5
ジュスター・ベラウスギが唱え、帝国内に長年をかけて整備されてきた河川水路は、文字通りツヴァイの骨格を成す建造物である。
トマスを中心に伸びた水路は流れる砂海の中で惑うことのない確かなしるべとして一本の道を示し、それを利用した安全な物流を可能とした。水陸一の大国と成り果てたツヴァイにとり、もはや水路の存在なしにはその国体を維持することすら困難となっている。
最も古い水路が建造されてから既に二百年が近い。帝都ヴァルガードから南南西のトマスへ、さらにそこから河川は北、西、東へと伸ばされた。一つは北方、冷砂の地サシュナへ。西はナトリア公国の抱く水源へと繋がり、南から弧を描いて東へと掘り進められてタニルの南を抜ける水路の一端がボノクスに至る。最も新しいそのボノクスへと続く水路はツヴァイが東の水源クシファを征していた時期に設けられたもので、その地は現在ボノクスの手にあった。それが征服か奪還であるかについての見解は立場で異なるが、その水路が両者のいわば密接な敵対関係とも呼ぶべき関係の基にあることは確かだった。
ツヴァイ・ボノクス間の目に見える境、すなわち領水線として、今も河川の途上では両国が睨みをきかせている。そうした状況で重要な意味を持ってくるのが水路の北部拠点であるタニルの存在だった。迎撃、遊撃、どちらも可能な前線地としてタニルは東国境防衛の要となる。
「河川。水路。ラタルクにか、大事じゃないか」
そのタニルを預かるケッセルトの口調はからかうようなままだった。相変わらず世間話でもしているかのような軽さで、事の重大さを理解していないのではないかとクリスは一瞬疑いそうになった。それに対する男は商売人特有の慎重さに塗り固められた笑みで、二人の男はそれぞれの態度のまま視線だけを互いから外さなかった。
「トマスからナタリアへの水路が完工して以降、実に百年近く振りになります。事はトマスの総力を挙げた一大工事となるでしょう」
「素晴らしい。河川作りとなれば大量の石材が要る。お前さんの店も随分と潤うことになるだろうな」
「そのような事態になれば嬉しい限りではありますが。しかしラタルク一帯に活気が戻るのです。その地を治めていらっしゃるカザロ男爵にこそ喜ばしいことではございませんか?」
コーネリルが言った。
「おいおい、勘違いしてくれるな。俺はあくまでタニルの領主ってだけで、ラタルクを治めてるわけでもなんでもない」
数年前にトマス東部、南から弧を描いて伸びる円弧の内水源は枯れ果てている。人は去り、航路は滅びた。水源なき土地を治める者がいないのは、それに何の意味もないからだった。ツヴァイ帝国においてその周辺一帯は今現在、誰の領下でもない微妙な空白地と化している。
「今現在、ラタルクの平穏がどなたの手によるものか知らぬ者はおりません。少なくともこのトマスにおる者は皆そうでしょう」
「世辞としちゃ下手だし、餌だってんなら埒外すぎてな。総じて言えばうさんくさい」
ケッセルトの反応は愉しげだった。いつの間にか両者の間で会話の受け攻めが交代していることに、クリスはコーネリルの静かな口調の裏側に潜むものを確かめようと神経をとがらせた。
コーネリルが柔らかく答える。
「とんでもない。そうあるべきではないかと、あくまで私個人が思う次第。せっかく活気が戻ってもそこに争いが絶えぬようではあまりに悲しすぎます。私ども商人は何よりそのことを危惧しております」
男の言い様は既にラタルク地帯の復活を前提としているようにもとれた。クリスが眉をひそめ、ケッセルトは目を細めて見下した表情をつくる。
「どうにも見え透いてやしないか。まだ見つかったばかりで調査も入ってない水源に、いくらなんでも見込みが早すぎる。一応、お前さん方はさっき俺から聞いて水源のことを知ったってことになってるんじゃなかったかね」
「我々商人の間では常々、物事には鮮度が大切だといわれておりますが、それは何も生きているものだけではございません。思えば砂吹く前に成せとも申します」
「ごもっともだが。心算は神のものならず、神算は人の手によらずとも言うんだがな。俺から聞いたわけじゃなくて、それが水源が見つかってからの話だとしても早すぎる。ある日、トマスの大商連中が全員で啓示でも受けたってのか?」
「もちろんのこと、我々罪深き商人どもも皆が水天の御意思のもとにおります。全てその許し癒しがあってこそと心得ております」
「そう言いながら金貨何枚で背を向けてみせるから、俺は商人って連中が好きなのさ。人それぞれ必要な重さは違うんだろうが。“心の測り”とはよく言ったもんだ。黄金の崇拝者か。教会の連中から指差されて非難されるのも道理だな」
コーネリルは心外だとばかりに沈痛な顔を作った。
「誠に悲しむべき誤解です。我々どもほど彼の方々の在り方に共感している者はおりませんのに」
「そりゃそうだ。連中こそ、大した商売人だからな」
ケッセルトが大きく笑った。神職にあるものを工商人と同列視するなど、相手によれば眉をひそめられるだけではすまない。異端審問員に聞かれなどしたらどうするのかとクリスは素早く周囲を見回したが、まるで気にする素振りもなかった。
「――なるほど」
男はコーネリルの切り返しがひどく気に入った様子でしばらく腹を抱えた後に息をついた。得心した様子で言う。
「最近、こっちじゃてんで動きがないからな。南の小競り合いにご執心とばかり思っていたが、そういうことか。人と物も、確かに戦争どころじゃない規模だよな。小さな国の蓄え程度では賄えない程の。つまりはそういうことか。それにしてもあまりにタイミングがよすぎるが」
コーネリルは答えず、口元に笑みを浮かべた沈黙を返した。
「自分達の商いの為ならなんでもやる。巷に溢れてる噂にしちゃあ、まだ穏便か。なにせ水路だ。それで誰かが死ぬわけじゃない。そのはずだ」
「男爵のおっしゃられている噂というのはよくわかりませんが、河川水路の存在は多くの人にとって幸になるかと存じます」
「よく言う。まあ、面白そうな話ではあるな」
「カザロ男爵なら必ずそのように言っていただけるものと思っておりました」
「地元まで水路が繋がるってんだ、悪い話に聞こえるわけがないな。しかし、あの砂海に川を渡すなんざ正気の沙汰とは思えんが」
砂海には流れがあり、その流れは常に一定ではない。場所や時期、またはそれらと全く無関係に思える不定周期で姿を変えることが、砂海の何よりやっかいな性質だった。そこに湧いては枯れる無数の水島は、恐らく地下で何かしらの動きが常態として行われていることの証かと思われたが、それ以上のことはわかっていない。
「しかも場所が枯渇したラタルクだ。他のとこみたいに水島が点々とあるわけじゃない。やはり無謀なようにしか思えんね。何の目安もなしにどうやって掘り進めようってんだか」
「それについては私からはなんとも申せません」
ケッセルトが鼻を鳴らした。
「ベラウスギ家門外不出の技か。とっくに廃れたもんかと思っていたが、考えてみればそんなわけがないな」
二百年の昔に初代ベラウスギ公爵が成し、代を重ねながら今までに四本の開通をみた水路工事で、砂海の流れを縫う道のりをいかに見出したか、その計測技術は公にされていない。帝都ヴァルガードには水陸中から学者が集った大学があり、その魔術的な所業の実際について研究もされていたが、彼らをもってしても解明できていなかった。帝国の最高権威者である皇帝にその技術が召し上げられていないという事実が、まずベラウスギ家の特別な待遇を示している。
トマスとタニルの間に結ばれる、新しい河川水路。耳にした言葉の実現性について、クリスはそれがどの程度の公算がたつものなのか考えようとしたが、まるで見当がつかなかった。人も物も、考えもしたことがない規模で動くことになることだけは確実だった。トマスの、いや、ツヴァイ中の資源が利用されるだろう。戦争どころではない、といったケッセルトの言葉の意味を彼女は理解した。これはそんなもの以上の、商人達の一世一代の商いなのだった。
そうした企みが容易くこの場で明かされたことに素直に驚きながら、内心にはどこか釈然としない違和感がある。その糸を探ろうとしてクリスはふとイニエ公女の姿に目がいった。
令嬢は無言で目の前の会話を聞き届けている。公爵令嬢とはいえ、彼女が父親達の考えを知っていたとは考えにくかったが、驚いた表情も露わにせず静かだった。先ほどケッセルトに戦場話を聞いていた時もだが、とても普通の令嬢とは思えない胆の太さがある。
視線に気づいたイニエ公女がクリスに小さく微笑んだ。クリスは目を逸らした。
「まだまだ聞きたいことはあるが、とりあえずこのくらいか。独断でお前さんが話せるのは」
「ご理解がはやくて助かります。私どもとしてもタニルまで河川を通そうとするのなら、カザロ男爵には是非にもご協力をいただきたいと考えております。お話はまた後ほど、しかるべき時と場所に、しかるべきお方からあるかと」
「そうしてもらえると助かるね。これでも帝都に上がる途中の身だ。またタイミングよく、招待状で届けてくれるんだろう?」
「カザロ男爵のご趣向に沿えるよう努めさせていただく所存です。さて、少し冷えてまいりました。中へと戻りましょう、そろそろ舞踏の時間になります。ここにいらっしゃる方々を心待ちにしている方も大勢でしょうから」
「ということだが。ご令嬢、お加減は如何かな」
「もうすっかり大丈夫です。クリスティナ様、ありがとうございました」
「恐れ入ります」
イニエ公女の手から上掛けを受け取りながら、クリスは先立って歩き出した男達の背中を見やった。一寸の戸惑いを振り切り、口を開く。
「コーネリル男爵、少しよろしいだろうか」
「――なんでしょう。アルスタ女爵」
振り返った男は微笑を浮かべていたが、それまでにない冷ややかさが含まれていた。
今までケッセルトとコーネリルの交わしてきた会話は全て、自分を空気のように取り扱うことで聞くことができたものだということはクリスも理解している。今ここで口を開くことは、そうした暗黙の了解と相手の善意を裏切ることになるが、それでも彼女は立場上、男に訊ねないわけにはいかなかった。
「ご令嬢。四人が同時に戻るよりは目立たない。先に我々だけ参りましょう」
「ええ。ですが……」
ケッセルトがイニエ公女と共にその場を去ってから、クリスは改めて口を開いた。
「無礼を承知の上でお聞きしたい。なぜ貴方がたは水源の情報を隠匿していたのですか」
「隠匿?」
「誤魔化さないでほしい。今日ケッセルトの口から聞くまで、私はそのことを知らなかった」
「……偶然、女爵のお耳に入らなかったというだけでは?」
「それはありえない」
男の台詞は明らかに冗談としてのものだったが、クリスは応じなかった。コーネリルが苦笑を浮かべる。クリスが言った。
「そちらの立場は理解しています。私は帝都から駐在する身だ、決して好まれていないということも承知している。しかし私はトマスで何か異変があれば報告しなければならない。不要な摩擦を起こしたくはないからこそ、お聞きしたい」
「お噂どおり、随分と開け広げな物言いをなされるのですね。カザロ男爵とは少し違いますが」
呆れたように言い、コーネリルは小さく息を吐いた。
「真っ直ぐ。といえば聞こえがいいが、あまりに余裕がなさすぎるのも問題でしょう。恐れながら、少しばかり女爵より長く生きてきた人間として申し上げさせていただきますが」
クリスは黙ったまま反論しなかった。二十年を生きて、自分の性格の愚かしさなど今さら言われるまでもない。その彼女の態度に男はもう一度嘆息を吐いた。
「しかし、だからこそアルスタ女爵なのでしょうね。個人的には、貴女のような方は嫌いではありません。商いをしていてはまずお目にかかれないからこそというのもありますが」
「では」
「残念ながら。私からお伝えすることはできかねます」
目を伏せかけた彼女に、ただし、と続ける。
「あくまで商売の中で起こりうる一般的なことについてなら。宴席の中でお話することもあるでしょう」
「……感謝致します」
「あくまで商売でよくあるお話です。感謝される謂れはありませんよ。確か、商人同士の間で噂が留められていることがあった場合、でしたか」
クリスは頷いた。男は肩をすくめた。
「商人がするからにはそれは儲け話の類でしょうね。では女爵、何か儲け話があった時、商人はどういった行動に走ると思いますか。つまり、その儲け話について」
「それは。自分が儲かる為の行動を、とるのでは」
「その通り。たとえば何々が売れるらしいと聞けば、すぐにそれを買い占めようとします。そうするとどうなります」
「物の値段があがるのではないだろうか」
商人ではないクリスだが、その程度の知識は持ち合わせていた。アルスタ家の治める地では御用利きの商人もおり、そうした話を行ってもいる。いずれは彼らとも折衝しながら領地の経営も行わなければならない身だった。
「はい、商売とは需要と供給、それを見極めて捌くことです。簡単なようでこれがなかなか難しい。売れると聞いて買い漁ったものが実際にはまるで売れず、ただ破滅と混乱を招くようなことも多々ある。だからこそ情報、質、速度、それら全てが重要となるわけですが――」
男はちらりと屋敷の中を窺うようにしてから続けた。
「問題なのは、その破滅と混乱が一人だけでなく、周囲にまで影響を及ぼすことです。考えてみてください。ある商人が嘘の噂にのっかり、ある果物を買い占めたとする。当然、その値段は上がります。高くとも買う人は買いますが、買えない者もいる。金があっても買えない場合もある。ない物は売れませんからね。それが嗜好品の類ならいいが、食料などであったらそれで飢えてしまう人が出る場合もある。それでいてその食べ物が高く売れなかったら? 品物は売れもせずに倉庫で腐るだけでしょう。これはいささか極端な例ですが」
「つまり、今回の――いえ、そのような場合、混乱が起きないようにする為の?」
コーネリルはにこりとして言った。
「もちろん、需要を見抜いて利益を稼ぐのは、商人の本懐ではあります。しかしながらその悪影響がとてつもなく大きいような場合、例えば商人同士で慎重に事を運ぼうと話し合うようなことはあります」
「自分の儲けの機会を捨ててまでですか? 失礼かもしれませんが、少しばかり意外に思えます」
思ったとおりのことをクリスは言った。男が首を振る。
「少し違います。大きな儲けの機会を捨て、小さな儲けをとる為でしょうか。抜け駆けをすれば一攫千金の可能性はありますが、リスクをとらないでも儲けられるというなら、そちらを選ぶ商人もおりましょう。むしろ、大きく富んだ商人であればあるほど、賭けなどという不確定なものは嫌うものです」
大きく富んだ商人。つまりトマスの大商家達のことだと悟る。
男がたとえ話にまぎらせて語ってくれた話の内容について、クリスはゆっくりと頭の中で咀嚼に努めた。儲け話、つまり河川水路の建築。国規模で人と者が動く、その中で自分の想像もできないほどの商いが執り行われる。それを誰かが抜け駆けしない為に商人同士で連携をとる。ここまではいい。しかし、それで何故情報を隠しておく必要があるのか。
少し考え、唐突に思い至って彼女は呟いた。
「――中小商家の、抜け駆けを防ぐ為に」
コーネリルは答えなかったが、表情が正解だと伝えていた。
トマスの大商家達がいくら足並みを揃えようとしても、トマスにいる商人全てが大人しくしているはずがない。一攫千金の儲けを狙い、暴走する輩も必ず存在するだろう。トマスには成功を夢見る人々と、それに失敗して再起を図る人々が星の数ほどに存在する。
彼らの暴走を防ぐ為、まず情報の出所から口止めを敷く。トマスの東で商いをする者、東から街に入って来る者を水際で把握して、その時点で抑えることができたなら。一度噂が蔓延してしまった後に比べれば、物事の制御ははるかに容易い。
――納得はできる。商売話の類は専門外だが、道理のある話だとクリスは感じた。しかし、と考えてしまうのは偏見がこびりついているからかと思いながらクリスは訊ねた。
「では。私から帝都への報告に水源の話があがっても、問題はないということだろうか」
トマスにいる大商家達が情報を隠していたのは余計な混乱を招かない為というが、そればかりではないように彼女には思えた。そうした内側の理由だけではなく、外側の理由もあるのではないか。さすがに今聞いたもので心から納得するほど単純ではありえなかった。
男は頷いて言った。
「それはもちろん。カザロ男爵もその為に都に上がられるのですからね。我々は不確定な情報のまま、混乱を起こしたくなかっただけです」
「ならば、ケッセルトから水源の存在について確証が取れた今、情報を留めておく理由もないように思えますが」
「そうですね。今日の宴席を機に、水源の話も多くの耳に届くようになるでしょう。私どもが男爵をお招きしたのには、そういった理由もあります」
中小商家の抜け駆けを防ぐ為の手段を講じたという意味だった。その為の時間稼ぎとしても、情報を隠匿しておくことは必要だったという。それを自然に解消するきっかけとしてケッセルトのトマス訪問を用いる。
一々納得できる話だった。決して嘘ではないだろうが、しかしやはりクリスは微妙だった。ケッセルトの言ったことを思い出す。あの男も何か気になる部分があるようなことを言っていた。ケッセルトが言っていなかったことも思い出した。全てあっさりと語ったように見えた男だが、彼女には語り、まだ宴席の場では口外していないことがあることに気づき、そして最後に目の前の若い商人の表情を見やって確信する。自分は肝心なところを聞かされていない。
「……河川水路。件のことも、報告しても?」
「ああ。それは少し、困ってしまいますね」
あっさりとコーネリルが言った。
「水路については、まだカザロ男爵も知らないはずのこと。私どもがそうしたいと希望しているというだけです。それを水源についてすら男爵から報告の入っていない帝都の方々が知ってしまいますと、私達が危惧した以上の混乱が起こってしまう」
「それならば、どうして私に聞かせて頂けたのでしょうか」
単純に不思議に思えたので彼女は答えた。コーネリルが眉を寄せる。
「それを私にお聞きになるのも、少々困ってしまいますが」
「確かにそうだ。失礼致しました」
「いえ。アルスタ女爵が、トマスとヴァルガードの間を穏やかにされようと注力されているということはお聞きしています。無用な混乱を起こすようなことはされないと信じております」
ぬけぬけと言われ、クリスは思わず苦笑いを浮かべかけた。
「無用な災いは望むところではありません。しかし、それがヴァルガードの、ひいてはツヴァイに大災を呼ぶ企みであったならば、私は黙っていることはできません」
「さすがはアルスタ女爵。ご安心ください、ベラウスギ公爵の仰られたお言葉の通り、私どもトマスの商人は水を奪うのではなく、広めることを目的としております」
「それを聞いて安心しました」
社交じみた笑みで応えながら、クリスは考える。あるいは自分に話を聞かせることで、身動きをとれなくすることが目論見かもしれない。しかし彼女が日頃トマスで置かれた立ち位置では、今夜のように河川水路の話を聞くことは不可能だったに違いなかった。その点は認めたくないが、ケッセルトに同行したからこその成果だろう――いや待て。今さらのように彼女は思いついた。私を連れてきたことで、あの男にはいったいどんな得があったというのか。
善意、気まぐれ。いずれも納得しかねる。あの男は己以外の何者の味方でもないはずだった。自分を連れてきたのにも何か意図があったのではないか。
クリスは自分を見るコーネリルの視線に気づいた。
「では、女爵。そろそろ中に戻りませんか」
「ええ。ありがとうございました、コーネリル男爵」
「ただの世間話ですから。私も些事から逃れられましたしね。……もしこれ以上の話を求められるのでしたら、それなりの相手をあたってみるべきでしょう」
男の横顔をちらりと窺って、クリスは答えた。
「そうしたことが苦手な性分で。自分の立場も理解しています」
「私どもは商人です。商談すら話を聞かないという者は少ないでしょう。それにアルスタ女爵ほどのお方なら、商売抜きでお付き合いしたいと考える方もおりますよ」
一瞬、不快になりかけて、男の表情に厭らしさがないことにクリスは気を落ち着かせた。確かに商人なら、使えるものならなんでも利用するに違いなかった。つまりは自分は商人には向いていないのだろうと結論づける。
「ご忠告感謝致します。お返しにというわけではありませんが、ケッセルト――カザロ男爵の物言いはあまり気にされないことをお勧めします。昔から、冗談か本気かわからない男です」
「不思議な方ですね。豪胆というか、ただの軍人ではない、と評すべきか。いえ、失礼しました。忘れてください」
実際、確かにケッセルト・カザロは尋常な男ではなかった。クリスはそのことを十分に知っているつもりだったが、すぐに改めて痛感することになった。
クリスが戻った時、室内では既に舞踏が始まっていた。中央に開かれた場所に男女が対になり、ゆったりとした輪舞曲にあわせて身体を揺らしている。彼女の同伴相手であるケッセルトの姿もその輪の中にあった。
社交舞踏は、決まった一人とだけ踊るわけではない。同伴した相手と必ず踊らなければならないというような決まりもなかった(できればそうすべき、というマナーは当然ある)。男の女好きな性格を知っていたクリスは、特に何を思うわけでもなく壁の華になってその時間を潰すことにした。
いくらか舞踏の誘いがきたが体調が優れないことを理由に全て断った。こうしたところがいけないのだろうか、とも思ったが、今は考えなければならないことが多々あった。
トマスのこと、新しく見つかったという水源のもたらすもの、ケッセルトの意図についてまで。帝国の将来とその憂慮に考えを巡らせるうちに時間が流れ、ふと彼女は自分を呼ぶ声に顔をあげた。目の前に見知らぬ若者が立っている。侍従姿のその男が緊張した態で告げた。
「カザロ男爵様より、お言伝です」
「ケッセルトから?」
「はいっ。先ほど、ご一緒されていたご婦人が体調を崩され、お連れの方が見つからなかったので、自分が見送ってくると。戻りが遅くなるようなら、その、――よろしくと。その旨、お伝えするようにとのことでございました」
「な――」
クリスは絶句した。すまなそうに侍従の若者が顔を伏せた。
婦人を看病するのはいいが、それを自宅にまで送っていく。さらには同伴してきた相手に先に一人で帰れなどというのは、あまりに礼を逸した行為だった。あのケッセルトならありえるか、と苦々しく考えたところでふと思いつく。
いつの間にか舞踏は終わり、再び歓談の時間になっている。室内にいる人の数が少なく見えるのは、室内遊技や煙草を目的として別室へ移動した人々がいるからだった。見ればその中に主だった商家連中がいない。ルートヴィヒ・ベラウスギ公爵もその一人だった。
残った人々の中にイニエ公女とコーネリルの姿を見つけ、そのコーネリルが彼女に気づいてにこりと微笑んだ。それを見てクリスは自分の失態を悟った。
ケッセルトが女性を介抱することも、それを見送るというのもありえる話ではある。だからこそ、同伴した彼女と別行動をとることも納得せざるを得ない。
その男が、今この場から姿を消して大商家達と共にいないとは限らなかった。気分を悪くした婦人というのがそもそも男を誘うための小芝居かもしれない。この時代、室内遊技や煙草は男性のものとされていた。そこに女性がまじることはできない。自分が物思いに耽っているうちに、宴席の始まり頃に牽制できていた別室での密談という状況をまんまと作られたことになる。
痛恨の思いでクリスは歯噛みした。あるいはこうした状況を初めから考えていたのか。それは誰の意思によるものか。ケッセルトかコーネリルか、それともルートヴィヒ公爵かはわからない。唯一つはっきりと理解できたのは、今夜の敗者は自分をおいて他にはいないだろうという苦い思いだった。
徐々に夜が深まり、招待客達がぽつぽつと帰り支度を見せ始める。ホストであるコーネリルに挨拶を残して去っていく人々の中で、クリスは大商家達が戻るのを辛抱強く待ち続けたが、彼らは一人として帰ってこなかった。ルートヴィヒ公爵も、ケッセルトもそうだった。
「……それではコーネリル男爵。私もそろそろ失礼させて頂きます」
「アルスタ女爵。左様ですか。かしこまりました、カザロ男爵がお戻りになられたら、私からお伝えしておきますので」
「よろしくお願いします」
平然とした男の口振りにクリスは一言もなかった。ケッセルトが今どこで何をしているのか確証がない以上、相手に何を問い詰めることは不可能である。
唇を噛み締めるしかないクリスの目前で、ホストとしての役割を全うした男は柔らかな表情を崩さなかった。それが商人としてだけではない、人としての力量の差を思い知らせるようで、彼女は表情を隠すように頭を下げた。
「今夜は。色々と勉強になりました。ありがとうございました」
「とんでもない。私こそお話できて嬉しかった。しがない石商ですが、なにかお役に立てることがあればいつでもお声がけください」
「――はい。その折には、是非に」
「クリスティナ様。外までお見送りしてもよろしいでしょうか。父がまだ帰ってきませんで、暇を明かしておりまして」
二人の側にいたイニエ公女が言った。クリスは頷いた。
「恐れ入ります。それでは、コーネリル男爵。失礼します」
「はい。またお話できる機会を心待ちにしております」
男はにこやかに答えた。
広間から玄関へと短くない廊下を歩きながら、イニエ公女が不満をもらした。
「わがままを言って申し訳ありません。お父様ったら、室内球技となるとわたくしのことなんてすぐに忘れてしまうのです」
「男の方にはよくあることでしょうね」
答えながら、内心では彼らが話題にしているだろう話の内容に憂いでいる。結局、肝心なところでは見事に蚊帳の外に置かれてしまった。誰を恨むでもなく、ただ自らの未熟さを悔いている彼女を見上げたイニエ公女が言った。
「クリスティナ様。なにかおありになったのですか?」
「いえ。なんでもありません。夜会には慣れないもので、少し疲れているのかもしれません」
「先ほど、外で少しお話になったことでしょうか」
イニエ公女は心から案じている表情だった。年少の相手に心配される自分を情けなく思いながら、クリスはあいまいに微笑んだ。
「自分が如何に物知らずか思い知っただけです」
「それをいうなら、わたくしの方こそ。カザロ男爵のお話にも、ただただびっくりするだけでしたわ。自分がどれだけ恵まれている立場にいるのか、胸が痛くなりました」
「あの男の話が大げさなだけです。……決して嘘ではありませんが」
戦場での苦労は彼女自身経験してきている。男が語らった全てを否定することはできなかった。
「……時々、怖くなるのです」
細く長い睫毛を伏せた公女が言った。
「怖い?」
「自分でもよく、わからないのですが。トマスのことや将来のこと。とても不安になることがあります。父はいつも忙しいですし、母は今、遠くですので」
「ああ、それは」
クリスは苦い気分で答えに詰まった。イニエ公女の母、公爵夫人が療養の為に遠く離れることになったのには彼女も少なからず関わっている。呪い師に入れ込み、結果的にトマスの暴動にまで発展した事態の原因でもある彼女へ同情するつもりはなかったが、一人娘であるイニエ公女の心痛については別だった。
「私でよろしければいつでもお話を伺いますよ。口下手で、何を言えるわけでもありませんが」
もう少しましな言い方はできないものかと自分に呆れてしまい、クリスは渋面になる。イニエ公女が嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「先日、帝都の友人から変わった茶葉が届いたのですが、それがなかなかいい香りのものでした。是非味わってみて頂きたいので、今度お暇でしたら我が家においでください」
「本当ですか? ふふ、嬉しいです。近いうちに必ずお伺いしますね」
「ええ、どうぞ。お待ちしております」
こういった会話ならまだできるのだが。クリスは嘆息したが、この場合、トマスの領主であるルートヴィヒ公爵の令嬢と特別な知己になる機会を得たという風には考えない彼女だった。彼女の社交の不得手は能力というよりは、思考そのものの差によるものといえた。
大半の招待客が去った後の玄関口からは人気が失われていた。冷やりとした外の気配を肌に感じながらクリスは振り返った。
「では、イニエ様。わざわざお見送りありがとうございました」
「はい。すぐにお手紙をお送り致します。ご訪問できる日を楽しみにしておりますわ」
用意された馬車に乗り込み、胸元で小さく手を振る可憐な令嬢の姿を見て口元を緩め、一礼する。走りだした馬車が景色を変え、車窓から覗く暗闇に浮かび上がる自分を見た彼女は表情から笑みを消した。
社交の夜が終わろうとしている。疲労感はあったが、それ以上に自分の不手際と聞き及んだ物事への様々な想像が勝った。水源、河川水路。例え自分が聞いたものが話の本題ではなかったとしても、なんの成果もなかったわけではない。悔やむならそれは次へと生かすべきだった。
ともあれ、トマスで起きようとしている一片は知りえた。ならばこれからも自分はあくまで自らの役割を果たし続けるだけだと心に決め、明日からの行動予定を立て始める。まずは明日、都に上がる前になんとしてもケッセルトと接触しなければならない。
実際のところ、この時点で彼女が知る事実は少なかった。タニル近辺で見つかった水場の詳細についてはもちろん、それが発見された状況に自分の知る少女が深く関わっていたことも知らず、またこれからも関わっていくことも当然知りようがない。
しかしそれは、知っていたところで恐らく意味がないことでもあった。クリスティナ・アルスタは器用な人間ではない。人並み以上に情が深く、人より思い悩むことが多かろうと、それで人を超えた何事かができるわけではなかった。
彼女はあくまでツヴァイに仕える騎士として、その生き方は愚直を貫いて曲がりようがない。今はいない彼女の古い知人は、過日そうした彼女を笑いながら評したものだった。それでこそクリスだ、と。
今も耳に残るその言葉を、彼女は忘れることができなかった。それは生涯に渡り、彼女の中に深く在り続けた。