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バーミリア水陸最大の商業都市トマス。
その街の中央、立ち並ぶ白亜の建物の一室で、館の主人が封を切った手紙に見入っている。
「北の国境から半数を?」
信じられん、と金髪の女性――クリスティナ・アルスタは呟いた。
ゆったりとした上衣に包んだ身を拵えの良い椅子に落ち着かせ、長く伸びた髪は緩く編み上げられている。彼女は午前中だけで片がついてしまった公務を終え、先ほどまで自宅の中庭で葉茶を飲みながら読書に耽っていたところだった。
そこに帝都からの便りが届いた。あるいは行方知れずのあの人物について何か連絡が入ったかと急ぎ自室に戻り、目を通した内容がそれだった。バーミリア水陸に四方に広がる、その北の河川域を守備する半数の兵をこの一月の間に移動させる予定だという。
「上はいったい何を考えている……」
兵というのは、ただ存在するだけで多大な費用を要する。広い領土(というより、領水)を持つツヴァイにとって、兵数は常に必要最低限を越えなかった。軍組織を維持するのにも人手はいる。いざ戦となれば緊急的に兵を招集することは可能だが、常にそれをできる社会体制には現状、ツヴァイという国家はなかった。
その為、国境に置かれる数は慢性的に不足しがちである。自身、地方での軍務経験を持つ彼女はそのことを肌身で知っていた。そこから半数を抜く。容易に信じられる話ではなかった。
もちろん、組織を成り立たせる為の人員を省いた上での半数ではあるのだろう。西の国境は水陸越しの襲来に備える必要があり、南では今なお領水線を巡った小競り合いが続いている。東に控えるのはツヴァイにとって最も警戒すべき敵対国であるから、どこかから兵を動かすことを考えた場合、現時点で比較的に落ち着いた状況の北という選択は理解できる、が。それでも半数というのは無茶な話だった。
陽動か。真っ先にクリスはそれを考えた。しかし、半数というのはあまりに不自然すぎた。相手を罠にかけるには稚拙で、罠と見せかけて警戒させるのにはお粗末に過ぎる。兵を移動させるのにも金はかかるのだ。そこまでしてそれをするからには、何かの理由があるはずだった。
読み進めると、手紙の末部にそれらしき文が書かれていた。
――東に騒乱の気あり。注意されたし。
近年、地域一帯に広がった大規模枯渇からこちら、軍事活動を控えていたボノクスが動き出したのか。しかし、それならそうと書けばいいだけのことだった。あえて騒乱の二文字で書き記した手紙の主の意向について、彼女はしばし考えこんだ。
帝都ヴァルガードとトマスの距離は長く、そこに横たわる溝は深い。政治的に微妙な立ち位置にある両者の間にいるクリスもまた、全ての言動に注意を払わなければならなかった。行動は注目を浴び、言葉には曲解される恐れがつきまとう。許されるなら剣で切り捨ててしまいたい煩わしさは、常に彼女の周囲に纏わりついて離れなかった。
だからこそ、情報の取り扱いには彼女も気を遣っている。政治という代物は彼女の好みの対極にあるが、それをおざなりにして無知を決め込むほど彼女は愚かではなかった。とはいえ、潜在的な敵地といっていいトマスで心から信用の置ける相手は限られる。帝都から送られる親しい友人からの手紙は、彼女にとって貴重な情報源だった。
「最近の動きは、どうだ」
クリスは樫机の向こうに立つ執事に訊ねた。彼女の命があるまで室内に溶け込むような自然さでその場に控えていた若い男は、主人の言葉に過不足なく答えた。
「皆様、泰然としておられます。むしろ中堅以降の商家で奇妙な動きがあるようで」
「奇妙な?」
「はい。何がというわけではございません。特に噂といったものもないのですが、近頃は物の値段の上下に少し幅が出ています。何かを知る、あるいは何かがあることに感づいてのことかもしれません」
商業都市トマスは、それを実質に支配する者も貴族ではなく、商人であるといっていい。まず公爵からがトマスで最も大きな商業組合の長であるし、配下の貴族にもそれぞれお抱えの商家が付き従っている。トマスの施政はその商家達の寄り合いによって決められるという話は、決して外れたものではなかった。
情報という生ものについて商人達の手は早い。中堅の商人達の動きには、そこに繋がりのある大商家達の何か大きな事態が絡んでいると考えるのが自然だった。恐らくそれは、手紙に書かれている内容とも関わりがあるだろう。
トマスの商人が騒ぎ、それと時機を同じくして兵が動く。単純に考えれば戦争という予測に行き着く。戦火は人の命を消費し、商人達は流れた血から私腹を肥やす。決して経済に明るいわけではなかったが、戦争が金儲けになるという程度のことならクリスも理解していた。
だが、それだけではない。ツヴァイは国の興りからして侵略国家であり、その経済の在り方に戦争が深く関わっているのは今に始まったことではなかった。手紙の内容と商人達のざわめきにはそれ以上のものがあるように思えたが、それが何であるか、今ある情報だけでは想像すらことも難しかった。
理由のない焦慮が彼女を苛立たせ、主人の表情からそれを読み取った執事が、控えめに提案した。
「さらに情報を集めてまいります。よろしければ、今回はいつもより手を広げてみたいのですが……」
情報の価値を知る商人は皆、一様に口が固い。しかし、それでも決して抑えきれず、どこからか立ち昇って出回るのが噂というものだった。特に末端にいけばいくほど、そうした傾向は強くなる。
「……できるか?」
クリスが訊ねたのは行動の可否ではなく、その秘匿性についての確認である。彼女は彼女が周囲に目を配る以上に周囲から警戒され、その行動にも監視がついているはずだった。彼女の行動は、ただ個人のものではなく、それが帝都にまで類が及ぶ可能性もある。慎重さは何よりも必要とされるべきだった。
「決して察されるまでには。幾つか心当たりをつついてみようかと思います」
「では、そうしてくれ」
慎重に、という言葉を使わないのが彼女の男への信頼の現われだった。一礼した執事が部屋から出ていき、彼女は手紙をもう一度読み、そこにニクラスという綴りの記述がないことに小さく息を吐いた。
引き出しから触りのよい透き紙を取り出し、羽筆の用意をする。クリスが手紙の返事をしたため始める前に、扉が開いた。現れたのは先ほど部屋を出て行ったばかりの執事である。いつもはノックを欠かさない男だが、今それを怠った理由がその顔色に表れていた。いつも冷静な表情に、わずかな動揺が見て取れた。
「クリス様。たった今、お客様がいらっしゃったのですが」
「客?」
クリスは眉をひそめた。
今日の午後、誰かが訪問してくる予定など入っていなかった。前もって伝えずに家を訪れるのは普通、非礼な行為にあたる。そんなことをするのはよほど親しい人間か、あるいは――
勢いよく椅子を引き倒し、クリスは立ち上がった。男へ来客の名を訊ねることもせずに部屋を出る。まさか、まさか、と内心で呟きながら長い廊下の後で玄関へ出た。
そこに立つ人物の姿に、彼女は声を失った。
思った人物ではなかった。ニクラス・クライストフ。一年前から行方を探し続けているその男ではない。だが、見知った相手ではあった。
「おう、久しぶりだな。クリス」
精悍な顔つきに人を食ったような笑みを浮かべ、タニルの領主ケッセルトがそこにいた。