対すると、老婆は加齢のあまりまったく年嵩の読めない存在だった。身体の節々は折れてひしゃげ、全体はしぼんでたるんだ肌が深く皺を刻み込んでいる。そこまで老いを重ねてまで生き延びてきた老人の姿を見るのは、サリュは三度目の経験になる。一人は生まれ故郷で彼女を育て、一人はトマスで彼女を魔女と呼び、罪を問うた。
「よう来た」
皺枯れた声で老婆が言った。
「どうやら話を聞く気になったようだの」
「まわりくどい言い方はやめてもらおう」
すかさず、歯を剥いたユルヴが噛みついた。
「始めからわかっていたはずだ。残ると知っていた上で何も言わず、どの面さげてそんな台詞を吐く」
「さて。誰ぞ言えば聞く態度だったか、牙巫子よ」
皺を震わせて言葉をかわし、老婆はサリュへと顔の向きを変えた。皺の奥にすぼんだ目で見据える。
「役目も修めん半人前の神子に、もう一人は死の砂と呼ばれる女子。面白い客もあったもの」
「サリュといいます」
囁くように名乗ると、老婆はふむと顎を上向けた。
「どこぞの神子よりよほど礼儀を心得ておる。……少し近う来てはもらえんか。最近は、すっかり目も見えんでな」
フードを上げ、息が届く程の距離まで近づいたサリュに老婆の手が伸びた。震えながら迫る腕から視線を転じ、サリュは老婆の瞳が半ば白濁していることに気づいた。それは砂海で長く生きる人々によく現れる眼病の症状だった。
刺繍布の巻かれた奥を覗き込み、愉しげに老婆の顔に刻まれた皺が笑った。
「月が輝いておる」
「――月」
「水面に映っている己を見たことはないかよ。綺麗な、真ん丸の月じゃ」
サリュは黙って首を振る。瞳孔に奇妙な輪を描く、自分の瞳によい思い出はなかった。好んで覗き込みたくはならない。瞳に揺れたわずかな感情を掬い取るように、老婆の身体が揺れた。
「そして名をサリュというか。どこぞの部族の者かい」
「わかりません。生まれが部族がどうかも。私に名前をつけてくれたのは、村の呪い師の人でした」
「昔は誰もが部族であったよ」
老婆が言った。
「自分がどこから流れ、どこへ流れるか。誰も彼もが理解しておった。いったいいつからか、分かたれてしまった」
「その呪い師の人は。……部族の人だったんでしょうか」
「古い言葉じゃ。神子役ならともかく、そうでなければ部族の者も知りゃあせん。そなたを名づけた相手が、何者かまではわからんが。他になにか聞いてはおらんのかい」
「その人からは、何も聞かないまま。亡くなりました」
「だから惑うておるのか」
老婆が言った。突然向けられた言葉にサリュは顔をしかめた。
「惑う?」
「どこから流れ、どこへ流れるか」
老婆の口から短い文句が繰り返された。
薄く濁った老婆の瞳は半ば以上皺に埋もれ、その意図を探ることは容易ではなかった。相手の言葉を口の中で反芻して、サリュは吐息した。
「……自分のことはわかりません。けれど、やらなければならないことがあります」
「やるべきことが、己を知ることではない。日の星も月の星も、指標ではあれど自らではない。空を見上げて溺れる者のなんと多いことか」
「私は」
言いかけて、サリュは口ごもった。どこまで視力が残っているかも不明な眼差しから放たれる透徹した言いようは、その全てを理解できなくとも反駁の言葉にためらいがあった。
「大層な台詞だが、まず己が部族の神子に聞かせてみせてはどうだ」
それまで黙っていたユルヴが言った。
「あの怯えたざまで何が託宣だ。到底、神子としての態度ではないぞ」
「そなたが神子の在り様を語るんか」
全身を震わせた老婆が擦り切れた音とともに息を吐く。長い年月の間、胸の裡に溜め込まれた吐息だった。
「そうさな、あれもまた溺れておる。しかし神子である以上、役目は役目。言葉と、その結果は受け容れればならん。牙巫子よ、そなたとてそうであろう」
不快げに眉間に皺を寄せるユルヴへ、老婆は言った。
「それは上にあるや、あるいは下にあるかや」
「天意を測る馬鹿がどこにいる」
かわすような、あるいはからかうような問答を受けて答えるユルヴの口調に一切の迷いはなかった。
「測られるのは人。信じて迷い、背いて嘆く。中天に座して変わらぬからこそ天の意というのだろう、先神子よ」
「……このあたりの部族で、多くの神子が生まれるに立ち会うてきた。きたが、確かに確かに、稀有な器量じゃて。惜しくもあり、心安くもありといったところ」
くつくつとかすれた声をあげる。
「そなたがまっとうに神子を務めれば、標を失う者はおるまい。その役におさまりきらんのも器の故か」
「わたしのことなどどうでもいい。聞かせてもらおう、事は近辺の多くの遊牧部族に関わる。ンジの岩窟とはなんだ。そこに何がある」
老婆が瞳を閉じる。相手の反応を待って幾らかの砂が流れ、気の短い少女が眉を逆立てかけたところで皺に揉まれた口が開いた。
「吹き上がる砂、盛り上がる土、山となる風、夜となる影。地より出でて空へ至り」
ユルヴが唇を吊り上げた。
「鯨がいるとでも?」
「京の魚も群れれば大魚と成り得ような。では、それをして鯨と言わしめるものとは何かよ。あそこにあるのは、それよ」
老婆の言葉の意味はサリュには理解できなかった。彼らの風習や価値観に基づくそれを聞いたユルヴの顔色が変わっている。隣に座る少女の様子に気づいて、サリュは声なく驚いた。
「……ふざけるな」
ユルヴの幼い顔立ちに、はっきりとした怒りが浮かんでいる。
「そんな所へどうして部族以外の人間を連れた。連中が知ればどうなるか、わからなかったわけではないだろう」
「我らは知り、彼の者らは知らんかった。あれは我らにとって崇めるものだが、秘するものでも独するものでもない。砂は誰も選ばず、誰にも囲まれず。それは全てに等しい」
「それで騒ぎを起こしていれば世話はない」
掃き捨てるようにユルヴは言った。
「最近、新しい水源が見つかった。町の人間がそれで蠢いている。奴らは来るぞ。枯れて穏やかな北の地に。血で砂を塗り固め、黄金の道をひきにやってくる。お前達がやったことは奴らを喜ばせただけだ」
「ならばそれが天意だろうて」
「ふざけるな、そんなものが天意なものかッ」
激した言葉に、老婆は笑って言った。
「他人の天意を測る馬鹿がどこにおる」
自分自身の言葉を返され、悔しげに押し黙るユルヴへ諭すように続ける。老婆の態度は先頃、震えていたシオマへ接するそれと全く変わらなかった。
「そなたが知るのはそなたの天意のみ。我らは戦う。アンカの牙の神子よ、そなたはそなたの思うがままに行動すればええ」
憤然と立ち上がったユルヴが背を向ける。そのまま天幕から出て行く彼女についていこうとしたサリュの背に声がかかった。
「――そなたもな、砂の子よ」
振り返る。老婆はそれ以上の言葉はないというように、皺に覆われた小柄な身体に会話の気配はなかった。
外へ出ると、先をいくユルヴは背後からでも不機嫌さのわかる足取りで集落を歩いていた。
天幕の群れを抜け、集落の外れにまで至ってその足が止まる。早足で追いついて、サリュは立ち止まって俯いたユルヴの視線の先の存在に気づいた。
罅割れた舌を伸ばし、苦悶の表情が空を見上げている。砂中に埋められて首から上を晒した男には既に息はなかった。水気を失って見開かれた瞳孔に血の筋が跡を残し、凄まじい形相と化している。
たった一日、砂漠の日差しにさらされればそれだけで命は容易に枯渇する。身動きがとれず、水を与えられずただ己が灼けるまま捨てられるというのは、あるいはもっとも残酷な所業かもしれなかった。
怨嗟のこもった男の眼差しを無表情に見おろして、ユルヴが口を開いた。
「すまない」
その言葉がなにを指してのものかわからず、サリュは答えなかった。部族の少女が続ける。
「連中には水場のことなどどうでもよかったらしい。いや、わかった上でやっている。話をしてもらうまでもなかった」
「これから、どうなるの?」
「変わらない。戦が始まるだけだ」
悲嘆も興奮もない口調でユルヴは言った。
「ンジの岩窟とやらに何人いるかはわからんが。ウディアは総力を挙げてそこを奪い返そうとするだろう。ウディアが死に絶えるか、岩窟の連中が逃げるか。だが、逃げた奴らも必ず戻ってくる。そしてまた戦いだ」
「そんなに重要な場所なの。部族の人だけじゃなくて、町の人達にも」
ユルヴが干からびた男からサリュへ視線を転じた。
「海を知っているか」
問われて、サリュは目の前に広がる黄土色の大海を目で指した。ユルヴが言う。
「昔、海は青かった。そこにあったのは砂ではなく、水だった」
「……あなた達に伝わるお話?」
「そうだ。古い、神話よりなお古い御伽話だ。元はこの視界いっぱいに水が広がって、それが海と呼ばれていた。それがいつしか砂のものへ変わった。だから砂海という」
どこかで聞いた話だと考え、サリュはトマスの街並みを思い出した。短い期間、彼女がそこで受けた教育の中で似たような話を聞いたことがあった。神話と歴史、伝説と虚構が入り混じったこの大地の成り立ちの物語について。
「そんなに、たくさんの水源があったのかしら」
言いながら、サリュは目の前の光景にそれを思い浮かべてみようとするが、上手くいかない。視界いっぱいの水。彼女が見た中でもっとも豊富な水は、トマスをまるごと包みこむ湖だったが――それさえもこの広大な砂海を思えばほんの小ささでしかない。なだらかに続く一面が、たゆたう水に丸ごと置き換わったところなど想像できようもなかった。
「全てが一つの水源だった。そうも言われている。人は一つの海に囲まれ、わずかに盛り上がった大地に生きていた」
「それじゃ。誰も飢えたりしない。水を奪い合うこともない――」
それはなんと素晴らしい世界だろうか。思わずため息をつくサリュに、ゆっくりとユルヴは首を振った。
「飢えも争いもあった。そして水海は砂海になった」
「枯渇して?」
サリュが訊ねると、再び首が振られる。
「わたしの知る限り、それを直接教えている話はない。比喩的には、――疲れたのだと」
「……罰ではないのね」
「罰」
ユルヴは不思議そうな眼差しでサリュを見た。
「お前の生まれた場所ではそう言われていたのか」
サリュは首を振る。
「そういう教えがあるって聞いたことがあるだけ。お世話になった人から。この砂は、人の犯した罪って言われてるって」
「そうなのか? やはり違うものだな。……罪、罰か。だが、ならば何故、連中は砂を苦しめようとする」
サリュは黙った。ユルヴが砂をまるで身近な誰かのように語る様は、前にも覚えがある。あるいは部族の民にとって、砂そのものが崇める対象なのかもしれなかった。
サリュがそれを訊ねる前にユルヴが話を続けた。
「太古にあったとされる海と、今ここに広がる海は違うが、同じだ。どちらも広く、どちらも流れている」
「流れ……」
ユルヴが頷いた。
「ンジにあるのは恐らくそれだ。神子が読み、部族を導くもの。大地の奥深きに息づいて、星を巡る大いなる」
サリュにも覚えのある、名前のない呼び名を用いて彼女は言った。
「それは一本の蛇だと言われている」