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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 砂上の幻聴
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 他人事のような口調に、クリスは目尻を震わせて目の前の男の様子を探る。

 先ほど本人が言ったように騒動を好むこの男が第三者の如く語ることが、その“戦争”に対する彼の立ち位置を表していた。


 ――戦争。戦争をするのには相手がいる。

 いったい何者との戦争だ。クリスは考えた。


 そこを見誤るべきではなかった。目の前の男の言葉を全て鵜呑みにするわけにもいかない。むしろ、男の言葉の奥に隠されているものが重要だった。

 今の段階ではっきりとしていることもある。それを口にするべきかどうか迷い、彼女はすぐに決断した。この場で秘めておいても後から切り札になりえるものではない。ならば、少しでも情報をひきだす媒介に用いるべきだ。


「トマスの評議会が、私に――帝都に、水場の存在を伝えずにいた理由は?」

 ケッセルトが声をださずに笑う。クリスは続けた。

「混乱を招きたくなかった為とコーネリル男爵は言った。中堅以下の商人達が暴走しないよう、噂を認める機を図っていたのだと。確かに納得できる話だ、日頃からトマスの街中に忍んでいる者達の存在を思えば。一年前の騒ぎのこともある」

「お前の立場で言うことじゃねえな、そりゃ」

 男の笑みが苦笑になった。

「私の立場で情報が隠されるのは不思議ではない。不可解なのはあの晩、それをコーネリル男爵が私に話したことだ。こちらから頼み込んだからではあるが、その程度で情けをかけてくれるように甘いわけがない」

「お前のドレス姿に惚れちまったのかもよ。名うての商人の紐をゆるめてもおかしくないくらいには、見応えがあったからな」

 軽口を無視してクリスは相手を睨みつける。

「理由があるはずだ。お前が街に来たあの晩だからこそという、それがお前があの場に私を同行させた理由ではないのか」

 腰の鞭剣を抜き払い、クリスは男の首筋にそれを押し当てた。

「ケッセルト、貴様が昨夜に得たものはなんだ」


 ひやりとした砂鋼の薄刃を、男は恐れるふうもなく見下ろした。講師が生徒の回答を採点するような声で言う。

「間違いだな」

「なに?」

「正解を教えてやるのなんてつまらん。お前が何を間違っているのかだけ、教えてやる」

「ふざけたことを言っている状況か?」

「お前こそわかってんのか。俺が、相手に剣を向けられたままにしとくなんざ、砂漠の虹くらい珍しいんだぜ」


 冷たい視線をかわしあう。クリスは剣をひいた。

「なんだかんだ言って根が素直だから、お前さんのことは気に入ってるよ」

 軽薄にケッセルトが言った。ミセリアの飲みかけていた碗をとりながら、

「ま、けっこういい線いってんじゃねえか。お前のいう“もの”ってやつを、俺は確かに知ってるかもな。だが、知ってても、俺は知らん」

「なんの問答だ」

「ほんとのことさ。もう一個――お前はお前で、帝都は帝都。同一視するのはけっこうだが、ごまかしちまったら、判断の邪魔にもなるだろうな」

「私がごまかしているだと?」

 帝国への忠誠を疑われたように感じたクリスが眉を逆立てる。

「お前の理由と、帝都の理由が必ずしも同じってわけじゃねえさ」

「どういうことだ。何が言いたい」

「さあな。ヒントはこれくらいで、後は自分で考えてみろよ」


 にやにやと笑う緩んだ相手の表情を、クリスは苦い表情で見下ろした。

「貴様、からかっているだろう」

「一生懸命なやつをからかうのは楽しいよな」

 殺意が沸きかけ、クリスはそれを自制して空気の揺れるような誰かの気配に気づく。家人が帰ってきたようだった。

「話はこれまでだな」

「俺はまだ続けてもいいぜ?」

 どこまでが本気かわからない台詞を受けて、クリスは黙って相手を見つめ返した。話題を変えた質問を飛ばす。

「船出までここにいるつもりか?」

「どうかな。病気ってことにしてるから、外を出歩くわけにもいかねえか」

 クリスは顔をしかめた。

「病気?」

「ちょっとばかり体調を崩しちまって、船旅がキツいのさ。出発は明日以降に変更だ」

 まるで昼食の献立を変更させるような気軽さで男は言った。


 あまりに平然とした物言いにクリスは言葉を失う。帝都から召還を受けておきながら、目の前でぬけぬけと仮病を告白してみせるその神経を疑い、怒りどころか呆れることすら忘れて相手の顔を凝視した。

「正気か、貴様」

「もちろん。ああ、悪かったな。船が出る前にって急いで来てくれたってのに」

「そんなことはどうでもいい」

 怒気を荒げかけ、クリスはふと思いついて息を止めた。想像を言葉にして押し出す。

「まだ何か企んでいるのか」

 質問ではなく確認する口調に、男は笑みを浮かべて答えなかった。


 舌打ちをこらえて、クリスは荒々しく椅子を蹴り上げた。憮然として立ち去ろうとする途中で足を踏み止めて、後ろを振り返る。

「――先ほどの話だが。もし、と言ったな」

 殺気にも似た気配を込めて男を一瞥した。

「決まっている。その時は、私があいつを斬る。それだけだ」


 感心したようにケッセルトが眉を持ち上げた。

「さすがに覚悟も固まるってわけだ」

「覚悟?」

 クリスは男の言葉を鼻先で哂った。

「そんなものは、大学にいた頃からとうに定まっている」

 言い捨てて顔を背け、彼女は扉を押し開けて日差しの強まった屋外へと足を踏み出した。後ろは振り返らず、閉まりかけた扉の隙間から覗く男の表情も彼女は見ることはなかった。


 待たせておいた馬車で屋敷に戻ると、執事の若者が神妙な顔つきでクリスの帰りを待っていた。手に書簡を携えている。

「一刻ほど前にこちらに届けられました」

 手渡された便箋の裏に流書体で名前が書きつけられていた。差出人はコーネリル。

 その時間帯ならミセリア宅に到着した頃合だろうかと考えながら、クリスは手紙の封を切った。


 中には簡潔に用件が書かれてあった。話がしたいので来て欲しい、という旨の後に場所の指定があり、時間の指定は特にされていない。

「気忙しいことだ。ケッセルトのところへ押しかけたから――いや、それでは手が届きすぎているな」

「いかがなさいますか」

「蚊帳の外でないなら望むところだ。すぐに出る」

「手紙は正面からではなく、裏口からのものでございました」

 執事が遠回しに伝えた。クリスは質のよい紙面をなぞって口の端を持ち上げる。

「秘密の会合か」

「はい。万が一ということもあります。誰か供をお連れください」


 アルスタ領から奉公にあがって仕える人々の多くは領地と、彼女の父親が滞在する帝都に生活していたが、クリスが帝都からトマスへおもむく際に同行してきてもいる。使用人や女中、さらには彼女の護衛を務める者達まで、少なくない人数が屋敷には詰めていた。

「一度、部屋に戻る。誰かあたっておいてくれ」

「私が参りますか」

 男が言った。

「いや、お前には屋敷に残ってもらう」

 クリスは首を振った。


 幼い頃からアルスタ家に仕える若者は能力、忠誠ともに最も信頼をおける、いわば彼女の腹心だった。だからこそ護衛などに用いておく余裕はない。情報をまとめて、事態の対応を検討する優秀な人間が必要だった。

「コーネリル男爵と、フリュグト氏の近辺をもう少し探ってみてくれ。簡単にでるようなぼろはないだろうが」

 はい、と男は頷いた。

「今の段階で入った情報については机の上にまとめております」

「わかった」


 部屋に戻り、女中に街に紛れる為の平服の用意を頼みながら、クリスは机上の書類を取った。ぱらぱらとめくり、目当ての項目を探し出す。コーネリル男爵についての追加報告を黙読し、昨日までにまとめられていた書類にも再度目を通した。特に目新しい情報はなかったが、交渉となれば相手のことはどんな些細なことでも知っておく必要がある。

 女中に手伝ってもらって着替えをすませ、平面鏡に映った自分の姿を見たクリスは苦笑した。目立たないようわざと質素にあつらえてある服装だが、どこかきっちりとしすぎている。上の釦を開き、襟を緩めた。

 貴族の証明とも言える、手入れの行き届いた長い髪を隠そうと女中がまとめにかかる。丁寧に折りたたみ、編みこんでその上からフードを被れば、変装は完了だった。

「おかしくはないか?」

 外見だけは見事に庶民へと化けてみせた彼女が問うと、女中が答えた。

「お嬢様でしたら、どのような物もお似合いでございます」

 しかしながら、と控えめに続ける。

「髪や衣類は隠せても、お目つきの鋭さだけは誤魔化しようがありません。お気をつけくださいませ」

「目深に被って、下を向いておくことにしよう」


 扉がノックされ、二人の男が入ってきた。

 執事の若者の後ろにいるのは体躯のよい男だった。厳しい顔つきだが、目元だけが意外なほどに穏やかな男はエゴイと言った。

「これから中円区まで出向いて人と会う。供を頼む」

 寡黙な性格の男は黙って頷いた。外套を羽織った姿は、少なくともクリスよりは人ごみに紛れるのに向いてはいる。

「手はずは」

 クリスは執事の男に訊ねた。

 屋敷の周囲には監視の目が光っている。行き先を知られずに抜け出すことは容易ではなかった。

「先に空馬車を出します。二台。囮とわかっていても放置するわけにはいかないでしょうから、注意はひけます。直後に時間をずらして一台ずつ、買い付けの荷車と、馬運びの馬車を出します」

「私が乗り込むのはどちらになる」

「どちらでもありません」

 男は言った。

「今朝ほど、ツェルハからの定例便が届きました。積荷はすでに降ろし終えておりますが、御者も含めていささか疲れている様子だったので、邸内で休んでもらっています」


 食料や日用品などでつきあいのある商会の名前を出され、クリスはすぐに相手の意図を察した。

 ツェルハはトマスから北を主商域として持つ商家である。帝国の北方、サシュナ地方に領地を持つアルスタ家とは特に長いつきあいだが、トマスでの位置はやや裕福な中堅といったあたりで、発言権も決して強くない。商人には商人同士のつきあいがあり、暗黙の掟のようなものもあったから、トマスにおけるアルスタへの応対も消極的好意どまりといったところだった。

 彼らに屋敷を抜け出る為の手助けを求めれば、恐らく了承はしてもらえるだろう。しかし、クリス達を運び、送り届けた後でその情報は必ず商人達の間に触れ回るはずだった。それは仁義に欠いた行いではなかった。商人には商人の仁義というものがある。


 だから、彼らには頼まず、その御者や荷を降ろすためにやってきた使用人達になりかわって屋敷の外に出る。二重の囮を使った上でさらに念を入れる慎重さだが、それでも事を完全に隠しとおせるわけではなかった。所詮は時間稼ぎに過ぎない。だが、その時間こそが重要だった。

「その後は?」

「中円区に用意してある借り家へ。そこの裏口を抜けた路地に、次の馬車を用意させておきます」

 一時でも所在を掴めなければ、その混乱に乗じて足取りはごまかせる。

 手紙が届いた段階でこうした事態も考え、手段を整えていた執事は当然という表情だった。今さら相手の有能さを褒めるかわりに、柔らかい笑みを向けてクリスは部下を賞賛した。

「強引なことをする」

「酒でも振舞い、その間に後処理は済ませておきます。向こうに連絡がいくのは、早くともクリス様が到着してからになるでしょう」

「できればツェルハには迷惑をかけたくない。頼むぞ」

「かしこまりました。くれぐれもお気をつけを」

「わかっている。エゴイ、出るぞ」

 部屋を出る。声をかけられた男が無言のまま顎をひき、主人に続いた。



 それからしばらくして二台の馬車がアルスタ邸を発った。

 貴人が用いる馬車にはアルスタの家紋が彫られている。その前後には荷車曳きと馬車運搬用の幌つき車、さらにはツェルハの商い馬車三台がそれぞれ出立していた。

 アルスタ邸を監視下においていた何者か達は、ほとんどが擬態であることを見抜いた上で、その全てに尾行を送らないわけにはいかず、クリスが乗り込んだツェルハの商馬車群へあてられた人数は少なかった。


 三台が列になったツェルハ商会の馬車はゆったりと街中を進み、やがて中円区まで出てそこの大通りの混雑に巻き込まれる形で往生した。

 後ろから尾行者達が追いつき、彼らはすぐに異変に気づいた。

 馬車の数が二台に減っている。あわてて周囲を探っても、残る一台の影はすでに近くにはなかった。加えて、人と馬で賑わっているせいで身動きも取りづらい。

 まんまと尾行者をまいた商い馬車はそのまま路地裏を駆け、アルスタ家が借り上げている一軒家へ辿り着き、そこで新しい馬車に移った。

 その後も新たな尾行の存在に注意しながら街を進み、真っ直ぐ向かう倍以上の時間をかけた馬車が目的の雑踏地に辿り着いたのは、屋敷を出て一刻以上が過ぎてからのことだった。


 供を連れたクリスが降り立ったのは中円区のなかでも下層寄りに位置する区域である。

 その一帯は帝国中の富を扱うとまでいわれるトマスが、楽園ではないということを証明するかのような場所だった。暗く、狭く、汚れた壁と古い家屋が立ち並んでいる光景は、トマスの外縁区にまで行けば決して珍しくもないが、中層にも存在しないわけではない。

 トマスの中円区はその街の内包する混沌をよく象徴している地区といえた。光と闇が色濃く混ざって雑多な活気を溢れさせている。そうした在り様はトマスの支配者層の人々が望んだからこそだった。


 人の気配は少ないが、絡みつくような視線の気配がある。クリスはフードを目深におろし、目線を俯かせて前を歩くエゴイの先導に従った。半ば隠れた視界の端に、路上に座り込む物乞いの足が見えた。

 外套を引っ張られる。振り返った先で、小さな子どもが彼女を見上げていた。

「……なに?」

「お花を」

 差し出された手のひらに、萎びかけた切花が小さく不器用にまとまっている。

 クリスは懐に手を伸ばし、自分が小銭の類を持っていないことに気づいて顔をしかめた。無言でエゴイの腕をひく。

 ちらりとクリスに咎めるような視線を向けた男が、黙ったまま少女に小銭を渡した。

「ありがとうございますっ。あなた様に水天のご加護がありますように!」

 ぱっと表情を輝かせ、花売りの少女が走って去っていく。手渡された生花の包みを手のひらに、クリスは従者の非難する視線に気づかない振りをして歩みを再開した。


 少し歩いたところでエゴイが足をとめた。目の前に古い扉があり、その横に暇そうに男が立っている。明らかに堅気ではない目つきの男がクリス達を見て目を細めた。

 エゴイが男にアルスタ邸に届けられた手紙を見せると、男は何も言わずに黙って扉を開けた。

 中に入る。そこは家屋ではなく、家屋に繋がる室内の道のようだった。陽が通らず、ひどく湿って暗いなかを道なりに進むと、拓けた場所に焚かれた灯りの下で数人の男達が札遊びに興じていた。

 再びエゴイが手紙を提示すると、立ち上がった男の一人がついてこいと顎をしゃくる。男の後ろについて階段を降り、ほとんど闇に近い暗がりを幾らか進んだところで男の足が止まった。


「中へ」

 低い声で促され、クリスが扉を開ける。室内から穏やかな暖色が漏れた。

「――ああ、これはどうも」

 羽筆を走らせていたコーネリルが顔をあげ、彼女を見て微笑んだ。

 クリスは連れに目線を送り、入室した。護衛であるエゴイは彼女に続かず外に留まった。

「急にお呼び出しして、申し訳ありません」

「いいえ。ちょうど出先から戻ってきたところでしたので」

 木製の扉が閉まり、空気の揺れに蝋燭の灯りが揺れた。陰影の変化を表情の動きと重ねたコーネリルが言った。

「お早い行動でしたね」

「私がそうすると、昨夜のうちに予想されていたのでは」


 屋敷に届けられた手紙は、クリスがケッセルトの元を訪れてから用意して間に合うタイミングではなかった。男は小さく笑って首を振った。

「カザロ男爵と接触をとるだろうとは考えていましたが、まさか使いのやりとりを省略して出向かれるとまでは。おかげで、ひどく間抜けな手紙となってしまいました」

 クリスは眉を持ち上げた。なるほど、と納得する。あの手紙は迂遠なやり取りに苛々としているところに与えられる施し、あるいは惑いの手としての役割を持っていたらしい。

「拙速の兵理というものでしょうか。さすがは帝国の内外に聞こえる武門のお方だ」

「相手が仮病を患っていることを知っていれば、私ものんびりとしていたでしょう」

 皮肉を含めて返したクリスは、相手が意外そうな表情をしたのを見て息を吐いた。

「ああ。つまり、あなた方も」

「……やはり難しい方ですね、あの方は」

 コーネリルは大きな苦笑を浮かべた。

「単純明快なようで、その底がとんと見えない。ただの気まぐれか、なにか意図があってのものか。貴女はどうお考えになりますか?」


「……あの男は自分に素直な男です」

 クリスは言った。

「あの男の行動の意味を知りたければ、あの男そのものを知るしかない」

「ラタルクで共に戦ったからこそのお言葉でしょうか」

 男が訊ねたが、クリスは答えなかった。

「参考にさせて頂かないといけませんね。――ああ、すみません。どうぞお座りを」

「その前にお聞きしたい。いったいどのような立場で、この場に私をお呼びになったのか」

 訊ね、クリスは古い木製机に座る男を見据えて宣言した。

「私は。帝都から出向してきたアルスタ家当主バルガ・アルスタの名代として、ここにいます」


 男は柔らかい笑みを刻み、目元から笑みを消して答える。

「トマスで商う一介の商人として。こちらにお招きした次第です、アルスタ女爵」

 コーネリルは評議会の肩書きを名乗らなかった。クリスは指し示された木椅子に座る。男が机の上の給茶入れを持ちあげた。

「お茶はいかがですか。少々、冷えてしまっていますが」

「結構です」

 特に残念そうでもなく、男はクリスの手にある小さな包みを見て口元を綻ばせた。

「アルスタ女爵は花がお好きですか?」

「人並みには。……所在が知れてしまったかもしれないことをお詫びします」

 クリスは言った。


 トマスでは情報にも相応の価値が支払われる。職をもたずに路地裏に座り込む物乞いなどには、そうしたものを取り扱うことで日々の稼ぎを得る者もいた。

 あの花売りの少女もそうした一人であるかもしれなかった。今頃は、どこかの誰かに中円区で不審な二人連れを見たという連絡が入ろうとしている可能性がある。それがアルスタ邸を出て行方を食らわした馬車に乗っていた当人だと即座に結び付けられる者は少ないだろうが、勘のよい人間ならないとはいえない。

 男がやんわりと首を振った。

「大丈夫でしょう。このあたりにはうちの商会の息がかかっていますから。どこの間諜も、貴女の足取りは掴めていませんよ。お恥ずかしい話ですが、うちの手の者も邸宅の前であっさり撒かれた口のようで」

「ご迷惑がかからないようなら何よりです」

「お心遣いありがとうございます。もし、上に誰か不審な輩が来たとしても、この部屋の外は下水に繋がっていますから。姿をくらますのは難しくありません」


 石と水の都、商業都市トマスの地下に張り巡らされた上下水道は古くから存在する。それがトマスが栄えるのにあわせて整備と拡張が続けられたことに加えて、貴族や商家がそれぞれの私有地の地下に抜け道を作り、意図しない道が繋がり、その度に迂回して掘り進み、今では地下に複雑な迷路が作り出されていた。

 トマスの有力者達は、そうした地下の隠れ家を密談によく用いる。間違いなくそうした用途に使われてきたのだろう薄暗い室内で、クリスは相手に訊ねた。

「それで、いったいどのようなご用件ですか」

 見当はついている。しかし、それが何故自分に話されるのかがわからなかった。昨夜の宴席では途中まで話を聞きながら、肝心の部分では見事に置いていかれた彼女だった。

「昨日の件はアルスタ女爵にも気にかかるお話だと思います」

 コーネリルは言った。

「……もちろん。途中までしか同席できなかったことが非常に残念です」

「よろしければ、女爵がご不在時にあった話について私からお話しようかと。可能な範囲で、ということになりますが」


 クリスは正直な反応を返した。眉間に皺を寄せ、疑念の眼差しをつくって相手に向ける。

「嬉しいお言葉ですが、失礼ながら理由をお聞かせ願いたい」

「そう難しい話ではありません。女爵に河川水路の計画についてお伝えしたのは私ですから、きちんとお話しする責任があるはずです」

 知らぬところで暴走を起こさないよう、適当に手綱をつけておきたい。要約すればそのようになる男の言葉を聞き終えてから、クリスはしばらく沈黙した。短い時間で思考し、浮かび上がった質問を相手にぶつける。

「わざわざ人目につかない場所を選ぶのは、トマス上層部の意思ではないからですか」


 男は微笑んだ。

「女爵が例の件について知っていることは、評議会のまだ与り知らぬところです」

「不可解な話ですね」

「得にならないことは致しません。私は商人ですからね」

 トマスで成功している商人の自負に溢れた態度でコーネリルは告げた。

「我々は互いに協力できると思います」



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