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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 強欲な商人
45/107

 サリュの細腕をメッチの右手が掴んだ。そのまま身体ごとぶつかり押し倒れる。

 仰向けに倒れた相手に馬乗りになる格好で、サリュは男を見下ろした。倒れた拍子に左手が自由になっている。彼女は短剣を振りかざした。

 それを眩しそうに見上げたメッチが、穏やかな表情で言った。

「ちゃんと、自分のせいでやれよな」


 サリュの動きが止まる。振り下ろそうとした左腕が、何故か動かなかった。男の顔に違う誰かが重なって見える。メッチより幼い少年の顔だった。

「誰かの為とか、せいとかじゃなくて。サリュだとか、死の砂だとか。そんなんじゃなくて。ちゃんと、あんたが自分の為にやれ。あんたにとって必要だから、やるんだ」

 サリュの全身が震えていた。怒りではない。自分でもなんの感情かわからない、混乱した気分が彼女の情動を支配していた。左腕が重い。どうにかしなければならない。ああ、でも、今この腕を下ろしてしまえば、自分はきっと二度と持ち上げることができないだろう。

 では、振り下ろすか。そうすれば終わる。その後にまたこの腕を持ち上げる必要もない。

「……どうしたんだよ。やらないのか? 腕、いつまでもそうしてたら重いだろ」

 揶揄ではない口調でメッチが声をかけた。 

「あんたがやんないなら、俺、起き上がっちゃうぜ。うちの商館、すぐそこなんだけど。歩いて、着いて、それでおしまいなんだけど、それでいいのかよ」


 ――よくない。

 サリュにもわかっている。目の前の相手から町と砂賊、そしてある部族との密約の証拠となる書類を奪わなければ、ユルヴ達の部族は彼らによって陥れられる。誇り高いユルヴ達の一族がその不名誉を受け入れるはずもなく、そうすれば彼らのあいだには血で血を洗う争いが起きるだろう。

 何人もの人間が死ぬ。それを回避するためには、この腕を振り下ろせばいい。そうすれば終わる。大勢の命が助かる。目の前の一人の命と引き換えに。

 命。死。それはいったい誰の為のもので、何故自分はそれをしようとしているのだろう。わからない。どうすればいい。誰か教えて欲しい。誰か――


 リト……。

 救いを求めるように彼女はその名前を呟いた。


 記憶の中のその男は、感情の窺い知れない醒めた瞳でサリュを見下ろして答えない。彼女は空を見上げた。薄く砂に汚れた天は高く晴れ上がり、しかし砂は彼女に応えなかった。

 空虚さが彼女の胸を満たした。名前すら捨ててしまったら、自分にはもう何も残っていないのだと思った。サリュ。死の砂というその忌まわしいはずの言葉に、誰よりもすがっていたのは彼女自身だった。


 異形の瞳から涙がこぼれた。頬に受けたそれを冷たそうに目を眇め、メッチがため息をついた。上半身を起こし、呆然として涙を流すサリュの身体をずらして、立ち上がる。

「悪い。あんたにそこまで押し付けるべきじゃないか。ごめん、悪かったよ」

 恐らくは聞こえていないだろう少女に告げて、歩き出し。

「――ならば、その役はわたしが引き受けよう」

 決して大きくはないその声が静かに響き渡り、直後、飛来した矢がメッチを突き刺した。



 若い商人が崩れ落ちる様を、サリュは目の前で見た。

 一瞬一瞬がひどく間延びして、時間の流れをおかしく感じる。ゆっくりと地面に倒れ、激痛に顔を歪めて、男が悲鳴と吐息の中間のようなものを吐き出した。

「つぁっ……!」

 そこで時の流れが戻った。我に返り、サリュが声をあげる。

「メッチ!」


 矢を受けた腕を抱え、メッチは地面をのたうちまわっていた。その身体にすがろうとしたところで背後に気配を感じて振り返ると、そこにはユルヴが立っている。

「ユルヴ、どうして……」

「決まっている。――書類を渡せ」

「はっ――。こうなるんじゃないか、とは……思ってたけどよ……!」

 目尻に涙を溜め、それでも口元を笑みの形に歪めてメッチが言った。


「書類はどこだ」

「ったく。優しさってものがねえよな……」

 懐から羊皮紙の束を取り出した。受け取ったユルヴがそれをつまらなそうに眺めるのに、説明を付け加える。

「それを、――見えるだろ。町の奥の、あの馬鹿でかい建物。領主まで届けられたら、……あんたらの勝ちさ。途中で商会の連中に捕まったら。負けだ」

「メッチ……」

「早く行けよ。まじ、泣きたいくらいさ、痛いんだから」

「サリュ。お前が行け」

 ユルヴは羊皮紙の束をサリュに突き出した。

「私が?」

「ああ。わたしは、こちらの始末をつけていく」

 底冷えのする眼差しでメッチを見下ろして言った。口を開きかけたサリュに、部族の少女は首を振り、

「我々の受けた仕打ちだ。我々が返す。それはお前に預ける。――頼む、サリュ。我々を救ってくれ」

 真摯な表情で言った。


「そういう、こと。早く行けよ」

 渋面の男から言われ、それでも踏ん切りがつかずにサリュはうろたえた。感情を揺り動かされることが続いてしまい、一種の混乱状態に陥っている。

「たく――」

 苦笑いして、メッチが無事な腕を振りかぶった。何かが空を飛び、けたたましい音を立てて窓枠の硝子を破った。建物は彼らが三人とも見覚えのあるものだった。

「――ほら、これですぐうちの連中が出て来るぜ。とっとと、逃げろって」

 メッチがサリュに手渡したのは、鍔が広く作られた彼女の短剣だった。それを握り締め、建物から怒号のような声が聞こえたのに反応して、サリュは立ち上がった。

「領主の館の前は、きっとうちの連中が張ってる。――夕方だ。領主が公務を終える直前、夕暮れにまぎれて入れ。それまでは、隠れとけ……」

 痛みを堪えながらメッチが言った。

「いいな、夕刻だぞ……! ああ、それと……もう一本は、あとで返すから、さ。もうしばらく――」


 後半部分はサリュには届いていなかった。建物から出てきた人々に背中を向けて、彼女は駆け出した。

「メッチがやられてるぞ!」

「逃げた奴がいる。追いかけろっ」

 強面の男達がメッチとその横に立つユルヴを取り囲んだ。その輪の中から現れた髭面の男が地面に横たわる若者を一瞥した。すぐに顔を上げ、周囲に号令をかける。

「今の女を追いかけろ! 向かったのは領主様の館だ。絶対に逃がすんじゃねえ、全員で追え!」

 館長の一声に、すぐに男達が走り出す。アベドは苦痛に顔を歪めるメッチを見下ろし、部族の少女を見て鼻を鳴らした。声もかけずに去っていく。


「薄情な連中だ」

 呆れ果てたようにユルヴが言った。

「全く、だよ。……ったく」

 脂汗を流しながらメッチが頷く。

「捨て駒ったってさ。もう少し優しさがあっても、いいよなぁ……」

「知らん。それより、いつまでそうしているつもりだ」

 半眼で言われ、男は泣きそうな表情になった。

「いや。マジ、痛いんだって……」

「わざわざ急所を外してやった。腕に一本や二本、矢を生やしたところで死ぬものか」

「これだから嫌だったんだよ、あんたは――」

 怨嗟の声を振り絞るメッチに、そよ風を聞き流すようにユルヴは答える。その手にはいつの間にか、新しい矢が番えられていた。

「わたしはサリュのように優しくはない。もう二、三本、どこかに射掛けられないうちに、とっとと化けの皮をはがしてみせろ」

「ったく――。どいつも、こいつも……ほんとに、よ!」

 世を怨むような深いため息を吐き、メッチは呻いた。睨み上げるその顔には痛みを堪え、血の気を失ってなお壮絶な笑みが浮かんでいる。



 サリュは町を駆けた。

 見知らぬ建物に人々、土地。勘所がない状態で地元の人間を相手取り、長く逃げ続けることは不可能だと、彼女はまだ混乱の残る頭で冷静に判断した。

 メッチは夕方を待てと言っていた。領主の館の前には大勢の人が待ち構えている。それならば確かに昼間より夜のほうが紛れやすいが、日が落ちるとともに館の扉は閉まってしまうから、狙うなら夕闇。それまではどこかに隠れておく。


 機先を制して逃げたこともあり、彼女の背後に追手の姿はなかった。しかし、このまま町を彷徨っていてもいずれ連中に見つかってしまうだけだろう。領主の館からなるべく近い範囲で、彼女は潜伏場所を探した。

 領主の館の周辺は街の有力者達の住まいが並んでいる。サリュはその中の一邸、一軒家には広すぎる土地に忍び込み、時を待った。

 一刻が経ち、二刻が過ぎようとして、空を差す陽の色合いに変化が生じた。薄やかな朱色の粒子を捉えて、サリュは身を潜めていた場所から外に這い出た。


 人の気配を窺いながら、外套を深く被って歩き出す。彼女が隠れていた土地から領主の館まで決して遠くなかった。周囲に人の姿はまばらだが、なんとかそれらに紛れ、近づけるだろうか。いや、近づかなければならない。

 ユルヴは無事だろうか。ノカや、その家族達は。メッチについてはあえて考えないようにして、外套の中で書類を握り締めた。傍にクアルがいないことが心細い。


 角を曲がれば領主の館まで一本道という距離まで辿り着き、そっと様子を窺ったサリュは、通りの先に不自然に人が集まっているのを確認した。苦々しく嘆息する。アベド達は、下手に町中を探し回るより、目標の前で網を張ることを優先しているようだった。確かに、そちらの方が効率的ではあった。

 どこに隠れようと、結局サリュが向かうのはそこしかないからだった。領主の館が門扉を閉める日没まで待ち続けさえすれば彼らの勝利は揺るがない。町の出入り口には当然、手が回っているだろう。夕方を迎えた今、時間はサリュではなく彼らに味方していた。

 迷っている余裕はない。サリュは通りへ出た。そのまま横断して走る不審な姿を捉えた男達が口々に声をあげる。

「いたぞ!」


 追いかけてくる気配を背に受けながら、サリュは小道へ入った。館の前に待ち構える人数を少しでも引き剥がし、撹乱した合間を縫って館に入るしか手段は残されていなかった。館の敷地内に入ってしまえば、その時点で領主の客となる。商会の人間が、それを捕まえて外に引きずり出すことは出来ないはずだった。

 だが、土地勘がないのだから、小道や裏道を選んでいても袋小路に追い詰められてしまうだけだ。追走劇は不利とみた彼女は無理に走り続けず、物陰に身を隠して男達をやり過ごすと、すぐに元の通りへと引き返した。幾人か減り、しかしまだ半数以上が残っている一団が、彼女を指差して怒号をあげる。

「戻ってきたぞ! こっちだっ」


 サリュは今度は脇道ではなく通りの向かいの屋敷へ向かった。敷地を囲むように植えられた木々、景観と防砂を目的とした生垣に飛び込んで敷地に入り込み、駆ける。そのまま敷地内を突っ切って隣の邸宅に移った。

「追え、追え!」

 男達の声が響き渡り、何人かがサリュの後を追って敷地に乗り込んでくる。騒ぎを聞きつけて外に出てきた家の使用人達が怒鳴り声をあげた。


 後ろの騒動を無視してサリュは走り続けた。領主の館の近くまで出たところで通りに飛び出る。豪奢な作りの門が目と鼻の先に見えた。その前では、十人ほどの男が立ちふさがって彼女を待ち構えている。

「よお、お譲ちゃん」  

 その先頭に立ったアベドが口を開いた。クァガイ商会の館長、リスールでの長としての地位にあるその男は、世間話でもするかのような口調で彼女に訊ねた。

「なんだか、色々忙しそうだが。この先に何か用事でもあるのかい?」

「……ええ。少し」

 サリュは油断なく短剣をかまえた。鈍い陽光を反射させるそれを眩しそうに、アベドが言う。

「へえ。それにしても。顔を見るのははじめてだが、変わった目をしてるんだな。お前さん」

 走るうちに自然と外套が外れてしまっていた。素顔を晒したままサリュは答えなかった。相手の意図は読めている。言葉は、彼らの大きな武器になる。

「通してください」

 それに惑わされない為に必要最低限の言葉を告げる彼女に、アベドは頭を振った。

「まあ、待ちなって。別にあんたの邪魔をしようってんじゃない。時間を稼ごうってんでもな。ただ、俺はあんたと取引がしたいんだ」


 商売用の笑みを浮かべて、男は続けた。

「難しい話じゃねえさ。あんたが懐に持ってるそれ。その書類を、売ってもらいたい。それだけだ」

 サリュは答えない。

「いくらだ? 言い値で買うぞ。金貨か、銀貨か?」

 反応がないのを見て、男はふと思いついたように言った。

「ああ――そういえばあんたは、ワームに行くところだったっけな。人探しだったか? なら、それを手伝ってやろうか。水陸中で取引があるうちの情報網を使えば、誰か一人探しだすなんて簡単さ」

 サリュの眉が震えた。それを見逃さず、アベドは笑みを強めた。

「悪い条件じゃねえだろう。あんたは、その書類を渡すだけでいい。それで、大金と、探し人が見つかる」

 サリュは目を細めた。ちょうど地平に落ちかけた西日が、彼女の両眼に突き刺さる光を向けていた。朱光を背後から受けた男も一色に染まりきっている。その輝きは男の瞳の中にも見えた。


「――黄金」

 サリュは呟いた。それを彼女からの要求と勘違いしたアベドが、苦笑を浮かべて言った。

「そりゃまたでけえ代金だな」

 サリュは小さく笑う。

「あなたは、黄金が好きなんですね」

「俺? まあ、そりゃあな。嫌いな奴なんているのかね」

 その言葉に男の全てが集約されていた。黄金を好み、それ以外の価値観を認めない。

「お渡しできません」

 きっぱりとサリュは言った。

「……言い値で買うって言ってんだが」

「いりません」

「情報はいらないのかい」

「必要ありません」


 アベドの表情から笑みが消えた。野盗の頭目もかくやという険しい視線でサリュをねめつける。

「どうやらお前さんは、物の勘定ができないらしいな」

 男が目線で合図を送った。気づけば、サリュの背後にも戻ってきた男達が群れを成している。彼女の周囲に男達が輪を作った。

「できれば平和的にいきたかったんだが。交渉に応じてもらえないってんなら、仕方ねえ。無理やりにでも奪わせてもらおうか」

 よく言う。白々しい台詞に嫌味を返す気にもなれず、サリュは短剣を握り締めた。十人以上の相手に囲まれて、無事に切り抜けられる可能性はほとんどない。捕まってしまえばどうなるか。奴隷にして売られるか、それとも殺されるか。


 ――生きろ。わずかにその声を聞いた気がした。あるいは空耳だったのかもしれないが、彼女にとってはどちらでもよいことだった。

 私は生きる。だが、その為に懐の書類を渡すわけにはいかなかった。何故か、とサリュは自問する。既に答えはあきらかだったが、それを意識するのに少し時間がかかったのは、それがあまりにも単純な理由だったからである。


 メッチの言葉を思い出す。ユルヴからの頼みと、その信頼。そんなものは関係なかった。

 誰かの為でも、誰かのせいでもなく、ただ自分自身の情動が彼女にその選択を選ばせた。そこには彼女の名前も、その意味するところも全く関知していない。

 私がこの男の提案を拒絶するのは、それはこの男が気に食わないからだ。

 子どものような結論に、我ながら笑いたくなるような衝動に襲われる。だが、それでいいと思った。死がどうのだの、黄金がどうのと理屈をこねるよりはよほどすっきりしている。生きる。リトを探しだす。書類は渡さない。それだけだ。


 男が腕をあげた。今にも襲い掛からんとする男達に、サリュが身構える。

「――そこまでです」

 アベドが振り下ろした腕と共に破局が訪れる前に、知らない誰かの声がサリュの耳に響いた。



 そこにいたのはサリュがはじめて見る男だった。

 彼女を取り囲んでいた男達があとずさって道を作る、そこをゆったりとした動作で歩いてくる。彼女よりは幾らか年長だが、髭はなく、顔立ちもどこか貴族然とした趣がある。身につけた衣服も垢抜けていて、サリュはトマスの中心部に住む上流階級の人間を思い浮かべた。

 サリュの意識は男に長く注がれず、すぐにその隣に向かった。そこに並んでいるのはユルヴとメッチだった。


「ユルヴ!」

 部族の少女が、小さく頷いてやってくる。

 ユルヴが怪我などを負っていないことを確認して、サリュは訊ねた。

「これは、どういう……。あの人は」

 ユルヴは答えず、あごでしゃくって見せた。サリュが視線を向けたそこでは、突然の乱入に渋面になったアベドが現れた男に詰め寄っているところだった。


「セルジェイ。こりゃあ一体、何の真似だ。お前には、建物での待機を言っておいたはずだな。それが、部族の女まで引き連れて、何の――」

「それはこちらの台詞ですよ。館長」

 セルジェイと呼ばれた若者は育ちのよさを窺わせる微笑で応えた。

「野盗と結託、ロドリ族をそそのかしてアンカ族を襲撃、誘拐拉致とは、いったいどのようなご理由でそんな暴挙を?」

 虚をつかれたように目を見開いたアベドが、一気に顔を歪めた。わなわなと全身が怒りに震えている。

「……てめえ。自分が何を言ってやがるのか、わかってんだろうな」

 かすれた低音で言う。その迫力ある威を穏やかな微笑のままで受けて、男は言った。

「もちろんですよ。話は全てメッチから聞きました」


 はっ、とアベドが鼻で笑う。

「ふざけたことを。そんな若造の言うことの、何が信じられる」

「いえいえ。ちゃんと証拠もほら、ここに」

 セルジェイが取り出したのは一枚の羊皮紙だった。

「あなたが野盗とロドリ族とのあいだに交わした誓約書。あなたの署名入りで、しっかりと残ってます」

「馬鹿な!」

 アベドが叫んだ。指をサリュに突きつけ、口を開きかけたまま、硬直する。セルジェイの傍らに立つメッチを睨みつけて、男は悲鳴のような声をきしませた。

「メッチ、てめえ、騙しやがったな……!」

 既に腕からは矢がぬけているメッチが、顔色の悪い表情で唇の端を持ち上げた。


 サリュは男の台詞の意味がわからず、説明を求めてユルヴを見た。つまらなそうな顔でユルヴが言った。

「お前は囮にされたのだ、サリュ」

「――囮?」

「……お前が証拠を持って逃げる。当然、連中はそれを追う。お前に注意がいけばいくほど、他は動きやすくなる」

「他って、それは……」

 聞きながら、自然とサリュの目はそちらへ向かう。視線を受けたメッチが小さく笑った。

「でも。彼らは、同じ商会の人じゃないの」

「勢力争いということだろう」

 つまらなそうなまま、ユルヴが言った。


「あのアベドという男をよく思っていなかった連中が、少なからずあの商会にいた。今回のことは、奴を引き摺り下ろす充分な理由になるということだ」

「それって。じゃあ」

 説明を受ければ受けるほど疑問がわき、目が眩むような気分でサリュは頭を振った。

「別に俺は裏切ってなんかいやしませんよ、館長」

 サリュとユルヴの方に歩きながら、メッチが言った。青ざめた表情に不敵な笑みを浮かべ、

「でもね、捨て駒にだって捨て駒なりの考えがあります。捨てるのがそっちの勝手なら、そうされたらどうするか考えるのは、こっちの自由です」

「わざと、こいつに偽の証拠を奪わせたのか……!」

 メッチは首を振った。

「サリュに持たせたのだって本物ですよ。別に証拠が一つじゃないといけないってわけじゃあない。何かあったときのために、財布は二個持っておけ――あんたがよく言ってたことですよ」

 アベドが絶句する。


「待って。それじゃあ、最初からそのつもりで……?」

 信じられない気分でサリュは呻いた。いったいいつから。砂賊の洞窟で裏切った時から、あるいは町にいた時からなのか。どの段階でそんな企みを抱いていたのか、見当もつかずに訊ねたサリュに、メッチは肩をすくめて言った。

「もちろん、最初から。――なんて言えば格好いいんだろうけど。別にそんなんじゃない。俺はただ、上手くいきそうなほうを選んだだけだしな」

「でも、それで。わざわざ――」


 サリュはメッチの腕を見た。そこにあった矢はもう抜かれているが、応急処置だろう巻かれた包帯に今も赤黒い染みがにじんできていた。メッチはこの為にわざわざ傷をおったのか。アベドの企みを打破して、ユルヴ達の部族を助けるために。サリュの思考は、

「そんなわけがあるか」

 淡々としたユルヴの言葉に否定された。


「思い出せ。こいつらは、いったいどうやって砂を黄金に変える?」

 問われ、男の言葉を思い出す。

「――砂に、血を流して」

 男の腕の傷に目がいった。

「それじゃあ……」

「この男がそんな芝居をうったのは当然、自分の利益の為だ。そうだろう」

 メッチは苦い笑みを浮かべた。

「まあ、年上連中と若手連中の確執ってのはうちにもあってさ。おいしい商路とか牛耳ってる年上連中がいなくなればもちろん、空くだろ? ほら、今回の件でうまいこと働けたら、俺にだって分け前あるし。そしたら今より全然稼げるようになるわけで」


 心の底から呆れ果てて、サリュは声をあげることもできずに黙って首を振った。

 そんなことのために、この若い商人は命を賭けたというのだ。自分やユルヴを裏切り、あるいは裏切ったと見せかけて、命まで追わせて。実際に矢傷を受けたそれが全て、金を稼ぐ為の方策だという。

「だから言っただろう。こいつらは狂っている」

 ユルヴが言った。彼女もサリュと同じように感じているのだった。

 メッチが口を尖らせる。

「ひでえ言い方だな。自分の血なんだから、別にいいだろ」

「自分の他人のではない。その生き方が既に呪われていると言っているのだ、愚か者が」


「――確かに、そうかもしれませんね」

 それまで話を見守っていたセルジェイが言った。口元に微笑、表情には沈痛さがあるが、穏やかな眼差しの奥にぎらりとした強い光がある。

「アベド館長。あなたは商館を預かる長として、また商人の先達として、我々にとって常に偉大な方でした。それが、今回のように仁義にもとる行為に走られるとは、商会の仲間として残念でなりません」

 やや大仰な仕草には微かな嫌味さがあった。つまりこの男がアベドと商会内で反目していた勢力の一番手なのか、とようやくサリュは思いつく。


 メッチからの情報を手に、男はアベドを館長という座から追い落とそうとしている。メッチのような下っ端の商人に足元をすくわれ、内心ではさぞ相手の無様を笑っているのだろうが、少なくとも表面上にはそうした気配は全く現れていなかった。ひたすらに残念そうな気配を全身に帯びて、男は続けた。

「そちらの方のとおり、我々商人は皆、黄金という財貨の奴隷なのでしょう。その罪は深くその業は重い。ですが、だからこそ守られなければならないものがあります。それを常々口にしていたのも、アベド館長。あなたでした」

 言葉を区切り、顔を俯かせるアベドにセルジェイは告げた。

「私は尊敬する先達の言葉を守り、通告します。アベド館長、あなたの館長としての任を解きます。この決定はクァガイ商会リスール支部に所属するその構成員全ての意思によるものとし、それを代表して私が本部に連絡します。この決定に、異議のある方はいますか?」


 反駁の声はなかった。

 利に敏い商人達だからこそ、権力の禅譲がこの場に成されたことを理解しているのだった。既に元館長としての立場にあるアベドを擁護する者はいない。恐らくはアベドの派閥に属していた者もこの場にはいたはずだが、それも顔を俯かせ、沈黙をたもったままだった。

「もし異論がある方は、いつでも私にお伝えください。アベド館長、それでよろしいですか?」

 勝利を宣言するようなセルジェイの言葉を受け、

「……いいわけが、あるか!」

 それまで顔を俯かせて衆目に敗者の姿を晒していた男が怒鳴り声をあげた。


「そんな勝手が許されるか! この町は、あの商館は俺のもんだ! 俺がずっと守ってきた、俺が面倒を見てきてやったんだ!」

 ぐるりと周囲を見回し、顔を伏せた一同に唾を飛ばす。

「お前も、お前も! 俺が見習いの頃から世話をしてやったんだろうが! その恩を忘れやがって――」

 憎しみのこもった男の眼差しが、サリュの視線とあった。瞳の中に奇妙な二重の環を持つその異相に息を呑み、

「お前が。――この、……魔女め!」

 血走った目で男はサリュを弾劾した。指を突きつけ、

「この女だ! 全てこの女がやったんだ!」

 狂ったように叫びだす。眉根をひそめたセルジェイが首を振った。

「館長。何を――」

「うるさい! この女が全てやったんだ! 俺を騙して、そそのかした! そうでないという証拠があるか!」

 悪魔にとりつかれたような形相で、男は嬉々として言った。

「この女は流れ者だ。こいつの素性など誰も知らない! こいつのやることなど、全てあてにならない!」

「館長――」

 突然の狂乱振りにセルジェイが閉口した様子を見せる。


 男の支離滅裂な言葉には、しかし一理があった。商会に属するメッチや、部族としてつきあいのあるユルヴと違い、サリュは全くの旅の人間だった。アベドの主張するように、その人間に全ての責任を押し付けることも不可能ではない。――前にサリュが訪れた小さな集落で、そこの領主の男がしたように。

 周囲の男達が顔を見合わせて何事か囁きあいはじめた。アベドの館長職の剥奪に表立って不満は言えなくとも、その場に居合わせた奇妙な見かけの少女を糾弾することはできる。それはアベドの立場を守り、復権の可能性すら残す。少なくとも商会内にはアベドを擁する、あるいはその後を継ぐ者の勢力が残されたままになってしまう。それを危惧したセルジェイが何か言いかけて口を開きかけ、それより早く声をあげた者がいた。


「あるぜ」


 メッチが手に持って掲げたそれは、サリュの短剣だった。鍔がなく刀身が普通のものより長い。全体的に素朴な意匠のその短剣を見せ付けるようにして、若い商人は言った。

「これはサリュから預かった剣だ。長剣と短剣に、馬。これはアルスタ家の家紋だよ。その娘は、アルスタ家ゆかりの人間だ」


 ざわりと周囲の男達が大きくざわめいた。

 ツヴァイに仕える貴族の名門アルスタ家の武名は、商人でなくとも一度は聞いたことがある程のものだった。むしろ、その名を聞いた周囲の反応にサリュの方が不思議そうな表情を浮かべている。彼女は自分がごく短期間の間、世話になったその家名についてよくわかっていなかった。


「馬鹿な……」

 狂した形相のまま絶句する。そのアベドに、笑みを取り戻したセルジェイが告げた。

「……なるほど、それは何よりの身分証明ですね。いえ、万が一、その短剣がアルスタ家から盗まれたようなものであったとしても――それは直接、あちらに確認してみなければ。当然その間は彼女は客人として我々が身柄を預からせていただくことになります。それでよろしいですか、館長」

 アベドはがくりと肩を落とした。


 勢いに任せて全ての罪をサリュになすりつけることしか、男に抗う道は残されていなかった。確認の為、サリュの処分を保留するようなことになれば、どちらにしろ部族やそれ以外から他の証拠があがり、男の罪は確定する。

 やがて、全ての望みが絶たれた男は水気のなくなった声で呻いた。

「……違わん。好きにすればいい」



 憔悴したアベドが連れて行かれ、その場に集まっていた男達も思い思いの表情で散った。その場にはサリュとユルヴ、メッチの三人に加えてもう一人が残っていた。

 アベドから館長職を譲り受けることが内定したセルジェイがまだ留まっている理由は一つしかない。男はユルヴに向き直り、頭を下げた。

「――申し訳ありませんでした」

 謝罪の態度をとる相手を、ユルヴは半眼で見下ろしている。


「何についての謝罪だ」

「それは、もちろん。この度の私達の愚かな行動について」

 男は言った。ユルヴはそれを鼻で笑った。

「お前は自分達の罪を全て理解しているのか」

「いいえ。しかし、その全てを受ける必要があると思っております」

 如才ない言葉に目を細め、ユルヴは不快そうに頭を振った。

「やめろ。そんなもの、我々は求めてはいない」

 頭を下げたまま顔だけを上向け、男は言った。

「それは、謝罪の必要はないという意味で受け取ってよろしいでしょうか」


「無意味な行動だと言っている」

 そっけない声音でユルヴは言った。

「我々の受けた仕打ちに、我々は自分達の流儀で返す。お前達が何を思い、何をしようがそれは変わらない」

「……許されることはない。ということでしょうか」

「そう聞こえたか」

 緊迫した空気が生まれた。

 町の人間と部族との争いを予感させる雰囲気に、サリュが思わず口を挟みかけ、なしえぬままに閉じた。ユルヴがサリュに静かな眼差しを向けている。小柄なサリュよりさらに背の低い少女には、サリュに吐き出しかけた言葉を飲み込ませるだけの風格があった。


 小さく笑みを浮かべてユルヴは言う。

「金貨はどれほどで、などとほざかなかったことは誉めておこう。だが、商人よ。お前はわかっていない。お前達が算盤でやるように、罪を足したり引いたりできるものか」

「――罪は罪として。全て受けさせていただきます。もし我々にそれを償うことができるのでしたら。その機会をいただければ、と思う次第です」

「ほう。そこまでしてお前達は望むものはなんだ。今さら、我々に何を求める」

 顔をあげ、正面からユルヴを見据えた男は簡潔な言葉を述べた。

「友好を」

「水源はどうする。新しい儲け口の開拓の、道案内をさせようとするのは諦めるか」

 からかうようにユルヴが言った。

「……それがあなた達の意思なら、是非もございません」

「随分とものわかりがいいことだな。儲ける機会を失ってもいいのか?」


 男は首を振る。

「先ほどおっしゃられたとおり、我々は黄金に魅入られた生き物です。それを蔑まれようと、それが私達の生き方である以上、それを捨てることはできません」

 ですが、と男は続けた。

「自分達がそうであるからこそ――そうでない人々に何を持って接するべきか、常に商人は考えています。なぜなら、それこそが我々を獣と隔する唯一のものであるからです」

「それは何だ」

「恥ずかしながら。あえて言葉にするようなものではございません」

「ついさっき口にしていなかったか?」

「どうでしたでしょうか。似たような言葉なら、あるいは。しかし、必要なのはそれが何かより、それが胸の内にあるかどうかであるかと存じます」

 互いの本意と真意を探りながら言葉が交わされる。笑みのない視線を絡み合わせ、先に表情を崩したのはユルヴだった。


「……ふざけた男だ。嘘も言わずによくもまあぬけぬけと。詐欺師か、それとも大虚けか。夢でも見ているのではないか、貴様」

「めっそうもございません」

 微笑で応えたセルジェイが頭を下げる。その男に向けて、心持ち和やかな雰囲気で、

「――だが、忘れろというのは無理だ。我らは受けた恨みを忘れない」

 ユルヴは冷えた言葉を叩きつけた。笑みのまま表情を凍りつかせる男に、

「受けた恨みには、必ず報いる。一人が受けた恨みは全員で。誰かが受けた恨みも全員で。我々は、それを決して違えない。部族とはそういうものだ」


 決別の言葉にも聞こえる言葉に、男がやや強張った声で言った。

「それは、アンカ族の次代族長としてのお言葉でしょうか」

 ユルヴは冷笑した。

「まだ理解できていない。私の言葉は父様の言葉だ。そして部族の総意でもある」

 ユルヴには見えない方向から、頭を下げる男の表情が沈痛に歪むのがサリュには見えた。新しく館長になる男の、最初の仕事が前任の尻拭いともいえる部族との関係修復だった。もちろんそれが自分達の利益の為であるとはいえ、友好的な関係が両者の血を流させない為には必要なことには違いなかった。


 町と部族は、争うしかないのか――第三者である自分が口を挟む問題ではないと知りつつ、暗澹とした心地でそれを眺めているサリュに、だが、とユルヴが続ける声が聞こえた。

「恨みに報いるのと同じく――我々は恩にも報いる。それもまた必ずのことだ」

 ちらりとユルヴがメッチを見た。

「砂賊どもの洞窟で、苦しんでいる幼子がいた。それに一杯の碗を用意させた者がいる。その者の意図がどうであれ、それは恩だ。ならば我々はそれに報いる必要がある」

 セルジェイが顔を上げた。ユルヴの視線に従って、メッチを見る。両者の注目を浴びた若い商人はきょとんと瞬きした。


「メッチ。お前の望みはなんだ。お前は我々に何を望む」

 ユルヴが訊ねた。彼女の言葉の意味を悟ったセルジェイが、強い眼差しでメッチを見る。それに気づかないのか、あるいはそれもわざとのことなのか、サリュにはわからない態度でメッチは頭をかいて、しばし考えるようにしてから。とぼけた声で言った。

「えっと――今後ともよろしく、とか?」


 サリュはため息をついた。セルジェイも渋面になっている。

「了解した」

 弛緩しかけた雰囲気を無視して、ユルヴがセルジェイに向き直った。

「お前達の謝罪を受けよう、商人。一時の誤解や争いで他を全て否定するほど、砂は心狭くない。生き方や生きる場所、胸にある思いは違えども、砂漠で抱く一杯の水の有り難さは町の人間も部族も変わらない。それならば、わかりあうことはできずとも――互いを認めて生きることはできるだろう。それが我らの天意である」


 砂海に生き、水に縛られず、砂を受容する。将来、その一つの部族を束ねることになる少女は、言ってたおやかな微笑を浮かべた。

 セルジェイが深々と頭を下げた。王侯貴族に礼するのにも劣らない、敬意に満ちた所作だった。



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