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「ケッセルト・カザロ……」
呆然と呟き、はっと我に返ったクリスは険しい眼差しで突如現れた訪問客を睨みつけた。
「どうして貴公がここにいる」
「数年振りだっていうのに、つれねえな」
ケッセルトは苦笑を浮かべた。
「戦友が会いにきたんだ。少しは喜んでくれたっていいだろう」
「何が戦友だ。自宅を訪ねるのに連絡も寄越さんなどと、無礼にも程があるぞ」
男が精悍な顔つきに軽薄な笑みで答えるのに、クリスは一言で切り捨てた。
「おいおい。俺とお前の仲じゃねえか」
「私と貴公がいったいどんな仲だというのだ」
「決まってる。お互いの命を預けて戦った、背中を預けた同士って奴だ」
「勝手なことをほざくな」
空々しい台詞に短く吐き捨てて、大きく息を吐く。
「……帰ってくれ。せっかく来てもらって悪いが、今は話をするような気分じゃない」
「葉茶の一杯くらい出してくれよ。せっかく出向いてきたんだぜ」
「どうせ愛人の宅が近くにいくらでもあるのだろう」
「なんだ、妬いてんのか」
ざわりと怒りに身を震わせるクリスに、ケッセルトが両手をあげて降参の意を示した。
「冗談だよ、冗談。ったく、相変わらず冗談が通じない奴だな」
「貴様の冗談は昔からくすりとも笑えん。出直してこい」
「おーおー、怖ぇ怖ぇ。玄関に駆けつけた時はあんなに可愛い顔だったのになあ。いったいどこの誰だと間違えたのやら」
クリスの双眸が冷ややかな光を宿した。決して怒りがなくなったのではなく、度を越したそれが一見して静まったように見えただけである。
「それ以上低俗な妄言をのたまうようなら、命はないぞ」
「わかった、悪かったよ。別に冗談ってわけじゃねえのによ」
両手をあげたまま嘯く男を射殺そうとするかのようにしてから、クリスは勢いよく男に背を向けた。そのまま去ろうとする背中に声がかかる。
「いい土産話があったんだがなぁ。砂虎を連れた娘の話とかな」
クリスの足が止まった。
平静を繕って振り返った先で、ケッセルトが浅薄に笑っている。
「葉茶の一杯、奢ってくれる気になったかよ。喉を湿らせれば、それだけ声の通りもよくなるってもんだが」
「……入れ」
止むを得ぬ、とは彼女は言わなかった。かわりに表情にありありとそれが表れている。
クリスとケッセルトは帝都ヴァルガードの大学で知り合った間柄である。
水陸各国の貴族子女を集めて開かれた大学には、有望な若手や才ある職人、学者見習いなども多数が集められており、ケッセルトは年長の者達の中で大学に招かれた一人だった。
大学では、彼女自身が個人的に特別深い親交があったわけではない。ケッセルトが在籍したのが一年間のみだったということもあるが、クリスがよく行動を共にしていた人物と同様、ケッセルトも様々な意味で目立つ性質の人間であり、それで厄介ごとに巻き込まれたことは多々あった。
クリスがケッセルトと再会したのはその一年後、彼女が大学を出て軍務に就いてからである。
当時、ツヴァイでは南東のラタルク地方での水源不安が囁かれていた。ラタルクの支配権についてボノクスと争ってきたツヴァイは、それを好機と見て出兵した。それまで一貫して内政を重視し、軍事活動を控えていた九代皇帝フーギにとっては初めての積極的な行動でもあった。
軍才を認められていたケッセルトは、部隊長としてそれに参陣していた。一方のクリスは新任仕官として、彼の下についた。
この戦役においてツヴァイは優勢に軍を進めた。水路沿いとその左右の砂海に点在する水場を次々と勝ち取り、ついにはタニル奪還も果たしたところにボノクスからの反抗が始まった。両軍、死力を尽くした戦いが繰り広げられ――その決着がつく前に、不安定だった水場が枯れ果てた。
ラタルク地方の水源が不安定なことは数年来の噂ではあった。その兆しも確かにあったとはいえ、唐突といっていい出来事だった。そこまで急なものだとは両軍ともに予想していなかった。
水がなければ、その地を占有しても全く意味がない。タニルに駐在する兵だけを残してツヴァイは引き下がり、一方のボノクスも反攻作戦の為の準備を全て投げ打って戦線を縮小した。
タニルに兵が残されたのは、そこにはまだ水が湧き続けているからだというのが理由だったが、実際には領土線、領水線を確保する為という政治的な理由であろうと言われている。
実際の理由はともかく、そうしてタニルは国防の最前線となった。
既にトマス・ラタルク間の水路は存在していたから、途中の砂海が枯渇し、航路が途絶えても水路を用いた補給の道はある。しかし逆に、南で行われる小競り合い――河川の領有権を巡った押しあいでもしツヴァイが退いてしまえば、そのまま敵中に孤立してしまう恐れがあった。
そうした事態を招かない為にも、タニルに入る指揮官にはただ一個の戦場での戦術眼だけではなく、もっと高みからの視点が必要だった。タニルを防衛しつつ、必要とならば南の水路戦線にも出向き、さらには長らく敵国の手にあったタニルの存在を、ツヴァイのものとして作り変えなければならない。
戦術、戦略、政治的な手腕まで必要とされるその領主に誰がつくのか、答えは多くの者が驚くものだった。ケッセルト・カザロ。この時二十四歳、異例の人事であった。
先だってのボノクスとの戦役で幾つか功績を挙げてはいたが、如何せん若すぎる。戦場働きしか知らぬ若造に、例え補佐官がつくとはいえ、何ができると多くの貴族が嘲笑った。
彼らの態度は当然のものだった。大国ツヴァイの周囲にどれほど敵が多くとも、その一方の国防の責任者に、中堅に入りかけたばかりの人間を置くなど戦理から外れている。そこまで落ちなければならないほど、ツヴァイの人材は枯れてはいなかった。
故に、自然と次のような噂が流れた。
皇帝はラタルクをお見限りになられたのだろう、という内容である。どこからのものかわからない噂とはいえ、それにはある程度の信憑性があった。
この水陸において、支配とはつまり水の湧出する場の制圧に他ならない。大規模が枯渇した地域一帯を征したところで、そこに人は住めない。航路もひけないのではまったく旨みがなかった。
では、そんな枯渇地帯を守る為に、そもそもタニルという存在は必要か否か。その扱いがひいては、皇帝が今のラタルク地方をどのように考えているかの証左になる。
そこに若手中堅の貴族が配置された。万鈞の重みを持つが故に滅多なことを口にできない、それが皇帝からの意思表明であると、重臣はじめとした貴族連中がとったのは自然なことである。ケッセルト個人にも家にも、大貴族の背景がないこともその後押しとなった。栄転ではなく左遷。あるいは厄介払いか、それとも粛清か。そうしたものであろうと噂された。
様々な噂や勘ぐりのある中、ケッセルトは平然とその任についた。
ラタルク地方における領土縮小という方向性に傾いていたボノクスも、タニルに兵があることまで見過ごすわけにはいかない。すぐに兵が向けられたが、ケッセルトは移動直後の彼らの疲れを奇襲してあっさりとそれを撃退した。さらには返す刃で南に軍を進め、一進一退の続く河川占有権の押し合いの最中、敵の後背をついて蹴散らしてみせた。
疾風の如き軍略で、タニル周辺とその南下はツヴァイの勢力下に落ち着いた。
帝国中央の大貴族達の心情は微妙だった。味方が勝つのは喜ばしいが、勝ったところで大した旨みはない。周辺に水場がない以上、この水路はどこどこまでが自分達のものだ、などというのは実際にはただの見栄でしかないからだった。
しかし、皇帝からタニルについて直接の言葉はない。恐らくは失ってしまってよいことだろうと思われるが、はっきりとした宣言がない以上、そうとばかりも決めつけられなかった。極論を言ってしまえば、明日ラタルクに再び水が湧き始める可能性も無いではない。彼らはあいまいな態度のまま、若者の勝利と新しい英雄の登場を賞賛した。
同時に、その存在を危惧する声もあがった。以前からそうしたものはあったが、その声が大きくなった。
タニルはヴァルガードよりもむしろボノクスに立地的な意味で近くにあり、そこを治めるケッセルトは能力についていまや疑う余地はなくとも、性格の面で様々な悪評があった。あるいは、ツヴァイを裏切るのではないか。そうした声もある。功を立てなければ責められ、立てればその能力を妬まれ、疑われるのは軍人という生き物の宿命でもあった。
軍閥化。この当時、ケッセルトを疑う者は決して少なくなかった。中央から離れた場所に有能な人物がいるということは、そういった意味を持つ。
そうした者達の不安をさらに刺激する事実があった。
タニルはヴァルガードよりボノクスに近く、さらに言えば、トマスにも近かった。
「三年振りか。戦場の砂もすっかり落ちたな」
貴婦人の装いで腰掛ける相手に、ケッセルトが言った。
「貴公は変わらんな。今にも戦場に出向きそうな気配だ」
家の者に茶の用意を言いつけたクリスは素っ気ない口調で答えた。
「まあ。くすぶったりとはいえ、タニルは国境の砦だからな。常在戦場って奴さ」
「趣味と規範を履き違えるな。誰もが貴公のように戦いを好むわけではない」
クリスの言葉は手厳しかったが、ケッセルトは堪えた様子もなく笑い飛ばした。
「そりゃそうだ」
「それより玄関での話だ。何を知っている」
「おいおい。茶もまだだってのにもう本題かよ」
大仰に手を広げてみせる男に向けるクリスの視線は冷たい。
「聞かされる話によっては、用意が無駄になる」
「なんだ。まず飲ませてくれねえのか」
「答えによっては、溢れる血で喉の渇きを癒すことになるだろう」
堂々とした脅迫に、ケッセルトは口元を綻ばせた。クリスが睨む。
「冗談で言っていると思うか?」
「安心したんだよ。なりはともかく、中身は変わってないようなんでな。それがタニルを預かる領主だろうが、おかまいなしに斬り捨てる。それでこそクリスティナ・アルスタだ。あいつの言葉を借りるならな」
クリスは柳眉を逆立てた。
「――わかってるよ。そう怒るなって。砂虎を連れた娘の話だろう」
怒鳴りつける前に機先を制せられ、渋々と口を閉じる。再び口元を緩め、ケッセルトは口を開いた。
「サリュといったな。やっぱりお前の知り合いか。まあ剣を見てわかったが。砂鋼製の鞭剣なんて、どこにでも見かけるもんじゃない」
からかうような物言いに、クリスは沈黙で応えた。
砂鋼。鉄の精錬に砂海のきめ細かな砂をまじえて作られるその鋼材は、ツヴァイで数年前から用いられはじめている。その素材の特徴を極論すれば、薄くとも硬い、に尽きた。
薄くするためには素材そのものの硬さが必要であり、それを保つ為には硬いだけではなく、同時に柔らかさも必要になる。薄くできるということは、軽くできるということでもあった。
その素材で剣を作った場合、従来の鉄製のそれに比べて切れ味が勝るものではなかったが、戦場において切れ味はさほどの意味をもたない。重量と耐久性、何より生産性が重視される。
この場合の重さには二重の意味があった。持ち運ぶのは軽い方がよいが、相手を切り伏せるのではなく、叩き伏せることを考えた場合には、逆に重さが必要になるからだった。しかしそれもこの素材の重大な欠点にはなりえなかった。従来の大きさで相手を潰すのに軽すぎるのなら、重りをつけるか、組み込むかしてしまえばいい。
この砂鋼が特に喜ばれたのは武器ではなく防具の面である。軽く硬い素材で作られたそれらは歩兵には行軍による体力消耗を抑え、騎兵には人馬両方の助けとなった。
砂鋼は帝都の大学に招かれた地質学者の研究によって生まれ、ある貴族の投資によってその生産の道が拓けた。そのある貴族というのが、クリスの生家であるアルスタ家のことだった。
砂鋼の生産には炉が必要になる。炉は燃やすのに大量の燃料を必要とする。薪や木炭がそれらだが、砂漠地帯がほとんどを占めるこの惑星では数に限りがあった。鍛冶技術の進歩を留めている理由の一つでもあったが、アルスタ家が代々授かる領地では、昔からそれに変わる燃料が使われていた。
石炭。さらにはそれを蒸して作られた蒸炭を燃料として、砂鋼は徐々ににツヴァイ領内に広まりつつある。とはいえ、初期生産から五年以上が経つ現時点でも全体にいきわたっているとは言い難いのが現状でもあった。
砂鋼の登場に重要な役割を果たしたアルスタ家では、それを用いた武防具についての研究にも意欲を見せた。
ツヴァイの興国から続くその家には、先代の教えとして奇妙なものが伝わっていた。盾を持つのならもう一振りの剣を持て、というその無謀を守る為、その家の子孫は独自の剣術を身につけている。攻める為の剣技と護る為の剣技。彼らは戦場で片方の長剣をもって敵を討ち、片方の短剣で敵の攻撃を払った。
その左手の護り、護身の剣に若きアルスタ家のクリスは砂鋼を用いた。
強くしなり、弾き、小回りが利き、近くにあっては相手の鎧を刺し貫く為の短剣。その薄く引き延ばされた形状が鞭のような奇妙な剣。それを成しえる軽さと硬さが砂鋼にはあった。
クリスは初陣であるボノクスとの戦において鞭剣を用い、大いに活躍した。武の名門アルスタ家ここにあり、と敵味方に宣伝したのは彼女の所属した部隊の責任者、目の前にいるケッセルトである。
そのケッセルトが鞭剣の存在に気づくことに驚きはない。クリスが考えたのは、それをどうやって知ったかということであった。
「お前があれを他人に預けるとはな。アルスタ家を知る人間にならこれ以上ない身書になるだろうが、よほど大事な相手か。ま、使い方はまるでなっちゃあいなかったが」
ぴくりとクリスは眉を動かした。
「――剣を交えたのか」
返答次第によってはただではすまさぬといった声にも、男は動じた様子はなかった。
「殺しちゃねえよ。怪我もな。ああ、擦り傷くらいはあったかもしれんが、まあそれくらいは許せ。俺にも立場ってもんがある」
極寒の眼差しで相手を見やり、クリスは深めの瞬きで感情を抑えつけた。
「……サリュがタニルに来たのだな」
「ああ。人を探してるって言ってな」
クリスは目を閉じた。
灰色の髪と不思議な瞳をした少女が、彼女の元から旅立ってから既に一年以上が経つ。旅慣れてもいない少女が何か騒ぎに巻き込まれていないか、今日にもトマスに戻ってこないかと待ち望んで心を痛める日々が続いたが、あるいはもしや――と不吉な思いに心を寒くすることもあった。その消息を得られたことが何より嬉しく、同時に気の抜けた虚脱が彼女を襲った。
それを目の前の相手に見せることが不快だった。彼女は目を閉じ、胸の奥から沸き立つ感情を一時、封殺して瞼を開いた。
「何があった」
「何ってのは?」
「誤魔化すな。もし貴公がサリュと語ることができていたなら、改めて私に尋ねるまでもない。剣をあてたのなら、つまりサリュは貴公と敵対する立場にあったのだろう」
正確な判断だった。学生時代から堅物との評がある彼女だが、頭の回転は早かった。彼女の生涯を決定づけることにもなる欠点とは、そうしたものではなかった。
ケッセルトが口の端を持ち上げた。
「というか、向こうが知らずに巻き込まれてたって形だな。それでまあ、確かに味方とはいえん関係になったはなった」
「無事なら、まずはそれでいい。サリュはどこへ――まさか、ボノクスか?」
確かにサリュの探す人物が、その国に流れている可能性は否定できない。しかし、サリュがそこに行ってしまえば、何かあっても彼女の助けは届かなかった。クリスはその事態を恐れたが、ケッセルトは首を振った。
「戻ると言ってたな。少なくとも、ボノクスの方角には出ていかなかった。町から見えなくなってから遠回りしたとかなら知らんが、わざわざそんなことをする理由はなかろうよ」
「……そうか」
クリスは安堵の息を吐いた。戻る、というのなら、それはタニルからトマスの方面になる。あるいは、ここにも寄ることがあるかもしれない。久しぶりの再会の可能性に表情をやわらげる彼女に、ケッセルトが言った。
「俺からも訊くぞ。あいつはお前のなんだ、クリス」
クリスはケッセルトの眼差しを見返し、迷いのない声で答えた。
「家族だ」
ケッセルトが苦笑する。
「初耳だな。また年の離れた妹だ。それとも年の近い娘か。いずれにしても、似なさすぎだろう」
「貴公には関係ない」
「そりゃそうだ」
扉が叩かれ、葉茶の用意を整えた侍女が入ってくる。芳しい香りが立ち、侍女が一礼して部屋を去るまで互いに無言だった。
陶磁の器を持ち上げ、クリスは葉茶の香りを受けた。水面にいつかの光景が蘇った。
「――元気にしていたか」
ちらりと彼女の様子を見て、ケッセルトは答えた。
「語ったわけじゃあないが。俺のことを知らないとはいえ、この俺に切りかかってきて、危うく大怪我までしかけた。なかなか大したもんだと思うがね」
「……そうか」
嬉しそうにクリスは笑った。柔らかな笑みだった。
ケッセルトは意外なものを見る表情でそれを眺めた。
昔からつきあいのある相手だが、そうした表情は滅多に見たことがない。特に大学を出た後には一度も覚えがなかった。脳裏に確信めいた閃きがよぎった。
「その表情、大学の頃を思い出すな」
ケッセルトが言った。言われて気づいたクリスが表情を引き締める。
「なんだよ。戻っちまうのかよ」
男は軽口を続けた。
「最近はどうだ? 誰かいい男は見つかったか。いつまでもいなくなった相手に操を立てるでもないだろう。なんなら俺が――」
「ケッセルト。例え昔の上官だろうが、それ以上は愚弄だ。吐くなら相応の覚悟で吐くことだな」
険悪な顔と声でクリスが遮った。ケッセルトは肩をすくめた。
反省の色がない相手を睨みつけ、クリスは容器に残った残りを喉に流し込むと、立ちあがった。
「これで失礼する。ゆっくりしていってくれ」
ケッセルトが顔をしかめる。
「おい、客を置いて主人がいなくなるなよ」
「事前の連絡もせずに、家を訪れる輩は客とは呼ばん。勝手に飲んで好きに帰れ」
「待てって。まだ俺の話が終わってないだろうが」
「関係ないと言ったぞ」
「そうじゃねえ。俺がなんでこんなところにいるか、気にならねえのか。東のこと、何も聞いてないのか」
クリスは沈黙した。サリュのことに気をとられ、帝都の知人から届いた手紙をすっかり忘れてしまっていた。ツヴァイから東といえばボノクス、そしてタニルである。
冷静にならなければならない。クリスは息を吐き、そうあるべき立場へと自らの思考を切り替えた。
タニルの領主を務めるケッセルトがトマスに現れる。前線を預かる者が易々と任地を離れられるわけがない。相応の事情と、そして誰かから呼ばれたからのこそのものであるはずだった。
帝都からの召還。
間違いなく、ケッセルトは東の騒乱の中心に関わっている。問題は、そのケッセルトがクリスに何を語ろうとしているかだった。サリュと出会ったことを伝える為だけではありえなかった。今さら昔語りでもない。そうした人物ではなかった。
クリスは相手への返答に慎重にならざるを得ない。彼女は近くアルスタ家の当主を正式に継ぐ身であり、帝都からの名代としてトマスに駐在している。事が政治に関わることなら、そうあって然るべきだった。自分が言った言わないではなく、意があろうとなかろうと聞かされることにも気をつけなければならない。政争とはそうしたものだった。
「目的はなんだ」
男は軽い口調で応えた。
「どうせお前もここじゃあ辛い立場だろう。昔のよしみで教えてやろうってだけさ」
クリスは鼻で笑う。
「そうか。ならば聞くべきことは何もないな」
自分を侮る相手から聞きたい情報などなかった。断言するクリスに、ケッセルトが渋い顔で顎をさする。苦言を呈してみせた。
「そこでぐっと堪えてみせるのが世渡りってもんだと思うがな」
「自分を曲げてまで得るものならそうしよう」
クリスは答えた。
「なら、ニクラスのことについてだとしたら?」
「っ、あいつが何か――」
思わず声を荒げたクリスは、男の口元の笑みでそれがはったりであると知った。唇を噛む。
ケッセルトが笑った。
「相変わらず正直な奴だな。お前さん、そんな生き方で疲れねえか」
「私の生き方だ。貴公から指図をされるいわれはない」
クリスは不機嫌に唸った。
「まあ、そうだがな。とりあえず座れよ。聞いておいて損はないぜ。それに、ニクラスのことも、話にないってわけでもない」
胡乱な目つきで、クリスは深椅子に座る男を見下ろした。
彼女はケッセルトという男を決して好いていなかった。能力は認める。剣を振る者として、その技量に敬意を払ってもいた。将才という意味では、自分と比較にならない器でもあるだろう。
しかし、それと個人的な好意は別だった。飄々とした態度、女へのだらしなさ。その他の言動も含めて全てが彼女の好みの対極にあった。学生の頃、クリスがケッセルトとの間にまがりなりにも親交を持っていたのは、決して彼女の意思ではなかった。彼女がよく行動を共にしていた人物が、どうしたことかこの男と仲がよかったのだった。変人の周りには変人が集まるというのは本当のことだ、と昔の彼女は苦々しく思ったものである。
クリスがケッセルトを気に入らないのは生理的な反応に近い。性格や嗜好の不一致によるもので、それだけにどうしようもないことだったが、その偏見だけで人物への正当な評価を違えるつもりはなかった。
その上でクリスがこの男に下した判断。それが男への不信である。
ケッセルト・カザロは食えない男だった。本気か冗談か定かでなく、思いつきや行動が突飛で、周囲を騒動に巻き込んで平然と笑っている性格の男だった。彼女はケッセルトの悪口を幾つも並べたてることができたが、それらのほとんどが彼女と近しいある人物にもあてはまることには気がついていなかった。
その男が何かを自分に聞かせようとしている。クリスは罠の存在を疑った。ケッセルトが、これから起こる政争に巻き込もうとしているのではないか。
ケッセルトは自らの欲望に素直な人間だった。女を好み、闘争を愛し、栄達を志す。警戒は当然だった。
「聞いてどうするかは好きにすればいい。聞かなきゃ、動きようもないぜ」
その言葉には一理あったが、聞いてしまった時点で縛られることもあり得た。
しかし、結局は、クリスは腰を下ろすしかないのだった。ケッセルトがニクラスの話題を匂わせた時点でそれは決まっていた。それを見越した発言であることが見え透いているから、クリスは目の前の男を好きになれなかった。
「聞きはするが、対価を求められても払える保証はないぞ」
「それでいいさ。俺から聞きたいこともあるが、答えるかどうかはお前次第だ」
頷き、男は葉茶を一すすりしてから語り始めた。