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「最近、東で水源が見つかった」
クリスは眉をひそめた。ケッセルトは天井の壁画を見上げた姿勢で続ける。
「トマスの南東、タニルからやや西。これまでずっと枯れずにいたっていう驚きの水場だ。つい一月ほど前、岩塩の洞窟と一緒にそれが見つかった」
「新しい水源? 塩だと。まさか、それは」
口にするのを憚るクリスを見やって、ケッセルトが後を引き取った。
「基水源。かどうかはわからんよ。俺は専門家じゃないしな、調査だってこれからだ。水天教の連中がどんなふうに顔色を変えるかもつまり想像どまりってわけだ。何しろ見つかったばかりだからな」
「貴公がタニルから呼ばれたのはその為か」
納得の気分でクリスは頷いた。
ラタルク地方に新しい水源が見つかったとなれば、東の情勢は大きく動く。水場があるのなら、そこはもはや空白地帯ではない。人と物、双方の流れが向かうだろう。ツヴァイだけではなく、それを察知したならボノクスとて黙っているはずがなかった。小康状態にあった東部戦線が動く。
東の騒乱。やはりそれは戦争だった。商人達が動きを見せるのも得心がいく。戦争には多くの物資が消費されるからだった。さらに新しい水源となれば、それは新しい航路、新しい商売の機会でもある。商人達にとっては文字通り夢踊る事態であるはずだった。
ふと、クリスは違和感を覚えた。
家令からの報告にあった商人達の動き。帝都からの連絡。たった今聞かされたケッセルトの言葉。それらが何かを示している。これ以上なく自然と繋がったようでいて、とても奇妙なその感覚は、ドレスの掛け留めを間違えたかのような気持ちの悪さを彼女に伝えた。
ケッセルトがいつもの軽薄な表情を潜めてクリスを見ている。
ややしてから、クリスはその違和感の正体に気づいた。しかしそれを口にしていいものか。黙ってケッセルトの反応を探ると、それを悟ったケッセルトが唇の端を持ち上げた。
「情報が伏せられてる。だろ? そう警戒すんな。俺がトマスに来てるのにも驚いてたくらいだしな。お前さんが知らされてなかったってことくらい、誰にだってわかる」
男の言葉に道理があることを認めつつ、どういうことだ、とクリスは頭の中で考える。
新しい水場が見つかったのは一月前だという。トマスから南回りに掘られたトマス・ラタルク水路では毎日のように東西の物流があるから、東からの情報が入ってこない理由がなかった。いや、実際に商人達の間で奇妙な動きがあることを考えれば、情報は入ってきてはいるのだろう。その上で、一般に広まらないというのなら、それは口止めされているからになる。
人と物、そして様々な噂が集まるトマスでそんなことが可能な相手は限られていた。大商人、それも一介の商人ではありえない。つまりはトマスの支配者層、その意思ということになる。
「新しい水源を秘匿したがっている? ……何故だ」
ケッセルトは肩をすくめた。
「さてな。しかし、連中が好きなのは一つだろ」
「――金か」
「航路商権の独占。まあ、わからんでもない」
水陸中の物流を扱うとまでいわれるトマスを支配をする人々も全て商人、または商人と繋がりのある貴族達である。彼らが新しい土地での商売の利益を欲したとしても不思議はなかった。
もちろん、全ての情報を制御することは至難ではある。しかし、何事においても先手をとるということはそれだけで大きな価値を持つ。その為に、トマスから先への情報の流布を可能な限り遅らせようという魂胆と考えれば筋が通る。
クリスは脳裏に異物のしこりをおぼえた。そこまで思考すれば当然次に考えるべきことを頭に浮かべるのに、予感じみた拒否反応が起こる。
「俺が気になるのはな、トマスの連中がいったいどこに情報を隠したがったのか、だ」
それを見越したようにケッセルトが低い声を這わせた。
「俺はその水場のある集落を占拠してから、すぐに情報を寝かせた。ボノクスや、あやかろうとする連中に嗅ぎつかれたくなかったからな。それと同時に帝都へ使いを出した。タニルからヴァルガードまで船を急がせて、馬を使い潰し続けても十日はかかる。それで帝都から返事が来たのがちょうど十日前だ」
息を切り、唇をなめる。
「それとほとんど同時、トマスから手紙が届いた。都へお上がりの際は、ぜひともトマスにて一日、歓待させて頂きたいと言ってきてな」
その文章の意味を理解して、クリスはぞっと背筋を凍らせた。ケッセルトが可笑しそうに笑った。
「川沿いに走って十何頭もの馬を乗り潰して、しかも極秘に送った最速の使いの返事を、さも当然という風に知ってその手紙だ。全く、なかなかのもんだよなあ、商人っていうのも」
「……タニルからの商人や旅人から水場の話は聞いたとしても。緘口令が必ずしも絶対ではなかったにせよ、しかし帝都からの召還を知っていたというのは――」
クリスの声も自然と抑えめに落ちる。昔から公然の秘密とされてきた、トマスから帝都への間諜の存在を思い浮かべずにはいられなかった。
彼女の背中を震わせたのはそれだけではない。そもそもが、トマスが情報を隠匿しようとした相手というのには、当然ヴァルガードも含まれる。否、あるいは帝都こそがその一番の対象だとしたら、事のきなくささが一段と増す。
「まあ、俺も最初はそう思ったが。考えてみれば、報告に俺が出向くことくらい予想はできるからな。見越しただけかもしれん。それでもそれを、そのタイミングで送りつけてくるのは大した肝の太さだとは思うが」
「それで、貴公はトマスにか」
「せっかく招待してくれるって言うんでな。タニルなんかじゃ食えない美味いものも出るだろうよ。しかし、俺のことまで聞かされていなかったとは、お前さんの立場も思った以上に窮屈らしいな」
「そのようだ」
同情の視線を向けるケッセルトに、クリスは苦笑するしかなかった。
クリスがケッセルトと旧知であるということは有名だった。数年前のラタルク遠征の際、ケッセルトと共にボノクス相手に勝利を重ねたクリスの武勇は広く知れ渡っている。その上で、ケッセルトの来訪が耳に入らないというのは、いくらクリスが帝都からの駐在であるとはいえ、いささか度が過ぎるようにも思えた。
「あるいは、俺がお前に会いに来ることも計算か」
ケッセルトが言った。
「随分と迂遠なことだ」
うんざりとクリスは首を振る。政治や政争といったものがことごとく彼女は嫌いだった。子どもではないのだから、嫌だから関わらないというわけにはいかなかったが。
仲間外れにされるのなら、好きにしてくれという想いもあったが、そういうわけにもいかなかった。彼女は帝都から任を受けて来た身であり、帝国に忠誠を誓った騎士でもあった。
扉が叩かれ、姿を現した執事が一通の手紙を持っている。男からそれを受け取ったクリスは、中を一読して思わず苦笑した。
「――今夜、歓宴会があるので可能ならば出席を、と書いてある。手違いがあり、連絡が当日まで遅れてしまったことをお詫びしますと」
さすがにケッセルトも呆れたらしく、瞬きして文面を覗き込んだ。
「またずいぶんと露骨だな」
「貴公が私の家を訪れたことも、耳に入っているだろう」
クリスは硝子窓から外を見た。そこには庭師が丹精を込めて手がけた緑が溢れ、不審な人物の姿はない。しかし、どこかからこの屋敷を見ている者がいることは確かめるまでもないことだった。
「招待主は? ベラウスギ公か」
クリスは首を振り、商人らしく書き崩れた筆致をなぞった。
「いいや。ハシト・コーネリル男爵だな」
「男爵? 俺の招待主もその名前だったな。どういう奴だ」
「評議会の一人だ。まだ入ってから年数は浅いはずだ。公的な宴は持ち回りで行うのが通例だから、あまり意味はないだろうが」
「評議会。ああ、トマスの政はそこで決められるんだったな」
クリスは頷いた。
「トマスで最も権威のある組合でもある。実質、このトマスを支配する人々の集まりだ」
「貴族ではなく、商人が幅を利かす街か。つくづく特殊だな」
「表向きは貴族を立ててはいる。その背後には必ず商家があるがな。いや、商家の表に、それぞれの貴族が立っているだけか」
ケッセルトがにやりと笑った。
「看板か」
「そういうことだ。彼らとうまく折り合わなければ、トマスでの発言力は無に等しい。私のようにな」
「お前のことだ。理不尽な扱いに文句をつけもしなかったんだろう。帝都の威を使えばそれなりに融通は効いただろうさ」
呆れた口調に、クリスは頭を振った。
「場所にはその場所ごとのルールがある。私が余所者だという事実は変わらん。それに、私は偉ぶる為にここにいるわけではない」
ケッセルトは鼻を鳴らした。
「慎み深い淑女は個人的には大好きだがな。そういう態度が周囲を誤解させるんだってことをいい加減にわかるべきだと思うが。だいぶ昔にも似たようなことを言った気がするな」
皮肉げな物言いに、淡白な視線でクリスは頷く。
「覚えている。私がなんと答えたかは覚えているか」
「覚えてねえよ」
「私は偉くなりたいわけではないのだ」
「覚えてねえし、聞きたくもねえな。そんな青臭い台詞」
ケッセルトは頭をかいた。
「それで、どうする気だ。昼前になって連絡するくらいだ、来なくてもいいって言われてるようなもんだろうが」
「当然、行く」
クリスは即答した。
「他に先約があるわけでもないからな。いくら社交から締め出されていても、私は帝都から任を受けてその場にいる。それが公的なものなら、宴に出ることも務めのうちだ」
「ドレスやら何やら、今からで間に合うのか?」
ケッセルトの言葉にクリスは不敵な笑みで応えた。
「社交は戦だ。急場に起こることも当然ある。戦から逃げるのも、言い訳をするのも、私は好きではない」
「相手はどうする」
「必要ない」
同伴の者を連れて社交に向かわないのは一般的に非礼にあたる。家の者をそれらしく見立てて取り繕う手もあるが、待ち受ける周囲の視線など気にしないといった潔い態度に、ケッセルトは小さく笑った。
「仕方ねえ。んじゃ、待ち合わせは何時にする?」
クリスが眉を寄せた。
「何故そんなものが必要になる」
「お前と俺で夜会に出るからに決まってるだろうが」
瞳を瞬かせ、クリスは極めて冷ややかな笑みを浮かべる。
「断る」
ケッセルトが大げさに顔をしかめた。
「即答かよ」
「当たり前だ。どうして私が貴公に同伴しなければならない」
「いいじゃねえか。俺だって相手が決まってないんだ。昔の上官を立てると思ってくれよ」
「声をかければ捕まる女くらいいるのだろう。その誰かに頼め」
「そりゃまあ、そうなんだが。せっかくのトマスでの晩餐だ。とびきりの相手と洒落込みたいじゃねえか」
「貴様の装飾品になるつもりはない」
冷淡にクリスは言い放った。彼女が隣に立つことを望んだ人間は一人だけで、その時にも、飾りではなく剣として在りたいと願っていた。それがもう二度とありえないだろうということもわかっている。既にそれは、過去にあるだけの思い出だった。
「ただの言葉の綾だろうが、怒んなよ。ったく――それに、お前にとってもその方がいいはずだぜ。連中、必ず俺に接触してくるだろうからな」
クリスが一瞬迷いをみせるのを見て取り、ケッセルトは余裕のある口振りで続けた。
「話が聞ける機会をみすみす見逃して、帝都への言い分がたつのか?」
「……相変わらず、不愉快な誘い方をする男だ」
顔をしかめ、クリスはケッセルトを睨みつけた。飄とした口ぶりでケッセルトは答える。
「最初からお前が素直に誘いを受けてくれるなら、こんな言い方はしねえよ。今も昔もな」
「それこそ冗談にもならん。これ以上なく素直に断っているだけだ」
「はいはい。それで、どうする」
長い沈黙を経た後に、クリスは口を開いた。
「条件がある」
「身体に触れるな、か?」
「常識的なエスコートの範疇ならかまわない。それ以上の狼藉に及べばどうなるかは、自分の身で確かめてみればいい。夜会の場で惨殺死というのが似合いの最期と思うならな」
「おっかねえな。それで、条件は」
「一つ質問に答えてもらおう」
「質問?」
「言っていただろう。ニクラスと関わりがある云々と。それがまだ全く話に出てきていない」
「ああ、なるほど」
ケッセルトは忘れていたとでも言いたげな表情だった。
「私を卓につかせる為のはったりだったとでも言うなら、金輪際、貴様と語ることはない」
怒りの予兆をちらつかせるクリスに、ケッセルトは肩をすくめて言った。
「ちげえよ。というか、ニクラスのことについてはこっちから訊きたいってだけだ」
「訊きたい?」
「ああ。――クリス。お前が最後にニクラスを見たのはいつだ」
「……なぜ、そんなことを訊く」
「一年前、トマスで街火事があっただろう。その時、魔女騒動で少女の弁護に立った男がいたって話があった。それがニクラス・クライストフを名乗ったなんて噂があるらしいじゃねえか」
覗きこむような男の視線に対して、クリスは平静な態度で答えた。
「そのような噂を信じているのか。あの時は街中が騒動になっていた。様々な風評も流れた。その一つだろう」
「風評、ね」
ケッセルトは面白がるように顎を撫でる。
「まあそうかもしれん。他にも色々あったらしいな。魔女の嫌疑をかけられた娘が、小さな砂虎を連れてたとか。そういえばつい最近、そういう相手に会っちまったんだが、こりゃただの偶然か?」
クリスは表情を変えなかった。
「もしニクラスがここにいたなら、私があいつを引き止めないはずがないだろう。足の腱を切ってでもな」
さらりと口にした物騒な台詞に、同意するように男は笑った。
「そう言われれば納得するしかねえな。まあいい。つまり、お前もあいつの行方は知らないわけか」
「知っているなら教えてほしいくらいだ。――それがなんだというのだ」
「いや、個人的な興味ってだけだけどな」
「かまわない。聞かせてくれ」
ケッセルトが呆れたようにクリスを見た。
「あいつのこととなると途端に素直だよ。お前さん」
「戯言はいらない」
「わかってるよ。……さっき言った水源を見つけた時に、思い出したんだよ。それで会いたくなった。お前ならあいつが今どこにいるか知ってるかと思った。それだけだ」
「新しい水源に、何故ニクラスの名前がでてくる」
サリュという存在からトマスでの噂を思い出し、そこまで連想したというのか。クリスの疑問に、男は韜晦するような笑みを浮かべた。
「聞いたことがあったんだよ。俺が大学にいた時にな、あいつが言ったことがある。ラタルク一帯が枯れて人々が去る。そこにもう一度人が流れて来ることがあれば、それは水陸中を巻き込むことになるってな。前に引いた分をさあ元通りに、なんて話じゃ終わらない。そう言った」
クリスは眉をひそめた。今ある状況を推測していたかのような予言じみたその言葉は、彼女もはじめて聞く内容だった。彼女は大学でよくその男と行動を共にしていたが、もちろん片時も離れなかったわけではない。
「あいつがそんなことを?」
「ああ。ラタルクが枯れる一年以上前だ。あいつが変だなんてことは重々承知しちゃあいるが、これはいったいどういう理屈だ」
男は言った。笑みの中に、奇妙な気配が忍んでいる。
「なあ、クリス。あいつは変わっていたが頭は切れるやつだった。色んなことを知っていたし、色んなことを考えてた。そんなことは大学連中なら誰だって知ってるさ。それだけじゃないことだって、俺や、お前ならな。その上で聞いてみたいんだがな」
男が言葉を切った。計られた間は、言葉の吟味に使われたのか、あるいは男の思惟に飛んだのかクリスにはわからない。
ケッセルトは彼女が戦場でも見たことのないような表情で彼女の瞳、その中央を見つめている。面白がるように男は言った。
「あいつは一体、何を知ってたんだと思う?」