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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 砂上の幻聴
59/107

 天幕に沈黙が落ちた。

 互いの思考を読むように自然と呼吸が薄くなる。サリュは旅の同行者へと視線を向けた。

「戦って、言ってたけれど」

「あの口振りからすると相手は部族ではないな。どこかの町か」

 ユルヴがつまらなそうに応じた。


 彼女達の部族に町との諍いがあったのは少し前のことだった。彼らの存在を疎んだ他の部族と、それを利用しようとした町の勢力の図った陰謀。

 そのことを思い出したのはもちろんサリュばかりではなかった。部族の代表者として町との一直即発の危機をおさめた当の本人である少女が言う。

「我々をひきとめず、どこに行こうとしているのかも聞かない。不可解だな」

「ユルヴがいたから?」

 今から戦になるというのなら、外の人間には警戒しているはずだった。むしろ尋問や身柄の拘束まであってしかるべきだが、それをしないのは同じ部族の者のよしみということだろうか。


「どうだか」

 ユルヴは皮肉そうに口唇を歪めた。

「情報が漏れるのを嫌うのも間諜の類を疑うのも、それが始まるまでだ。今日の晩が前宴というなら、すでに間に合わないと踏んでいるだけかもしれない。それとも、あえて流そうとしているのか」

「――罠?」

「それもありえるというだけの話だ。状況がわからん。疑えばどうとでも思える」

 サリュはシオマを見た。ウディア族の女性、土巫子と呼ばれる役柄らしい人物は顔を俯かせて沈黙をたもっている。サリュにならったユルヴも視線を向けた。


 二人の視線を受けた女性が顔をあげた。

「……助けて、くれませんか」

 震える声での懇願に、ユルヴが軽蔑の色を浮かべる。

 サリュは訊ねた。

「あなたをですか? それとも、この集落の人々を?」

「私達を――、です。お願いします。助けて。助けてください」

「状況がわからんと言っている」

 苛々とユルヴが言葉を刺した。

「何が起こっているかを聞かせろ。話はそれからだ」


「人が。死ぬんです、大勢が」

「戦があれば人は死ぬ」

「違います。もっと大勢が、この部族だけじゃなくて。もっとたくさんの人が死んでしまう」

 シオマが強く首を振った。表情に必死な気配があった。


「西から大勢がやってきます。彼らは砂一面を赤く変えて。だから、みんなみんな、血の海のなかに溺れていってしまうんです」


 サリュとユルヴは顔を見合わせた。



 クリスは日課としている早朝の鍛錬を、今までどんな時でも忘れずに生きてきた。

 彼女が朝、起床してまず剣を振りに出向かなかったことはほんのわずかで、それは主に体調的な理由によるものだった。起き上がることさえできれば、彼女は天候が荒れれば荒れたなかで剣を振った。自身の内心が荒れていても同様だった。

 むしろ自分に迷いや恥や、後悔がある時にこそ彼女は剣を求めた。反復行動へと身をおくことで自らの在り様を思い出そうとするかのような、それは一種の逃避にも似た行為ともとれた。


 その日も彼女は朝食の前に、柄のなじんだ剣を握って庭先に出た。

 遠く帝都から寄せて植えられた華やかな花壇を抜け、かぐわしい香りを鼻腔に吸い込みながら拓けた場所まで出る。息を整えて上段にかまえた。

 構えた得物はずしりとした重さのある長剣で、馬上剣とも呼ばれるそれは、女性としては長身であるクリスの身にもやや長大な代物だった。片手では自在に振り回すことも難しい。元々、そうした用途にあるものではなかった。


 馬上剣とは馬の勢いをそのまま相手に叩きつけることを目的とする。振り下ろす、なぎ払う。そこに必要とされるのはまず一撃の重さである。

 騎馬の駆ける速度と勢いを用いた衝力でもって相手を蹂躙するのがこの時代のツヴァイ重騎兵の特徴だった。弓を主力武器とするボノクスの騎馬兵とは兵種の興りから異なる。ツヴァイの精神的な先祖ともいえるガヘルゼン王国を滅亡においやった東方からの侵略者。ツヴァイ騎兵という存在は、そもそもがそれに対抗する為に考えられていた。


 歩兵を主力としたガヘルゼンと同じく、ツヴァイでも主力兵種はあくまで歩兵である。

 隊列を組み、長槍を揃えて行進するガヘルゼンの歩兵は、遠くから弓を放ち、大きく迂回機動を繰り返して翻弄する東方の騎馬兵にまるで対抗できなかった。それが後にツヴァイの柔軟に対応できる歩兵運用の在り方を育て、しかしそれでも歩兵ではどうしたところで抗えない騎馬の機動性に対する備えとして騎馬運用は練られた。

 大水源という不動の水場を手にいれ、そこに固執することとなったガヘルゼンやツヴァイと異なり、ボノクスに代表される人々はもともとが遊牧騎馬民族である。彼ら、日常生活に馬を扱う人々とそうでない人々で、どちらがより巧みに馬を扱えるかなど比べるまでもないことだった。馬の扱い、弓の腕。いずれも同じ舞台で競っては勝利は望めない。


 故に、ツヴァイ騎兵は巧さではなく決戦兵科としての強さに特化する道に進んだ。


 ツヴァイ歩兵は硬直した密集陣形ではなくより少数ごとのまとまりで柔軟に対処し、長槍ではなく短槍をもって行軍する。手に持った槍を投擲することも含めた前進で、主力歩兵が敵を誘導したところで現れるのがツヴァイ騎兵である。横合いや後背を突くだけではなく、彼らは正面からも敵に立ち向かった。遠くに距離をおく弓兵や弓騎馬にも、肉薄して相手を叩く。

 それによる被害は決して少なくなかった。敵ばかりでなく味方も含めて、多少の損害を呑みこんで敵勢を叩き伏せることが目論見として始めからあるからだった。だからこそ、ツヴァイで騎馬を駆る者は誉れある人々として特権的な地位が与えられ、貴族という名称で呼ばれている。


 そうした騎兵の為の馬上剣術と、地面に足をつけて行われる剣術が全く異なるのは当然だった。

 剣先の遊びや間合いを計るよりも、クリスは一撃の重さに注力して剣を振るう。身体が流れるほどの重さを振りぬく度に、風を切る音が鋭く鳴った。

 半刻ほど黙々と長剣を続けた後に、彼女は持参したもう一振りの短剣を手にした。一般的なものより刀身が長く、鍔のない鞭剣と呼ばれるそれを利き手ではない左で半身に構え、一転して身軽な挙動で素振りを始める。突く、避ける、といったものが主な動作だった。


「――クリス様」

 背後に現れた執事が声をかけた頃には、クリスは全身にうっすらと汗をかいていた。上気した肌に衣服がはりついている。

 剣を降ろして振り返る。鍛錬中、邪魔にならないよう緩く編んでまとめられていた長髪を解放しながら彼女は口を開いた。

「ケッセルトはどうだ」

「依然、そのまま滞在されているようで、昨晩遅くに着かれてから動きはありません。一晩中誰かの出入りはなく、裏口の存在も確認できません。居るように偽装している、ということはないと思いますが」

「こそこそと夜に紛れるのを好む奴ではないからな」

 あの男なら、たとえ盗みを働くのにも玄関から堂々と入っていきそうだ。そう思わされることがまずケッセルトの掌の上である可能性を考えて、クリスは首筋に張りついた後ろ髪をうっとうしげにかきあげた。執事の手から拭布を受け取って汗をぬぐう。


「家主の身元は」

「はい。昨晩の宴に呼ばれた歌い手の一人であるようです。気分を害したということで中座し、介抱を受けたあとに確かにケッセルト様の手で送られています。名前はミセリア・ラグル」

「知らないな」

「まだほとんど無名の、売り出し中の若手といったところです」

「誰の囲いだ。コーネリル男爵か?」

「いえ。フリュグト氏の最近のひいきということで。昨晩も彼からの紹介で招かれていたようです」

 脳裏をさらってみるが、若い女性の歌い手の目立った覚えはない。かわりに聞き覚えのある名前に、クリスはすぐにその詳細を思い出した。

 昨日の宴席にも姿があった、評議会の一人でトマスでも名の知れた大商家の一人。うっかりと余計な一言を漏らして、仲間達から白い目で見られていた。


 その男が金主として関係のある女性宅にケッセルトが寝泊りしたということがもたらす意味をクリスは考える。無関係であるはずがない。評議会の意向か、あるいは失態を挽回する為に男が独断で動いたということも考えられた。ケッセルトの女好きは、隠す意味もないほど広く知れ渡っている。

 ケッセルトを家に泊まらせた女性に誰かの意思が働いていることは明白だが、それを受けた男の意図は疑問だった。いや、ある意味では明らか過ぎてもいる。ケッセルトという男は、目の前に果実があれば必ずもぎとって食してみる男だった。


「……奴の船立ちは昼だったな」

「はい。既に船の準備は整っているようですが。突然の変更ではなく、前もってそうした予定だったようです」

 河川が混むのは朝夕だが、その煩雑さをというよりは単純に予定に急かされることを嫌ったのだろう。らしいといえばらしいが、今のような状況ではあらかじめ意図してのんびりとした出立を予定していたように思えるのが腹立たしい。用があれば来いと、男は言下に告げていた。

 もちろん、言われるまでもなくクリスはそのつもりでいる。

「今日の予定は後に回せ。馬車の用意を。食事のあと、すぐに向かう」

「直接出向かれるおつもりですか」

 執事が驚いたように言った。

「まずは使いの者をやって連絡を図るべきでは。私ども以外の目も、当然集まっているはずです」


「時間が惜しい」

 クリスは短く答えた。

 男がその気になれば、船はいつでもこの街を出ることができる。昨晩、自分の気の緩みから話の途中で梯子を降ろされた身分で、周囲を気にしている状況ではなかった。


 彼女の忠実な執事が浮かない顔でいるのには理由がある。昨晩、クリスは同伴の相手を伴わずに一人で屋敷に戻った。それだけで礼を逸した行為であり、同伴した相手へ怒りをおぼえるのには十分だったが、その恥は男だけでなく、その恥を受けた相手にも同じように降りかかる。

 先に帰されたというだけでも心無い者から失笑されかねないのに、その相手の家宅に翌日押し入ったということが知られれば、それで何を噂されるかわからない。名誉と誇りを尊ぶ人々にとり、外聞は実際と等しく、時にそれ以上に大切なものだった。


 執事の顔色からそれを察したクリスが、からとした表情で笑った。

「かまわん。私は昨晩、女としてあそこに出向いたわけではない。相手の謝罪を待って自宅にこもっているような真似はごめんだ」

「……かしこまりました」

 主人の意を動かしがたいことを悟り、男は頭をさげた。主人の潔い性根に感じ入りながら、同時に内心で憂う思いもある。女として。騎士として。本来、それは同線上で扱われるべき問題ではないはずだった。


 顔を伏せる執事の表情はクリスには見えない。彼女は湯浴みをしてから朝食に向かい、食後の葉茶を飲まずに部屋に戻って着替えを済ませた。好みの動きやすい衣装に身を包んで剣を取り、用意された馬車に乗りこむ。


 報告にあった家宅はトマスの上層区にあった。

 トマスの内円に位置するその地区には貴族や大商家の邸宅が立ち並ぶが、トマス以外に居を持つ外の人々の別荘なども多い。また、本人は富も名声も不足しているが、貴族や大商家達と関わりがある者達が住む一帯もあった。

 ミセリアという歌い手の住居は、まさにそうした場所に存在していた。

 上層区では珍しいやや密集した住宅群は、それらの主がお忍びで通う為に都合がよい。外縁や中円区の建造物に比べればはるかに整理され、小奇麗な立ち並びではあったが、どこか違和感にも似た空気を感じるのは、彼女の先入観の故かもしれなかった。


 多くの男と女が訪れ、請われ、あるいは買われて一夜を過ごす。それらに生理的な不快感はあっても、嫌悪や拒絶にまで傾くほど彼女も物を知らないわけではなかった。

 できるなら立ち寄りたくない類の場所ではある。だが、自分の躊躇ににやにやと笑う男の表情を思えば、多少のためらいはすぐに吹き飛ばされて、クリスは作りのよい扉の呼び鐘を叩いた。


「――どなた?」

 気だるげな声とともに現れたのは、癖のある髪を長めに伸ばした女性だった。十分に目鼻立ちの整った、しかしどこかそれだけで終わらない雰囲気がある。外見から推測される年齢はクリスとそう変わらなく見えた。

「朝早くから、突然失礼します。私はクリスティナ・アルスタと言います」

 女性はきょとんと瞳を瞬かせてから大きく見開いた。

「わお。アルスタの女騎士様。ウソ、本物?」

 自分の偽者など見たことがなかったが、クリスは生真面目に頷いてみせる。

「こちらにケッセルト――カザロ男爵がいると伺って来ました。取次ぎを願えますか」

「ああ、そういうこと。びっくりした。ええ、いるわ。まだ寝てるけれど――ええっと。とりあえず入って。あ、失礼。入ってくださいな」

「ありがとう」


 足を踏み入れたクリスは意外な感想を抱いた。

 家の中はひどく平凡な、そう言って悪ければ家庭的な温かみのある内装だった。派手さはなく、隅々まで手入れが届いて清潔感がある。窓辺に飾られた花の色彩が際立って、室内の印象をさっぱりとまとめていた。

 家主である女性は歌い手といった。酒場や食堂で日銭を稼ぎ、名が売れれば相応の舞台で活躍することもできるが、ほとんどの者はそこまで大成することはできない。


 トマスにはそうした詩人や歌い手を囲い、金銭的に支援している裕福層が存在する。もし目をかけた相手が評判になれば、支援者は見る目があったと褒め称えられる。彼らにとっては、敷地に泉をひき、華やかな庭をつくるのと大差ない娯楽じみた酔狂だった。

 ほとんどの詩人や歌い手はその日を生きるのにも苦しんでいるのが現実である。裕福な貴族や商家達には彼らの交友があり、そこから人気がつくことも多かったから、金主を掴むことは成功する為にも必要なことだった。


 最近では、始めからそれを目的とする歌い手もいる。将来性と、歌。あるいは自分自身の肉体を売り込む歌い手は確かに存在していた。

 その影響もあって、彼らの社会的立場は決して高くない。娼婦と変わらないと考える者もいた。


 クリスは一般的な貴族から大きく外れた価値観を有しているわけではないが、本来の頑固な性格からすれば柔軟な考え方の持ち主だった。学生時代に連れあった人物の影響が強い。全ての職業に貴賤はないというまでの開明さまでは持ち合わせていなかったが、相手の職だけで全てを推し量ることは愚かだろうと考えていた。

 その彼女にしても、やはり偏見がまったくないわけではなかった。彼女が感じた意外さはそうした意識から生じたものだった。


「お茶をいれてきますね。ちょっと待っててくださる」

「はい」

 クリスが木椅子に腰掛けて、すぐに人の気配が戻ってきた。葉茶を淹れたにしては随分と早いと思って顔を向けて、彼女は顔をしかめた。

「なんだ。ずいぶん早いな」

 ケッセルトだった。たった今起きた様子で、頭髪が跳ねて顎髭が伸びている。下着一枚をつけて姿を現した男に、不快な気分を露わにクリスは言った。

「話がある。が、その前に服を着てこい」

「野郎の裸なんざ、戦場でいくらでも見慣れてるだろ」

「ここはトマスだ。戦場でも、お前の町(タニル)でもない」

「へいへい」


 頭をかきながら去っていく男と入れ替わりに女性が戻った。 

「あら、ケッセルト。おはよう」

「ああ。俺にもいれといてくれよ」

「わかったわ」

 一瞬、男女が重なる気配に、クリスは不自然にならないように視線を外した。 

「お待たせしました。安物の葉っぱしかなくて、ごめんなさい」

「いえ。ありがとう」

 手渡された碗から立ち昇る湯気から香りを吸い込んで、クリスはゆっくりと一口した。相手の視線に気づく。

「美味しいお茶だ」

「ふふ、ありがとう。ああ、やっぱり本物ね。昨日からびっくりすることばかり」


「昨晩、コーネリル男爵の屋敷で歌われていた方ですね」

「ええ。もしかして、聞いて頂けたのかしら」

 化粧気をなくしてなお挑発的な魅力をたたえた瞳がクリスを見た。クリスは正直に答えた。

「すみません。その場に居合わせなかったようで、あなたの歌声を聞いていません」

 あははと女性は笑った。

「正直な人。ええ、わかってたわ。あたし、自分を見てくれた人のことは覚えてるから。あなたのことは見かけたけど、ずっと遠くにいらっしゃったわ。怖いくらい真剣な顔で、思いつめてるようだった」

「観客の顔を全て覚えているのですか」

「全員かどうかはわからないけれど。ま、あたしなんかが歌う舞台だって大きなとこじゃないしね。そんな難しいものじゃないわよ。――ああ、言葉遣いが戻ってますね、ごめんなさい」

「気になさらず。いきなり押しかけたのはこちらだ」

「ありがと。そう言ってくれると楽だわ。興奮してるから、どうしても素になっちゃうみたいで」


「興奮?」

「だって有名な貴族様に二人も会えたんだもの。彼のことは、聞くまで知らなかったけれど――あなたはこの街でもとても有名な方だから。お会いできて光栄だわ」

 クリスは碗に口づけて表情を隠した。帝都から来た自分がそれなりに知られた存在であることは彼女も自覚している。クリスが気になったのは女性の言った他の部分だった。 

「はじめまして、だなんて自己紹介してもいいのかしら。あたしはミセリア。ミセリア・ラグル。酒場や食堂で歌ってるわ」

「はじめまして、ミセリア」

 クリスは差し出された右手を柔らかく握る。応じられたミセリアが驚いたように言った。


「――あなたも。今まで話してきた貴族様とは随分印象が違うのね。これってどういうことかしら。あたしの出会ってきた連中が酷いハズレだったのか、それともあなたや彼がよほど変わってるだけ?」

「自分のことはよくわからない。あの男に関しては、間違いなくあなたの感じ方は正しいでしょう」

 ミセリアがくすりとして、それから困ったように眉根を寄せた。

「もしかしてあたし、あなたに怒られないといけないのかしら」

「怒る。何故ですか」 

「勘違いならいいんだけれど。あなたと彼がどういう関係なのかなって」

 ああ、とクリスは頷いた。

「私とあの男は全くそういう間柄ではありません。ただの古い知り合いです」

「そうなの? それならいいけど。ん、いいのかどうかよくわかんないけどさ」

 ミセリアが笑う。庶民じみた笑い方はあまり上品ではなかったが、不快さはなかった。


 クリスは碗を置き、ちらりと廊下に繋がる扉が開く様子をないことを確認した。

「ミセリア。あなたは歌うようになって長いのですか」

「歌うのは子どもの頃から好きだったわ。お金をもらうようになってからは、まだ全然ね。新人もいいとこよ」

「それで昨日のような宴席で歌えるのなら、大したものだ」

 ミセリアがクリスを見た。表情に嫌味はない。

「そうね。ありがたいことだわ。嫌なこともあるけれど、面白いことだってあるし。今日みたいにいきなりびっくりなお客様が来たりするしね」

「そこはとんでもない色男と出会えたり、と言って欲しいな。ミセリア」

 顔を洗い、髭をそったケッセルトが現れた。昨日の礼服をだらしなく着崩している。


「あ、お茶いれるわね」

「舌が火傷するくらいのにしてくれ」

「はいはい。ついでにご飯も作ってくるわ。そちらは、朝ごはんは?」

 クリスは首を振った。そう、と女性が部屋から立ち去ってからケッセルトが口を開く。

「俺がいない間に何か聞き出せたかい」

「別に。貴様が話してくれればそれで事足りる」

「そりゃそうだ。しかしお前、こんな朝早くからってのもだが、使いも出さずに直接乗り込んでくるかね。そんなに慌てなくても、後から様子を窺いにいくつもりだったんだが。昨日の侘びもあることだしな――ああ、昨日は悪かった。何せ急なことでな」

 空々しい謝罪の台詞を聞き流して、

「私が来たのは、お前の思い通りに話が進むのが気に入らないからだ」

 クリスは叩きつけるように言った。

「ケッセルト。貴様は何を企んでいる。私を昨日の晩餐会に連れ出して、いったい何を連中から引き出した?」

 首を回しながら、ケッセルトはあくびとともに伸びを打った。

「相変わらず、牽制も誘いもなしか」

「別に答えてもらおうとは思っていない」


「ほう」

 面白そうに片方の眉を持ち上げる男に、クリスは冷淡な声音で告げる。

「私は言った。知りたいのは、貴様が敵かどうかということだ」

 ケッセルトの目尻が動いた。

 男は軽薄な笑みを浮かべたまま答えない。ふと、沈黙の中で耳を澄ませていたクリスが異変に気づいた。

「音が消えたな」

 いかにも偶然を装って半開きにされていた扉から、小気味よく響いていた調理音が途絶えている。ケッセルトがにやりと笑った。

「いい女だろ。これから少しの間は、秘密話ができる」

 クリスは眉をひそめる。

「……垂らしたのか。たった一晩で手がはやいことだ」

「そうかね」

 ケッセルトは言った。

「いい女ってのは賢いもんだ。ちゃんと逃げ道も用意しておくし、いざって時の渡りもつけておくもんさ。その上で隙まで見せてくれるんだから、文句の付けようがない。あとは相手の男の器量次第だな」


「それはお前のことか? それとも評議会の連中か」

「さて。女を使うなんていうのはどこでだってありふれてるだろうよ。女に使われるってのも、案外嫌いじゃないぜ、俺は」

 ひそめた眉を、クリスはさらにしかめさせた。くだらないやりとりに費やす時間はなかった。

「それで。あちらに話の中身がいかない今この時、お前は何を語ってくれる」

「おいおい。それをこっちに投げるのかよ」

「私の問いはすでに発してある。立場もな」

「敵か味方か。世の中はもう少し複雑なもんじゃないのかね。生まれてからずっと、こいつは自分の敵か味方かなんて色分けしてきたわけじゃねえだろうに」

「私の敵か否かではない。ツヴァイの敵か否か、だ」

「何が違う」


 ケッセルトが口の端を吊り上げた。笑みというには毒気のありすぎる表情で言う。

「なあ、クリス。ちょっとした個人的な興味なんだがな。もしあいつが、ツヴァイに敵対するような何かを起こしたら、その時お前はいったいどうするんだろうな」

 男の挑発にクリスは乗らなかった。冷ややかに応える。

「それが答えと受け取るぞ」

 席をたちかけたクリスに、嘆息したケッセルトが言った。

「待てよ。ったく、俺が何を言ったところでどうせ信じはしないくせによ」

「当たり前だ」

 クリスは鋭い眼差しで見下ろして言った。

「だが、お前から聞かされた回答次第で、これからの対応を考える必要がある」


「聞かされたのが罠だったら? なにせ相手は学生時代から信用ならない男だ、ありえるだろうぜ」

「その時はその時だ。罠ごと斬り伏せて、叩き伏せる」

 まっすぐな視線を見上げたケッセルトが目を細めた。長い乾季と短い雨季の間に極めて稀に訪れる、凪いで穏やかな日差しを仰ぐようにして、

「クリス。愚直ってのは美徳じゃねえよ」

「今さらこの性格は変えられん。だが、こんなものでもやり方次第で、利用のしようはあるだろう」

 ふん、と男は鼻を鳴らした。

「やっかいなもんだ。あいつが甘やかしたせいだな」

 クリスはむっと顔をしかめた。強い口調で言い返す。

「ニクラスは関係ない」

「はいはい。その話はまた今度だ、すぐに女が戻ってくる――で、お前さんへの答えだが。わかりきってるな。俺は俺の味方だ。俺が楽しければそれでいい」

 クリスは黙って先を促した。男は言った。

「水天教連中に聞かれたら目を剥かれるだろうが、俺は火遊びってのが好きで好きでたまらんよ。できれば大きいのが、轟々と燃え盛ってくれるのを見てみたい。それもできれば最前列、熱さを感じられるくらいの距離でな」


 念のためにと腰に佩いてきた剣の存在をクリスは意識した。

 男の赤裸々な告白は、たとえそれが冗談だとしても、一つの町を預かる者として許される範囲を逸脱していた。騒乱を望むどころか、渇望しているような言い様。表情はあくまで普段と同じく軽薄だが、目の奥にぎらりとした輝きがちらついている。

 この男は危険だ――その想いは、今に始まったことではない。しかしこの時、クリスはこの場こそが目の前の人物を斬り捨てるべき機会ではないかと案じた。思考に反応した彼女の右腕が動きかける。男との相対位置と、相手が反応してきた場合の対応とその後の展開が脳裏に浮かびあがり、最終的にはその全てを頭の外に掻き棄てた。


 一瞬の彼女の躊躇を見守るようにしてから、男は言った。

「だから、お前さんが俺を楽しませてくれるってんなら。少なくとも俺にとって、お前は敵じゃないな。アルスタ女爵」

 あえて爵位で呼んだ相手に、クリスも同じく返す。

「ではカザロ男爵。貴公に改めて問おう。昨日、何を聞いた」

「色々と」

 男は言った。

「それを全部語るにゃ、時間がなさすぎるが――とりあえず面白い話がある。俺とお前にも関係あることだ」

「聞かせてもらおう」

「聞かせてやるさ。クリス、お前は昨日の話を聞いてどう思った。例の河川の件だ」

 クリスは眉をひそめて、昨日耳にした話を思い出した。

「実現するなら、素晴らしいことだ。本当に為し得るのかは疑問だが」

「それだけか?」

「何が言いたい。ラタルクに新しい水場が湧いたのは確かなのだろう。それを利用して河川ができるというのなら、悪い話ではない。貴様もそう言っていたはずだ」


「そりゃそうだ。河川水路はツヴァイの骨格、そして血脈だからな。ツヴァイの栄えはそこにある。自分の土地にそれが通るってんなら、領主なら誰だって諸手をあげて歓迎だとも。河川から運ばれてくる人、物。そこにかかる税。辺境のちんけな領主が、一転して莫大な富を稼ぐ成金身分に早がわりだ」

「そんなものを喜ぶ貴様とは思えんが」

「金が嫌いな奴はいねえよ。金があれば兵どもを飢えさせないですむし、いい装備も与えてやれる」

「――それで?」

「金の話はいい。純粋に、ありえない話なのさ。水源が見つかってまだ一月だ。どんなに素早くその情報を仕入れてもそれ以上はない。たったその間にだ、砂海をぶち抜く河川水路の計画なんて立てられるか?」

 男は両手を広げた。

「おかしいだろ。費用はトマスの大商家達が財布になって賄えるかもしれん。人と物はツヴァイ中から掻き集めるにしたってな、そんな構想が一月やそこらでまとまるわけがねえ。今まで似たような大工事をやってきた実績があってもだ」

「……つまり、ケッセルト。貴様が言いたいことは」

 唇から漏れかけた言葉を呑みこんで、クリスは男を待った。自分の予想を恐れたのではなく、しっかりと目の前の相手の口から聞きだしておくべきだと判断していた。

「決まってる。一月じゃ無理なら半年、一年。あるいは数年か。懐かしいな、クリス。俺達が一緒に戦ったのはもう五年も昔になるぜ」


 クリスは息を呑んだ。

 ラタルクは百年以上前にボノクスから侵攻を受けて以降、長くツヴァイの元から離れていた一帯である。今でこそ一切が枯れ果てた不毛の地であるが、それまでラタルクは水場と動植物に恵まれた比較的には肥沃な土地で、だからこそ係争地として長く両国からの槍が突き合わせることとなった。


 ツヴァイ帝国皇帝フーギが命を下し、結果的にはそれが引き金になってラタルクは枯渇するが、それまで活発な軍事行動を控えていた皇帝フーギが何故ラタルク出征への意思を固めたのか、その理由は奪還という名目以上のものは公にされていない。いくつかの信頼性のある話もあれば、笑い話のような噂も流れた。

 いずれにしても、帝国に生きる者にとってはそうした下達があったという事実が全てだった。決断を促した理由を知る者や、内容を訝しむのは一部の者だけである。

 そして、ケッセルトの告げた言葉はまさしくそれを示唆していた。


 不可解ではなくとも、意外な驚きをもって迎えられたラタルク出征。数年前から練られていたはずというラタルクへの河川水路計画。戦争で枯れたラタルクで新たに水源が見つかった途端、トマスの商家達から上がったその計画。

「戦争は金がかかる。それでも戦争が起きるのは何故だ。儲かるからだ、そうだろう」

「金儲けの為の戦か」

 クリスは吐き捨てた。

「少し違うな。連中にとっちゃ、戦争そのものが金儲けなのさ」

 ケッセルトは悟った聖者のような口振りだった。

「あるいは金儲けこそが、か? 俺達のラタルク戦役はとっくに過去のことだが、連中には終わってなんかなかった。戦争は今も続いていて、ずっと燻り続けていたそれが、燃えあがろうとしてる。これから起こることはつまりそういうモノだろうよ」



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