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「ケッセルトと、貴方の取引に加われと?」
言葉を返してから、自身の発言の意味を改めて考えてクリスは思いついた。目の前の男が先ほど見せた表情を浮かべ、鋭く囁く。
「――違う。ケッセルトと別のラインを貴方は求めている」
昨夜、ケッセルトから求められた情報提供に応じたコーネリルには彼なりの思惑があったはずだった。
タニル領主との繋がりを持てば、それだけで河川水路計画に対する評議会での立場を得ることになる。しかし、相手はあのケッセルトである。どれだけ上手く手綱を操ったつもりでも、乗りこなそうとして易々とできるものではないことは、帝都への出発の延期をコーネリルが把握していなかったことからもわかる。
仮に気まぐれな男の動向を探るための当て馬に扱われていたとしても、そのことだけなら彼女は不快ではなかった。気分がいいわけではないが、むしろ当然の手管だと思える。
クリスは相手の勘違いを諌める口調で言った。
「私をひきこんだところで、あの男はそれで遠慮するような者ではありません」
コーネリルが笑い、頭を振る。否定の仕草に続いた台詞はそれまでとは無関係に思える話題だった。
「――線。領水線、補給線。我々で言えば、損と得の境界線あたりでしょうか。アルスタ女爵はこの言葉をご存知ですか。曰く、その線引いた先に全てある、と」
「……初代ベラウスギ公の残したお言葉ですね。ヴァルガードからトマスへと至る砂海の道をつくることを提案した際、絵空事だと否定的な周囲に向けた台詞だと」
「さようです」
頷いたコーネリルが机上に指を滑らせる。北寄りの北東に伸びる動きが、ヴァルガードートマス水路の道のりであることにクリスは気づいた。
「砂に覆われた地で、ぽつぽつと沸く水源を流浪して生きる術しかなかった我々が、点ではなく線として。ベラウスギ初大公ジュスター様がどのような思索の果てにそうした結論へと至ったかを考えるだけで、私はいつも身が震える思いがします。広大な砂海を割り、そこに人の道を架ける。到底、常人の思いつくことではない――思いついたところで、それを実行できるはずがない。我々は、生まれながらにして砂に侵されながら生きる者なのですから」
男の笑みが揺れる。そこにある陰影は自嘲のそれではなかった。
「水路にかかる莫大な費用。必要とされる膨大な人員。ヴァルガードから至るまでにかかった年数、その数字は長いか、それとも短いのでしょうね。水陸中央の大水源を手に入れたとはいえ、当時はただの地方勢力でしかなかったツヴァイが何故そのような暴挙に出て、なおかつそれを成し遂げられたのか。トマスにいる商人で、いまだにそれに答えられる者はおりません。それは奇跡のようなものだったのだと、文字通りそう考えている者も多い」
トマスを拓き、帝国に河川水路という存在をもたらしたジュスター・ベラウスギの偉業は他に類がないほどのものである。ツヴァイがついに水陸一の大国となった大きな要因が、国内の豊富な水源を利用した水路にあることは国の内外を問わず知られており、実現は不可能とされた砂海の河架けを提唱し、実際にやりとげたその人物の手腕は人の身の限界を越えて神がかっている。
その業績を讃えて奇跡と呼ぶ人は決して少数ではなかった。周囲をはばかりながら、人の身ならず、とまで考える者もいる。強烈な信望者、神格化まで危惧されるような熱狂的な人々は商人にとっての聖地といえるトマスに特に多く見られた。
今、クリスの目の前にいる男もそうした信望者の一人であるようだった。蝋の炎に照らされた瞳に、それだけではない熱が宿っている。
「しかし、現実に河川水路は存在し、帝国に今も多大な恩恵を与えてくれています」
「神話や伝説の延長。そんななかに自分達がいることを実感するだけで気分が高揚します。……子どもの頃、母親から御伽話のようにそれを聞かされながらワクワクしていました。しまいには石工をしていた家を飛び出した、とんだ親不孝者ですが」
懐かしむように男の視線が彷徨い、しばし過去へと遊離したそれがクリスを見据えた。
「私には夢があるのです。アルスタ女爵」
コーネリルが言った。相手の気配に圧される気分をおぼえて眉をひそめる。
「ラタルクへ水路を架けることですか」
昨晩聞かされた台詞に、男は首を振る。
「それはトマス商人の夢です。それも、ひとまずの。いずれは水陸中にある水源へと河川を繋ぎ、人々と商売の道を繋げる。我々は確かに皆そうした夢を抱いています。それは二百年の昔に示された途方もない可能性です。しかし、私にとってはそうではない。それだけで終わりたくない」
熱に浮かされた眼差しに異なる種類の炎が継ぎ足された。
「私は水路ではなく、この砂の大地に石の路を作りたいのです」
「石の、路」
言葉の意味を確かめるように呟いたクリスに、頷いたコーネリルが続ける。
「石の路。岩と礫、それによって踏みしめられた道」
聞きながら、クリスは昨日の記憶を思い出していた。
宴席が設けられた屋敷に辿り着くまでに感じた、ひどく馬車の心地を悪くしていた地面。その砂利の舗装を見おろして楽しげに表情を歪めていたケッセルトと、理由ありげだった屋敷の主人とのあいだにかわされていた台詞が脳裏に浮かびあがる。
「まさか。そのようなものが」
ありえない、と続きかけた言葉を呑みこんで、クリスは頭を振った。長い金髪が揺れる。
一介の傭兵から国を興した皇帝アスリ・スキラシュタ。その腹心として名を馳せたジュスター・ベラウスギが開拓した商業都市トマス。帝国の繁栄の礎としての河川水路。そして、今また新たにラタルク地方へと延ばされようとしている計画を知っていれば、その台詞を吐くことは敗北のようなものだとわかっていた。
わかったうえで、なお沸きあがる衝動が堪えきれずにクリスの口から言葉が漏れた。
「ありえない。そんなものが築けるとは思えません。押し寄せる砂に流され、埋められるだけではないですか」
それは遥か昔に異なる人物が異なる相手に向けて放っただろう言葉だった。先人の言葉を用い、コーネリルは満面の笑みでそれに応えた。
「全ては線引いたその先にあるでしょう」
クリスは苦々しく口を閉ざすしかない。
砂海には道が存在しない。どれほど高い目印を立てても定まらずに流れる砂にさらわれてしまう砂海で、航路とは先を往く人々の残した陽炎にも似ていた。途中の水場が枯れ、砂の流れが変わるだけで容易に意味を失い、途切れてしまう。だからこそ、枯れず、途切れない河川水路という代物が与えた影響は計り知れないものとなった。
その水路と同じように石路が砂海に架けられたとしたら、その驚きは水路の登場を凌駕するとまでとはいかなくとも、それに近い衝撃があるはずだった。河川水路は両端に豊富な水源が無ければ成り立たないが、石の路ならそうではない。
もちろん、石の路などというものが実現できるのならという話ではある。砂海に道がないのは、それが何にも増して困難だからに他ならなかった。
到底、実現できるとは思えない。ありえない――そう決めつけた、限界の線にある。
この男は違う、とクリスは認識を改めた。トマスに住む大勢の人々がなるような、ジュスター・ベラウスギ公の信望者などではない。
石商を営む男をまじまじと見つめ、クリスは相手の表情に偽りがないことを確かめた。彼女からすれば夢物語のようにしか聞こえないが、少なくとも相手は本気で語っている。何故そんなものを今、この自分に聞かせたのか。答えは語られた言葉のなかにあった。
商談でもなければ牽制でもなく、謀略の類とも思えない。男は自分の立ち位置を示してみせたのだ。評議会に連なるトマスの商人としてではなく、ハシト・コーネリル個人として抱く大望を明かしてみせた。商談に入るにあたって、これ以上ないほどの誠実さの証明といえた。
一方で、個人が抱く野望を惜しげもなく明かされるということは、相手から潜在的な敵手としてすら捉えられていないということでもある。それが嘲りにせよ親愛にしろ、さほど遠くに離れたものではないことを思いながらクリスは言った。
「私はただの軍人です。そして私がこの地にいるのは、帝都とトマスの間に無用が争いが起きることを防ぐ為だと心得ています」
「貴女の立場は理解できるつもりです」
コーネリルは穏やかに頷いた。
「この地にいるのが決して本意からではないことも、可能な限り天秤に関わろうとしてこなかった聡明さも。だからこそ周囲から疎まれてしまっている現状があるということも」
微妙な物言いにクリスは反応しなかった。してしまえば、そのままなし崩しに相手の商談に引き込まれることになる。
「ならば私の返答もおわかりでしょう」
「ひいてはそれが帝都の益になるとしてもですか?」
試すような眼差しを受けて、クリスははっきりと答える。
「私はどちらかの不利を望んでいるわけではありません。帝国と、そこに暮らす人々が平穏であってほしい」
「本当に、正直ですね」
コーネリルがため息をついた。
「口ばかりのおためごかしならともかく、本心からそう仰っているのだから。求めることはあっても決して媚びず、自らを曲げることもない――清々しく、傲慢なほどに“貴族”でいらっしゃる。トマスに派遣する人材に貴女を選んだ方はよほどの慧眼だろうと思います」
「……貴方の夢は素晴らしい。この砂地の世界に、本当に石の路が出来るようなことがあれば。個人的に出来ることがあればぜひ協力したいものです」
ですが、とクリスは続ける。
「それが何かの取引となれば」
「商人の真似事をするつもりはない、と」
「自分の身のほどはわきまえています。手札もろくに知らず、百戦錬磨のトマスの商人方と張り合おうなどとは思いません」
「それが貴女の限界なのですね」
コーネリルは言った。
「あくまでも剣であろうとしておられる。昨夜に私が申し上げたことを踏まえたうえでの結論がそうであるというのなら、その意思は商人如きでは変えられないものなのかもしれませんが……」
見下すのではなく、見定める雰囲気を感じ取りながら、クリスは沈黙を選ぶことで相手の言葉を認めた。立ち位置を見せた男への返礼として彼女が現せる、それが彼女の姿勢だった。
トマスで起こっている出来事についての情報を、彼女は切実に求めている。それを教えてくれるという申し出が如何にありがたくとも、彼女の立場であればすぐに飛びつくわけにはいかなかった。上手い話に裏があるのが常識なのは、商売に限った話ではない。あのケッセルトが関わっている話で、しかも当の本人が不審な動きを見せている。それだけで警戒の比重が重くなるのは仕方がない。男が言っていたことだ――商人は得がないことは絶対にしない。
「コーネリル男爵。貴方のご厚意には感謝しています。昨日の件も含め、貴方から聞き及んだことについて不利益を招くようなことは誓って致しません」
「女爵の約言には、金塊よりも確かな重みがあります」
にこやかに男は微笑んだ。
「しかし、それが叶うことは難しいでしょう。争いはとうの昔に始まってしまっていますから」
表情にも口調にも、一切に変化はなかった。
虚を突かれた思いでクリスは即座に周囲の様子を窺う。何物かが潜む気配や騒動の予兆はなかった。部屋の外も静かなまま、エゴイほどの者ならたとえ不意をつかれたとしても声なく打ち倒されるような無様はありえない。
状況を確認して改めて視線を戻すと、そこにいる男の様子が先ほどまでと異なっている。
やはり外見に違いはない。同じ表情、同じ佇まいのまま、ただ男の身にまとう気配だけが色を変えていた。年齢で言えばまだ商人としては若手である相手のいずれにその変化の要因があるのか、クリスは掴みかねた。
「いったい、何との争いですか」
訊ねる声に彼女は不快な気分を込める。雑な話題の入りには、そうした態度をとってみせることも不適当ではないはずだった。
「もちろん。我々に不利益をもたらす、全てとの間に」
男は穏やかな表情のまま告げた。
「では、私はすぐに動かねばなりません」
クリスは失望した風を素直に表情にして言った。
相手が取引に応じる気配がないとみるや、今度は挑発じみた発言に切り替える。商人云々ではなく、決して上等なやり口ではない。コーネリルがそうした態度を見せたことは残念だった。
「ここトマスで騒乱があるのなら、私にはそれを帝都へ報告する義務があります」
「ご随意に」
男は言った。
「しかし、よく考えられた方がよろしいでしょう。女爵は思い違いをされている」
「思い違い?」
不審に見やるクリスを見返して、
「如何に貴女が一振りの剣であろうと努めたところで、トマスにいる時点で儚い努力というものです。喉元に突きつけられた剣に、それ以上の意味など必要ない。剣自体の意思もまた同じく。何故なら、それはやはり一振りの剣に過ぎないのですから」
クリスは眼差しに力を込め、無言で相手を睨みつけた。それをそよ風の如く受け流しながらコーネリルは続ける。
「剣であることを逃げ道にすべきではありませんよ。クリスティナ・アルスタ様、それは貴女という剣の持ち手を考えればなおのことに」
爵位でなく姓名を呼ばれたことに、クリスは表情を引きつらせた。
帝国に仕える貴族はつまり、国という御旗のもとに外敵と争う剣である。だからこそ特権的な地位を得る、男はそうした一般的な意味で用いたわけではなかった。
顔色が変わるのを懸命に押し止めようと努力するクリスに、コーネリルが言う。
「私も含め、商人は多くの貴族様たちと商いをさせていただいていますが、決していい関係ばかりではありません。正直に申し上げれば、煮え湯を飲まされることのほうがはるかに多い。我々が不可侵のものとして掲げる契約の書を、彼らは易々と紙屑に変えてしまうことができる」
治水権をもってそれぞれの土地を治めるような貴族は、商人にとってもっとも大口の商売相手であるが、特権を振りかざして不利な商談を呑ませられたり、あるいは契約そのものをなかったことに無理やり徴収してしまう事例は枚挙に暇がなかった。
自身も男爵の位を持つ、恐らくはそうした経験を無数に重ねてきたであろう若い商人は、恨みつらみではなく素直な賞賛の表情を向けていた。
「私はそうしたものが貴族だと思っていました。一年前まで」
口を開き、何も発せないままクリスは口唇を噛み締めた。今の彼女は、それがどれほど不吉さを伴うものだとしても、相手の言葉を待ち続けることしか出来ない。
「私はあの場に直接いたわけではありません。しかし、周囲から話を聞いた時には驚きましたし、感銘も受けました。一方で、所詮は人聞きの噂だろうとも思いました。脛に傷を持つどこかの存在が、為に作り出した不都合を塗り固めた虚構の善行。そうした類のものだろうと。――私は貴女に敬意を表します」
コーネリルは真摯な表情だった。
「貴女こそは我々が夢見る人物だ。平民が枕元で聞く御伽話に登場するような清廉潔白な騎士。実際には存在するはずもない、愚かなまでの正直者。私は昨夜、貴女とお話しすることができてとても嬉しかったのです。ですから、私が提案させていただいたことは、もちろん私にとって得となるからではありますが――同時に、決して貴女にとって損となるものではありません」
男は言い、正対するクリスはその発言の真偽について疑ってかかる余裕さえ失っている。彼女はただひたすらに、相手の言葉を待ち続けていた。もはや内心には確信しかない、男が先ほどから垣間見せながら手に持つ切り札の中身について。
コーネリルの弁舌は、やり手の商人らしい巧妙さだった。相手が必ず気づくであろう程度の情報を小出しに、あくまで違和感なく話の主題を予感させている。
一年ほど前というのは、トマスで起きた騒ぎを示していた。子を失った公爵夫人が傾倒した呪い師が起こした魔女狩りの騒動と、そこから発展した暴動と大火。それに被告として挙げられた不思議な瞳をした少女を助け、クリスは確かに街からの注目を浴びることとなった。
彼女は騎士であり、幼くから自身をそうであろうとして律してきてもいた。貴族とは国に仕える剣であり、アルスタとはツヴァイの剣である。そして、クリスティナ・アルスタを手に持つ者とは――少なくとも彼女にとって、それは一人しか存在しない。
言葉の持つ力と間をはかる意味を知り尽くした商人が、給茶入れから手元の碗に中身を注ぐ。既に立ち上がる湯気もないそれを口に運んで、
「私は、協力できると思います」
微妙に語感を変えた台詞を駄目押しのように、コーネリルは繰り返した。
一息の沈黙。
曝け出したい全ての感情を呑みこみ、クリスは深く息を吸った。
「……お茶をいただけますか」
声に震えはなかった。
男が新たな碗を取り出し、机に滑らせる。陶器の碗を手にとって口に含み、彼女は冷えてなお芳醇な葉茶の味わいを楽しむこともせずに飲み下した。
会談や取引先で供される食事や飲み物に毒が含まれることは多い。毒の含有を警告する銀食器の使用や、重大な話し合いの場であえて勧められた側が飲み物の辞してみせることは、そうした無用の懸念を失くすための礼儀でもあった。
話し合いの場で杯がかわされるのは元来、全ての同意がついた後。胸襟を開き、相手を信頼して自らの命を託すにあたると互いに認識した時である。それは部族と呼ばれる人々にとってもさほどの差はなかった。砂漠で乾いた喉に抱く水とはつまり生命そのものであるからだった。
しかし、クリスが銀製ではない碗を掴み、葉茶を飲んでみせたことはそれとは異なっている。
この場は商談どころかその為の駆け引きがかわされている段階であり、話し合いの全容さえ露わになっていない。両者の間には全幅の信頼など存在せず、険悪な気配が濃密に立ち込めていた。
男の言動は一貫して彼の姿勢を示していた。
それに応じて彼女がとった行為もまた、やはり彼女の姿勢に他ならない。
意思を見届けたコーネリルがその言葉を口にした。
「ニクラス・クライストフ様。帝都から出奔され、一年前にこの街に現れた貴方の許婚のその後について。お知りになりたくはありませんか」
「話を、続けてください」
抜き身の剣の凄みを静かな口調に秘め、クリスは応じた。