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砂の星、響く声  作者: 理祭
 ニ章 食べて殺して
6/107

 巨大な湖の中に浮かび上がるように存在する、その街の名をトマスという。

 辺境の人間でもその名を知る、水陸最大の商業都市。この世界で移動を前提とせずに存在する数少ない街である。

 初めてそこを訪れた人間がまず驚くのは、四方に伸びる河川の存在である。大都市と呼ばれる町には必ず豊富な水源がある――水源があったからこそ大都市成り得るわけだが、トマスほど豊富な水量を誇る都市は他に例がなかった。


 この世界において水はまずもって地下から湧き、そして流れるものである。つまり、土地を支配する者にとって第一にすべきはその管理と運用に他ならなかった。湧き上がる水には限界があり、誰も彼もが河川から水を引こうとすれば、残るものは誰もいない。一人分の水で十人が喉の渇きを癒すことはできないのだ。

 トマスは、国家によって管理された河川の中で、各地にある大都市の水源と全て河川で繋がっている唯一の都市だった。当然、その通商路としての価値は計り知れず、世界中の全ての物は必ず一度トマスに集まるとまで言われる。

 商業都市トマスと、大陸の中央とも呼ばれる城塞都市・首都ヴァルガードの二つを支配するツヴァイ帝国こそ大陸の最大勢力と言ってよかったが、その首都をもトマスに移すべきだという意見が、彼がまだヴァルガードにいた頃からあるほどトマスは栄えた街だった。


 そうなれば確かに便利だろうなと思ったが、便利と面倒は裏表でしかない。面倒事を好まない彼にはトマスは故郷であるヴァルガードの次に近寄りがたい場所であり、前に訪れたのはもう三年も昔のことだった。

 高い塀で囲むのではなく、水掘りで街の四方を囲んでいる姿がその存在の異質さを示している。不法に出ようとする者も入ろうとする者も、哨戒から見つからずに泳ぎきることはほぼ不可能だろう。この都市の守りに高さはいらぬ。それは堂々たる宣言であった。大陸の経済を握っているといってよいトマスの外からの制圧に成功した例は過去にない。


 町の入り口は東西南北にそれぞれ一箇所ずつ。どこどこの門番は賄賂が利きやすいなどという話なら昔聞いたことがあったが、三年前の門番がまだ仕事を続けているとも思えず、リトは一番近い南口から街に入ることにした。

 ほとんど荷を持たないリトは高い税をとられずにすみ、検問も伏し目がちなサリュを見て怪訝そうに顔をしかめただけだった。「トマスの財産はまず人の流れにこそある」高い人頭税をとるのではなく、人を呼び込み、そこから多くの機会が生まれ街に財が集まる結果になったその言葉は、確かに至言だろう。言ったのは確か初代の街長だったか。

 もちろん物品への税はあるが、頭の中にあるアイディアには金はかからなかった。街には多くの有能な人材が集い、甘い検問は結果的に犯罪者紛いの人間を入れることにはなったが、犯罪を失くすのではなくその検挙数を上げることで治安を守ろうとするのがトマス流だった。泥の交じった水でなければ作物は育たない。固苦しい規律に縛られたどこかの城塞都市よりは、確かに住みやすい街だと言えた。


 長く架かった橋を渡り、一歩を踏み出す。目の前に広がった光景に、頭に巻いた布防具を取ったサリュが感嘆の声をあげた。

「人が大勢……」

 四つの入り口から街の中央に走る四本のメインストリートの一つは、『冬の道』という名前で呼ばれており、蒸し返るような熱気に溢れていた。

 左右には石造りの建物が延々と並び、いたる所で行商や露天が行われている。視界に見えるだけで数百人の人間が蠢いていた。サリュの集落は多い時で五十人いたかどうか。驚くのも無理はなかった。

「水陸でも一番の都市だ。酔うなよ」


 夢を見ているように惚けているサリュに注意する。あの集落でただ人生を終えるだけなら、こんな街があることを知るのも確かに悪くないのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ。

 だが、この街で生きていくとなるとそれだけでは済まない。トマスは決して優しい街ではなかった。金持ち、成功者にこそ優しい街であった。メインストリートにしてみたところで、一本外れればそこには家もない人間が路上に生活しているし、裸足で行商をしている年端もいかない子供の姿もある。

 サリュのような人間が、どうやってこの街で生きていくというのか。多少手先が器用だとしても、彼女の奇妙な目を見て奉公人に雇おうという物好きがいるだろうか。

 頭を振る。それ以上は考えないようにして、リトは隣で立ち尽くす少女に声をかけた。

「頼むから迷子にならないでくれよ」

 まずは宿を探すつもりだった。少女の体調は悪くないように見えたが、外からうかがい知れる様子だけでは安心できないのはすでにわかっている。身体を休めて、満足な食事を取り、なんなら一晩くらい少女も泊めてやってもいい。そして、それでお別れだ。


 それが、彼自身嫌っている偽善であることはもちろんわかっている。情が移ってしまっているという認識もある。しかし、だからこそリトはこれ以上少女と一緒にいるわけにはいかなかった。少女を両腕に囲いながら抱いた暗い感情を彼は忘れていなかった。

 珍しそうに周りを見ながら、道行く人にぶつかってすぐに迷子になってしまいそうなサリュの手をリトは取った。そのまま黙って歩いていく。しっかりとした力で握り返してくる少女の手の温度が伝わってきて、彼は顔を歪めた。

 不快な熱さだった。



 トマスの構造は、簡単に言えば中央に行くほど質が高くなる。円の中心にはこの街の支配者達が住み、有名貴族の別荘地が立て並ぶ。逆に外円にあるのはいわゆる貧民街で、リトが選んだのは真ん中より少し外側に位置する宿屋だった。

 三年前の記憶を頼りに道を歩いてみたものの、覚え方が間違っているのか街の様子が変わっているのか、なかなか馴染みの風景を見つけることができない。左手に引かれたコブつき馬に急かすように嘶かれて、リトは自由になった右手で馬の頭を撫でてやった。


 サリュは、目に入る全てのものが新鮮だという様子で、感情の乏しい表情の真ん中で物珍しそうな視線を街中に飛ばしている。さっきまでの混雑はないので迷子にはならないだろうが、あまり歩かせてまた体調を崩されてもやっかいだ。彼が初見の宿屋に泊まることを決めた時、怒声が裏路地に響いた。

「なんだこのガキ!」

 振り返れば、すぐ隣にいたはずのサリュの姿がない。嫌な予感がして、リトは近くの柱にコブつき馬の手綱を縛り、人だかりへと向かった。


 思ったとおり、騒ぎの中心に小麦色の少女の姿を見つけることができた。その他にもう一人いる。より正確には一人と一匹だった。

 さっきの怒声の主らしい男は、柄の悪さがそのまま顔に出たような容貌で、その後ろにある大小様々な木の檻とその中の動物から察するところ、動物の密売人だと思われた。その男をいつもの真っ直ぐな瞳でもってして見上げているサリュと、そしてその腕の中にいるものを見て、リトは驚いた。

「砂虎か」


 銀色の少女に守られて耳を伏せて震えているのは、確かに砂虎と呼ばれる猛獣の子供だった。成長すれば一丈、大人二人分にもなんなんとする、人さえ襲う凶暴な肉食獣である。基本的には単体で砂漠を生活するが、居合わせたもの同士で協力して狩りをすることもあり、何十人いた商隊が襲われて一晩で全滅したという話もある。一人で砂漠を歩くような旅人にとってはなにより恐れるべき天敵だった。

「ガキ、どけっ。商売の邪魔なんだよ」

 男に凄まれても、サリュは動かなかった。砂虎の子供を抱えたまま、睨むように男を見返している。二重に描かれた銀色の瞳に気づいた男が、不気味そうに顔をしかめた。


 あいつはなにをやっているんだ。怒りを通り越して呆れるしかなかった。動物の命なんて気にしている立場ではないはずだ。

 それとも、あるいはここが別れ時か。やや都合よい思考を浮かべ、リトが背中を向けようとしたその背後で、遠巻きに見物していた者達から悲鳴が上がった。


「やめろ!」


 気づけばそう声に出していた。

 周囲の注目が集まる。サリュにむけて今にも拳を振り下ろそうとしていた男と、それでも腕の中のものを守ろうと身を丸めた少女がこちらを見あげて、ほっと息をつくのが見えた。

 リトは仏頂面を崩さず、輪の中に進んでいった。内心では激しく後悔している。なんで自分はこんなことをしているんだと思い、行動したあとになってもそんなことを考えている自分がますます嫌になった。


「なんだ、てめえは」

「ただの通りすがりさ」

 男は威嚇するように歯をむいた。

「格好つけてんじゃねえぞ。怪我する前に失せやがれ」

 少なくとも、その程度の暴言で頭に血を上らせるほど彼は子供ではなかった。嘆息交じりに告げる。

「そっちこそいいのか? すぐに憲兵が来る。見られたら不味いものもあるだろう」

 リトの視線が背後に注がれて、男にあきらかな動揺が生まれた。

「なに言ってやがる……」


「さあ。ここで時間を食って困るのはあんたじゃないのか?」

 後ろの荷については何も言わない。それで手打ちにするつもりだった。相手にとってもそれが一番、損害が少ないことになるはずだ。

 だが、男は理性的な判断よりも自己のプライドを大事にすることを選んだらしい。

「うるせえ!」

 殴りかかってくる男の勢いに嘆息しながら、リトは冷静にその拳を避けた。通り過ぎ様に足をかける。バランスを崩した男は前のめりになって盛大に転び、周囲から歓声が起こった。

「やめておけ。憲兵隊が来るぞ」


 紛れもない親切心でそう言ったのだが、全身を紅潮させた男にはもはやなにも聞こえていなかった。

 腰からナイフを取り出す男にもう一度ため息をついて、リトも腰からナイフを抜いた。ここにきてようやく、見物人から悲鳴が上がる。むしろその声を合図に男が突っ込んできて、そのナイフを捌こうとリトも動き出したところで、第三者の声がその場を制した。


「――動くなッ」


 同じように言ったリトのそれとは、聞いた者への強制力が明らかに異なった。人山を掻き分けるようにして現れたのは三人の憲兵で、その先頭に立っていたのは白銀の鎧を身に纏った騎士だった。

 凛とした姿と、長く伸びた金髪。女騎士、しかもここまで様になっているのはめったに見なかった。もちろん、中身までがそうであるかはまた別問題だが――皮肉げにリトは思い、慌てて逃げ出そうとした密売人の男の目の前に、騎士が一瞬で抜き打ちの剣を突きつけるその鋭さに、心の中で前言を撤回した。中身も様になっている。


 女騎士は木檻の中を確認すると、「保護対象ありだ。連れていけ」と憲兵隊の一人に指示を出した。もう一人には野次馬の解散を命じている。

 手早い処理というべきだった。感心しつつ、すぐに布防具を被り、少女を促して野次馬に紛れようとしたリトに、騎士が冷ややかな言葉を投げつけた。

「どこに行くつもりだ、ニクラス」

 驚きに足を止めた同伴者を見上げて、サリュが不思議そうに首を傾げた。



 商業都市トマスと双璧と謳われる帝都ヴァルガードは別名を学術都市といい、純粋量ではトマス以上を誇る水源にかけて『知識の泉の湧く妖精の地』と称される。なんとも大げさなことではあったが、その表現に決して引けをとらないほどの学術施設が揃っていたことは事実だった。

 大陸最大勢力の首都であるそこには大陸中の優秀な学者が集められ、有望な生徒も集まっていた。各国王族の高弟や有名貴族の子息、社交場としてもこれ以上ない程の規模である『大学』は、まさに大陸情勢の縮図であった。もちろんホストたるツヴァイ国からも数多くの若者が集められており、学問にせよ、政治にせよ、軍にせよ、次代を背負って立つ人材がそこで育成される。


 リトはそこで幼少時代を過ごした。出身国同士で派閥を作り、いざこざを起こすような馬鹿げた争いには興味がなかったが、学問塔の図書室に貯蔵されている書物や、最先端の研究内容にはおおいに惹かれた。

 馴れ馴れしい人付き合いは好まなかったが、代わりに出身国で人間を選ぶようなこともなかった。すぐに彼は変わっていると有名になったが、それを恥じるようなことはなかった。彼は自分の異常に昔から気づいていたし、まことに捻くれたことに、異常であることが異常であるのかとさえ思っていた。理屈っぽく捻じ曲がった、現在の彼の性格の徴候はその頃から既にあった。


 彼は初めのうちは周囲から忌避されていたが、やがて気の合う仲間ができるようになった。その多くが他国の人間で、性格にそれぞれ癖のある人物だった。

 クリスティナ・アルスタは、彼が大学に入った当初から付き合いのある、数少ない同国人の一人だった。古くから続く、戦場で名を馳せた騎士の名門の一族である。自身もまた騎士たらんとした彼女は愚直なまでに真面目な性格で、剣の腕では女ながらに有名なほどだった。

 その性格上、リトは真面目な人間とは性格が合わないことが多いが、彼女とはすぐに打ち解けることができた。真っ直ぐにしろ、曲がっているにしろ、頑迷な部分がひどく似通っていたからかもしれない。


 十七の時に大学を出ることを決意した時、一番反対したのは彼女で、最初に賛成してくれたのも彼女だった。三年後、初めてヴァルガードに帰った時には彼女は既に地方での軍務についており、それからも顔をあわせたことはない。

 かれこれ五年振りになる。名乗られるまで記憶の底に沈み込んでしまっていても仕方がないと思うのだが、

「私は一目でわかったぞ。薄情者め」

 不満そうに言って、彼女は手に持った果汁水を飲んだ。

 彼らがいるのは宿屋の一階にある食堂スペースだった。あの後、旧友との再会を知らされたリトは、彼女の薦めで宿屋に案内してもらった。最初は街でも最上級の宿に連れて行かれるところだったのだが、サリュが腕に抱いて離そうとしない砂虎のこともあり、質はいくらか落ちるが話が通りやすい知り合いの宿屋を教えてもらったのだ。


 その砂虎の子供は今、彼らの着いた丸机の下で主人から出されたミルクを一心不乱に舐めとっている。その様子をじっと眺めているサリュに文句の一つでも言いたいところではあったが、まずは旧友への礼が先だった。

「クリス、さっきは助かった。久しぶりだな」

「五年振りだ。我が目を疑った」

 不満そうな口調のままで、クリスは口元を綻ばせた。

「天外の再会だ。まさかこんな所で会えるとはな」

 懐かしい口調に触発されて昔を思い出し、自然とリトも笑顔になる。


「変わらないな」

「そうか? 多少は軍務に励んできたつもりだが」

 辛く厳しい軍生活は容易に人を変える。意外そうに瞬きして、それからクリスは小さく笑った。

「ニクラス。五年だぞ。変わっていないほうがおかしい」

 もちろんそうだった。外見はお互いに変わっている。

 昔から人気があったクリスだが、彼より一つ年上の彼女はいまや十分に成熟した女性になっていた。辛くないはずのない激務の中でもその輝きは褪せることなく、むしろ昇華する形でそれを助けている。彼女が信じ、目指していた通り、まったく騎士というのは彼女の天職だったのだ。


「それはそうだが、でも変わってない。安心したよ」

「その言い方こそ変わってないな。私も安心した」

 いや、と彼女は続けた。

「やはりお前は変わったな」

「どこが?」

「目つきが悪くなった」

「砂に吹かれてるからな」

 顔を合わせて、二人は笑いあった。それから遅ればせながらに杯をあわせて、よく冷えた果汁水を飲んだ。クリスが職務中である手前、酒を飲むわけにはいかない。それに。

 思い出した、確か彼女は下戸だったはずだ。「弱点がなさすぎる」と言われた彼女の唯一の弱み。思い出の断片が脳裏をよぎって、リトはもう一度笑った。


「それにしても、今はどうしてるんだ? いや、詳しい話はまた聞かせてもらうが」

 クリスの視線がサリュを見て、声に少しだけ険がこもった。

「人買いかなにかをしているわけではないだろうな?」

 まさか、と否定して、リトはクリスに掻い摘んで事情を説明した。

「そうか」

 彼女はそれ以上何も聞かず、沈痛な表情で眉を寄せた。それまでひたすら砂虎に注意を注いでいたサリュがふと顔を上げて、そのクリスと目を合わせる。二重に描かれた瞳を見て驚かなかったはずがないのだが、表面上は少しも動揺を見せずにクリスは微笑んだ。

「私はクリスだ。よろしく」

 挨拶を受けたサリュはクリスを見て、それから一度リトに視線を移してすぐにまた戻した。頭を下げる。

「サリュ、です」

「サリュ……」

 口の中で繰り返すように呟く、その様子は初めてその単語を聞いた自分自身と同じだった。柔らかく頷いて、それから改めてリトのほうに視線を送る。

「それで、これからの予定はどうなってるんだ?」

 訊かれて、リトは答えに詰まった。隣のサリュを見る。

「……とりあえず、ついさっき着いたばかりだからな。ゆっくりするさ」

「そうか。なんなら私の家に泊まりに来てもいいぞ。借り家だが、余っている部屋もあるし、そのあたりの宿よりはゆっくりできると思うが」


 その提案は非常に魅力的なものに思えた。少なくとも、砂虎がどうだこうだという面倒ごとはなくなるだろう。クリスの家のほうが食事の質も高いだろうし、サリュも疲れた身体を休められるかもしれない。と考えていたところで名前を呼ばれた。

「――リト」

 囁くように呼ばれた言葉に、彼は妙な違和感を覚えた。少女が彼のことを名前で呼ぶのはそれが初めてだったのだ。

 サリュは無言でテーブルの下を見て、そこには満足した表情で寝顔を見せている小さな猛獣の姿があった。これは動かせそうにない。苦笑いを浮かべながら、クリスに断った。

「すまない。せっかくだけど、ここでゆっくりさせてもらうことにする」

 クリスは納得したように笑った。

「わかった。それでは、よければ夕飯を一緒にしないか? 色々と話もしたい」

 今度は断る理由はなかった。幾つかの事情を考えてこの食堂で晩餐を開くことになり、三刻後にここで落ち合うことを約束してクリスは出て行った。

 ふと下からの視線を感じて、リトはサリュを見た。

 目で問うと、サリュはぐっすりと寝入っている砂虎の子供を抱きかかえたまま、視線を逸らせた。

「……なんでも、ありません」



 通された部屋は、不必要に広かった。二人と一匹どころか、十人は寝泊りできそうな空間がある。

「さすがは帝国貴族、というところだな」

 これで今日の分の宿代は無料だというのだから恐れ入る。放浪の根無し草としては素直に知人の威光に甘えることにして、リトは部屋の中央に荷物を置いた。それから洗面台に行った。風呂にすでに湯が張られてある。まったく至れり尽くせりだった。

 ソファに砂虎の子を寝かせているサリュに風呂に入るように言って、リトは荷を解き始めた。食料と水に処理を施してから、ベッドに横になる。部屋にベッドは一つしかなかったが、大きさは大人が四人は並んで眠れるほどあった。


 すぐに襲ってくる睡魔に抗いながら、さてどんな風に切り出そうかとリトは考えていた。前もって覚悟を決めなければ話をできない小心さにうんざりしながら、緻密な飾りの描かれた天井を見る。

 やはりあの砂虎のことか。少女の一人でも怪しまれるのに、あんなものを抱いていてはどこの売春宿でも雇ってはくれまい。それともそんなものでさえ売りにするのだろうか。砂虎と共に育てられた哀れな少女、とでも銘打って?

 物好きな客にはさぞかし喜ばれることだろう。


「……最低だな」

 クリスは自分のことを変わっていないと言ったが、確かに昔の自分ならこんなことは考えなかっただろう。

 わかっている。それはただそういう現実を知らなかっただけで、知ってさえいれば昔にだって同じことを考えただろう。では、やはり自分は変わったということになるのだろうか。

 だとすれば知は罪なのか。無知こそ喜びか。

 そんなのは彼には認められなかった。それでは人が生きている意味などない。

 何も心配することがないから、そんなことを考えてしまう。そしていつも答えが出るようなことはなかった。昔からそうだ。あの頃からずっと彼はそうだった。


 思考を遮断して、彼はそれから逃げ出すために睡魔を受け入れた。いま眠ってしまえば起きられないかもしれない。しかしクリスならきっと不機嫌な声音で叩き起こしてくれる。「おい、ニクラス。私まで説教につきあわせるつもりか?」それもまた、彼の中にある懐かしい思い出だった。


 しかし、実際に彼を起こしたのは湯気を含んだ甘い香りだった。それが鼻腔をくすぐり、リトは目を開いた。

 視線の先にサリュがいる。旅の垢を落として、全身がさっぱりとしていた。艶を取り戻した銀髪にはやはり白い花が飾ってあって、二重の輪を見せる潤んだ瞳は水気とともに十分な生気も含んでいた。

「気持ちよかったか?」

 少しだけ口元を綻ばせたようにして頷くサリュに頷き返して、彼は荷物から着替えを取ると洗面台に向かった。

「休んでろ。夕飯になったら起こす」

 砂虎の様子を覗き込んでいた少女が振り返って、微笑んだ。

 サリュはどう考えているのだろう。彼女が売春なんて嫌だと考えていれば、あるいは――いや、だとしてもなにができるというのか。自分は定職もない根無し草で、誰か一人を養えるような人間じゃない。経済的な理由ではなく、むしろそれ以外の方こそが一番の問題だった。昨夜のことで、彼はそれを痛感していた。


 一人が良い。


 クリスに引き取ってもらうという考えはなかった。彼は他者にただ依存するような思考を持たない。あきらかにそれは長所ではなく短所であり、恐らく彼という人間のそれが限界であった。

 鬱蒼とした気分は湯に浸かっても流れ落ちることなく、身体だけはすっきりして風呂から上がると、少女は砂虎の子の横ですやすやと寝息を立てていた。その表情が隣の獣と同じく、まるで巣穴の中で安心しきって眠っているような小動物そのものに見えて、彼は唇をかみ締めた。

 ろくなものじゃない。この少女も、成長すればその少女を食い殺しもする猛獣の子供も、光り輝く一方で強い闇もあるこの街も、そんな何もかもを許容する世界も。

 そして、なによりもそんなことを思う自分自身が最もろくでもないのだと、冷静にリトは断じた。



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