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砂の星、響く声  作者: 理祭
 二章 乾いた夜に
54/107

 場が開宴の刻時に至った。

 催主であるコーネリルが乾杯の挨拶に立ち、大広間に集った客達が手に碗を持ち声を挙げる。緩やかな楽奏とそれぞれの卓席で再び談笑が再開された。五十人を越える招待客と給仕に働く使用人が入り混じった大広間に息苦しさはなかったが、その上座に位置する円卓には周囲と微妙に異なる雰囲気がある。

「百年? それは確かに尋常ではない。それこそ水天のご加護ということか」

「しかし、ラタルクの一帯は枯渇していたのでしょう。いったい何故」

「先年の戦の折、あの辺りは確かに一切が枯れ果てましたよ。私の商隊もとんだ目に遭いました。流れる血が水を枯らす――そのような噂も流れましたね」

「ああ、ありましたな。西の中陸が滅んだ話の。あれでしょう」

 ケッセルトが語った水源話を肴に、トマスで知られた大商家達が囁きあっていた。


 彼らの表情と口調はその発見に大いに興味をそそられてはいたが、色めき立つまでの様子ではなかった。あるいは当然だろうか。彼らが新しい水源の存在をとうに知っていたのなら、今日までに既に仲間内で会合を持ち、それについて語らっていないはずがなかった。

 例え内心でどれほど驚喜していても、首から上では平然とそ知らぬ顔をして見せるのが商人というものではある。しかしそれならば、彼らにとってこの夜会がどのような位置づけになるだろう。ケッセルトから水源の存在を直接聞き、今後は堂々と口に出来るというだけでも意味はあるにせよ、たったそれだけの為に密使の内容を知らなければ不可能なタイミングで招待の手紙を出すというのは、如何にもありえない。


 催主のコーネリルが卓を離れた後、彼らは近しい者同士で話している。あえて突っ込んだ話をケッセルトに向けようとする相手もなかった。先ほど話の主導権を取ろうと悪手を打った男など、卓の隅で片身が狭そうな有り様である。

 公爵の台詞から場の話題がさらに深いものに進むのだろうと内心で身構えていたクリスにしてみれば、いささか拍子抜けの感がある。あるいはコーネリルが不在だからかとも思ったが、あの若輩の商人が場にいなければ何もできないなどという生易しい連中ではない。

 できないのでなければ――、しない、と考えるのが妥当だった。機を待っているのか、人を待っているのか。これもまた駆け引きというものか、といつまでも慣れぬ空気に彼女は嘆息を押し殺した。少なくとも、周囲の商人達の表情から窺える思惑は僅かもない。ならば目を凝らして力を入れる分、こちらが疲れるだけだった。


 クリスは隣に立つケッセルトの様子を窺った。わからないといえばこの男もそうだ。自分の手札を惜しむ様子もなくさらけ出し、今は気分よさげに酒を飲んでいる。帝都に向かう途中でありながら、驚くほど簡単に水源の存在を明かしてみせたものだが、果たして独断でそのような行為が許されるものか彼女には疑問だった。もちろんトマスの大商人達がその情報を知っていたことはほとんど確定と考えてよいが、口外するなという達しがあったわけではなくとも、まさか口外せよなどという命があった可能性はありえるだろうか。彼女は男の意を確かめたかったが、宴の席上では難しかった。

 わからないことばかりだ。自分の社交の不得手を苦々しく思っているクリスに声がかかる。


「クリスティナ様は、――あ、失礼致しました」

 口元に手をあてて謝罪するイニエ公女に、クリスは首を振って答えた。

「クリスティナとお呼びください。まだ正式にアルスタを継いだ身でもおりません」

「ありがとうございます。クリスティナ様は、お酒はお飲みになられないのですか?」

「ええ。お恥ずかしながら、強くありませんで」

「そうなのですか。実は私も、あまり……」


 頬に手をあてた公女の顔色が赤い。彼女の手にした碗の中身が果実酒の薄さではなく濃い蒸留酒の色あいであることに、クリスは眉をひそめた。

「イニエ様、お加減は大丈夫ですか」

「ええ。平気です。今夜は、少し暑いですね」

 確かに人の多い空間ではあるが、そうした感想は特に公女一人の体感であろうと思われた。砂漠の湖上に浮かぶトマスの街は、夜には中心部まで緩い風が吹いて身体を冷やすほどだった。

 二人の様子を見たケッセルトが言った。

「まだ始まったばかりだしな、少し外で風にあたって来ればいい。なんなら俺が付き添おう」

 異を唱えかけ、クリスは考えを改めた。

「――では、卿にお願いしよう。すぐに私が冷やを持っていく」

「信用ないもんだ」

 苦笑いをしたケッセルトが、上気した表情の公女に恭しく右手を差し出す。

「ではお手を頂けますか。ご令嬢」

「いえ、ですが」


 公女が戸惑った仕草で父親を見る。ルートヴィヒ公爵が頷いた。

「ご好意に甘えなさい。手数をかけるな、男爵」

「とんでもない。麗しいご令嬢のお手をひけるというなら、役得というもの」

 余計なことを口走る男に周囲の男性陣は不快げだったが、ケッセルトは気にも留めずに令嬢の手をとり、見せつけるような態度だった。――やはり違う。あんなやつがニクラスに似てなどいるものかとクリスは頭を振った。


 近くを通りかかった給仕に冷水を頼み、ふと気づけばクリスが居る卓で、彼女と周囲に微妙な距離感が生まれている。決して露骨ではないが確実に存在する壁は今さらのことではなく、さらに言えばトマスに来てからのことでもなかった。

 大学に入ったばかりの頃は中央に戻ってきた過去の名家と嘲られ、トマスに来てからは帝都の目付け役として疎まれた。祖先から血脈として続く彼女の内心、その頑固な在り方が周囲に好ましくなかったのは事実だが、彼女にとってはどうでもいいことだった。

 少なくともあの頃、自分は一人ではなかった。何を考えているかわからない男の存在が傍にはあった。


 ――俺はずっと一人だった。


 不意にクリスは喉の渇きを覚えた。砂海に投げ出されたような飢えの衝動は、手にした果実水を飲もうと癒されない。彼女が好きでもない酒を欲しくなるのはこんな時だった。だからこそ絶対に飲んでやるものかとクリスは自分に突っぱねた。ろくなことにならないとわかっていた。


 目線をあげて、一人の人物と目があう。親子ほども歳の離れた二人は互いに無言のまま視線を絡ませた。クリスを見やるルートヴィヒ公爵の眼差しに悪意はなく、何かの意図が含んでいるわけでもない。その視線は同じ認識を抱いた共犯者としてのものだった。その指すものをクリスも理解している。

 公爵はニクラスの存在を知っていた。一年前、公爵夫人の重用した呪い師が起こした魔女狩りの裁判に家名を捨てた男が弁護人として立てたのは、公爵の手配があったからである。もちろん善意ではありえなかった。帝都からの謀略であったかもしれないとニクラスが言った、その始末に利用して都合がよいからこそだった。公爵はトマスの領袖、そしてニクラスの生家は帝都で差配する宰相クライストフ家である。


 彼と公爵の間にどういった会話が交わされたのか、裁判まで全て秘密にされていたクリスには知る由もない。ニクラスが街の暴動に巻き込まれて姿を消した後、クリスと公爵が暗黙の了解で互いにその事実を隠したのは政治的な配慮からだった。彼女にとっては不本意だったが、帝都とトマスの関係を思えばそうするしかなかった。自分の存在を明るみにしたくないからと、暴動の収まらない街中に出た男の意思を彼女は知っていた。

 深い色合いをした公爵の双眸と対すれば、憤然として沸き起こる想いが彼女にはある。しかし、クリスはそれが八つ当たりに近いものであると知っていた。少なくとも、男が彼女の元を去ったのに目の前の人物の存在は全く関わりがない。


 透明に揺れる碗を持った給仕が戻ってきた。受け取って向こうの公爵に一礼し、クリスはケッセルトと公女の後を追った。彼女がいなくなれば、卓に集う人々はすぐに仲間内で話を始めるだろう。クリスもまた、それを彼らの為と思ってするわけではなかった。


 談笑と楽の音と香りが人の気配とまざって混沌とした場をクリスは歩く。毅然とした美貌を見せる彼女の表情は外向けに凍り、身体は窮屈に拘束されている。心がどうしようもなく乾いていた。



 大広間に面した中庭に設けられた石椅子に二人の姿を見つけ、クリスは安堵した。ケッセルトもまさか公女相手に無礼は働くまいが、それでも男の手癖の悪さを知っているから油断はならない。

「クリスティナ様――」

 彼女に気づいたイニエ公女が顔を向けた。屋敷に到着してからの短い時間の間に陽は落ち、周囲には深い闇が広がっている。室内灯から離れて顔色までは窺えないが、公女は風に晒されたせいか先ほどより口調がはっきりとしている様子だった。


「お水をお持ちしました、イニエ様」

「ありがとうございます」

「もう少しゆっくりでもよかったんだがな」

 石の長椅子に座る令嬢の前に護衛よろしく立つケッセルトが言った。令嬢の下には男がどこからか調達したとみえる敷き布がひかれている。

 男の言葉を無視して、クリスは硝子碗を令嬢に手渡した。そっと受け取り、上品な仕草で飲んだ令嬢が、それを見守る二人の視線に照れたように首をすぼめた。

「恥ずかしいですわ」

「ああ、申し訳ありません。失礼しました」

「もっと近くで見ていたいところですよ――睨むなって。冗談だろうが」

 くすくすと笑みを漏らす。

「お二人は昔からのお知り合いということですが、本当に仲がよろしいのですね」

「いえ、そのような」

「ただの腐れ縁です、ご令嬢」

「戦場の縁は血よりも濃く、水よりも尊いと聞きます」 

 身体のうちに残った酒精を吐き出すように公女が言った。当たり障りのない答えを探したクリスが答えに詰まる。代わりにケッセルトが答えた。

「確かに。生死を共にした間柄には、ただその一事で深い繋がりが生まれます。しかしそれは味方に限ったことではない。敵の存在に感じることでもあります」 


「争っている相手に、ですか?」

「はい」

 不思議そうに令嬢が瞳を瞬かせる。ケッセルトはいつになく真剣な表情だった。

「砂海での行軍には、まず相手と接敵する事に大変な困難が付きまといます。足元は流れ、景色が惑い、喉は渇き目が眩む。一日中を歩いて、野営先であてにしていた水場がないこともある。いくら熟練の兵でも一滴の水を飲まずに歩けるわけではない。戦場まで立てない兵。名誉の為に戦うことすら出来ない兵。冗談でもなんでもなく、本当にそんなものが出てしまう。砂漠を歩くことは苦しいのです。荷を担ぎ、限られた水と食料で、だからいつしか足が止まってしまう。都合のよい幻を見て列を離れてしまう。故郷から距離が離れてしまえばしまうほど、疲れてしまえば疲れてしまうほど、その誘惑は耳元で強く訴えかけます」

「……砂の誘惑」

「我々はそれを、砂の声を聞く。といいます」

 ケッセルトは言った。


「だからこそ砂海を越えて敵に会えた時、嬉しい。苦行から解放してくれる存在に巡りあえたことに感謝します。兵は敵への憎しみと、それと等しいほどの悦びで殺し、殺される」

 強い言葉に令嬢が絶句した。これ以上は刺激が強すぎるとクリスがケッセルトを諌めようとして、令嬢の表情にためらった。暗がりの中で衝撃を受けた様子だった令嬢は、しかし強い意志の眼差しを男に向けている。

「どちらにしても、死があるのですね」

「そうです。大いなるものに惑うか、人の手によるか。たったその違いでしかない。しかし、それこそがまさに違うのです。死は常に我々の生の一歩前にある。誰にとっても。砂はその象徴だ。そこに踏み出す者に敵も味方もありません。互いにちっぽけな存在として大いなるものに抗う、矮小な一人と一人があるだけです」

「だからこそ、それを経た縁は強い?」

「ええ。同時にひどく脆くもある」

「何故ですか」

 ケッセルトは淡々として言った。

「一度飢えてしまえば、ご令嬢。血も水も変わらない」


「ケッセルト、やめろ」

 クリスが強い口調で遮った。言葉の意味のどこまでを理解してのものか、令嬢が睫毛を伏せた。

「……恐ろしい世界なのですね。わたくしなど、想像もつかないほどに」

「トマスは恵まれた地です。考えもつかないのは当然だ。しかし、知るべきではある。トマスであれタニルであれ、誰もが砂の上に生きているのだから――さて、ご令嬢」

 そこで言葉をきり、男はからかうように声の調子を変えた。

「そろそろ酔いは醒められましたか?」

「ええ、おかげさまで、随分と」

 公女は気丈に微笑んでみせる。クリスは息を吐き、ケッセルトを睨みつけた。

「貴公。悪趣味だぞ」

「そうか? 女の趣味は自慢なんだが」

「ふざけたことを」

 令嬢が身を震わせた。笑ったのではなく、吹き抜けた風に肩を抱いた様子に、クリスは自らの上掛けを剥いで公女へと纏わせた。

「クリスティナ様。大丈夫ですわ、わたくし」

「酒精の抜けた後には身体が冷えます。風邪など召されないよう、どうぞ」

「……ありがとうございます」

 はにかんで、公女が改めて自身の前に立つ二人を見上げた。

「まだお酒が抜けていないのかしら。なんだか夢のようです」

 クリスとケッセルト、それぞれ帝国で名の通った二人を護衛としたかのような我が身を振り返っての素直な感想だった。ケッセルトは口の端を持ち上げ、クリスは薄いが温かな微笑を浮かべた。


「――ああ、こちらにいらっしゃいましたか」

 室内からコーネリルが姿を現した。従えた女中の盆で温かな湯気が立っている。

「お加減は如何ですか、イニエ公女。お茶をお持ちしましたよ。カザロ男爵、アルスタ女爵もよろしければどうぞ」

「ありがとうございます、コーネリル様」

 イニエ公女に続いて葉茶を手渡され、クリスもありがたく受け取った。特に嬉しくもなさそうなケッセルトが、碗の数が一つ余ることににやりとした。

「ホストは大変だな。こんな役回りでもないと息をつく暇もない」

「はは。ばれてしまいましたか。イニエ様、どうかご内密に頂けますか?」

「わかりました。わたくしの胸の中に秘めておきますわ」

 公女の様子を見に行くと言えば、一時だけでも忙しさから抜け出す口実になる。自分の為なのだから公女が感謝する必要はない。そうした男の気遣いに公女は心得た笑顔で頷いた。四人が温かな碗を手に包み、囲んだ光景に可笑しそうに笑う。

「なんだかわたくし達、不思議な取り合わせですね」

「確かに。若い連中が揃って追い出された格好かな」

 ケッセルトが言った。


 場で最も年長である男もまだ三十には届かず、訪問客の中では若手である。熟練の業を必要とする工匠と同じく、一人前に認められるまで年数がかかるのが商人で、大店を構えるほどの大商家となればさらにそうだった。客の顔ぶれはほとんどが壮年期の後半から老齢に至っている(平均的な寿命が四十年程度であったこの時代、四十を超えれば既に老齢といってよかった。そして実際の寿命年齢には環境差が大きく関わってくる)。

 誰もが成功し、また転落しうる商売の街トマスにおいても。あるいはだからこそ、上層部と呼ばれる人々はそうだった。伝統ともちろん才幹があってではある。富める者はその富を用い、さらなる儲けを企む。


 そうした意味では、この場の四人で最も特殊なのは養生中の夫人に代わり父親に付き添うイニエ公女でも、異例の人事と評判になった東境タニルの領主ケッセルトでもなく、次期女当主として名代でトマスに駐在するクリスでもない。二十半ばでトマスを支配する大商家達の一人として――例え末席とはいえ――肩を並べるハシト・コーネリルという存在こそが異色だった。


 男は穏やかな笑みを浮かべている。一代で財を成したやり手の商人というよりは、二代目、三代目あたりの気のいい跡取りといった感があった。当然それだけではありえない男の優しげな顔を皮肉るように、ケッセルトが言った。

「商売上でもそれ以外も、嫉みやっかみ。さぞ気苦労も多かろうよ」

 コーネリルはやんわりと首を振った。

「とんでもない。私の不徳と致すところです」

 クリスはコーネリルについての噂を思い出した。確かにその中には悪意じみたものも多く含まれていた。

 ある噂は、コーネリルの婚約について相手の爵位こそが目的だったと語っていた。名はあれど貧困にあえぐ貴族の未亡人を娶ったのはてっとりばやく家名を手に入れる為で、夫婦仲ははじめから冷え切って別居同然であるという。それどころか夫人は与えられた金で何人もの愛人を囲い、氏もそれを黙認しているのだそうで――。下卑た噂が世に流れるのは常のことで、それを鵜呑みにするのは愚かしい。しかし今宵、催主を務めるコーネリルの傍に夫人の姿はなかった。


 そうした事実の一片だけを誇張して、また新たな噂が広がるのに違いなかった。真偽について本人に尋ねられるはずもなく、クリスは今は闇に落ちる周囲に目をやった。庭園や屋敷周りの景観にはその家の主人両名の嗜好が表れるというが、屋敷に来た時のことだけを考えれば、日が昇ったそこには閑散とした風景が想像できてしまう。


「まあ、向こうからしてみれば、若い連中が悪巧みをしてるって図にも見えるかもしれん」

「悪巧みですか」

「そうとも。例えばさっき、あんたに活躍の場をとられたあの男なんて、内心どう思ってるか。悪意に理由はいらない。生み出すことも、捻じ曲げることだってできる」

 ケッセルトが言った。コーネリルは小さく苦笑を刻んで男の冗談半ばの悪意をやりすごそうとするが、ケッセルトが追い込んで続ける。

「評議会とやらに入りはしたらしいが、そんなもの砂上の楼閣だろう。一代で財を成した者は、一代で消える。このトマスでは特にそうだ。それを超越した立場にはなれない」

 挑発の言葉に、コーネリルは表情の笑みをそのまま首を振る。

「カザロ男爵が何を仰りたいのか、わかりかねます」

「商談をしようと言ってるのさ」

 男は素早く左右に視線を動かした。動揺というよりは、困惑に近い反応だった。


 場にはイニエ公女とクリスの姿がある。トマスを支配する評議会と揶揄される組合の長でもある大貴族の令嬢と、帝都から送られてきた人物を前にして、確かに口にする話題ではなかった。やっかいな相手に絡まれた男に同情する気分で、クリスはそ知らぬ顔を通すことにする。

「……この場であえてそのようなことを仰る魂胆、やはり私には計りかねますが」

「そういう男だっていう風には、調べはついてなかったかい」

「お噂は数々。色々と計り知れないお方であるということでしたが、実際そのようで。先ほどから驚いてばかりでおります」

「そりゃよかった。で、返答は?」

 からかうような声だが、本気か冗談かわからないのがクリスの知るケッセルトという男の手口だった。何も考えていないような態度で、相手を悪辣な罠に嵌める。


 イニエ公女とクリスという存在もある状況での唐突な申し出。それらの意味するものと、自らの置かれた立場について即時の心算を計り、コーネリルが笑みを収めた表情で答えた。

「私は商人です。どの場であろうと、商いのことでしたら喜んで承ります」

 しかし、と続ける。

「一つだけお聞きしたい。何故、この私に? まさか歳が近いから共感して頂けたというわけではないでしょう」

「そりゃ違う。いや、案外近いかな。だが理由はある」

「お聞きしても」

「砂利、届けてくれるんだろ。タニルまで」

 ケッセルトが言った。言葉の意味を掴めずにクリスは眉をひそめた。イニエ公女も不思議そうにしている。


 しばらく反応のなかったコーネリルが、堪え切れなかったように笑みを漏らした。

「なるほど」

 今度ははっきりと苦笑を浮かべ、感嘆と嘆息が混じった息を吐く。

「タニルまで手前の石が運べるというなら、商人としてこれ以上の喜びはありません。どれほどのことができますか、非才非力な身ではありますが、お手伝いさせて頂きましょう」

「よく言う」

 ケッセルトが唇を歪めた。コーネリルが笑顔でそれに応える。


 コーネリルはイニエを見た。この場で彼が商談を行う意図を、わざわざ口にして伝える意味はなかった。公女もそれを理解した表情でいる。男はクリスには一瞥もなかった。クリスは黙して場の成り行きを見守った。

「さて、カザロ男爵。商談ということですが、具体的には一体どのようなお話でしょう」

「なに。教えて欲しいだけだ。うちの近くで見つかった水源で、いったい何をたくらんでるんだ?」

 言い放ったケッセルトは、まるで振舞われる酒の銘柄を訊ねるように気楽な口調だった。暴言としか思えない男のやり口にも多少慣れてきたのか、コーネリルは余裕のある笑みを崩さない。ちらりとクリスを見て微笑んだのは彼女を馬鹿にしたのでなく、内心で冷静であるよう努めている心情を察してのものだった。

「……正直に申し上げれば、もう少し具体的なものを要求されるかと思いましたが」

「今はそんなもんよりよほど必要なもんがあってね」

「私は若輩であり、まだまだ至らぬ身です。先ほどカザロ男爵のおっしゃられたとおり、組合にもつい先日認められたばかり。その私が、身内の情報を売ると?」


「別にトマスを売れなんて言っちゃないさ」

 ケッセルトは言った。

「敵対しろとも言ってねえ。そんな馬鹿な話をする奴がいるか? いるわけない。俺が言ってるのは、円滑に話を進める為の手伝いをお前さんにしてほしいってことさ」

「物は言いようと申しますが……」

 コーネリルが困ったように視線をそらした。ちょうどその先に佇むイニエ公女が男の視線を受けて口を開く。

「それがトマスの益を損なうものでないのでしたら、コーネリル様。どうぞ貴方の思うがままになさってください」

 コーネリルが無言で頭をさげた。見守るクリスはその意味を正確に把握した。


 トマス領主であるルートヴィヒ公爵の長女であるイニエ公女の前で、トマスに叛旗を翻すことなどできるわけがない。ケッセルトの言ったとおりだった。ここで交わされる会話はイニエを通して必ずルートヴィヒ公爵の耳に入ることになる。

 それでいて、この場であえて話をする理由。ケッセルトはコーネリルと、イニエを通してルートヴィヒにも言葉を向けているのだった。公女という立場はそれだけで社会的なものになる。そして彼女は聡明だった。そのことは返答の内容に表れている。トマスの益を損なわなければ、と彼女は言った。

「どうする。卿にも悪い話じゃないと思うが」

 コーネリルは熟考するように沈黙した。無理もなかった。トマスがケッセルトを招待して働きかけようとしていた何らかの企みについて、コーネリルが他の評議会の面々のないところで話をするということは、もし企みが成功したなら彼の功績は多大なものになるが、逆に失敗の責も全て背負い込むことになってしまう。相手がケッセルトなどという型破りな男である以上、慎重な性格なら二の足を踏んで当然だった。


 男の答えを待つケッセルトは未来を知っているかのような表情だった。その表情を嫌らしく思いながら、クリスもケッセルトと同じ想像を抱いている。

「――わかりました。お話しましょう」

 男はゆっくりと頷いた。にやりとケッセルトが笑んだ。

「さすがに話がわかる」

「大きな商機を前にして踏み出せないのなら、商い人とは言えません」

「危機を察して自重するのも才能だと思うぜ? 我ながら、自分が優良品とは思えないんだ。売値が下がる程度ですめばいいが」

「もしそれで損なうようなら、私の器量がそこまでだったということでしょう」

 男の言葉にクリスは潔さを感じた。若くして大店を構える器だった。


「お察しの通り、我々がカザロ男爵をお呼びしたのは意図があってのこと。長く枯渇していたラタルクに水が湧いたという噂を聞き、我々はその情報が正しいものであるかどうか急いで人を使い、話を集めました。全ては先ほどベラウスギ公爵のお言葉通り、この事態にトマスとして出来うることを考えてのものです」

 クリスは皮肉な感想を抱いたが、口には出さない。

「東の大河川、トマスからボノクスへと繋がる商水路は大きく南に弧を描いています。その弧円の中、水源の枯れた彼の地から人が去り、無数にあった陸路が途絶えて既に久しい。今、その場所に水場が湧いたということは天佑に他なりません。水あるところに人は集い、物は流れる。そうした状況を我々は望んでいる。いえ、そうした状況を作れると思っています」

「ほう? 作るとは、つまり」

 心躍らせた気色でケッセルトが促す。頷いたコーネリルが厳かに告げた。

「ここトマスからラタルクに向けて伸びる新たな河川水路を築きたい。それが我々トマスの商人の抱いている大きな望みです」



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