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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 金と砂と
37/107

 岸を渡った先は物と人に溢れている。船着場には山高く荷の積み上げられた船が停泊し、その上に乗り込んだ体格のよい男達が掛け声よく積荷を降ろし、また積み上げていた。桟橋では商人同士のやりあう声が怒声のように響き渡り、降ろされた荷物はすぐに馬車に積み込まれ四方へ運び込まれる。足の早い品物をその場で売りに出す声もあり、それを買いつけに来た人々の姿も見られる広場は祭りの賑やかさだった。


「おーい、なにやってんだよ」

 先を行くメッチから声をかけられ、サリュはその後を追った。一瞬、トマスにでも戻ったような錯覚があった。

 人ごみが渦巻き、二人の姿を見失いそうになる。めまいと息苦しさを覚えながら歩き、ようやく人の流れが落ち着いてほっと息をついた。彼女の隣で、ユルヴもやや辟易した表情でいる。互いの顔を見比べ、二人は首を振った。

「すごい人ね」

「……気持ちが悪い」

 メッチが呆れたように笑った。

「市場なんてどこもあんなもんだろ。サリュ、あんたはトマス行ったことあるんじゃないのか?」


 確かにトマスの街に滞在していたことはあるが、ほとんど外は出歩かなかったし、市場に行ったのも一度きりだった。加えて、その時はいなくなったクアルを探して必死になっていた。周りに気を遣う余裕などなかった。

「ふぅん。ま、朝夕が一番込む時間帯だけどな。けっこう美味いもんとか売ってるぜ。ああ、夕飯、それにしてもよかったな」

 あの人の群れのなかで食事をするなど、考えただけでも食欲がなくなる。沈黙を提案への返事に、サリュは辺りを見回した。


 市場を離れ、周囲は大きな建物が立ち並んでいる。倉庫だろうか、と訊ねたサリュにメッチが頷いて答えた。

「そ。まあ大体のとこは、そのまま商館も兼ねてるけどな。とりあえず荷を運ぶためにも、市場の近くのほうが便利だろ」

 実際、先ほどよりは穏やかとはいえ、通りにも馬車や人が行きかっていた。それでも河川に面した表通りとは比較にならないほど静かではある。遠くの喧騒を耳に歩き、程なくして三人は古めかしい建物に辿り着いた。


 一見して土壁を用いていない木造建物だった。年季の入った造りは長くこの場にあることを示している。それはそのまま、この建物の主の歴史と伝統を周囲に誇っているようでもあった。ほとんど威圧感のある玄関扉には、警句らしき言葉が書かれている。汝、その手に掴むべきを今一度改めよ。


 サリュはメッチを見た。商人は肩をすくめる。

「お前は何をしにここに入り、ここを出るのかって意味なんだとさ。必死になって稼いだ金貨入りの袋を掴んでても、ノブを掴むためにはそれを放さなきゃならない――人の悪いおっさん共が好きそうな皮肉だろ」

 儲けたものを捨てる覚悟を持て、ということだろうか。商人ではないサリュには、その言葉の真意は理解できなかった。ユルヴはどう感じたのかと見てみれば、はじめから理解しようともしていない仏頂面のままだった。

「ああ、もしかしたらうるさい連中がいても、相手しないでくれよな。中、ちょっとした酒くらい出るからさ。仕事終えてご機嫌なやつがいるかもだ」

 両者の頷きを確認してから、メッチが扉を開けた。


 食堂のような広い空間に、左右に分かれて机と椅子が散らばっている。それぞれ数名の人間が卓に座り、三人の来客に露骨な視線を送っていた。メッチが頭に巻いた布防具を取ると、声があがる。

「おう、メッチじゃねえか」

 その言葉を契機に、空気が切り替わった。再びそれぞれの卓での談笑が再開され、しかしその中で幾らかはそのまま三人を捉えたままでいる。不可解なことに、誰がこちらを見ているのか視線で知ることはできなかった。気配が上手くごまかされている。

「なんだい。お前さんがこっちに顔出すなんて珍しいな。元気だったか?」

「それなりにね。ツァジェこそなんだよ、まだ日も落ちてないってのにもう出来上がっちまってるじゃないか」

 鼻の頭まで真っ赤にした中年の男が声を掛けてくる。やりかえすメッチに、男は呵呵と機嫌よく笑った。

「さっき船から上がったばっかりよ。酔いを醒ます為には飲むしかねえだろ」

「ほどほどにしときなよ」

 手を振って応えながらメッチが歩く、その後ろをついていきながら、サリュはその中年の男が酔気のない視線でメッチを見送ったことに視界の隅で気づいた。密やかに息を吐く。容易に悟らせないまま離れない幾つかの視線といい、まるで野生の獣のようだ。いや、それよりも性質が悪い。


 広間の奥、受付に男が座っていた。ひどく険しい目つきをした壮年の男だった。野盗にも似た趣と、口元に髭をたくわえた風貌がユルヴの父親にも似た風格があった。

 クァガイほど名の知れた商会で一つの街の商館を預かる人間となれば、その職責は部族の長となんら遜色するところはないはずだった。それを勤めあげるためには能力なり、人格なり相応のものが問われることとなる。

 やや緊張した気配で、メッチが口を開いた。

「アベド館長。ご無沙汰してます」

 じろりと若い商人をねめあげ、次の瞬間、にこりと男は表情を崩した。

「メッチ。よく帰ったな」

 大きく両手を広げて言う仕草は、それまでの印象からは想像できないほど友好的な雰囲気に満ちている。立ち上がり、男はメッチの頭を乱暴に撫で擦った。

「ちょ、やめてくださいよ。子どもじゃないんだから」

「なに言ってやがる。ひとり立ちして三年もしないうちは、まだまだひよっこだよ」

「どうせ三年たったら、次は十年積むまではとか言うんでしょうよ」

「よくわかってるじゃないか」

 豪快に笑い飛ばし、アベドという男は笑みを収めた。途端、年季の入った商人としての凄みが表情に現れる。男は並び立つ三人を等分に眺め、目を細めた。


「さて。それで、いったいどうした? メッチ。お前さんの受け持ってる商路じゃ、こっちに顔を出すのは半年程早いはずだな」

 この商館に関わる人間がいったいどれほどの数に及ぶのか。その個人個人の行商路を全て把握していることをさも当然のことのように訊ねるアベドに、メッチも居ずまいを直すように姿勢を正した。

「ええ。実は昨日、アンカ族のとこで一晩、世話になったんです。それで――」

「待て」

 低い声で男が説明を遮った。宿屋のときのように名乗りをあげようとしたユルヴにも手をあげて制し、アベドは周囲を窺う視線を巡らせる。その男の態度でサリュも気づいた。周囲の雑音が、わずかにだが小さくなっている。

 ふんと鼻を鳴らし、アベドは顎をしゃくって受付の奥を示した。

「とりあえず、続きは奥の部屋だ。そっちの二人にも、なにも出さないわけにもいかないしな」

「……わかりました」

 男の表情には笑みが戻っているが、口調には強制の響きがあった。それに気づいたメッチの声も固い。


 小部屋に通される。扉を閉め、アベドはメッチの頭をはたいた。

「この間抜け。あんなとこで本題をいきなり出すんじゃねえ。もっとそれとなく伝えられねえのか」

「痛ぇ。殴ることないじゃないですか」

「馬鹿たれ。そんなだからお前はまだまだひよっこだってんだ」

 大きく息を吐き、それからユルヴへと顔を向ける。

「まあ、これだけわかりやすい格好なら気づかない奴もいないだろうが。……はじめまして、アンカのお嬢さん」

「……セオイカの子、ユルヴだ」

 ほう、とアベドは目を見開いた。

「族長の。これは驚いた。俺はリスールの商館長をしている、アベドだ。お父上にはいつもお世話になってるよ」


 扉がノックされる。盆に木碗を載せた女性が三人の前に並べ、退出していった。碗の中には透き通った果汁水が満たされている。

「それで、そのお嬢さんがわざわざ来たってことは、例の件についてということでいいのかね。ああ、どうぞ飲んでくれ。よく冷えてるはずだ」

「そうだ」

 指し示された碗には目をくれず、ユルヴは真っ直ぐに男を見返して言った。

「例の件については、我々も心を痛めている。行方のわからない家族の捜索については、全力であたっているところだが、それについて話が?」

 ユルヴは首を振った。

「今回、私はあなた達に会いに来たわけではない。そちらはそちらで動いているように、こちらはこちらで動いている。それだけだ」

「なるほど。……では経過のご報告は、お父上に直接で?」

「かまわない。よければ、触りの部分だけでも聞かせてもらえると嬉しいが」 

「もちろん。といっても、あまり大きな進展がないので心苦しいが」

 顔をしかめさせて前置きを告げたあとに、男は続けた。


「まず、いなくなった家族についてだが。人相書きを出しているが、今のところそれらしき人間が町に入ったという情報はなくてね。特に水路については注意しているんだが。少なくとも、船でどこかに連れて行かれたりという事態は、まだないな。これについては断言してもいい」

 奇妙な自信のようにサリュには思えた。同じことをユルヴが訊ねる。

「そこまで言い切れる根拠は?」

「河で運ぶってのは、便利で楽だが、その分わかりやすくもある。人の目も入るし、水の上じゃ逃げられない。人を運ぶにはまず使われないやり方だ」

「つまり、陸路と」

 男は頷く。

「恐らくは。だがしかし、それだって限界はある。町ってのは――別にここだけの話じゃないが――人は入るのは楽だが出るのは難く、物は入るのは難いが出るのは易いからな。かくまうのにだって場所も食料も、匂いだって。こっちはともかく、北側ならあるいはそれもできるかもしれんが、うちとしてはむしろ町の外を疑っていてね」


「――砂賊」

 低く抑えた声音でユルヴが呟いた。

 男は言葉を切り、手元の碗で喉を潤わせた。サリュも自分の碗を持つ。柑橘系のさっぱりした果汁だった。

「下手人は誰かって話に繋がるが。連中、最近は特に動きがうるさい。今までは手をだしもしなかった大商隊にまで襲い掛かるような暴れっぷりだ。まるで狂ったコボイだよ」

 商人という人種はよくコボイに例えられるが、その商人の男があえてその言葉を使った。それに面白みを覚えた様子も見せず、ユルヴは質問を続けた。

「そいつらは、町の北にいるのか?」

 男は首を振った。

「いいや。まあ、そいつらと繋がってる連中はいくらでもたむろしてるが。奴らの根城は北の峡崖のどこかって話だ。だから今まで手を出せないでいる。それについては、あんたもよく知ってるだろう」

「……現状は変わらずか」

 感情を押しつぶすように、ユルヴは呻いた。申し訳なさそうにアベドが頭をかいた。

「申し訳ない」


 顔を俯かせたユルヴの膝の上で、両拳がきつく握り締められている。隣に座るサリュにまで、怒りと焦りを抑えつける為の呼吸が漏れ聞こえてくるようだった。少女の静かな憤慨を見て、アベドが言った。

「これは、まだ決まった話じゃないんだがな」

 伝えることを悩む表情で、目線をそらしながら口ひげを撫でる。

「今、領主にかけあっている。うちだけじゃなく、幾つかのとこと連名でな。確定じゃないが、どうにか動かせそうな按配だ。上手くいけば“正式に”って話ができる」

 ユルヴが顔をあげた。目が見開かれている。彼女の反応の意味を、少ししてからサリュも悟った。メッチは、町側の人間は本質的に物事が大きくなることを避けると言っていた。表立って領主へ掛け合い、それを動かすというのなら、それはその意向と大きく異なる事態だった。


「それ、ほんとですか」

 メッチが驚きを露わに訊ねた。

「ああ。今回と似たような件、アンカ族以外でも起きてるみたいでな。どうにもこうにもきなくさい。まあ、今は状況が状況だからな。砂賊のこともあるし、どうにかしておきたいってのはうちらとしての本音でもある」

 労わるようにユルヴを見て、男は言った。

「だから、もう少し我慢してくれ。なにか進展があれば、すぐに連絡する」

「……よろしくお願いする」

 ユルヴが深く頭を下げる。娘ほども離れた少女に微笑みかけ、アベドが席を立ち上がった。

「よし。話は終わりだな。メッチ、今夜はいつもの店に顔を出せよ。話も聞きたいし、会いたがってる奴もいるだろうからな」

「あ、はい。わかりました。――ああ、ちょっと待ってくださいっ」

 サリュの強い視線に気づいて、あわててメッチがアベドを引き止めた。


「館長。ここにいる子に、うちの師匠を紹介したいんですよ。紹介状の紙、都合してもらえませんか?」

 男が眉を寄せる。

「パデライをか?」

 パデライ。その名前を脳裏に刻みながら、サリュは二人のやりとりを注意深く見守った。

「はい。探してる知り合いが、師匠と知り合いらしくって。俺、この子に砂賊に襲われかけるとこを助けてもらったんですよ」

「そりゃお前、紙くらいいくらでも用意するがな」

 言いながらアベドは歩み寄り、メッチの頭を思い切り殴りつけた。

「命の恩人がいるならそれを先に言え。馬鹿野郎が」

 サリュの前に立った男が、卓に手をついて深々と腰を折った。

「礼儀の知らない奴で悪い。我々の仲間を救って頂いて感謝する。商会を代表して礼を言わせてもらう。ありがとう」

「……いえ」

 誰かに頭をさげてもらうことには慣れていなかった。そっけなく答えるサリュににこりと笑い、男が手を差し伸べる。戸惑い、それに応えられないでいるうちに、男が引き戻した腕で頬をかいた。

「ああ、悪ぃ。女性相手に商人の作法を押し付けても悪いな。気にしないでくれ」

「どうしてわかったんです?」


 頭を押さえながら訊ねるメッチを振り返り、男は呆れたように言った。

「アホ。子なんて言えば誰だってわかるだろうが」

「あ、なるほど」

 若い商人の迂闊さに、サリュはため息しか出ない。

 一度部屋から出たアベドが筆と紙を携えて戻ってきた。

「メッチ。手紙は俺が書けばいいか?」

「あ。それじゃあ、お願いします」

 メッチではなくアベドがそれに書きつけ、丁寧に折って封をする。使われた紙は羊皮紙ではなく、すいて作られた製紙だった。

「パデライはこの西、境の町ワームにいる。ついでにそこの商会連中に、旅に必要なものを全て提供するよう一筆書いておいた。礼代わりに使ってやってくれ」

 紹介はともかく、物資まで無償でというのは思わぬ厚遇ぶりだった。疑問に答えるようにアベドが口元を歪めた。

「仲間を助けてもらった礼さ。あんたが無事、探し人に出会えることを祈ってるよ」 

「……ありがとうございます」

 礼を言い、サリュは男から手紙を受け取った。


 境の町。確か、トマス水源とボノクスからの水源、両方から流れる河川の交わる場所だっただろうか。――そこにいけばあの人、かもしれない人物の手がかりが聞ける。自然と鼓動が早まり、手が震えるようだった。

 ユルヴの視線に気づく。部族の少女は自身の想いを抑え、サリュへ微笑んでみせた。

「よかったな」

 何かを言いかけて、結局サリュは何も言えなかった。黙って頷く。話は終わりとばかりにアベドがぱんと手を打った。

「さて、お前さん方、今日の夕食の予定は決まっているのかい。よければうちの連中が集まる食堂で宴を開くから、ぜひ参加してくれ。メッチ、場所はわかってるよな」

「あー。ええ、場所はわかりますけど」

 メッチがサリュとユルヴを見た。二人の反応が薄いことを確認して、苦笑う。

「すいません、宿のほうで頼んじゃって。それに疲れてるんで」

 アベドはまばたかせ、それから鷹揚に頷いた。

「ああ、なるほど。それは無理にとは言えないな。じゃあお前だけでも来い。まさか来ないなんて言わないだろうな?」

「わかりました。行きますよ」

 二日連続での酒宴は気が重いのか、肩を落としたメッチの背中を叩きながら、アベドが部屋を出る。それに続くユルヴの後ろを歩きながら、サリュはふと気づいた。彼女の前にあった碗は、最後まで手を出されないままだった。



 メッチはそのまま商館に残って商人同士の夕食に連れ出され、サリュとユルヴで向こう岸に戻ることになった。

「ったく。なんでわざわざ向こうで宿なんてとってやがる。うちの宿がいくらでもあるだろうが」

「色々あるんですよ、もう」

 事ある毎に叩かれる頭をかばうようにしながらメッチが言い、サリュを見た。

「なあ、今日は泊まっていくよな?」

「……どうして?」

「いや、だって俺の方からまだ依頼のお礼渡せてないし。それに、夜から出るのは危険だぜ。砂賊の話、聞いてたろ」

 メッチの言葉に同意するようにアベドが頷いた。

「船も夜になれば接岸して休むからな。ここからワームまでは下流だから、急ぐなら朝一番の船に乗ればいい」


 言われるまで、サリュはやはり今日のうちに町を出ようかと考えていた。元々、船を使うつもりはなかった上に、クアルにもすぐに会いたい。なにより一刻も早く、少しでも彼の手がかりへと近づいていたいという想いが強かった。

 しかし、無用な危険は避けるべきだという商人達の言葉は恐らく正しかった。長旅の疲れがあるわけではないが、これからがそうではないという保証はない。一晩は身体を休めるべきだった。

 それに――一人どこかへと遠い視線を投げかけているユルヴを見て、サリュは頷いた。ほっとしたようにメッチが笑う。

「よかった。礼もさせないうちに消えるとかよしてくれよな。そういうの、商人にとっちゃ一番の恥なんだぜ」

 それを聞いたアベドが、くつくつと笑った。

「いっちょまえに商人を語るとは、お前も成長したもんだ」

「からかわないでくださいよ。それじゃあ、俺、今日は遅いかも知んないけど。明日の朝のうちには戻るからさ。水と食料も補充しなきゃだろ? それまで待っててくれよな」

 頷き、サリュは先を歩き出したユルヴの後を追った。


 無言のまま歩き、船を待つ人の列に並び、幾ばくか揺られて対岸に着く。最後まで互いに沈黙したまま、宿の建物に入ってはじめてユルヴが口を開いた。受付で暇そうな若い主人に一言、

「帰ったか?」

 男は肩をすくめた。

「まだだな。飯を食ってから戻るんじゃないかと思うがね」

「……戻ったら教えてくれ」

 憮然とした声で言って、階段をあがっていく。主人に、夕食の準備は二人分でよいことを告げ、サリュも階段へ足をかけた。


 部屋に戻ると、ユルヴが頭部の布防具に手をかけているところだった。勢いよくはがされた刺繍布が舞い、豊かな黒髪が波打つ。背中まで流れる髪と、その中にある幼めの容貌を眺めているサリュを、怪訝そうな視線が睨みつけた。

「なんだ」

「ごめんなさい。長い髪って、あまり見ないから」

 良く手入れの届いた長髪となれば、それなりの身分の人間にしかありえない。ユルヴの髪はそうした人々の絹糸のようなそれとは毛色が異なるが、顔の形作りからして異なる味わい深さがあった。どことなく、サリュはまだ訪れたことのない異国の情緒を思った。


「我々の部族では、婚礼前の女性は髪を伸ばすんだ。それだけだ」

 なるほどと頷き、好奇心から訊ねる。

「ユルヴは年、幾つ?」

「……十五だ。なんだ、十五にもなって一人身で悪かったか」

「そんなこと。やっぱり早いのね」

「お前達が遅いんだ」


 部族の婚礼は早い。十代での結婚も珍しくないし、二十にもなれば子を持っているのが普通だと言われている。この時代、早婚は都市部でもまだ多く残っているが、特に部族ではその傾向が顕著だった。

 理由は明白で、早くから子を産み、多く成す必要があるからだった。砂漠での生活は厳しい。どれほどの子が生まれようと、その中で何人が長く生き延びられるかはわからない。


「ノカっていう人が、ユルヴの結婚相手?」

「友達だと言っただろう。ノカは女だ」

 ぴしゃりと言い、ユルヴはやり返すようにねめつけた。

「……私からすれば、お前の見かけの方がよほど珍しい。その髪、その目」

 苦笑しながら、サリュも頭の布防具をはぎとった。短い灰褐色の髪と、同色の瞳、その中の異様な二重の環が露わになる。灰色の髪や褐色の肌はまだしも、その瞳の異常さは際立っていた。遠めにはわからない、しかし近くで見れば誰もが目を疑う異相。

「その外見に名前。どう考えても普通ではない」

 ユルヴの言葉を受けて、自嘲するようにサリュは唇を歪めた。

「そうね」

 普通ではない。彼女の言葉は文字通り正しかったから、今さら傷つきようもなかった。


「……すまない」

 謝罪の言葉に顔を上げると、部族の少女が渋面になっている。言い過ぎたと思っているようだった。

 サリュは笑い、穏やかに首を振った。

「本当のことだもの。それより、お風呂に入りましょうか。河沿いの町だから、水浴びくらいなら幾らでもできそうだし。私、下で聞いてくるわ」

「いや、私が行ってくる。休んでいていい」

 人目につくことを考えてくれたのだろうか。暗がりなら外套を深く被ればそうそう気づかれるものでもないが、少女の申し出には謝罪の意味もあるのだろうと思い、サリュはありがたくその好意を受けることにした。


 しばらくしてユルヴが戻った。薪をくべれば湯も使えるということだった。薪の使用は別料金になるが、既にメッチ宛につけておいたという話を聞いてサリュは笑い、それから湯を炊いて順番に風呂に浸かり、全身の砂を洗い落とした。


 サリュにとって町という存在はあまり得意ではないが、やはり湯を使った湯浴みには格別のものがあった。全身が溶けだすほど湯船につかり、疲れを癒す。上気した肌を外套で隠して部屋に戻ると、先に湯を浴びたユルヴが夕食を取ってきてくれていた。


 夕闇に傾きだした木窓の明かりを受けながら、二人は食事をとった。



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