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タニルの領主であるケッセルトと帝都から滞在するクリスの二人は、当然のように目を惹く組み合わせだった。その日の宴席はトマスの上層部といえる人々が定期的に集うものだが、ケッセルトはそこに招かれた主賓である。
立場上、評議会に連なる人々やその他の招待客にケッセルトを紹介するのはクリスの役割となる。開席前の社交を忙しく過ごすうちに、クリスは新たな来客の存在を視界に捉えた。
「なんと。そのようなことが?」
「よくあることです。ボノクスの兵は精強だ。いや、あれはまず在り方が違う」
「なるほど……。しかし、今までにもそうしたお話を聞くことはありましたが、やはりこうして直接聞くと、迫力といいますか、ものの説得力が違いますね」
「語り慣れているのでね。気になる女性を口説くのに、戦場話は使えます」
「それは我々には真似できませんな」
数人を相手どって口舌軽やかなケッセルトに合図を送ると、男も目線だけでそちらを窺った。
細身の男性とそれに連れ添う若い女性が客間に入ってきたところだった。傍に立つ若者が今日一番の声を張り上げ、誇らしくその人物の来訪を告げる。
「ルートヴィヒ・ベラウスギ公爵! イニエ・ベラウスギ公女!」
アルスタ家と同じく興国から続く名門。ではあるが、二代皇帝シェハンの早逝により起こった後継問題のあおりを受けて主流から追いやられたアルスタ家とは異なり、常に中央社交の只中に君臨してきた誠の意味での名家の人物達には、貴ぶ者の気品さが生まれながらのものとして備わっていた。
短い白銀の髪を頭に抱くルートヴィヒ公爵が一足を進めれば、それだけで周囲の目が吸い寄せられる。無数の視線の針を受けて微笑みをたやさない仕草には超然とした気配さえあった。帝国でもっとも高位を戴く大貴族であり、同時に帝国の経済を支配する十数名の大商人の一人でもある。特別といえばこれ以上の特別はない。
だからこそ、帝都とトマスに火種が燻るのだった。特別な存在とはつまり至尊の身、皇帝とその一族を表す言葉でもある。
クリスはルートヴィヒ公爵の傍らの相手に注視した。
イニエ・ベラウスギ公女はベラウスギ家の長女である。ベラウスギ家は長男に恵まれず、ようやく生まれた幼子を流行り病でなくしてしまった公爵夫人は大いに嘆き悲しんだ末に心を病み、ついに怪しげな魔術に傾倒するに至った。夫人が療養の為にと遠くの地に出された現在、彼女はベラウスギの血を継ぐ唯一の人物だった。ルートヴィヒ公爵もまだ壮年とはいえ、ベラウスギの次代が一体どうなるかという疑問は、トマスに生きる人々にとって捨て置くことのできない関心事である。
確か歳は十六。過去にはクリスやケッセルトも在籍していた帝都の大学に通っていたところ、故郷で起きた騒動を耳にして一時的にトマスへ戻ってきていた。クリスも何度か話をした覚えがあるが、やはり人並み以上に美しく、聡明な子女であった。
いつの間にか歓談の輪から外れたケッセルトが口元を緩めている。男はクリスにだけ聞こえる声で囁いた。
「ふぅん。ありゃ、いい女になるな」
「貴様はそればかりか」
「間違っちゃないだろう。どんな女だっていい女になる。恋して、憎んで、情念に焦がれればな」
「……ふざけたことを考えているのではなかろうな」
「さてね。美味い酒だからな」
答えになっていないことを言い、男は空になった杯を掲げて近くの侍従を呼び寄せた。代わりの酒杯を手に、語る。
「何よりもまず軽やかにあるべきだ。それでいて、飲んだらぐっと重い方がいい」
「酒の好みなど聞いていない」
「女の話さ。その点、お前さんは飲む前からして少し重すぎるな」
「くだらぬ事を。貴公の前で女であろうとした覚えはないぞ」
「そうだな。そろそろ鎧の一枚、剥いでみせてくれてもいいと思うわけなんだが」
苦笑するようにケッセルトが言って、口を閉じた。男の様子に視線を向けた視界で、ベラウスギ家の二人が真っ直ぐに彼らの下へと向かってきているのが見えた。クリスは居ずまいを正した。
「お初にお目にかかります。ケッセルト・カザロであります、公爵閣下」
「ようこそ、男爵。壮健そうで何よりだ。女爵」
「お久しくあります、閣下」
歳にしては渋みの薄い声音には、それまで生きた年月の長さと深みがまざってよく抑揚が効いている。公爵は自らの傍に顔を向けた。
「イニエ。ご挨拶を」
「イニエ・ベラウスギでございます。はじめまして、カザロ様。お久しゅうございます、アルスタ様」
ドレスの端をつまみ、まだ少女といってよい相手は優雅に一礼した。非の打ち所のない完璧な所作を見ながら、そういえば公女とサリュは同じくらいの年頃か、とクリスは考えていた。水と石に守られた貴族令嬢と、恐らくは今も砂に吹かれているだろう不思議な瞳をした少女を比べることに意味はないが、人の在り方に思いを馳せるきっかけにはなる。いや、やはりただの感傷だ。同齢多彩な人生などどこにでもありふれている。
「会えるのを楽しみにしていた。卿の武勇伝を聞きたがっている者も多い、よければ紹介したいのだが」
ケッセルトはにやりと笑みを浮かべた。
「喜んで伺わせて頂きましょう」
公爵直々に誘いがきたことに多少の驚きを感じ、公爵の案内で室内を歩き出しながら、クリスはふと視線に気づいて自分を見上げている公爵令嬢を見た。
女性としてはやや長身のクリスを眺め、令嬢が羨望の態で言った。
「アルスタ様はいつも凛としていらっしゃいますが、今夜は特にお美しくいらっしゃいますね」
「ありがとうございます。イニエ様こそ、大変お綺麗でいらっしゃいますよ」
世辞ではなくクリスは本心を述べた。
「嬉しいです。わたくし、アルスタ様とたくさんお話をしてみたかったのです。今までいつもご挨拶くらいしかできませんでしたから」
「私でよろしければ、いくらでもお付き合い致します」
「本当ですか? 嬉しい、ありがとうございます」
「はい。あまり話が巧くはありませんが、ご容赦くださいますか?」
クリスはケッセルトと交わしていた時とはまるで異なる表情だった。特に意識したものではない。同性のいわゆる良家の子女と呼ばれる人々の相手を苦手としていたのは過去のことで、サリュと同じ年頃、という先ほど頭に浮かべたことも影響してはいるが、年少者への親切は彼女生来のものだった。
「ご令嬢。面白い話でしたら、自分にも少し自信がありますが」
睦まじい様子の二人を茶化すようにケッセルトが言った。公爵令嬢は軽やかに微笑んだ。
「お父様から、悪い男の人には気をつけるよう言いつかっておりますの」
「これはこれは。一目で見抜かれましたか」
「いいえ。けれど男の方とは皆、そうした気分があるものではございませんか?」
令嬢が可愛らしく小首を傾げる。聡い返答にケッセルトは大きく笑った。
「まさに。世に悪くない男などありませんな、閣下」
「そうだな、男爵。男とはそうあるべきだ。だからこそ親としては心配もする」
穏やかなやりとりを聞きながら、クリスは内心で嘆息を漏らした。いきなりの会話が既に抜き差しならない線上で交わされている。まさに社交の会話と言うべきだった。
公爵が向かった室内の上座に位置する円卓にはクリスの知る顔が連なっている。いずれも高名な商家の人々で、全員ではないが、この場で巷でいうところの評議会が開けそうな顔ぶれだった。
「皆、御機嫌よう。本日の主賓をお連れした」
「ケッセルト・カザロです。ご一同、どうぞよろしく」
居並ぶ人々は油断のない笑みでそれに応えた。ケッセルトの隣でその表情を眺めながら、クリスは自らに刺さる冷ややかな視線の存在にも気づいている。
トマスには帝都から訪れているクリスを快く思っていない者も多かった。彼女の態度に、トマスの人々へとおもねり、迎合する素振りがないこともそうした空気を助長している。かといって、悪意があってそうしているわけではない以上、誤解や風評を気にする彼女ではなかった。
「コーネリル男爵はまだ挨拶回りに忙しいはず。ひとまずささやかな乾杯としよう」
ルートヴィヒ公爵が侍従から酒杯を受け取り、ケッセルトへと掲げた。
「それぞれ、杯の用意はよろしいか。では、遠き地より参られた勇者を歓迎して」
続きを促されたケッセルトが応える。
「トマスと帝国と。平和に」
クリスが平然としていたのは、隣に立つ人物がそういう男であると知っていたからだった。それを知らない周囲の誰もが涼やかな表情のままでいることはさすがだが、自然すぎる反応にかえって不自然さが露わだった。そうした反応こそをケッセルトは求めていたに違いなかった。男は全くもって性格が悪かった。ニクラスもそうしたやり口を得意としていたことを思い出したクリスが不愉快になったのは、二つの理由による。
「トマスと帝国の平和に。乾杯」
声にも仕草にも一分の揺れなく公爵が言った。
唱和が続く。透明な器の中で酒が揺れ動き、室内灯を受けて鈍く煌いた。
歓談は、しばらく他愛もない話に終始した。
トマスを代表する商家の一同が集まっているのだから、場にあがる話も自然とそうした類のものが多かった。物の値段や今年の不作、税についての不満や流行りの噂など取り取りの話題が交わされる中で、それを生業としない相手に配慮した話も向けられる。
「カザロ男爵はトマスは久方振りでおられるのかな?」
「先年の戦勝祝いの行軍以来になりますな」
「それはまさしくボノクスとの。そういえば、カザロ男爵とアルスタ女爵はその頃からのお知り合いでしたな」
「いえ。はじめて出会ったのはその前に、帝都の大学で。自分は一年しかおりませんでしたが」
「お二人の帝都大でのお話でしたら、私も幾つか見聞きしておりますわ」
「悪評ばかりでしたでしょう、イニエ公女」
ぬけぬけと言い放つケッセルトの隣で、一緒にするなと口を挟みたいところをクリスはぐっと言葉を飲み込んだ。
「そのようなこと。国の威信をかけた模擬戦でアルスタ様が他の殿方にまじってお見せになったご活躍など、今でもお茶会の席で語り継がれております」
「おお、さすがはアルスタ女爵でいらっしゃる」
「いえ。お恥ずかしい話です」
「ふむ、その時に俺は何をしていたかな」
「卿なら確か、女性を口説くのに懸命だったと思うが」
クリスが冷ややかに言い、ケッセルトがおどけて肩をすくめてみせた。周囲が笑う中で、クリスは考える。その時にケッセルトが対峙していたのがあのスムクライの女性だったと言えば、彼らの反応は全く異なるだろう。ボノクスを主導する四氏族の一つを知らない者はないが、容易にだすべき名前でもない。道化を演じるケッセルトも同じ考えでいるはずだった。
「では、久しぶりのトマスは如何ですか。今は戦火も落ち着いているとはいえ、国境防衛の砦たるタニルとでは色々と違いもあるでしょう」
話題が移ったことに、クリスはわずかに意識を鋭くした。ケッセルトが言う。
「そうですな。――やはり人と物の量に目を瞠りますが、意外と懐かしいと思えるところもありました」
「ほう。例えばそれは、どのような?」
「今日、ここに来るまでにも感じました。踏みしめた地面から」
問いかけた相手がけげんに眉をひそめる。答えたのはイニエ公女だった。
「お屋敷前に敷き詰められた砂利道のことでいらっしゃいますね」
「左様です、公女」
「砂利の道。ああ、確かに馬車がひどく揺れましたな、あれは」
「細かな石や砂利で道を踏み固めるというのは、戦場でもよくある手法でして。トマスのように、石積みのように、手ごろな大きさの石を選んで運ぶ労力がいらないのがいい」
「なるほど……。いや、コーネリル卿も決してお金に困っているわけではないのでしょうが」
それを聞いたケッセルトが笑みを強めたのは皮肉のものにクリスには見えた。男は決して、砂利敷きを卑下しているわけではない。持ち上げた唇の隙間に肉食獣の牙が覗いていた。
「なにやら、噂をされているような気がしました」
主催者でもある若者がやってきて話に加わった。
「コーネリル男爵。君の屋敷前の砂利は、いつ石畳に変える予定なのだね。いつまでもあれでは評判もよくないだろう」
「ああ、ですね。確かにそうなのですが」
困ったようにコーネリルが口ごもるのに、ケッセルトが口を挟んだ。
「せめてもっと踏み固めるか。あるいはいっそのこと、馬車の方に手を加えるというのはどうだろう」
驚いたようにコーネリルが眉をあげる。
「馬車に、ですか? カザロ男爵の領地では、何か特別な処置がおありになるのでしょうか」
「さて。見方を変えてみるというだけの話だが。トマスのように人も材もあるならともかく、そうでないところなら砂利というのは有用だ。その道は遥かに容易く、長く伸びる」
ケッセルトが言った。一瞬、真剣な表情になったコーネリルが、この場の本分を思い出したようににこりと取り繕って微笑んだ。
「発想の転換というわけですね。カザロ男爵にはどうやら軍才だけでなく、商売の才能もおありのようでいらっしゃる」
「なに、考えるだけで実際やるのは面倒になる性質でね」
「まさにそうした方々をお助けする為に、我々のような者がおります」
相手の意図を汲み取った仕草で一礼し、コーネリルが言った。
クリスがちらりと周囲を窺えば、今の話を理解したもの、理解できずにいるもの、それぞれの表情が並んでいる。近く遠くで歓談をかわしながら、ベラウスギ公爵以下からの視線も注がれていた。つまりは役者が揃い、様子見はこれまでということだった。
居並ぶ商人達の中では若いコーネリルが口火を切った。
「時にカザロ男爵。最近、商いをして気になる噂を耳にします」
「いったいどのような噂だろう」
「東にて、新たな水源が見つかったというものです。しかもそれが、なにやら普通の水源ではないと。ラタルクの地を治めるカザロ男爵には、お聞きおぼえがありませんか?」
婉曲な台詞に、ケッセルトは即答しなかった。居並ぶ人々から向けられる視線を受けてむしろ心地良さそうな間をおいた後、口を開く。
「それは確かに、事実だな」
「なるほど。では今回の上都もその件で」
くだらないやりとりではあるが、あくまでケッセルトは極秘に帝都へ報告を送っただけであるから、必要な手順ではあった。ケッセルトは頷いた。おお、と一同が声を成した。
「それは素晴らしい。長く枯渇にあえぐラタルクに再び水が沸くなど、水天の恵みに他なりません」
「ああ。しかもその水源、どうやらなかなか枯れそうになくてね。興味深いところだ」
「それは」
コーネリルが意外そうに口ごもった。クリスも驚いている。名言は避けているとはいえ、特別な水源を示唆するケッセルトの言い方はあまりにも開けっぴろげで、話を隠すどころか出し惜しみする気配さえなかった。
高貴な身分の人々が思わせぶりな言葉と仕草で楽しむ恋愛劇のような迂遠な探りあいを予想していた一同は、そのケッセルトの態度をどのように捉えるべきか思考したに違いなかった。その沈黙を破ったのは、先ほど砂利道の話を理解できていなかった某商家の男である。
「何はともあれ、そのような発見があったことは我々にとっても朗報。どうです。詳しいお話は後ほど、別室にていたしませんか」
その発言は場の雰囲気を慮ってのものではあったが、あるいは話の主導権をコーネリルから自らに引き戻す目的も含んでいた。
「自分はこの場所でもかまいませんが」
ケッセルトが言った。挑発するではなくとも、からかうような口調である。
「いや、しかしですな、ここにはご婦人方もいらっしゃいますので……」
失言だった。評議会といわれる意思決定機関がトマスに存在することは周知の事実だが、だからといってどこか別の席に移すのに葉巻や遊戯ではなく、女性を理由に持ち出すのはいかにも礼を逸している。卓を囲む夫人や同伴した婦人達の眼差しに白けた輝きが掠った。
「水湧く天啓を喜ばしく思うのには男女とも変わりありません。私も是非お聞きしたい話です」
クリスが言った。結果的に、女性だからと話から締め出されることがなくなったのは彼女にとって都合がいい。
「いや、しかしですな」
男が助けを求めるように周囲を見回した。迂闊な物言いで外様の存在であるクリスにまで口実を与えた男の無様さに、他の商家達の反応は笑んだまま冷ややかだった。
「あら、わたくしも是非お聞きしたいですわ。フリュグト様。それとも、お邪魔になってしまいますでしょうか」
助け舟をだすように言ったイニエ公女の台詞が駄目押しとなる。少なくとも、現時点で将来のベラウスギ家を継ぐ最有力でもある彼女からそのようなことを問われ、断れる人間はトマスに存在し得なかった。贅沢に慣れた下膨れの顔をひきつらせ、男は頭を振った。
「とんでもございません、公女様、ですが」
「――水は奪いあうものではない」
それまで場の推移を見守っていたルートヴィヒ公爵が静かに言葉を挟んだ。
「灼熱の炎罰に焼かれた我らを哀れみ、包み、癒してくれる万丈の地の恵み。それを独占し、己がままにすることは罪でしかない」
公爵は水天の教えを謳っていた。黄金に酔い、富を求めて奔走する商人の一人でもある人物がその台詞を用いることに、クリスはおかしみを覚えた。本音と建前という話ではない。そもそもツヴァイ国教である水天教の人々からして、その教義と立場で多大な利益をあげている。
ケッセルトから聞くまでクリスの耳に入らなかった時点で、トマスが――今この場にいる人々が、水源発見の話を意図的に留めていることは疑いようがない。それがわかりきった上で、公爵は続けていた。
「ならばそれは奪うのではなく、広める為に存在しなければならない。トマスはその為に存在しているのだ」
奇麗事のような言葉にクリスは公爵の真意を考える。その台詞はいったい誰に向けられているのか。居並ぶ商人か、それともケッセルトなのか。自制か牽制、それだけではどちらともとれる言葉だった。
「その機が訪れたのなら謹んで使命を果たそう。話の続きをお聞かせ頂きたい、カザロ男爵」
「かしこまりました、公爵閣下」
応えるケッセルトの表情にクリスは見覚えがあった。戦場にあって、状況が自分の描いた通りに進んでいることを確信した時に見せる表情だった。
百戦錬磨のトマスの商人連中を相手にして、男の才幹は決して不足していなかった。タニルという差配微妙な土地を治めていたケッセルトの有能さをクリスは認めないわけにはいかなかった。
それを理解することだけにこの一晩が費やされるというのなら、明らかに勝者はケッセルトとなるだろう。帝都からの召還途上にある男は明日にはこの街を出る。トマスが何かしらを企む為に、話を仕掛けるのは今日の夜会以外になかった。
一人の失言で先手をくじかれた形の彼らがどう切り出すか。それを望んで心待ちにするような態度のケッセルトに、呆れまじりの頼もしさと同時に確かな不安を抱きながら、クリスは手に持った杯を傾ける。
夜は長く、顧みれば場には開宴の声さえかかってはいない。思惑渦巻く社交の真髄はこれからだった。