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砂の星、響く声  作者: 理祭
 二章 草原の部族
33/107

 乾いた寒さに目を覚ます。無意識に身を寄り添わせようとした生きた温もりがなく、香の焚かれた薄地の感触があった。クアルと別行動である時はいつもそうであるように、その違和感がサリュの意識を覚醒させた。


 周囲にあるのは早朝の気配で、布越しの明るさもまだ微かだった。薄暗闇の中で誰かの寝息を聞き、サリュは寝入る際に手に握り締めたままだった短刀をしまう。急な客人の身分であるから、男と同じ円幕で眠ることは了承しても、もちろん寝床まで共に寄り添うつもりはなかった。もっとも、そんな心配は実際には無用のことだったが。

 したたかに酔いつぶれ、いったい昨夜の記憶をどれほど覚えているのだろう同室の連れは、幕の反対側でだらしなく四肢を伸ばしている。用心の欠片もない寝格好に呆れ、サリュは外套を羽織り水袋を持って外に出た。ついでに、男の側に落ちている水袋も拾っておく。


 薄く延ばした朝靄がかかっていた。砂漠では珍しい現象だった。近くに水源があるからか、それとも夜中に季節外れの雨でも降ったのか。この一帯が雨季に入るのはまだ当分は先であるはずだから、多少の驚きをもってサリュは息を吸った。いつもと違う湿った空気が肺に満ちる。

 踏みしめた地面にも重さがあった。静まり返った集落は靄に包まれ、幻想的な雰囲気が、彼女にある街を思い出させた。トマス。水陸の最大都市と呼ばれるそこには街全体を囲む大きな湖があったから、朝靄の光景もそう珍しいものではなかった。


 胸の中にうずくものを覚え、サリュはそれが何であるか考えた。望郷という言葉が浮かぶが、自分はあの街で生まれたわけではない。彼女の故郷は既に砂に埋もれていた。

 しかし、その想いは決して間違ったものではなかった。故郷を失った彼女にとって、その街こそが確かに帰るべき場所だった。彼女の生きてきた時間の中で最も温かな記憶がそこにはある。穏やかに微笑む金髪の女主人と、その屋敷に勤める人々。

 身近な間に世話になった記憶が懐かしく思い出され、それを里心というのなら、間違いなく自分は弱っているのだろうとサリュは自嘲した。あるいは彼らしき人物の影を掴み、浮き足立っているのか。


 霧の中から足音が近づいた。外套を目深にしたサリュがそこから現れた少女に会釈すると、ユルヴは険しい目つきで口を開いた。

「どこへ行く」

「水場へ。口の中に昨日のお酒が残っていて」

「……お前の連れの醜態はひどかったな」

 それについては擁護する必要を感じなかった。宴の佳境に始まった焚火の周りでの踊りに意気揚々と参加して、そのまま倒れこんでしまった。周りの男手の力を借りながら、酔いつぶれた男を円幕にひきずったのは他ならぬ彼女である。


「水場までどのくらいですか?」

 サリュが訊ねると、ユルヴは靄のかかった南西を指差した。

「半刻もしないで着く」

 頭を下げ、歩き出したサリュの後ろをついてくる。肩越しに振り返ると、そっけない声が言った。

「私も行く」

 別に自分を心配してのことではないだろうから、断ってどうにかなるものでもなかった。頷き、サリュは霧の中へと足を踏み出した。



 朝靄に煙る草原の視界は、ひどく近い距離で閉ざされていた。遠く東におぼろげながら太陽が昇ってきているから方角に迷うことはないが、獣が身を伏せていても気づけない恐れがあった。

 短い指笛を二度、サリュは鳴らした。隣から向けられる視線に答える。

「獣避けです」

 実際、その意味もないわけではなかった。ただし全てではない。一人ならクアルを呼び寄せられたが、今の状態ではそれは控えなければならなかった。どこか自分の合図を聞き取れる場所にいてくれるはずだろう彼に、近づくなと伝えるためのものだった。


 砂虎が近寄らないように、というのは確かなのだから、嘘ではない。別段それを気にしたわけでもなかったが、彼女の言葉を聞いた同行者は薄く哂った。

「はじめて聞く類だな」

 皮肉げな口調だった。サリュは隣を行く相手を見あげた。部族の少女は昨日の昼間と同じく見事な刺繍衣装の上に布防具を羽織、馬に乗っている。腰に弓矢を備えているのは猛獣と鉢合わせた場合を考えてのことだろうが、その意識は半ば自分に向けられているように思えた。

 鋭い舌鋒をかわし、彼女は話題を変えた。

「いい馬ですね」

 優雅な肢体と雄々しい鬣を持つその生き物は、部族に限らず、砂海に生きる人間にとって特別な意味を持つ。重い荷を運ぶ為にはコブつき馬が用いられることが多いが、より飼育が難しく、手間のかかる馬の方が貴重とされていた。速度に富み、その上で持久力を併せ持つ名馬となれば家一つ建てるほどの財産にも成り得た。

「わかるのか? 馬に乗るわけではないだろう」


 押し黙るサリュを傲然と見下ろすようにして、ユルヴが言う。

「獣の匂いがする。お前は何者だ。災いを招きに来たか? 死の砂を名乗る女」

 馬の脚を止めたユルヴの、サリュからは見えない右手が腰元のあたりに伸びている。返答次第によってはただでは済まさないと、弓によらずその視線が真っ直ぐに射抜いていた。サリュは足を止め、湿った息を取り込み、吐きだした。

「……私は、人を探しているだけです」

「それで砂海をさまようのか。行く先々に不吉を呼んで」

 サリュは目を伏せた。少女の言葉は正しい。その事実に頷きながら、答える。

「私は死ねません。獣になっても、生きます」

 例え、人の血をすすって渇きを癒してでも。必ずあの人物を見つけ出す。

 布防具の中で親しい相手から贈られた短刀を握り締め、射殺すような眼差しを向ける相手に正対する。


 先に殺意を収めたのは馬上の少女だった。

「迷惑な話だ」

 吐き捨て、手綱を振って歩き出す。短刀から手を離し、サリュもその後ろを追った。

「……あなた方にご迷惑をかけるつもりは、ありません。メッチが起きれば、すぐにでも集落を出ます」

 言葉に、前を行くユルヴは答えなかった。


 サリュは怒らなかった。自分の容姿を見たのだから、相手の反応は当然だという諦念を持っている。サリュという言葉の意味を知る彼女に訊ねてみたいことはあったが、声を掛けられる雰囲気ではなかった。不機嫌な気配を漂わせて揺れる部族の少女について、左右に揺れる馬の尻尾を眺めながらサリュは歩いた。


 黙々と歩き続けるうちに、靄はさらに濃さを増すようだった。溶けるような乳白色を生み出すものが目的の場所にあることを悟り、サリュはもう一度、指笛を連続して吹かせた。

 やがて、馬が歩を止めた。一見するとそれまでと変わらない、靄に包まれた平原の一角にしか思えず、目を凝らしても窺えない。足を伸ばし、その一歩の足先に透明な揺れがあることにサリュは驚いた。いつの間にか、水場の縁が目の前にあった。


 鞍から降りたユルヴが、乗り馬を導いて水を飲ませている。優しげに手漉きをする彼女にサリュは訊ねた。

「ここはいつもこうなのですか?」

「……靄は珍しくない。これほど濃く出るのは珍しいが」

 ユルヴは言った。

「雨の後ならともかく。恐らく、ここの水の湧き方のせいもあるだろう」

 水場に手を差し入れ、そのことをサリュも確認した。


 霧や靄といった現象は、昼夜の急激な温度差が原因だと考えられている。早朝は冷え込むような砂漠の外気にあって、そこに湧く水源には暖かさがあった。

 砂地下に発生する水源とそこを行く水流の仕組みについては多くの推測が立てられているが、その実態についてはまったくわかっていない。どこを流れ、その途中でどうやって暖められてきたものであるのか、遠大な思索にふけりながら手ですくい、一口する。透明な甘さが広がった。

 持ってきた二つの水袋を開き、水を詰める。手持ちのものしか持ってこなかったので、部族達の集落を出てからもう一度寄ることにはなるだろう。ふと顔を上げ、少し強まった日の光が白く薄まった光景をにじんでたゆらわせる光景にサリュは見とれた。クアルの様子を見ることはできなかったが、目の前のこれだけで無駄足ではなかったと考える。


 日の光が靄を晴らし、さらに風が吹いた。

 それまで隠されていた一望がサリュの目の前に現れた。水島としては充分な広さを持った水場だった。場は水源に特有の静けさに満ち、遠く向こう岸で何頭かのカウディが水を飲んでいる。


 水場で争う動物はいない。人間以外には。


 陽光が水面にきらめき、それが赤色と黄金色のどちらにも思えて、サリュは顔を背けた。自分を見据えるユルヴに頷く。

「ありがとう」

 それから集落に戻る道中では、互いに一言も口を開かなかった。

 帰り着いた頃にはすっかり靄も晴れ、空も明るさに満ちている。あちこちの円幕から炊事の煙が立ち昇っていた。

 黙ったまま去っていこうとする背中に改めて礼を述べ、無視して離れていく彼女を見送ってから、サリュは自らの寝泊りした円幕に戻った。中ではメッチが険しい表情で頭を抱えている。


「おはよう」

「……おはよ。えらく元気そうだなぁ」

 サリュは肩をすくめる。昨晩、いくらか酒を飲んではいたが、今まで彼女は酔ったという経験がない。酔わない上に味も好きではないから、わざわざ好んで飲みたくもないだけだった。

「ちぇ。下戸だなんて嘘じゃないか。一人で頑張ったのが馬鹿みたいだ」

「聞いた話をちゃんと覚えてるの?」

「覚えてるさ。失礼な」

 むっとして、気まずげに付け足す。

「……半分くらいならな」

 サリュは首を振って男への返答に代えた。


 あきらかに酒が残っている相手に、手に持った彼の水袋を渡す。メッチが怪訝そうに見上げた。

「水場から汲んできたばかりだから、少しは気分にいいわ」

「あぁ、そいつはありがたいや」

 喉からこぼしながら水袋を呷るメッチから目を外し、サリュは部屋の雰囲気が出る前と異なるのに気づいた。

「――誰か来た?」

「――ああ」

 水袋を放して、メッチが頷いた。しかめ面には気分の悪さ以外の理由が覗いており、嫌な予感を覚えながらサリュは続きの言葉を待った。

「族長がな。ちょっと頼まれごとをしたいんだってさ」


 部族の長がわざわざ客の円幕を訪れてする話など、面倒以外には思えない。一瞬で翳ったサリュの表情を読んで、苦々しくメッチは笑った。

「ま、多分あんたの想像してるのと違わないと思うぜ。俺はこんなざまだし、あんたはいないし。俺一人で返事できるもんじゃないから、とりあえず後で改めて話を聞くってことになって。朝食にお呼ばれされたよ」

 サリュはため息をついた。肩をすくめたメッチが両手を仰ぎ、伸びを打つ。

「まあ、とりあえずあんたも話を聞いてみてくれよ。俺から、あんたにこうしたいなんて――命令できる立場じゃあさ。ないんだし」

 男の言葉は理屈にあっているが、しかし彼の師匠が探し人の手がかりを持っているかもしれない以上、最終的にはその意見を尊重せざるを得ない。もちろんそのことをメッチも理解しているのだろう。まず族長の話を聞いて欲しいというのは悪意ではなく、商人のせめてもの誠意だとサリュは捉えた。


 災いを招く、死の砂の魔女。

 あの少女は族長の話を知っていたのだろうか。先ほどのものは知った上での発言か、それを認めたくないからこそか。水場への同行を申し出た彼女の意図や、昨日からの言動の数々にまで思考を巡らし、結局は話を聞かなければ何もわからないと諦めた。

 わからないが、面倒事に巻き込まれようとしていることは確かだった。イスム・クを出てから人を避け、一月ぶりに近づいた途端にこれだ。人の世の煩わしさに、今はいない砂虎との穏やかで孤独な旅を思い出し、苦笑う。人より砂虎といる方が好ましいというのであれば、そのうち本当に自分は獣になってしまうのではないか。


 もし自分が言葉を失って、いつか彼と再会したら。あの人はどう反応するだろう。哀れむか。蔑むか、怒るだろうか。それとも悲しんでくれるだろうか。

 ――それを楽しみにするのもいいかもしれない。

 澄んで濁った男の瞳を思い出しながら、彼女は胸の中で呟いた。



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