3
簡素な夕食を終え、食器を片した後にはすることもなく、広くもない部屋には奇妙な緊張感が沈殿している。シャコウの帰りを待つユルヴは木窓にかかった砂避けの布を睨み、腕を組んでいた。その反対側の藁詰めの寝台に膝を抱え、サリュは火灯の輝きをぼんやりと眺めている。
「寝ないのか」
顔を向けないまま、部屋の空気に耐え兼ねたようにユルヴが言った。
サリュはあいまいに頷いて身体を横たえた。目を閉じ、意識を落とすよう仕向けてみるが、眠れない。宿で誰かと同室で寝るというのが珍しいのでそれで落ち着かないのかと思ったが、それだけというわけでもなかった。
卓上に置いた手紙を窺い、手を伸ばして掴み取る。やや崩れ気味の文字が躍っている。クァガイ商会リスール館長アベドよりパデライへ宛てるとあった。
封をしてある中を読むことはできないが、イスム・クでは自分の窺い知れない内容の手紙を運ばされることになったから、彼女も当然そのことには気をつけていた。先ほどこれを書き付けたアベドに不審な様子はなく、書かれた内容は確かに人の紹介と物資の融通を頼む旨のものだった。
これであの人に会える、わけではない。はやる気持ちを抑えるように彼女は胸の中で呟いた。メッチのいう相手が、彼と決まったわけでもない。もし彼だとしても、すぐに行方が知れるわけでも。だが、今まで全く手がかりのないまま砂をさまよっていた彼女からすれば、その手紙は闇夜の光明どころではない眩しさであることも事実だった。
だから寝付けない。獲物を目の前にぶらさげられて落ち着かない砂虎のようだと自分を笑い、彼女は久しく会っていない気がする旅の連れのことを思った。
砂の臭いを懐かしく感じる。宿を抜け出して町の外れまで行ってみようかと考えたが、昼間のこの辺りの様子を見る限り、日が落ちてから一人で出歩くのは控えた方がよさそうだった。あと半日もせずに再会できるのだから我慢すべきだった。クアルにも、我慢してもらおう。
何度か寝返りを打ち、それでも結局寝付くことができずに起き上がった。呆れたようなユルヴの視線を受けながら部屋を歩き、荷物から本を取り出す。寝台に戻り、適当に頁を開いて読み始めた。
集中のないまま幾らか読み進み、新しく開いた頁で黄金という単語を見つける。苦い気分と共にそれに付随する幾つかの記憶が思い出された。日没前の燃えるような砂漠。黄金の在り処と呼ばれた集落と、そこに生きる人々。それを稼ぐ為に目の色を変える商人――人間の業。
想像は、最後にまだ幼い少年の憎しみの眼差しへと帰結した。サリュの口から吐息が漏れた。
「ユルヴ。あなた達の部族にとって、黄金ってどういうもの?」
眉をひそめた部族の少女は迷いなく答えた。
「わたしにとっては、やつらの象徴だ」
「メッチ達の?」
「そうだ。塩と水と、黄金に生きるのがやつらだ。やつらはそれに魅入られている」
「塩と水で生きていくのがあなた達?」
「そうではない」
ユルヴは首を振った。
「塩と水と、砂だ。それが人間が生きていく為に必要なものだ。それを忘れているから、魅入られていると言っている」
黄金と砂。メッチは砂さえも黄金にして売ってみせるのが商人だと言っていた。
つまりはそれが彼らの価値観の対極なのかもしれない。砂に任せて生きる部族達と、砂に抗おうと生きる人達の。
「……お前はどうなんだ」
問いかけに、サリュは抱えた膝に額を押し付けた。閉じた目にいつかの光景を思い出しながら、答える。
「前に、小さな集落に行って。ある男の子と知り合ったの。そのままちょっと旅をすることになって。その子が夕焼けの砂漠を見て言ったわ。黄金なんてどこにでもあるって。それから、色々あって――私は、その子の父親を殺した」
息を呑む気配はなかった。
顔を上げると、静かな眼差しがサリュを見ている。
「その子が私を睨みつける目が、黄金色だった。私も、その子も、倒れた父親も。何もかもが黄金で――」
黄暖の灯りに濃い陰影を浮かべ、彼女は哂った。
「だから黄金は嫌い。でも、そんな資格なんてないわね。あの子にそれを押し付けたのは、私だもの」
黄金を好むのでもなく、疎うのでもない。
自分はそのどちらにもなれないと彼女にはわかっていた。
「お前は……」
なにかを言いかけたユルヴの言葉を遮り、扉を叩く音が響いた。
「起きてるかい。お探しの相手、帰ったよ」
宿の主人の声だった。
「――今、開ける」
答えたユルヴがサリュを見て、言った。
「……よかったら、一緒に話を聞いてくれないか」
外套を被りかけていたサリュは意外な申し出に瞳をまばたかせる。
「私が?」
「ああ。眠るところだったら、無理にとは言わないが」
「それはかまわないけど。……いいの?」
「ああ。いてくれると、助かる」
否定する理由もなくサリュは頷いた。どうせ眠れなかったところではある。
ユルヴが扉を開けた先の廊下に宿の主人と、防砂具を纏った精悍な顔つきの男が立っている。
「俺に用があると聞いたが」
砂色にひび割れた声で男が言った。
ユルヴは無言で男に羊皮紙を手渡した。広げたそれを一読して、男は重苦しく頷いた。
「なるほど」
宿の主人を振り返り、手に硬貨を握らせる。
「上の談話室を借りる。しばらく人払いを頼む」
「はいはい、ごゆっくり」
廊下を去っていく背中を見送った男が言った。
「話をするのはここか、俺の部屋か。どちらにする」
ユルヴが片方の眉を持ち上げた。
「上にあがるのではないのか」
「こんなところでの密談に場所の違いなどない。だが、保険くらいにはなるかもしれない。できれば俺の部屋に来てもらえるとありがたい。窓から正面下を見下ろせる」
「わかった。そうしよう」
頷き、男の詮索する眼差しがサリュを見た。
「……そっちは?」
「部族の者だ。わたしの護衛についてきてもらっている」
黙したまま反応を示さないサリュの姿を上から下まで見て、男はふんと鼻を鳴らした。
「お守り付きとは恐れ入る。いいだろう、こっちだ」
シャコウの部屋は一階下の奥側にあった。
内装に違いはない。少ない荷物が全て片隅でまとめられていることにサリュは気づいた。考えるまでもなく、いつでも移動できる為のものだった。二階という選択も、通りを窺える間取りにもそれぞれ意図がある。男は警戒を怠っていなかった。
そうした逃げ道の確保はサリュには慣れ親しんだものだが、普通がそうとは思わない。話し合いのために使いもしない部屋を借りるのはいささか念が入りすぎに思えた。それほどまでにこの町の北側が危険なのか、単に男の性格によるものか。あるいは。外套の下で、サリュは短刀の存在を意識した。
「悪いが立ったままでかまわないか」
「問題ない。こちらも長話をしたいわけではない」
壁際に立ち、背中を預けたシャコウが首元を緩めながら言った。
「それで。聞きたいことというのは、そちらでいなくなった人間のことらしいが」
「お前が姿を見たという話を聞いた。だが、その前に確認しておきたいことがある」
一拍を置いて、ユルヴが言った。
「そちらでは、いったいいつから、何人がいなくなった?」
長身の男が下から覗き込むような視線を向ける。
「なぜそんなことを聞く」
「どうやら本当のようだな。逆に聞こう。なぜ我々にそれを伝えていなかった」
緊迫した空気が生まれた。
「さて。自分の親から、聞いていないだけじゃないか」
「いいのか? それがお前達の部族としての正式な答えと受け取るぞ」
冷ややかなやりとりをサリュは静かに聞き流していた。部族同士だというのに友好的な雰囲気ではないことを意外に思いながら、同時に納得もしている。自分の同席はつまりこの為だったのか。別に荒事になるならないというだけでなく、ただその場にいるだけで圧力に成り得る。
「正式な、とはまた、やつらのような言い草を使う」
吐き捨てた男の表情にはそれまで以上の鋭さがあった。
「二つ前に五人。一つ前に三人が消えた。全て家族ごとな」
「十人近くだと」
さすがに驚きの表情を浮かべ、すぐにユルヴは怒りの色に変えた。
「何故、黙っていた?」
にべもなくシャコウは答える。
「我々の復讐は我々で行う」
「お前達がそれを前もって伝えていれば、イクプの一家が襲われることもなかった」
男は薄く笑った。
「さあ、それはどうかな」
「……どういう意味だ」
盛り上がった敵意をいなすように男が肩をすくめた。
「話を聞きにきたのではなかったのか。俺は別にどちらでもかまわないが」
「ユルヴ」
サリュが間に入り、少しは頭を冷やすことができたのか。沈黙し、改めて口を開いたユルヴの口調は少なくとも表面上には落ち着きを取り戻している。
「お前が見かけたという相手について教えて欲しい」
男は懐から焦げ枯れた色の草葉を取り出した。長さのある一枚を何重にも折りたたみ、柔らかく揉んで口の中に入れたそれは噛み草という一種の嗜好品だった。特に部族の男性が好み、火をつけて煙を楽しむ者もいる。
「見たのは三日前だ。場所は渡り船。俺が乗った同じ船で、それと良く似たものを見た」
シャコウはユルヴの羽織った衣装を目で指した。部族が着るものとしては一般的で、特に変わったところはない。それが刺繍のことを言っているということに、続いた男の台詞でサリュは気づいた。
「四角に菱縁でキョウセンの柄。まさか部族の守り柄を売り物にしているわけではないだろう」
「……他に何か見えたか? 布地の色は?」
「あまりしっかり見たわけでもなかったからな。特に目を惹く色合いではなかったと思うが、ああ、サハの模様もあったか」
それを聞いたユルヴが強く拳を握り締めた。吐く息が震えている。呼吸を繰り返し、ユルヴは必死に自分を抑えているようだった。
「――船、と言ったな。一人だったのか? 顔は見えたか」
「俺が見たのは一人だった。といっても離れたところに連れ合いがいたかどうかまではわからん。顔は見えていない。そちらさんのように、上からすっぽり被っていたからな。正直、刺繍布と女らしいというその二点で記憶に残っただけだ」
「部族の女が一人で町に来るなど、妙だとは思わなかったのか」
「一人かどうかわからなかったと言っただろう。それに、今だって女のお前がここに来てる。自分のような交渉役を女が務めるのかとは思ったがな」
「……船を降りてどこに行ったかまでは?」
シャコウは首を振った。
「こちらにも用事があった。悪いがそれきりだ」
「そうか。――話を聞かせてくれて感謝する」
頭を下げるユルヴに、男は醒めた視線で応える。
「いや。もしそちらで知っている情報があればと思ったが。期待はできなさそうだな」
「すまない。これから情報が入れば、すぐに伝えよう」
「そうしてくれ」
「これからも、できれば連絡を取り合いたいが」
控えめな態度でユルヴの出した提案には、男は首を振った。
「それは我々の決めることではない」
ユルヴが押し黙る。小さく笑い、シャコウは言った。
「明日、俺は一度集落に戻る。その時に長から何かしら話があるだろう。あんたの手紙はそういう意味だろう? その後なら、また機会を作ることだってできるだろうさ」
「……そうだな」
話はそれで終わりのようだった。ユルヴが扉に向かい、出る前に振り返って訊ねた。
「もう一つだけ聞かせて欲しい。事件が起きたのは二月前といったな。お前達はずっと犯人を探してきているはずだ。犯人の目星はついていないのか」
「もちろんついているさ。ここにきて、少々意外な展開になってはいるが」
意味ありげな答えに顔をしかめて去るユルヴに続いて、サリュも部屋を出た。
部屋に戻ったユルヴは明らかに不機嫌な様子だった。窓際の椅子に腰を下ろし、腕を組んで一人考えに耽る彼女の邪魔にならないよう、サリュは物音に気を遣いながら読書に戻った。頁を次にめくる前に、声がかかる。
「サリュ」
目を上げると、何かに思い悩んだ視線が彼女を見ていた。
「少し、話し相手になってくれないか」
本を閉じ、サリュは肩をすくめて言った。
「今の話し合いのことなら、聞いていてもあまりよくわからなかったから。役には立てないと思うけれど」
「かまわない。なんでもいい。なにか気になったことはあるか?」
思考に行き詰ったなら、どんなものでも他人の意見が発想の転換の助けになるかもしれない。頭の中に先ほどのやりとりを思い出し、率直に感じたことをサリュは告げた。
「仲が良くないのね。あなた達と、他の部族」
ユルヴは苦笑いを浮かべた。
「部族というだけで一枚岩ではないのは確かだ。部族も色々だからな。血筋の遠近だけでなく、全く違う氏家とはそれなりに争ってもきた」
「さっきの人のところとも?」
「そうだな。……あそこの部族、ロドリ・カミはあまり大きな部族ではない。昔はそうではなかったと聞くが、徐々に人を減らして、最近では親戚中をあわせても我々の一つの集まりに及ばない程度だ」
「戦って負けたから。そうなったの?」
「いいや。彼らはこの辺りの数ある部族の中で最も頑固だった。他と馴れ合わず、部族としての生き方を貫いた」
だから衰えた、と続けた。
「彼らは町の人間との関わりを拒んだ。他の部族達は交易を始めた。一方は富み、一方は変わらなかった。部族にはない知識。部族の持たない鉱物。彼らは戦う前に敗れた」
寂しげな口調が表情に現れていた。ユルヴは部族としての孤高を選んだ故に衰退した一族に共感しているらしかった。
サリュは奇妙な違和感をおぼえた。そのことにユルヴも気づいたようだった。
「でも、さっきの人もその一族なのでしょう。町に来ているということは、彼らもつきあいがあるのよね」
「……ああ。最近では、彼らも町と関わるようになっている。そうしなければならなくなったという方が正しいか。しかしそれも今代に入ってからだから、せいぜい十年程度のことだ」
自分自身の答えるその言葉に注意するように、慎重な口調でユルヴが言った。
「彼、犯人の目星はついていると言ってたわ」
不快げに顔をしかめる。
「わたし達のことを言っていたのだろう」
「ユルヴ達?」
「我々は部族の中でも最も早くに町と交易をもった一族だ。彼らからすれば部族の誇りを捨てた者どもになるのだろう。それであまりいい印象を持たれていないというのは、ある」
「ごめんなさい。わからないわ。それだけで何故、犯人に疑われるのか」
サリュは首を振った。彼女の内心では違和感が増すばかりだった。
ユルヴが眉をひそめ、ああ、と深く頷いた。
「そうか。お前は知らないのか」
ため息をつく。
「人をさらってどうなるのか。奴ら風に言うなら、それがどんな利になるか。お前は疑問に思っているのだろう」
サリュは頷いた。
「簡単なことだ。人間がそのまま奴らの利益になる」
眉をひそめる。ユルヴは続けた。
「奴らは奴隷にして使うのだ。我々を」
少女の言葉には冷えた憎悪がこもっていた。
「奴隷……」
聞かされた言葉を確かめるよう、サリュは舌の上で繰り返した。
慣れない言葉だが、聞き覚えが全くないわけではない。
奴隷とは商品にされた人間のことだった。労働力として集められ、売られていく人々とその売買を取り扱う人々。奴隷の命は所有者のものとされ、生殺与奪も他人の関与するところではなくなる。サリュ本人は知らないところではあるが、彼女自身、過去にトマスで魔女の罪に問われた時にはそうなりかけたことがあった。
その話を聞いた時、彼女は嫌な話だと思った。しかし、その奴隷にされる人間がどこから来るのかということまでは考えなかった。文字通りそれは、遊牧の地で刈られているのだった。
メッチの言葉を思い出した。部族の人権は帝国によって保障されない。だからこそ起こりうる問題はひどく厄介なのだと。彼がその例に殺傷事を挙げたのは意図してのものだろうか。奴隷云々については、知っていて当然のことだと思われただけの可能性もあった。
違和感の元は、自分自身の無知故だった。すっきりしない気分で彼女は苦く考える。確かにそのことを前提とすれば、色々と話が見えてくる。
ユルヴがメッチ達商人や、町の人間を嫌う理由。生理的なものだけでなく、もっと深いところに根付いた敵対心が根底にはあるのだった。クァガイほどの商会ともなれば、奴隷売買をやっていないとは考えられない。例えそれが、交易を持つアンカ族を対象としたものではなかったとしても。
昼間、商会でアベドが言っていた船で運ばれた形跡はないという話題も、いなくなった人々が商品として運ばれたことだけはまだないということだったのだろう。状況を理解するために前提となる知識がサリュには欠けていた。世間ずれしているという自覚はあったが、それにしてもひどい。タニルの領主の嘲る顔が頭に浮かぶようだった。
「ようするに、あのシャコウって人はあなた達が彼らの部族の人をさらって、町の人達に売りつけているって。その共犯者じゃないかと疑ってるのね」
頷くことさえ不愉快なのか、沈黙でユルヴはその問いかけに応えた。
「言いがかりじゃない」
「わかっている」
ユルヴが唸るように言った。
続きかけた唇の動きを止め、サリュは一瞬考えた。しかし結局は言い切ることにする。無知であることが全ての放言を許す理由にはならない。しかし、ユルヴが自分に意見を求めたのはそれを期待してのことでもあるはずだった。
「……彼らが、そうしているというのは?」
敵を睨みつけるように激しい眼差しがサリュを見据えた。
「――ありえない」
押し殺した声が否定する。
「彼らは、誇り高い一族だ。部族が部族を売るなどあるわけがない」
あるいは、シャコウの一族が、狂言としての失踪事件を装ったうえでアンカ族の人間に害をなしたのではないか。いささか飛躍した思いつきであることは認めるが、彼女が怒りを覚えている理由をサリュは誤解しなかった。
ユルヴは誇り高い性格だ。そんな彼女にとって、他の部族とはいえそれを貶められることは、自分自身が傷つくのにも等しいだろう。恐らくはそうした疑いを抱くことすら、彼女は忌避するはずだった。
だからこそサリュがそれを告げた意味はあった。そして、これ以上彼女を刺激する必要はない。
「刺繍のこと、言ってたわよね。それで探してた相手だってわかるのはどうして?」
話題を変えた理由を察したのか、ユルヴも感情を抑えて答えた。
「刺繍には部族毎の特徴がある。それぞれに伝わる模様を特に、守り柄という。我々で言えばキョウセンだ。模様、そして家族によっても縫い方は異なる。より細かくいえば縫い手一人一人によって。刺繍布は交易に使う重要な売り物だが、それに自分達の部族の守り柄を入れることはありえない。その柄を身につけている者は、すなわち我々の一族の誰かということだ」
ユルヴは自分の着る衣装にあしらわれた刺繍を示しながら、説明した。
「サハというのも、それじゃ」
「……ノカが好きだった。サハの鳥は、あいつが縫った刺繍に必ず入っている模様だ。あいつのものに違いない」
刺繍の存在が、最もわかりやすい身分証明になる。ユルヴの探す家族の誰かがこの町に入ったことは確実かと思いかけ、必ずしもそうではないとサリュはすぐに考え直した。独り言のように呟く。
「商会の人は、まだ船では運ばれてないって言ってた。あれは、ここから他の町にはいってないってこと?」
町と外とを出入りする船と、町の北と南を行き来するだけの船ではどちらが多いのか。その実数はサリュにはわからないが、監視がしやすいのは当然、町の外へと出ていく方だろう。逆に言えば、彼らも町中についてまでは目が行き届いているわけではないということになる。あるいは――
「意図的に?」
ユルヴが目を細めた。彼女もその可能性について考えていることがわかる動作だった。
やはり、ユルヴはメッチ達を疑っているのだ。同じ部族を疑わず、生き方の異なる町の人間を疑う。その理由を知り、感情的な部分でも理解できるが、同時に危険な思い込みでもあるようにサリュには思えた。
「少なくとも、あなたの知り合いの刺繍布を被った人間が町に入ったことは、確かね」
サリュは本人だと断定しなかった。刺繍に部族や家族、また個人の作り手によって大きな違いが見られるというなら、そのことを知る人間がそれを利用することも当然ありえるからだった。顔を隠して刺繍布を纏いさえすれば、それだけで部族の人間だと誤解させることができる。そんなことをする理由があるかどうかは、ともかく。
「……それだけ目立つ刺繍つきの服を着させたまま、町に入らせるかしら」
ユルヴ達の衣装の作り自体はそこまで特異なものではないが、全体にあしらわれた刺繍は人の目を惹く。もし周囲の目を避けようとするなら、その程度の配慮はするのではないかと思うが――これは考えすぎかもしれない。
サリュは息を吐いた。色々と思いつくことはあるが、思いつくだけでどれも確信には至らない。まるで見当違いのことを言っているのかもしれなかった。明らかに、彼女の経験不足から来るものだった。恐らくは町をよく知らない目の前の部族の少女以上に、サリュは世慣れていなかった。
「ごめんなさい。やっぱり、たいしたことが言えなくて」
「いや、そんなことはない。自分とは違う意見が聞けた。――ありがとう」
初めて感謝の言葉を言われても、嬉しさより先に申し訳なさがサリュにはあった。誇り高い少女がそんな台詞を使うのは、彼女が知り合いである人達を深く案じているからに違いないからだった。
「つき合わせてすまない、そろそろ休んでくれ。長旅の前にはよく身体を休めておくべきだ」
「……ええ」
頷き、寝台に向かう途中でサリュは立ち止まった。訊ねる。
「――何か私にできることはない?」
部族の少女は穏やかに微笑み、首を振った。
「さっきの話し合いに同席してくれただけで十分だ。あの一族が何を考えているかはわからないが、シャコウが戻れば父様と向こうの族長とで話し合いが持たれるはずだ。その時に、我々が本気だということは伝わっているだろう。小娘一人でもなく、共謀を疑われかねない町の人間が傍にいたわけでもない。おかげで、わたしの立場をこれ以上なく伝えることができた」
「あなたは、族長から何か言われているの?」
「父様は砂の天意に従えとおっしゃった。わたしはただ自分の思うがままに行動するだけだ。――ノカを救いたい。その行動が天意に沿ったものである限り、それは父様の意志でもある」
家族への信頼。否、もっと大きな連帯感を現す言葉に、サリュはわずかに顔をしかめた。そうした人同士の繋がりが、彼女にはない。先日の件から、特にそのことを痛感することが多かった。
――自分のような人間が、手助けできると思うべきではない。先日の思い上がりとそれがもたらした結果を思い出し、彼女は寝台に横になった。
眠れずに薄目を開けた先で、部族の少女は黙して窓の外へと視線を落としている。声を掛けようとして、それが行方の知れない知人に思い悩む彼女の為ではなく、自分の為のものだった。きつく唇を噛み締めて安易な衝動を抑え、サリュは背を向けて身を丸めた。