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目標となるべき景観に乏しい砂海を渡る際、昼よりも夜のほうがむしろ方角を見失わずにすむのは、月や星が旅人の頭上で燦々として行き先を示してくれるからである。ほとんどの地域では一年を通じて極めて長い乾季が続き、曇った空がそれらを覆い隠すことも稀だった。
一方、夜間には見通しの悪さという悪条件も存在する。障害物がありえない砂海であっても旅人が夜の闇を恐れる理由は彼らの足元にあった。
砂海の流れは場所によって異なり定まらない。昼間なら目に見えて回避できる流砂の類にも、夜間には知らず知らずのうちに足を踏み入れてしまう恐れがあった。
それで流されるだけですめばまだましな事態といえた。全てを呑みこんでしまう“沼”に足をとられてしまえば、空にどれほどはっきりと標があっても意味がなかった。星は行く先を示しても、奈落に落ちようという憐れな旅人に救いの手を差し伸べはしない。
例え以前歩いたことがある道でも、そこに新しい流れができていないとは限らなかった。砂海という未知の存在に対して向かうのならば、考えうる危険性は常に最大限回避すべきだった。
サリュ達が日が昇らないうちに出発をしたのは、この辺りが野営することができるほど安定した場所だったからだが、加えて先導するユルヴの存在が大きい。サリュも長く砂海を放浪してきてはいたが、生まれてから砂海と共にあった部族の少女の経験は比較にならなかった。
それでもなお慎重な足取りを志し、彼らは黙々と闇の中を歩いた。
やがて東の空にうっすらとした気配がたちあがり、靄のような光が滲み立つ。空を包んだ闇は、ある瞬間を迎えることで一息にその色を塗り替えた。僅かに頂の端を見せる金色の輝きを視界に目を細め、サリュは口元に巻かれた防砂布をずらして息を吐いた。薄く伸びた乳白色が目の前で散った。
傍らに目を落とす。彼女の横を随伴していた砂虎が見上げていた。狩りにいきたいのだった。サリュは頷いて、クアルの耳とその腹を大きく往復して撫でた。一回、二回。最後に別れの意味で喉を掬い上げる。そのまま腕を流して前方に仕向けると、くあうと小さく声をあげた砂虎が駆け出した。
優雅に地を蹴る後ろ姿を見送っているサリュに、隣に並んだユルヴが言った。
「部族の人間と鉢合わせしなければいいが」
「少し自由にしてきてって伝えたから。大丈夫だと思う」
サリュは答えた。
部族の集落に向かっているのだからしばらく合流はできない。アンカ族の人々はクアルを受け入れてくれたが、そうした好意は他からはありえなかった。
「まあ、好んで砂虎にかかろうとする馬鹿もいない。命知らずにも程があるからな」
「……そうね」
砂海の生態系、その頂点に立つのが砂虎である。普通の人間であれば恐れ、近寄ろうともしないだろう。それを全く恐れず、歯牙にもかけなかった男を彼女は知っていたが、あのような人物がそう何人もいるとも思えない。
「あの砂虎とは、どういった経緯なのですか?」
二人の後ろを歩く男が訊ねた。
「いや、わたしも長く旅をしているつもりですが、砂虎と一緒に旅をしている人なんてはじめてお目にかかりましたよ。砂虎も、人の手で飼育が可能なのですね」
サリュは応えなかった。飼育という言葉が気に入らなかったのだった。
それを察したのか、それともはじめから答えなど期待していなかったのか、しばらくしてから背中に届いた声は重ねた問いではなく、歌声だった。
朝の光景の中、雄大に駆ける獣への賞賛と憧憬。そんなような歌。自分にもわかる言葉で語られる歌詞の内容を頭に思い浮かべながら、サリュは小さく息を吐いた。歌とは便利なものだ。男の奏でる歌につい共感できてしまうから、その歌い手にまで悪意を抱きづらい。
「うるさい男だ」
ユルヴが言った。その言葉に含まれた苦々しさを少し意外に思って、サリュは彼女にだけ届く声で訊ねた。
「ユルヴにも、苦手な人はいるのね」
仏頂面の横顔が答える。
「町には理解できない輩が多い。……見えたぞ」
サリュが彼女の見据える方角へと顔を向けると、視界の先、まだ透明な闇に濁された奥に何かが見えた。広大な砂漠の隅に集落の群れが密やかな姿を現している。
まだ距離は遠く、サリュにはそこに動く人影を見ることはできなかったが、日の出とともに人々の一日も始まるから、もう少し近づけば向こうからも視認されるだろう。部族の一人と客人が幕から姿を消していることに気づいていたら、騒ぎになっているかもしれない。
「いきなり矢を射掛けられるでもないだろうが。用心はしておくべきだろうな。詩人。余計な面倒は避けたい。向こうで我らの連れのことを口にはするなよ。お前もだ」
ユルヴが鋭い眼差しで言った。
「恩を徒で返せば、必ず報いは受けさせる」
「わかっています」
ラディが頷いた。その隣を歩くシオマは首を縦に振りながら、顔色が優れなかった。
「……水、飲みますか?」
「大丈夫。です、――ありがとう」
サリュが声をかけても、女性は目をあわさない。それを見たユルヴが鼻を鳴らした。
ユルヴが言ったように、これから向かう部族の女性の様子は何か胸の裡に秘めていることが見え透いていた。その秘められたものがよいことか悪いことか考えるまでもなくとも、あえてサリュが集落までの同行を引き受けたのは、先ほど語った通りに縁を感じたからだが、それだけでもない。
ワームというひとまずの目的地に近づきつつあるサリュの胸中にはある感情が生まれていた。それが不安、それから恐れにも似たものであることに、彼女も少なからず驚いている。理由はわかっていた。だからこそ彼女は戸惑った。
「どうした?」
「ううん。行きましょう」
サリュは首を振った。心配そうに見るユルヴに微笑みかけながら、この少女のようになれたらいいのにと思う。自分より年下であるはずの少女だが、彼女は自分などより遥かに強かった。
そんな彼女を好ましく思い、羨望して、同時にそれだけでない気分が身体の内側を這って、サリュはわずかに顔をしかめた。今度のそれは、彼女にもよくわからない感情だった。
日が昇りきる頃まで歩き、ようやく一行は集落の下に辿り着いた。
近づきつつある彼女達を遠くに見かけた部族の数人が待ち構えるように立っている。シオマの姿を見つけた一人が大きな声をあげた。
「土巫子!」
「……巫子だと? お前は神子なのか」
ユルヴが目を瞠る。問われたシオマは無言で目線を俯かせた。
「土巫子?」
訊ねるサリュにユルヴが答えようとする間に周囲は騒然となっている。大声を聞いて、集落から部族の人間が姿を現していた。殺気立った様子で一同を取り囲む人々は皆、手に武器を携えていた。
「神子が戻ったぞ!」
「町の人間も一緒だ、捕らえろ! 簀巻きにして吊るせ!」
「なにやら物騒ですねえ」
獲物をとって集まる人々を眺めながら、緊張感のない声音でラディが呟いた。ほとんど憎々しげにユルヴが言う。
「貴様のせいだろうが。部族の守り手をさらって逃げ出すなど、何を考えている」
「いえ、ですからそういうわけではないはずなのですが……」
困ったように男は苦笑した。
既に彼女らの周囲は取り囲まれ、村人たちは今にも襲い掛かってきそうな気配だった。舌打ちして、ユルヴが声を発した。
「わたしはアンカ・カミ、セオイカの子ユルヴ。砂海に迷う者を見つけて送り届けたことへの、これがウディアの返礼か!」
凛とした声には少女と思えない迫力がある。頭に血を上らせた連中を制するまではいかなくとも、その勢いをそぐのには充分だった。数人が近くの者と顔を見合わせる、一同の誰かが扇動の声をあげる前に、彼女は続けた。
「天意に添う覚悟があるなら、名乗りをあげてかかってくるがいい。無謀を讃えて、矢をもって応えてやろう!」
弓をかまえる。影を縫われたように、囲んだ集団が動きを止めた。
サリュは防砂具の下で短剣を握りながら、少女の気迫が虚勢であることに気づいていた。本当に殺す気があるのなら、言葉と同時に矢が放たれている。ユルヴという少女はそういう人物だった。
たった四人に大勢で対する集落の人々が、ユルヴの言葉に射すくめられて動けない。そこから先へ状況を打破する為に、シオマへ視線を飛ばしてサリュは顔をしかめた。恐らくただ一人今の状況を説明しうる人物であるその相手は、目の前の事態に瞳を閉じて小さく震えるばかりだった。
「相も変わらず、短気な性分をしとるな。アンカの牙巫子よ」
皺枯れた声が言った。
一人の老婆が集団の中から姿を見せる。相手を見たユルヴがにこりともせずに答えた。
「まだ生きていたか。壮健そうで何よりだ、ギナの大婆」
「神子儀の時以来か。口の悪さもまま、セオイカもさぞ手を焼いておるだろうて。皆、客人じゃ。客幕に連れろ。シオマ、お前が案内しなせ」
老婆の声を受けて、人々が不満げな表情で武器を下ろす。
不審と警戒の眼差しを向けながら散っていく人々を窺いながら、サリュがユルヴに目を向けると、少女は肩をすくめた。今は従っておくべきだと視線が言っている。
頷いて、サリュは改めてシオマの様子を窺った。集落に来る前から顔色の良くなかった彼女が、さらに青ざめさせている。それが流血沙汰になりかけた目の前の事態に対してのものか、それともこれから起こることを予想してのものかは判断がつかなかった。
四人は家畜を囲う大柵の周囲に立ち並ぶ円幕の一つに案内された。馬を繋ぎ、水を与え、荷をおろしてから幕の中に腰をおろす。夜のうちに歩き始めてまだ数刻だが、腿には鈍い疲労が残っている。冷えた時間から歩き始めたせいだった。
「説明してもらおう」
重く砂を含んだ外套を脱ぎ捨てたユルヴが口を開いた。入り口に申し訳なさそうに立つ女性に向けて、険悪な雰囲気を発する。
「何故、神子柄が自分の部族を捨てるような真似をする。役割を忘れたのか」
「どういった役割なのですか?」
能天気な口調でラディが口を挟んだ。
「お前には聞いていない」
「ああ、すみません。興味があったもので。サリュさんはご存知ですか?」
サリュはちらりとユルヴを見てから首を振った。知らないが、興味がないわけでもない。
ユルヴが男を睨みつけて、仕方ないといったように語りだした。
「土巫子。神子。元々は卜占を行う者をそう言っていた。占星と地相で集落が次に向かうべき方角や日取りを決め、場所を占う。そういう役柄のこと、部族の守り役だ」
「族長とは違うの?」
「違うが、兼ねる場合もある。神子には女が選ばれる。長は基本、男が継ぐ。神子に男が選ばれることはないが、長の場合には女が選ばれることもあるからな」
自分のように、という言葉を彼女は省略していた。ユルヴはアンカの族長の娘であり、次代の長だった。
「男女で選ぶ、選ばれないというのは、部族の人々の価値観からくるものなのですか?」
「男は戦って死ぬ。女は生きて産む。争いがあれば部族の長は先陣に立つが、神子は部族が滅びる最後の一人だ」
「なるほど」
感心したようにラディが言った。
「族長は変わりも激しいが、神子はそうではない。では、神話や伝承などの口伝も神子の役割ということでしょうね」
うさんくさそうな視線が男を撫でた。
「……ただの詩人が、我らの生き様に何かあるのか」
「ああ、すみません、職業柄そういう話には目がないもので。邪魔してすみません」
男を睨みつけてからユルヴがサリュを見る。何かあるかという視線に甘えて、サリュは訊ねた。
「ユルヴも、“神子”なの?」
牙の巫子。そういった言葉を先ほど耳にしていた。
ユルヴは頷いた。
「もっとも、わたしは特に占いができるわけでもないが。幼い頃に老いた神子が死んで、他になり手がいなかったから集落のなかから選ばれた。わたしの上の年頃は極端に少ないからな」
「鯨狩り、ですね」
ラディが嘆息した。それがはじめて聞く言葉だったサリュの視線に気づいて、不思議そうに瞬きし、男が補足する。
「ご存知ありませんか? 二十年近く昔にこの水陸で起こった騒動のことですよ。実在するかもわからない獣の存在を口実にした魔女狩りや異端狩り。それに部族の人達への迫害が水陸中で行われた時期があるのです。大勢の人が亡くなり、その年に生まれた赤子も殺されたそうです」
サリュはトマスでの出来事を思い出した。魔女狩りとそれを裁くために集まった人々。何かに憑かれたようにして追い迫る篝火とそこに浮かぶ表情を思い出せば、今でも背筋が震える気分だった。人々の集団と、その中に消えた男。
「自分達がやったことに、他人事のような言い方だな」
不快感を露わにしたユルヴが言う。ラディが神妙な表情で答えた。
「すみません。そういったつもりはありませんでした」
「……で、その神子だ。部族を導く立場の人間が、どうして部族を飛び出した。滅びてしまえとでも思ったか?」
シオマがサリュという言葉の意味を知っていたのなら、あるいはその可能性も強いように思われた。死の砂は終焉を呼ぶ。
顔を俯かせて答えないシオマに、ユルヴは強い言葉を叩きつけた。
「死にたいなら勝手にすればいい。だが、誰かの手を借りようなどという性根が気に入らん」
女性はうなだれたまま顔をあげない。サリュは男へと訊ねた。
「あなたは、どうしてこの集落に?」
「わたしですか? 特にたいした理由はありませんが」
ラディは穏やかに答えた。
「わたしは流れの詩人ですからね。ふらふらと、もう何年も色々な土地を巡りながら歌をつくっているんです」
「……町の人が、部族の集落を巡ってですか?」
素朴な驚きとともに訊ねる。サリュもユルヴと出会う前に何度か部族の人々と接したことはあるが、彼らは決してうちとけやすい人々ではない。サリュの場合には彼女の事情も多分にあったが、部族という人種は総じて排他的な存在だった。
「はは。まあ、けっこう死にかけたりしてきましたけれどね。案外どうにかなるものです。こんなふうに、助けてくれる人と出会うような幸運もありますし」
「勝手に助けてもらえるなどと決めつけるな」
心から嫌そうにユルヴが言った。
「同行はした。だがそれだけだ。だいたい、どうして神子を連れ出したりしたのか、理由も聞かされていないんだからな」
「――私が、お願いしました。……したんです」
下を向いたシルマが言葉を挟む。しかし、それ以上の言葉がなかった。ユルヴが言った。
「何故、そんなことを願った」
「それは」
再び沈黙する。苛々とユルヴは頭を振った。
「喋れないなら、はじめから喋るな。癇に障る」
「……すみません」
「もういい。結局、その願いを飲んだのはこの男なのだろう。ならこの男の責任だ」
「それはもう。ですから、ご相談という形で一つ、お願いできたらなあと」
ラディが言った。
「どうやらユルヴさんはこちらの部族の方と面識がおありの様子。お二人が出て行く時に、わたしもご一緒させてもらえたら、お礼をさしあげるというのはどうでしょう」
「商談か?」
馬鹿にしたようにユルヴが笑う。
「流れの詩人が、何を報酬にするつもりだ。まさか歌ではないだろうな」
「そのようなものでよろしければ、幾晩でも歌わせていただきますが。しかしそれでは納得されないですよね」
ほとんど本気のような男の口調に、呆れた風にユルヴが視線を転じかけ、眉をひそめた。
「どうかしたのか」
物思いに沈んでいたサリュは、かけられた声にふと我に返った。
「あ。ごめんなさい」
「聞いていなかったのか。この男が、一緒にここから連れ出して欲しいそうだ」
「そう」
「……本当に大丈夫か?」
どこか遠いとからから投げかけられたような返答に、ユルヴがいよいよ心配そうに顔をしかめる。サリュを頭を振った。
「ごめんなさい、ちょっと考え事していて」
男は長い間、砂海を旅してきたと言っていた。リトの名前を知らないとも語った。それはつまり、彼女の知る人物がこのあたりを旅していないことではないか。
――そういえば。初めて会った時、リトがサリュという言葉の意味を知らなかったことも思い出す。部族の人々が知る言葉の意味を知らないというのは、つまりそういうことではないか。
ならば彼はいったいどこを旅していたのか。何を目的としていたのか。疑問は尽きないが、それ以上にこれからの行動をどうするべきかが問題だった。やはり町沿いに彼を探すべきだろうか。
馬鹿なことを、と彼女自身が彼女を嘲った。さっさと紹介状の男に会いに行けばいいのに、と囁く内心に反論する言葉をもたず、サリュは胸に湧き起こる感情をもてあまして沈黙した。
「――サリュ。おい、サリュ」
声に気づく。しかめ面のユルヴが先ほどから呼びかけていた。
「ごめんなさい」
「疲れているのか。さっきから様子がおかしいぞ」
凛々しい表情を心配そうにして訊ねる旅の連れに、サリュは曖昧に頷いた。
「大丈夫。……さっきの話だけど、ここの部族の人達はやっぱり。怒ってるのよね」
「外からやってきた人間が人攫いだったわけだから、生かしておく理由はないな。連れ去られたのが神子なのだからなおさらだ」
当然のこと、当たり前のことだった。ならば余所者である自分達ができることなど知れている。サリュはラディに向かって告げた。
「なら、お二人の事情がわからないことには。おかしなことを言ってるでしょうか」
「いいえ。正論だと思います」
苦く笑いながらラディは首を振った。道理を弁えている表情だった。それでも男が何かを言わないのは、もう一人の存在を慮っているからと思える。
「シオマさん、話してくれませんか」
サリュが訊ねた。シオマは弱々しく顔を持ち上げ、サリュの視線から逃げるようにまつげを伏せた。
「私は、ただ」
囁くように言って口をつぐむ。しかし、それまでと異なり、続けようとする意思が見られた。大きく息を吸い込んだ女性が口を開きかけて、
「待て」
制止したのはユルヴだった。円幕の入り口に不機嫌な視線を飛ばす。
「わたしに気づかれずに盗み聞きなどできると思うか、大婆よ」
「勘のいい奴じゃな。しかし、人聞きの悪いことを言うでないわ。こうして茶を持ってきてやっただけじゃろうが。それにここは儂らの幕。なんぞ聞かれたくない話でもするなら、草原の真中にいってやりや」
盆を持った老婆が腰をかがめながら幕に入ってきた。
「なら、こんなところに閉じ込めていないで、さっさと開放してもらおう」
「もてなしの一杯も飲まずにか? アンカの族娘は随分、礼儀を知らんと見えるの。部族の名が泣くが」
「口の減らない婆様だな」
「何年長く生きておると思う。皺と同様、口など増える一方じゃ」
喉をかすれあわせた笑い声をあげる老婆の後ろで幕が垂れ下がる。わずかに漏れた隙間から外の様子を窺おうとしたサリュに、老婆が皺で笑った。
「周りには誰もおらん。シオマ、お前に聞いておきたいことがある」
仄暗い幕の中に座り、老婆は円座の中央に盆を置いてそれぞれに茶を配った。全身を縮めているシオマを眺めやり、重たげに口を開く。
「さて。まずは客人に礼を言わんといかんか。ああ、やはりその前に聞いておかねばならん。なんぞ弁解はあるか」
「大婆様。私……」
答える声が震えている。
「私、やめてほしくて。――お願いです。やめて、ください。戦なんて」
不意打ちに物騒な言葉を耳にして、サリュとユルヴは眉をひそめた。
「どうした。怖くでもなったか」
幼子をあやす声音で老婆が言った。
「怖いです、けど。そうじゃなくて。……みんな、死んでしまいます」
「ふむ。それでか」
老婆が半ば以上が皺に埋もれて隠れた眼差しでサリュとユルヴを見た。
「余所から招いた風で事を押し止めようとしたか。愚かな」
老婆は震えるシオマに、憐れむような息が吹きかけられる。
「そなたが読んだのがその終わりだというなら、それが天意というものじゃ。そなた一人の浅知恵でどうにかできるとでも思うたのか。まっこと愚かと思わんか、アンカの神子よ」
「知るか」
腕を組んだユルヴが、言葉以上に興味のない声で言った。
「お前達がどこの部族と抗争しようが、好きにすればいい」
「いかにも。だが、ここに訪れたということは、それを知ることがそなたらの天意ではないかの」
孫ほども年の離れた少女が冷ややかに睨みつける。
「……大婆よ。まさかわたし一人をどうこうして、アンカが動くなどと耄碌してはいないだろうな」
老婆はくつくつと全身を揺らした。
「血縁もない部族に助勢を期待するほど落ちぶれてはおらん。が、少しばかり違う話かもしれん。儂らのことごとくが死に絶えるというのなら、それは他の誰かに語って聞かせておくべきじゃろう」
ユルヴはうさんくさそうな眼差しをラディに向けた。
「それで詩人か? 弱気が利いているどころではないな」
「その男は勝手にやってきただけよ。まさに天意と思ったのは確かじゃがな。まさか部族の守り手をさらって逃げ出す気骨には見えんかった」
愉しげに笑う。つられてラディが笑いかけるのを、ユルヴが視線で封じた。
「馬鹿馬鹿しい。お前達が勇敢に戦えば、例え女子どもまで死に絶えようが、相手によって讃えられ語り継がれるはずだ」
「だから、違う話だと言っておるのよ」
老婆が言った。問いを重ねかけるユルヴを抑えてゆるりと続ける。
「今日の宵は前宴じゃ。よければ一日、足を休めていくがいい。急ぐのなら止めはせんが、そちらの男は残していってもらおう。その舌に用があるのでな」
遅い動作で立ち上がり、曲がった腰で地面を擦りながら老婆が幕から出て行く。
結局、感謝の言葉はなかった。それどころか充分な説明もなく、意味深な言葉だけを残して去る老婆の背中を四人は見送った。