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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 砂上の幻聴
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 サリュは暗闇の中で目を覚ました。

 眠っていた間に見ていた何かの幻が瞼の裏から零れていく、それに意識を追わせる前に周囲を確認する。焚き火後の燻った赤い輝きが視界に線を描き、隣にいる存在がもぞりと身を揺らした。闇の中に手を伸ばして顎を撫で、サリュは彼女の砂虎が顔を向けている方角を探った。


 周囲に夜明けの気配はなかった。喉の湿り具合からみてまだ夜更けの頃合で、音はない。光は天上に文字通り星の数があるが、月は東の空にようやく姿を見せた程度で、それで彼女はだいたいの時刻を把握することができた。細くしなった弦の月が地平近くにあっていつもより大きさが際立って見えていた。

 月光が淡く輝き、風は落ち着いている。闇夜を賑やかす音も光も、獣の唸り声も、周辺には危険を感じさせるものはなかった。あるいはまた夢を見たのだろうか、と欠片を追いかけようとしても、今さら残滓を拾い集めることもできない。クアルの喉元から上になぞって耳に触れ、彼女はそれまで抱きかけていた認識を改めた。


「――ユルヴ」

「……獣か?」

 囁いたサリュの言葉に、すぐに眠気のない声が返った。起き上がった気配が衣を擦る。

「わからない。見えないけど、でもクアルには何か聞こえたみたい」

「そうか」

 唸りをあげず、欹てた耳も揺らしてはいない。それは何かが近くでなく、今はその物音も聞こえてはいないということだった。少なくとも、すぐ近くに危険があるわけではない。

「獣なら、灯りをともせば近づいてはこないだろうが」

 ユルヴが言った。


 野生の獣が火に近づくことはない。砂海を渡る上で最も恐ろしい存在である砂虎が人を襲うのもほとんどが日中で、それか全てが寝静まって焚き火の立ち消えた頃にやってくるのだとされていた。

 だからこそ、砂海の夜には火を絶やさないことが重要だった。それだけで大半の厄介事を回避することができる。しかしもちろん、全ての厄介事がなくなるわけではなかった。砂海には灯りに集まってくる輩もいるからだった。

「……部族の人は、深夜に出歩いたりすることはある?」

 サリュが訊ねた。ユルヴは即答した。

「まさかな。早朝にならともかく、そんな馬鹿がいるわけがない」


 砂漠は照りつける昼と凍える夜という極端な二面性を併せ持っている。最も日差しの辛い時間、旅人は日陰で休みをとるが、それと同じように深夜に行動しようという者もほとんどいなかった。冷えた夜中に出歩いては徒に体力を消耗するだけで終わる。たとえどれだけ先を急いでいる人間でも、普通は最も熱い時間と、最も寒い時間を回避して足を速めるのが、砂漠での“急ぐ”という行為の意味だった。

 あえて夜に活動する存在もある。長期的な踏破には不利なことを承知の上で幾重にも毛皮を着込み先を急ぐ旅人や、天然の保温着を身に備えた獣にも夜行性のものはいた。夜に活動しながら火を恐れないのは人間だけだが、その中でも灯りに群がってくるのは、特に砂賊と呼ばれる人種の生態だった。

「この辺りは普通の旅人なら通らない。賊だとすれば、面倒な連中だな」

 砂海をよく知るユルヴの案内で、サリュは一般的な航路からは外れた砂漠を進んでいた。人と異なる風貌を持ち、砂虎を連れた彼女にとっては珍しいことではない。


 旅人や商隊を襲って荷を奪う砂賊は、当然人の通りがある場所に多くはびこることになる。奪う荷が通らなければ待ち構えている意味がない道理だが、それでも商人の中には様々な事情から人と違う行程を選ぶ者もおり、そうした裏道を通る相手を狙って活動する砂賊もいる為、航路から外れたからといって安心できるわけではなかった。

 砂漠での生において、商人と砂賊は切っても切れない関係である。水陸の物流を担う行商人達は儲けの為に命がけで荷を運び、それを狙って砂賊達が殺到する。商人は武装し、護衛を雇い、あるいは自らの舌先三寸だけで彼らをやりくるめて難を逃れる。宿場や酒場では日々、数々の冒険譚が客達を賑わすが、そこに剣を握らない冒険譚が語られることも少なくなかった。

 集落から一歩を出れば黄土が視界を埋め尽くす土地で、自分達の知らない世界の片鱗を覗かせる商人という人々は、多くの相手から尊敬を集める生き方ではあった。それが黄金という業欲に魅入られたものであれ、その届ける積荷で生を繋ぐ人々がいることは間違いない。


「火を戻せば、向こうからやってくるか」

「少し、待ちましょう。面倒を呼び込む理由はないもの」

「了解だ。……何をしている?」

「寒いから。ユルヴもクアルに抱きついておいた方がいいわ」

 今は火がないのだから、体温の低下を防ぐ為に少しでも温かいものに触れておくべきだった。サリュの言葉にしばらく迷う時間をおいてから、ためらいがちにユルヴが言った。

「……そうだな」

 照れた顔をあえて仏頂面にしているユルヴの表情を思い浮かべ、サリュはくすりと微笑んで纏った毛布を引き寄せた。吐く息の白さすら見ることのできない闇の中で、足先をクアルの身体の下に滑り込ませると、布を巻き、靴を履いた隙間からさえ忍び寄る寒さがじんわりとやわらいでいった。 

 両側から抱きつかれて窮屈なはずの砂虎は嫌がる素振りもみせなかった。サリュが耳を近づけると、むしろ満足げな様子でごろごろと喉を鳴らしている。若い砂虎は二人を自分の庇護すべき対象として捉えているのかもしれなかった。


 サリュは空を見上げた。

 北輝星と西黄星、その他大勢の星が瞬く天空に、半月よりもなお欠けた月が少しずつ昇ろうとしている。月の位置と満ち欠け。そして二つの輝く指標星により砂漠の旅人は自らの位置と今の時刻を知るが、さらにその周囲にある無数の星の輝きは、それぞれの逸話や伝説をもって旅人に砂漠の夜を過ごす一時の娯楽を提供した。

 そうしたことを生業とする人々を吟遊詩人と言うが、サリュがふと笑ってしまったのは、とてもありえない想像をしてしまったからだった。詩人は王宮や酒場で詩や歌をそらんじてみせるらしいが、中には砂海を旅しながらいく先々で歌う者もいるという。あるいはあの人もそうだったのでは、と思いついて、そのあまりの似合わなさに失笑してしまった。


「どうした?」

「ううん。歌を、歌えればいいのになって」

「歌えばいい」

「何も知らないの。ユルヴは何か知ってる?」

 答えが途絶えた。サリュは笑った。

「聞かせて」

「嫌だ。そういうのはノカが得意だったんだ」

「笑ったりしないわ」

「そういうことを言ってるんじゃない」

「ユルヴの歌、聞きたい」

 深い嘆息が響いた。

「……お前はずるい。ノカよりもずるい」

「聞かせてくれた歌をおぼえたら、私も歌うから。嘘じゃないわ」

「――一度だけだぞ」

 それは約束できそうになかったから、サリュは返事をしなかった。出来る限り努力はするが、歌を歌うなどはじめてのことだから、一度では覚えられないかもしれない。

 もう一度ため息をついたユルブが、嫌々といった感じに歌い始めた。

 ゆったりとした調子の歌だった。透き通るような声色が穏やかに語りかけてくる。子守唄だろうか、とサリュは思った。歌の言葉は彼女の知らないもので、部族の古い言葉なのかもしれない。


 ユルヴの歌は短く終わった。サリュは手放しに褒め称えた。

「すごい。上手」

「うるさい」

「本当よ。メッチだってそう言うわ」

「なんであいつの名前が出てくるんだ」

 怒った声に、クアルの悲鳴じみた声が続いた。ああ、すまない、とユルヴが慌てている。どこかに強く力が入ったらしかった。

「まったく……。ほら、次はお前の番だ」

「待って、まだ何も覚えてないわ」

「知るか。いいから――待て。今、何か動いたぞ」

 サリュは暗闇に目をすがめた。

「どのあたり?」

「ちょうど月の下あたりだ。星が瞬いただけか? それにしては妙な動きだった」

 夜空の半ばに浮かぶ弦月を探し、その下に視線を落とす。

 地上近くにまで星が瞬いているその一つが消え、再び灯った。上空の大気の揺れがみせる星の瞬きとは明らかに異なる、人の為した動きだった。

「松明かしら」

「こちらまでやってくることはないかもしれんが。どうする」


 サリュは答えに迷う。とるべき正解なら既に彼女は言葉にしていた。あの火が砂賊のものか旅人のものかはわからないが、自ら面倒を呼び込む理由はない。それでもサリュが逡巡してしまうのは、その松明を掲げる人物の顔について、もしかしたならと想像してしまうからだった。

 だが、自分一人ならともかく、共に旅をしているユルヴまでそれにつき合わせるのは間違っているのではないか。サリュが答えられないでいるうちに、ユルヴが言った。

「決まりだな」

 立ち上がる気配と共に続ける。

「馬はすぐには動かせない。少し待て」


「……ごめんなさい」

「謝るな」

 ユルヴは怒るのではなく、当然といった口調だった。

「わたしはわたしの中の天意に従っているだけだ。――それから、後で必ず歌ってもらうからな」

 最後につけくわえられたものが彼女なりの冗談だと気づき、サリュは小さく微笑んだ。

「練習につきあってもらえる?」

「いいだろう。しかしお前が歌う回数には別分として数えるぞ」

 しっかりしている。さすがに将来は部族の長となる人間だと思い、そこから連想してサリュは呟いた。

「あそこにいるのがメッチだったら、面白いけれど」

「面白くなどあるか」

 吐き捨てるようにユルヴが言った。

「自分の仕事も放り出して女の尻を追いかけてくるような商人なら、その場で首を切り落としてやる」

 それも冗談だと思いたいところだったが、果たして本当にそうであるか自信が持てなかった。判断を保留したまま、サリュは出立の用意に入った。



 黄土色の一色が全てを塗りつぶしているように見えても、実際の砂漠には多彩な表情がある。

 岩や礫、風象によって作られた高低差や、険しい丘や崖が至るところに存在し、水場もあればそこに群生する植物もあり、短草が広がっていることもある。砂の星に住む人々にとり、砂漠とは決して恐ろしいだけのものではなかった。


 一方、砂海には何もない。全てを呑みこんで流れるその存在は、人間にとってあまりに大きすぎた。

 怒りや悲しみを表さず、ただ全てを自らの内に取り込んで平らに敷いていく。もし何者かが一度砂海の只中に放り出されれば、右を見ても左を見ても地平にすら何の影も見いだせず、天地の一線に立ち尽くす己が姿を認めるばかりである。

 自分と相対すらしてくれない。無慈悲どころか、無にも等しい。そうした状況に陥って気狂いしない人間など存在しない。

 砂海では一人でいるべきではないのだ。何人かの知己を得て、最近サリュはそう考えている。よい別れ方ができなかった黄金の村の少年や、その後に出会った人々と接してきた経験が、彼女にそうした考えを与えていた。――それに自分には、クアルがいてくれたから。

 だからこそ彼女は考える。いったい彼は、どうして一人だったのだろう。


 生まれは貴族の、しかもとても高い身分の家柄だったというのに、そこを出て一人で砂海を旅していた。あの人は、いったい何の為にそんなことをしていたのか。どうして平気だったのか。


 いや、平気ではなかっただろう。

 怖かったはずだ。寂しかったはずだ。あの晩、彼は震えていたのだから。なら、何故。


 彼女のひいたコブつき馬がいなないた。それが自分への文句のように思えて、サリュは口の中で小さく謝った。あなたは、一緒にいてくれたのよね。

 しかし、それでも彼は恐らく一人だったのだろう。男とはぐれた晩、告げられた言葉を彼女は覚えていた。同時に思い出す。今思えば、彼女はそれを聞いてひどく傷ついた表情をしていなかっただろうか。


 ――あの人を連れ戻さないといけない。


 使命感に近い感情をサリュは抱いていた。それが自分の気持ちを考えない為の口実になっていることには気づいていない。


「近いな」

 乗馬せず、彼女と同じように馬を引きながらユルヴが言った。

 闇夜を見ながら歩いていると、つい思考の深みへと落ちかけてしまう。サリュは頭を切り替えて、進む先にある灯りへと目を凝らした。

 野宿した場所から歩き始めて半刻程。大きさの増してきた灯りは、やはり松明のそれだった。上下や横に振れては見えないから、まだ距離が計れる近さにはないが、数はわかる。灯りは一つだった。野盗ではないだろう。

「商隊でもないか。いったいなんだ? 体力が消耗するのも考えず、目先の距離を稼ごうとしているのか」


 野盗でないなら、普通は深夜に行動しようとしない。よほど旅に慣れてない人間でも、その程度のことは身をもって気づくはずだった。ならば急ぐのには理由があるはずだ。何かを追っているのか、何かから逃げているのか。

「こっちに向かってる? 近づけてはいるけれど」

「南に流れているな。どこかの部族の人間とは思えんが」

 この辺りの地理をおおまかに捉えるなら、北に向かえば部族達が住み、その先には水源の枯渇した一帯が広がる。逆に南にいけば水路があり、そこには点々と幾つかの町が存在していた。

 南に向かっているということは、部族から町へということになるが。ふと良くない想像がサリュの耳元に囁いた。

「もしかしたら、また町と部族の人との間で……」

 少し前、ユルヴの部族の人間が一家ごと姿を消し、その黒幕が彼らとつきあいのある町の商会だった事件に遭遇したばかりだった。同じくその可能性に思い立ったらしいユルヴが、ふんと鼻を鳴らした。

「だとしたら、今度は大事になる前に眉間へ矢をくれてやる」

 弦をはりなおした弓を手にして物騒な台詞を口にする。


 サリュが後ろを見ると、そこには夜に紛れるように無音でついてくる砂虎の一対の瞳が輝いている。乗馬と弓に長けた部族の少女と、砂虎。考えてみれば、これはどんな野盗であっても会いたくない取り合わせかもしれない。加えて、死の砂などという不吉な名前を持った自分のような人間までがいる。

 再び空を見上げた。星の輝きも穏やかに、地上でも変わらず風は凪いでいる。まだ声が聞こえていないことに、安堵と不安の両方を感じてサリュは口の中に呟いた。何を呟いたかは自分でもよくわからない。


 松明の灯りが揺れた。何か言葉を交わしている声も聞こえ、恐らくは日中なら顔も見える程になっているはずだった。松明を持たず、物音を潜めているサリュ達には気づいていない。いよいよ近くにまで迫ってきた相手にどう最初の接触を図るか、彼女が考えるより先にユルヴが声を発していた。

「止まれ!」

 灯りが激しく揺れ、一瞬だけ人影が闇夜に浮かぶ。相手は二人組のようだった。

「弓を向けている、止まらないと射つ」

 それではまるでこちらが賊のようだ。サリュが思った同じ事を、相手も考えたらしい。悲鳴があがり、慌ただしく松明が動いた。

「なぜ逃げる」

 忌々しそうにユルヴが言うのに、淡白にサリュは応えた。

「普通は逃げると思う。――待って。射たないで」

 もし闇の中で弓に狙われていると知ったら、心得があればまずは手元の火を消すだろう。そんなこともせずに逃げようとしているというだけで、松明を持っているのがどういった相手かある程度想像がつく。少なくとも、脅威のある相手ではない。

「あてはしない」

 ユルヴが言った。矢筒から違う矢をとりだし、つがえる。姿勢よく引き絞ってそのまま放つと、闇夜に大きな音が鳴り響いた。


 先端の形状に工夫を加えた鳴り矢は、放てば鋭い音を響かせることから距離のある誰かへの合図としてよく用いられる手段だった。同時に、暗闇の中で聞くその音響は、狙われている者にとって強烈な恐怖を煽るに違いなかった。

「止まらないと次はあてるぞ!」

 さらに甲高い悲鳴。そして立ち止まる気配はない。

「……足のあたりにならあてていいか」

「いいわけないでしょ」

 サリュは自分の傍らに寄り添ってきたクアルへと身を屈めた。喉元を二回撫でて、耳に囁く。

「殺しちゃダメ」

 言葉を理解してというよりは、かけられた声の響きから必要な処置を察した砂虎がすぐに駆け出した。程なく、今までで一番大きな悲鳴が轟き、灯りの動きがぱたりと止まる。


 サリュとユルヴが手綱をひいて向かうと、そこには砂地に落ちた松明と、その前にへたりこむ旅装姿の女性がいた。少し離れたところに困ったように四肢をおろして尻尾を振るクアルがおり、さらにもう一人。砂虎に抱きつくようにして動かない人物は姿格好からして男の旅人に見えたが、まさか驚いてクアルに飛び掛り返り討ちにあったのかとサリュは少し心配になった。


 男に近づいたユルヴが振り返り、肩をすくめて言った。

「気を失っている。さっきの悲鳴の時だな」

 なんとも言いようがなく、サリュがもう一人の方へ視線を移すと、念入りに防砂具を纏った女性が怯えきった眼差しで見上げている。かける言葉に迷って視線を外しかけ、思い直した彼女は伏せがちに女性を見たまま、そっと口を開いた。

「――私は、サリュ。あなたは?」



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