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砂の星、響く声  作者: 理祭
 ニ章 食べて殺して
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 定期的に湧き場所が変わりながら、その箇所にさほどの誤差が見られない為に安定した水の供給が可能であり、複数の航路で重要な中継地点とされているオアシスの泉のほとりでは、常に多くの人が一時の休息を得ている。そんなとあるオアシスの一つ、その泉の手前側で全身を投げ出すようにしていた男は、ふと近くで空気が揺れる気配を感じてうっとうしげに目を開いた。


 時刻はちょうど天頂に太陽が昇りきった頃で、きつい日差しを避ける為にかぶっていた布切れの隙間から、横目で新しい客の姿を確認する。そこにいたのは男も旅の供として連れているこぶつき馬をひいた、二人連れの旅人だった。

 砂の侵入を防ぐため体中に巻き上げるようにした防砂具は砂塵にまみれ、見事なまでに砂粒色に染め上げられている。荷をかついたこぶつき馬を近くの木につないでから水をやり、染み付いた砂ごと剥がすように全身を包んだ防砂具を脱いだその二人の素顔がやがてあらわになった。


 若い。

 ただそれだけなら珍しくないが、加えて若い男女の旅人となればそれなりに目を引いた。

 男は二十を越えたあたりで、一見して旅慣れた雰囲気を持っていた。こぶつき馬の扱いも手際がいい。商人のようには見えず、かといって賊の類とも思えなかったが、いずれにせよそれなりの修羅場をくぐってきているようで、若くともどこか達観したような視線をしていた。

 その隣にいるのは連れ合いよりはだいぶ年の幼そうな、細身の女である。肉付きが薄いせいかまだ少女のようにも思えた。防砂具を脱ごうとする仕草にもたどたどしさが残っており、その両者のアンバランスが男の興味を引いた。

 少女は整った顔立ちながら身に着けているものは上等なものでなく、あまり恵まれた生活を過ごしてきていないようだった。その点、一般的な旅人そのものである男とはただの連れのように見えない。奴隷の使用人かとも思ったが、ようやく防砂具を脱いだ少女にすぐそこですくった飲み水を渡す男の態度を見ればそういうわけでもなさそうだった。

 その場に居合わせた他人に相対するそっけなさで男は水入りの袋を手渡し、それを受け取った少女も控えめに頭を頷かせただけで応答がすんでしまっている。なにかの縁で旅を共にするような親しい間柄には見えない。老成、というよりは人形のように覇気のない少女の姿を見ているうちに、男はふと喉元に小骨がささったような違和感を覚えた。


 何かが気になる。


 退屈な旅の道中には心の渇きを癒してくれる怪談や艶聞の類が必要だし、外に生きる以上、自分の直感には少なからず意味があるものだ。違和感の正体を探ろうと首を持ち上げかけた男は、そこで少女の隣にいる青年の視線がこちらを向いているのに気づいた。

 刺すような警戒心が、油断なくこちらに固定されている。

 男は笑って頭を元の位置に戻すと、自分がその興味からすでに関心をなくしたことを行為にして示した。



 大抵の物事は二つに分けることが可能であるが、この地の場合、多くの分け方の一つとしては、砂漠と砂海というのが代表的である。

 その境目についてもまた議論の残るところであるが、一般的に砂海は流れがあり引きずられてしまう箇所。砂漠とは流れずに地に足をつけていられる場所と理解されている。砂以外にも岩や礫などから成る砂漠と違い、砂海は文字通り砂でしかないのも大きな違いとなる。

 最も、砂漠にしたところで実は長い年月をかけて動いているのだと主張する者はあり、砂海と砂漠の違いはその奥深くにある板状の地層の有無に他ならないと唱える者もいた。人の生活の根本となる水源。それが長短様々にその位置を変えるのもそれが主な原因であるという主張は、現在、中央学会において高い注目を浴びているが、その立証、また、もしそれが正しかったとしても、それを生活に役立てることが出来るまでにはまだ長い年月が必要だと思われた。


 いずれにせよ、明確な線引きも色の違いもない以上、人にとってそのまったく同じようでありながらまったく異なる状況にあるという二つの見極めは、生きる上でなにより重要となる。旅人の足をとって地底まで引きずりこむ砂地獄などそうそうあるものではないが、休んでいるうちに砂の流れにはまり、二度と水場に戻れなくなった人間や動物の哀れな死骸やその骨なら至る所に見ることが出来るからだ。

 その際、なによりもまず初めに指針となるのが行路と言われる道なき道である。商隊や旅人、その他大勢の人間が実際に通った道は安全が確認されていることから、人々の通る場所は自然と知られていくようになる。そこは通商路の要所となり、場所によっては水源に栄えるオアシスとなり、水源の乏しい所でも簡易宿泊所のある宿り島となった。


 中には、特に一部の商人などには砂海を突っ切ることで独自の行路を開く者もおり、それによって巨万の富を築くことに成功した者もいる。それはもちろん商売以外でも同じであり、大陸の東方には一週間はかかる行路を無視して砂海を越え、わずか三日で他国に侵略した王の伝説も伝わっていた。

 もちろんそれらは無数の失敗の上に立つお伽話であり、一人の成功者の存在はその下に万を超える死者の群れが山高く積み上げられているからこそのものでしかない。しかし、あるいはだからこそ、今も一攫千金をかけて砂海に挑む者は多く、例えほんの一握りであろうと成功者は今日もその名を新しく馳せているのである。

 しかしながら、一般的にはそういった危険を避ける人間の方がはるかに多いわけで、その為に砂海を避ける手法についてはある程度明らかになっていた。


 一つ。砂海には水源が存在しない。それがどの程度の距離を測れるものであるかは不明だったが、一般的には砂漠にしか水源は存在しないとされていた。しかしもちろん、島のような砂漠が砂海に囲まれているということは考えられるため、ゆえにこれはあくまで気休め程度の見極めだとされている。


 二つ。砂海の境目には物が集まっていることが多い。これは砂海にある流れが起こす現象であり、倒木から死骸まで、多くのものが砂海と砂漠の間には流れ着くのだった。これははっきりと目に見える形であることから信用度は高いが、砂海の流れは向かうこともあれば遠ざかることもある。前者はともかく、後者においてはその判断方法はまったくの無力だった。


 三つ。砂海と砂漠の間には不自然な高低差が存在する。これが現在のところもっとも有効視されているものである。風に飛ばされる砂によって砂漠には多くの高低差が生まれるが、砂海との境界では地中の動きによってもっと連続的な差が生じることになる。山や谷のように落ちれば生死に関わるようなものはまずないが、多くは一目見ればわかるものである為、このことさえ十分に理解していれば危険を避けることは難しくなかった。


 もちろん砂漠と砂海についてはいまだ大部分が謎に包まれている為、これらの常識が通用しない状況も当然ありうる。しかし、存在している行路を通り、先に述べた注意点に留意することでその危険性は大きく下がる。

 何よりもまずは危うきに近寄らず。臆病な、しかしそれが絶対の正解である。オアシスのほとりで休んでいた男が示してみせた行動も、つまりはそういうことであった。



 太陽が空の階段を下り始めた頃になって、二人の旅人は出立した。

 休憩の間、水場の畔で座った彼らは共に静かだった。若者は水面を眺め、少女は木蔭の気持ちよさに船をこぎ、うたた寝をしていた。

 目を細めて太陽の位置を確認して少女を振り返った若者が一瞬、ためらうような仕草を見せた。はっと目を醒ました少女が立ち上がる。若者が何かを問いかけるのに首を振る様子をじっと見つめ、若者は少女に背を向けて歩き出した。その後を少女が追う。


 周囲でも出立する旅人や商人の姿が多く、雑多な喧騒だった。コブつき馬を曳く青年の歩く速度は決して早くはなかったが、少女と青年の間に距離があき、少女が足を駆けようとした、その横合いから彼女に向かって手が伸びた。

 意識する間もなく腕を捻られ、口を押さえられる。軽々と小脇に抱えられ、その段階になって少女ははじめて危機を認識した。くぐもった悲鳴を漏らし、暴れ叶わず、眩暈を覚えて息を吸う。口をふさぐ手が外れ、彼女が声をはりあげる前に口の中に詰め物が押し込まれた。不自由な形で圧迫された舌の根に痛みが走った。


「へへ」

 少女を抱えた男が下卑た笑い声をあげた。

 その男はこうした人の集まる場所にならどこにでもいる存在だった。盗み、攫い、殺す。連れからはぐれかけた少女など、男にしてみれば格好の獲物に過ぎなかった。彼女が視界に入った次の瞬間、男は少女を攫うための行動を開始していた。

 少女は恐慌していたが、それでも抗うことをやめなかった。しかし大人の腕力に打ち勝てるはずもなく、やがて抵抗を諦めたように力が抜ける。それを感じ取った男が拘束する力を弱めた瞬間、彼女は全力で暴れた。

 腕が外れる。地面に落ちた。走り出そうとする少女の髪を男の手が捉えた。

「逃がすかよ……!」


 力いっぱいに引き絞られ、体重の軽い少女はあっけなく引き戻された。羽交い絞めにされ、顎を掴んで無理やりに顔を向けさせられる。男は戦利品の出来を見定めた。磨けば物になりそうだ――そうした感想を抱く前に、奇怪なものが男の目に入った。

 灰色の瞳。二重に輪を描いている。その中に、男の驚いた顔が映りこんでいた。


 それ以上を考える前に腰に激痛を感じて、男はのけぞって悲鳴をあげた。肩越しに振り返れば、そこに冷ややかな瞳が輝いていた。

 腰に手をまわすと、べったりとした感触が男の手のひらに伝わった。さらに激痛。突きたてられた短剣か何かを容赦なく捻られたのだと、今まで生きてきた経験が男に事実を教えた。念の入った行動はそのまま明確な殺意の現れだった。

「くそ、ったれ――」

 怨嗟のうめきを残して、男はそのまま砂地に倒れた。

 苦痛にもがき苦しむ男へ一瞥も与えず、血に濡れた短剣を持った若者が屈んだ。人攫いの男の手から解放され、その場にへたり込んだ少女に声をかけるのではなく、赤く濡れた刀身に地面の砂をかける。刀身が全て砂に隠れてから外套の裾で丁寧に二、三度ふき取ると、綺麗に血の汚れが落ちていた。

「行くぞ」

 何事もなかったように若者が言った。


 少女は呆然と若者を見上げ、頷いた。立ち上がると少しふらついてしまう。それを見て、若者は何も言わずに歩き始めた。先ほどよりも歩く速度が緩やかになっていた。

 今度こそ若者から離されないように気をつけながら、少女は後ろを振り返った。倒れた男の周囲には人だかりが出来ている。

「あの、人は――」

 振り返らずに男は答えた。

「まだ死んじゃいない。すぐに死ぬ」

「……周りに。集まっている人達は」

「助けようとしてるわけじゃない」 

 男が言った。乾いた声だった。

「死ねば何もいらない。水も食料も衣服も。尊厳も、血も肉も髪も」

 倒れた男の周囲に集まり、去っていく人々がその手に何かしらを掴んでいることに少女は気づいた。

「何もかもがなくなったら、誰かが脇に捨てるだろう。水場が近ければそれさえも無駄にはならない。養分になる」

 淡々とした男の声を聞き、少女はぽつりと呟いた。

「――死」


「死んだ後にどうなろうが関係ない。ああなるのが嫌なら、気をつけることだ」

 若者は言った。

 コブつき馬を曳く男の手がわずかに汚れている。砂色の防砂具の一部もだった。男の警句を耳にしながら、少女はその赤色が意味するものについて考えていた。



 砂漠の気温の差は激しい。植物が生息していないことと水分が不足していることがその主な原因で、日中温度が高いほどその差は顕著だった。季節にもよるが今の時期なら夜は水が凍るほどに冷え込むこともある。

 ゆえにリトも、途中で先人の作った休憩所があるはずの航路を通っていたのだが、日が暮れる頃になってようやく着いた先にあったのは、ろくに形を残していない廃屋でしかなかった。

 二方向からの砂風を遮ってくれる土壁が残っていることが、まだ救いといえるのかもしれない。舌打ちしたい気分を抑えながらコブつき馬を繋ぎ、リトは餌と水を与えて宿泊の用意を整えた。

 その間、サリュは近くの材木を集めて火を熾す準備をしていた。日中はコブつき馬の背に乗っていたにせよ、炎天下の砂漠ではただいるだけでも容赦なく体力を奪われていく。少女は目に見えて疲労の色が濃かったが、男が休むように言っても首を横に振るばかりだった。


 旅では体調管理が生死を分ける。手にしていた木片を強引に奪って、リトは厳しい目でサリュを睨んだ。

「いいから。休んでろ」

 俯いた少女は「はい」とかすれるような声で返事をした。

 寝袋代わりになる防砂衣と、水の入った袋を手に渡す。水袋には唇を湿らせるだけでほとんど手をつけず、防砂衣を引きずるようにして壁の側に寄ったサリュは、襤褸に包まるように横になった。

 水が貴重なことは常識以前のことで、旅でそれを無駄にしない心掛けは立派というべきなのかもしれない。だがそれも程度問題だった。苛立ったリトはサリュの下に行くと、少女の肩を揺り動かした。やはり限界だったのだろう。反応鈍く、うっすらと目を開ける少女の口元に水袋を持っていって、

「水がなくなって死ぬのは馬鹿で、死んで水が余ったなら大馬鹿だ」


 それは旅慣れた者が初心者の旅人に贈る警句、というより皮肉だった。飲水の程度を知ることが、まず旅に慣れる事でもあるからだ。

 サリュは弱々しく微笑み、水袋を傾けるリトにあわせて少しだけ水を飲んだ。すぐにおもねるように首を振って、その横から零れた水が顎を伝って落ちていった。

 水を飲もうとしない。それは単純に遠慮からか、それとも飲んだ後に襲ってくるさらなる渇きに耐えられないからか。後者だとするなら、あまり好ましい状況ではなかった。

 いくら促しても、ぐずるように飲み口を拒否するサリュに業を煮やして、リトは自ら水を含むと強引に少女に口付けた。二重を描く目を見開いて、しかし抵抗しようとはしないサリュに口移しで水を送り込んでいく。渇いた唇の感触と薄い体臭を感じながら少しずつ含ませていき、最初の方こそほとんどが零れ落ちていたものの徐々に嚥下していくのを確認して、彼はようやく少女を解放した。小さく息を荒げるサリュの口元を拭って、

「……面倒かけないでくれ」


 腹立ちは、半ば以上自らに向けてのものだった。

 集落を出てから、既に三つのオアシスを抜けている。それまでの行路はせいぜい二日から三日。少女が全く平気そうな顔をしていたから今回はその倍かかる行路をとったのだが、彼女の平静さがただのやせ我慢であったことを知ったのは昨日の事だった。

 その朝、サリュの表情に隠し切れない疲れの色を見てから選んだ行動はどれも誤算続きだ。急いで日中の日差しが厳しい時間に歩いたことも、やっとついた宿泊場所が全壊していたことも。結果論とはいえ、最悪の犀の目をあえて選んで振っているような思いだった。


 夜のうちに少しでも移動した方がいいかもしれない。しかし、少女の体調は見るからに悪く、まずは休ませるべきだろうと思えた。一晩で少しでも回復させて、明日の移動に備えるしかない。残る道のりはあと半日程度。難しいようであれば日中いっぱい休んでから歩いてもいい。食料にはいくらか余裕があるし、昼に通りかかった小さな湧き水場――主に動物が使うような、いつなくなるかわからない小さな水島――で予定外の水も確保できていた。贅沢をしなければ三日は保つ。

 それにしても。青ざめた顔で寝息を立てもしないサリュを見やって、リトはなんともいえない表情を浮かべた。こうまで手間をかけさせてくれるものか。

 一人旅なら余計なことに思い煩う事はなかった。自分の体調だけ気をつければいい。今までのほかの誰かと旅を共にしたことはあっても、お守りをしながらの旅は初めてだ。

 すぐにわかったことだが、サリュは頭の回転が早く、手先も器用だった。そしてひどく我慢強い。いや、あれは強い弱いというものではなかった。我慢することをなによりの美徳としているような、まるで行き過ぎた摂生に努める教会人のように。


 いったいどんなふうに生きてくればあんな性格になるものなのか。それを思うだけで嫌な気分になるが、我慢されることで事態が悪化するなら、それもただの迷惑でしかなかった。

 自分がいけないのか、と思わないでもない。脅えさせているつもりはないが、見知らぬ人間に相対する時のような仮面を今さらつけるのも億劫だった。だいたい、一緒に旅をしていてそんなことをしては気が休まらない。

 だから言ったんだ、ろくなことにならないって――誰とも知らぬ相手に言い訳を始めている自分が無様に思えて、リトは大きく息をついた。

 それから火を熾して夕飯の支度を始めた。



 夕飯には消化しやすいものと思い、スープを用意した。豆と味付き肉と乾燥野菜をたっぷりの水で煮込んで旨みを抽出したそれは、普段の旅であれば正気とは思えないような贅沢である。こんなことができるのは昼間に水源で水を汲めたことと、あと半日で目的地に着くことがわかっていたからで、それもなにがあるかわからなかったので作ったのは結局一人前だけだった。

 サリュを起こして、いつも以上に目に力のない彼女にスープを渡す。思いがけない馳走に驚いた表情を見せる少女に自分の分は先に食べたことを告げて、リトは自分は固いパンを齧った。スープの入った椀を大事そうに、よく冷ますようにしながら口に運ぶサリュの様子に安心する。食欲があるのなら、脱水症状というわけではなさそうだった。

 彼がスープを食べていないことなどお見通しなのか、ほとんど手をつけないまま渡そうとしてくるサリュに、「また口移しされたいのか」とからかうと、少女は顔を俯かせた。その表情が赤らめて見えたのは、焚き火のせいだろうが。

 千切ったパンをスープに浸して、たまにサリュの口に持っていって食べさせてやる。二重を描く銀色の瞳に爆ぜる炎を映しながら、居心地が悪そうに身体を竦ませていたサリュは、長い時間をかけてようやくスープを食べきった。念の為にもう一口水を飲ませてから、すぐに横にならせる。


「おやすみなさい」

 かすれた、少しは潤いの戻った声に、彼は答えなかった。

 すぐに規則正しい呼吸が聞こえてきて、リトは片づけをはじめた。食料と水の残りを確認し、馬の様子を見て、念の為に方位をとって現在地を確認する。宿泊小屋が壊れていたのが少し気になったのだが、星座との位置関係から異常は確認できなかった。

 それから眠っている少女の隣で火の番をした。一晩中火をくべているつもりだった。一日程度の徹夜なら問題ない。少女の体調が悪化しているようには見えないとはいえ、女子供は彼の知っている常識の範疇から外れていた。もっと率直に表現すれば、慣れていなかったので不安だったのである。

 それをそのまま心配だからと考えることが出来ないのが彼という男だった。リトは少女の集落から持ってきた本を読みながら、本に集中することも出来ずにサリュの寝顔の変化に気をつけていた。

 小心であった。その姿は闇を恐れる子供と変わらない。


 膝の辺りを強く引っ張られて、気づくと焚き火がほとんど消えかかっていた。一瞬の睡魔から開放されたリトは、焚き火に追加の薪をくべる前に薄闇の中でサリュが震えているのに気づいた。

「おい、……どうした」

 呼びかけても返事はない。彼女は起きてはいなかった。うなされていた。掴んだ右手は夢中で近くのものを手繰り寄せただけに過ぎない。

 顔を近づける。苦悶に歪んだ顔色は悪く、月明かりのせいか蒼白にも見えた。唇に触って、乾いているわけではないことを確認する。脱水ではない。では、なんだ?

 わからなかった。彼はこの時代の人間としては高い水準の知識を持っていたが、学生の時に学んだ知識とそこを飛び出してからの今までの経験では見当がつかない。サリュの身体は熱かったが、震えているからには本人は寒いと感じているのかもしれない。水で濡らした手ぬぐいを額にあて、唇に水分を含ませて、それでは埒が明かないのでリトは少女の身体を抱きかかえた。

 刺激を与えないようにそっと胸元に抱いて、包み込む。小刻みな振動を伝える彼女が手を伸ばして彼の襟首をつかみ、必死に引っ張った。その力が弱い。丸まった身体は力を込めればすぐに折れそうなほど華奢で、しかし確かな存在を感じさせる体温は熱かった。


 不意に、リトは場違いな昂りを感じた。生命というものの得難さ、神秘、そして恐れ。それを他者と触れ合うことで強く認識する。

 強い衝動が彼を襲った。情欲ではなかった。あるいは似たようなものであるかもしれないが、ただしそれはもっと汚らしい欲望だった。

 一人になりたい。

 サリュのそれが伝染したかのように、今やリトも震えていた。あと一日、とつぶやく。あと一日で街につく。バーリミアでも一番の大都市だ。そこでこの少女と別れることができる。あとは彼女の自由だ。そして自分は一人になることが出来る。

 そうすれば、他者と触れ合うことはない。自分を認識させられることもない。冷静な思索にふけることができる。孤独は例え独りよがりのものでしかなくても、それは彼の精神を安定させた。

 一日、一日、とうめきながら、リトは完全に火が消えて闇に落ちたその中でサリュの身体を抱きかかえていた。必死に宝物を隠すような姿だった。守るべきなのが内と外どちらの闇からかは、彼自身にもわかっていない。


 身体の震えはしばらく続いていたが、やがて落ち着いた寝息を立てるようになり、夜が明ける頃には顔色もだいぶましになっていた。

 身じろぎする気配で目を覚ましたリトの腕の中で、目を開けたサリュが静かに微笑んでいる。

「……ありがとうございます」

 その言葉はふさわしくなかった。あるいはこの場合には正しいのか。いや、やはり間違っている。彼には感謝されるようなことをしたつもりはなかった。

「大丈夫か?」

 微かに頷いた。念の為に熱を見るとやや高いが、平温といえる範囲だった。手を当てると信頼する相手にそうするように目を閉じる少女の姿に、リトは反射的な反発を覚えて乱暴に立ち上がった。

「飯にしよう」

 焚き火の跡を片付けて、馬に餌と水を与える。その間、サリュは水で濡らした手ぬぐいで顔の汚れを拭き、銀色の髪に簡単に手櫛を通していた。それから見覚えのある白い花を大事そうに頭に挿しているのを見て、リトは声をかけた。

「そんなに気に入ったのか?」


 答えずにただ頬を緩ませるのを見て、相手を騙しているような気分になった。いつまでも枯れることのないそれは、もちろん本物ではない。前に露天商から買ったただの手品道具だった。誰かと打ち解ける為に買った打算のための代物だ。

「それ、本物じゃないぞ」

 不思議そうに首を傾げる少女に、ため息をつく。

「本物ならとっくに枯れてる」

 サリュは頭にあった白い花を手にとって眺めると、

「あなたの魔法ではないのですか?」

 そんなことを言った。その言葉があまりに的外れなものだったので、彼は一瞬返答に詰まった。

 魔法。それを使う人間。魔法使い。その存在は辺境だけでなく、王国や都市でもいまだに信じられている。城にはお抱えの占い師がいるし、街中にも大抵そういった職で生活をしている人間がいた。


 彼は、もちろんそんなものを認めていなかった。そんなものはただのオカルトでしかない。少なくとも、今まで出会った魔法使いを自称した者の中で、手も触れずなんの仕掛けもなく火を起こすことができた人間はいなかった。高価なレンズを使って日光を収束させて火を起こしたところで、それが魔法ということにはならないだろう。そこには原理もあれば原則もあるからだ。

「魔法なんて使えるわけがない」

 もしそんなものが使えるのなら、それこそ街まで飛んで行きたいものだと考える。そうすれば面倒はない。

 サリュはなにか考えるように沈黙していたが、やがて頷いた。それでいて、

「でも、これは花です」

 と続けた。


 真っ直ぐな視線がリトを捉えて、それから逃げるように彼は視線を逸らせた。少女の感情の少ない瞳は、まるで鏡のようだった。そこに映るのは自分自身で、彼女を見ると彼は剥き出しの本性を見せつけられる。

 リトはその目が嫌いだった。

 栄養摂取だけが存在意義である固形食糧を投げて、

「食べたら出発だ。今日中には街につく。そしたら」

 お別れだ。

 最後の言葉は口にはせず、リトは濃い味の塊を齧った。

 サリュは何も言わず、ただ黙って彼を見ていた。



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