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男の放り出した荷を取りに戻ると、仲間を猛獣に殺された野盗達は一目散に逃げ出しており、手付かずのままコブつき馬が暇そうに立ち尽くしていた。砂虎を連れて近づくと、さすがに暴れだす。
サリュの連れるコブつき馬は慣れか、生来のふてぶてしさなのか、日頃から怯えた反応をまるで見せないが、砂虎とは本来そういった生き物である。彼女はクアルの喉を撫で上げ、そのまま誘導するように崖上へと腕を伸ばした。心得た砂虎が別れを惜しむように頭を擦り、それから新参の連れ者に威嚇の唸り声を発して駆け出す。重さを感じられない軽快な足取りで崖を上る姿に、気が抜けた声で男が言った。
「大したもんだなぁ」
歩き出したサリュの隣に馬車をつけて、声を掛ける。
「なあ、こっちに乗ったらどうだい。あんたの馬も繋げてさ、二頭曳きにすればいい」
簡単に男は言うが、多頭曳きには馬同士の相性もあるし、片方にだけ負担がかからないようにするのにも訓練がいる。乗り手の技量も同じだった。そうした面倒もあるし、そもそもがこの相手を信用したわけではなかった。サリュは冷たい声音で告げた。
「同行はリスールまで。それ以上は聞かないわ」
「わかってますって」
リスールはこの先にある比較的大きめのオアシスで、航路の途中にある水場によくある例に漏れず、人と物が集まって村のような集合体を作っている。男との交渉で、そこまでの護衛を彼女は引き受けていた。
「そうツンケンすんなよな。なら、荷物だけでも後ろに載せなよ。あんたのとこの馬も、その方が喜ぶだろうぜ」
彼女は応えない。控えめに異議を唱えるよう、彼女のコブつき馬が息を吐いた。
「つれないなあ。旅は道連れって言うだろ」
「そんなことより、野営先の場所を教えて」
リスールは今日中に着く距離にはない。どこかで野営する必要があったが、このあたりを通るのは初めてであるサリュはその検討を男に任せていた。それが男の護衛を引き受けた理由の一つでもある。
まだ日は落ち始めたばかりだが、場所によっては急ぐ必要もある。こういった地形では闇に落ちてからの移動はよほどのことがない限り控えるべきだった。空の色が変わるまでに、着いておきたい。
「はいはい。とりあえず、ここを抜けてからだけどな。陽落ちの方角に向かったらステップに出るんだ。その辺りを遊牧してる部族がいる」
部族とは文字通り、家族を中心とした社会体系のことを指す。移動を前提としたこの世界で安定した水場を持たない、あるいは持とうとせずに生活する人々のことを特にそう言うことが多かった。一家族のみで形成される場合もあるが、多くは親戚や近縁の者達で集まっており、移動する小さな村ほどの規模になることもある。
彼らはそれぞれ自分達の縄張りを持ち、不安定な水場を移動しながら生活している。自衛の為の武力を併せ持つことから、人為的な意味での治水権を持つ領主の存在とは異なる意味で、その土地の有力者と言えた。
「元は東から流れてきたっていう、おっかない部族でね。野盗連中も近寄ろうとしないんだけど、うちの商会と関わりがあって。安心できると思うぜ」
大商会故の人脈。地元で商うからこその広い交友関係は、人との関わりを極力避けながら旅をする身分には望めないものだった。
部族という存在にも苦手な印象が強い。彼女は人が多く選ぶ道を外れて砂を渡ることが多いが、その途中で偶然に出会った部族の人々からは決まって警戒を持たれた。人が通らないような場所にいるのだから、それも当然のことと理解はしている。だが、以前には弓矢まで射掛けられた経験もあったから、男の言葉を聞いて身構えてしまう。
「大丈夫だよ。俺だって何度か顔出してるし。証書だってあるから、ひっ捕まったりしねえよ」
気安く請け負う男をちらりと見ながら、サリュはいぶかしんだ。先ほどから、黙っているのにこちらの言いたいことをあてられることが続いている。顔どころか目も出していないのにどうやって探っているのか。それとも自分の気配はそれほど正直なのだろうか。交渉事や駆け引きに弱いということは、つい先日、身に沁みて知ったばかりだったが。
「それで、あんたの名前はなんてんだ? 自己紹介はさっきしたよな、俺はメッチ。商人の端くれさ」
「……サリュ」
「へえ。いい名前だな」
注意深く様子を窺ったが、メッチという商人はその呼び名を聞いても特に反応を示さなかった。気安い態度で続ける。
「で、護衛もしないでこんなとこを――ああ、待ってくれ。悪ィ、聞かないって話だったな。じゃあ、あれだ。そっちから聞きたいことは? それがあんたの報酬だろ」
サリュが商人と交わした契約ではそうなっている。それとは別に積荷の売り上げの幾らかという算段になっていたが、そちらについてはあまり関心がなかった。もともと人が多い場所に寄り付かない彼女にとって、通貨やその類には興味がない。報酬も、塩と食料でもらうことになっていた。
その代わり、護衛業を受ける場合には必須とされる前払いには、情報を求めた。決して安い報酬とはいえない。砂海を渡るうえで鮮度の高い情報は塩や水と同じく貴重だった。黄金の在り処という名の小さな集落を逃げるように出てから、彼女は極力人との関わりを避けてきている。今いる航路も、往路に使った道とは異なるから、この地域に根を張った商人から周辺の話を聞けるというのは悪い話ではなかった。
だからこそ彼女も男の護衛を引き受けたのだった。個人的な感情はこの際関係ない。それでも声に不快な名残が表れてしまう程度には、彼女は幼かった。
「――この辺りを回っているって言ったわよね」
「ああ。師匠から交易路の一つをゆずってもらってね。まだぺーぺーだけどな」
「その部族との交易路を、ゆずってもらったの?」
相手にもよるが、下手をすれば村ほどにもなる彼らとの商売は極めて大規模な取引口になる。それを新米の行商人に任せるというのは、あまりある話と思えなかった。
まさか、と男は笑った。
「俺の師匠がね、まあずっと行商一筋の人だったんだけど、そろそろ腰もやばいってんで、商会から話をつけてもらって、奥さんもらって町にひっこむことになって。それで交易路をそれぞれ分けようって話になったのさ。俺がもらえたのはそのほんの一株。部族との商権なんてもちろん商会のお偉方が持っていっちまったよ」
行商人はそれぞれ自分の縄張りとなる行商路を持ち、そこを定期的に回って商いをすることが多い。
「あなたの商路は、この近く?」
訊ねると、メッチは微妙な表情を浮かべた。
「いや。近くっちゃあ近くだけど。……まあ、こんなとこを自分だけ行商で通るヤツはいないだろ」
それはわかる。砂の流れで切り立った峡谷となったこの一帯は、航路としてはわかりやすくても、治安の悪さから避けられる類のものだ。ここを通るためには獣や野盗の襲撃への充分な配慮が必要となる。ある意味では、商隊を組み、護衛を雇える身分だけの独占路と言えた。
「どうして一人で通ろうとしたの」
「抜け駆けってやつさ。俺みたいな下っ端が儲けを出す為には、それなりに無茶もいるからな」
「どこかに急いでいるの?」
「――あんた、どっから来たんだ? 話を知らないのか? 最近、枯れた東側で新しい水源が見つかったって話」
無言で彼女は首を振った。自然な態度を装えたと思うが、自信はない。ちらりと目線を投げてから、なんだ、とメッチが息を吐いた。
「もしかしたらタニルから来たと思ったのに。まあ、そうなんだよ。タニルとトマスの間に、見つかったらしいんだ。水源が。どういうことかわかるだろ?」
緩められた防砂衣から覗いた瞳が輝いている。
「……商売のチャンス」
「そう!」
子どものような表情でメッチは大きく頷いた。
「どこもかしこも水源が枯れちまってさ、トマスとタニルはずっと南周りの水路しか航路がなかったんだ。そこに砂漠を横断しての航路が出来てみなよ。このあたりの商売はがらりと変わるぜ」
それだけじゃない、と熱っぽい口調で続ける。
「水源が一個見つかったってことは、それ以外にもまだ沸いてる水場があるかもってことだろ。東じゃあ航路がすたれて集落が潰れていって、今じゃほとんど人がいなくなってたけど、これからは噂を聞いてどんどん人が戻ってくるはずさ。もし本当なら、もう、とんでもないって!」
人は水なしに生きることができない。移動式の住居で遊牧する部族達にも、当然拠点となる水場が必要となるから、どうあっても生態圏は水の行き届く範囲内に収まってしまう。
だからこそ、新しい水場が見つかるというのは可能性の固まりだった。新しい航路。新しい人々の集まり。そこには当然、商売の機会も多く生まれる。手付かずの航路とは商人にとってまさに宝の山なのだった。
商人ではないサリュにも、その興奮のいくらかは理解できる。だが、内心では冷えた心地が乾いた風を吹かせていた。
「だから俺、一刻も早くその新しい水源のあるとこに行きたいんだよ。大商連中が来る前なら、銀貨どころか、金貨になりそうなお話にだってありつけるかもしれない」
「そう」
熱のない相槌に、男が怪訝そうな視線を向けてくるのを感じながら、彼女は脳裏に思い出していた。金貨。金、――黄金。その色に包まれた集落と、そこに生きる人々。憎しみを込めてこちらを見る双眸。黄金の業とその意思。あの男は、そう言っただろうか。
息が漏れた。
あの集落を出て一月近くになるが、そこで体験した出来事は強く彼女の中に残っている。あるいはこの先ずっと夕日を見る度に思い出すことになるかもしれない、それを悔やみはしなくとも、やるせなさはあった。
気分が沈む。訊くべき質問はまだほとんど出来ていなかったが、今は口を開くことも億劫に感じてしまっていた。
なにやら話し続けている男の言葉を適当に聞き流し、サリュは黙したまま足を進めた。
峡崖を抜けた先には、岩地の砂漠が青空の下に広がっていた。
ひび割れた地面のあちこちにはまだ短草の名残が見える。日陰にはまだ薄茶色の枯れ草が揺れているのが、最近まで水が近かった証だった。
ステップと呼ばれる短草地帯にそうした岩肌を覗かせる場所が多いのは、植物の自生には砂より高い保水性が求められるからだった。あとは水源に恵まれるかどうかであり、そればかりは自然の差配頼みになる。雨季という極めて限られた期間に訪れる恵まれた気候以外、最も一般的な水源、水島と呼ばれる不定期の湧き場の近くでは、比較的安定した場所でも乾土と草原の風景が繰り返されるのが常だった。
とはいえ、砂海ではまだ生きるに易い場所であることには変わりない。穏やかな砂の流れにあって、こうした地形を拠点に遊牧して生活するのが部族と呼ばれる人々だった。
やや低い位置を緩い上下で連綿と繋がる砂と黄土の光景を視界に、ふと小石の欠片の落下を感じて振り返れば崖上からクアルが降りてきている。つかず離れずの距離を保ってくれていた頼もしい護衛の労をねぎらいながら、彼女は天頂から落ちかけた太陽の方角を眺めた。きつい日射の向こうには特別な何かは見えない。視界の限り、人の営みはなかった。
日没まであと二刻といったところだった。遊牧部族の居住は今ある水場によって大きくその場所を変えているだろうから、今日中に合流できるかどうか。最も、この辺りが部族の勢力下というなら野盗の類も活動には慎重になるはずだった。最悪の場合は野宿することになる。
「まあ、あっちの方で見つけてくれると思うけどな。この時期はそう遠くに家を張っちゃあないはずだ」
言いながら、メッチは狭い傾斜を慎重に手綱を操っている。彼の馬車の後輪が外れないよう注意しつつ、サリュもその後に続いた。
しばらくは段差のある岩土が続き、一見すれば馬車で通るのにも苦労しそうだったが、遠目には先に行くのが難しそうなところにも、いざ近づくと通れる幅が確保されてある。景観に溶け込み、自然のままに整備された道を行くと、やがて平ら続きの地面に変化した。
踏みしめる感触も異なる。柔らかい、重さのある砂。枯れた短草群が黄土色から顔を出していた。
崖と平地では得られる爽快感もまた違うのだろう。隣のクアルがいかにも駆け出したがって彼女を見たが、サリュはクアルを手元に留めておいた。見晴らしのよい大地で砂虎が不意を突かれることなどまずないだろうが、狩りに秀でた人間、しかも集団が相手となれば単独行動させることに不安があった。
しかし、同行させておくことにも問題はある。ちらりと遠慮がちに、メッチが窺うような視線をつくった。
「あのさ。そいつ、なんとかならない?」
これから部族達に会うのに、砂海の猛獣が一緒にいてはまずい。それでもクアルを遠くに行かせようとしないのは、心細さがあるからかもしれなかった。
毛むくじゃらの頃からつきあいのある砂虎は、彼女にとって家族に等しい。先日、一時の旅の供を手に入れ、それを喪ってからはさらに彼のありがたさを痛感するようになっていた。
「これから会う連中、気の悪い連中じゃないけど。けっこう荒っぽいんだよ。あんたらのことをどうってんじゃないけど、穏便にすますためにはさ。ちょっとまずいかなって」
あくまで提案としての言葉だったが、道理が向こうにあるのは明らかだった。防砂具の中で息を吐き、サリュは身を屈めて傍らの砂虎を抱きしめた。耳元を数回なぞり、それから喉を撫でる。腕で後方に押し上げるように身を離すと、頭を擦り寄らせ、クアルは背後へと駆け去っていった。ほとんど人同士が別れを惜しむ行為に似たそれに感心したように、馬車の上からメッチが言う。
「ほんと、大したもんだね」
砂虎の姿は地形の色にまぎれ、すぐに見えなくなった。それを確認してから、サリュは徒歩を再開する。
「なあ、どうやったらあんな風に躾られるんだい。砂虎なんてさ」
気安さは旅慣れの有無ではなく、ただ性格らしかった。幼い言動が前に立ち寄った集落の少年を思い出させて、それでまた気分が落ちるのを自覚した。
「何かコツでもあるのかい? 人間の言うことを聞く砂虎なんて聞いたこともないぜ。なあ、あんたさえその気ならさ、あれで上手く金を稼ぐことだって――」
「それ以上言ったら、護衛の話は断るわ」
剣呑な声で彼女は男の言葉を遮った。
家族も同然の相手のことを言われればそれだけで不快だったが、それ以上に男の最後の言葉が彼女を苛立たせた。――金を稼ぐ。商人という人種は、好きになれない。
「……悪かったよ。なんだい、短気なヤツだなぁ」
彼女がとりあわないことがわかると、メッチはしばらく黙っていたが、すぐにまた口を開いた。反応がないことも気にせず語りだす。自分が商人になろうとした理由。師事した商人との出会い。愚痴。そんなものを延々と聞かされ、そのほとんどを右から左に聞き流していると、ふと見知った単語を聞いた。
「タニルの、食堂?」
「なんだ。行ったことはあるんだな。中央にある大きな食堂だよ。行ったかい? 可愛い子、いただろ? 若い、茶色の髪の、看板娘のさ」
恐らく彼が言っているのだろう、その人物のことは覚えていた。気配りの利く、頭のよい女性だった。
「顔見知りでさ。つっても、前に師匠に連れられていった時に一回、話したことがあるってだけなんだけど。その時に意気投合したんだよ。タニルまで行こうと思ってるから、久々に会えたらいいなあ。なあ。彼女、元気だったかい?」
食堂勤めなら、客と話をあわせるのも仕事のうちだろう。そうは思ったが、わざわざ伝えるようなことでもなかった。首肯すると、嬉しそうにメッチは笑った。
「そっか。よかった」
広大な砂海で、共通の知人を持つというのは不思議な気分だった。元々、可能な限り人と関わろうとしないせいというのもある。如何に砂漠が広くとも、そこを通る航路と集まる場所は決まりがあるのだから、理屈としては決しておかしい話ではないのだろうが。
あるいはという期待が胸をかすめ、サリュは訊ねた。
「リトという人を、知らない?」
「リト? それって――」
予想外の反応に、むしろ彼女の方が驚き、しかしそれに言葉を重ねる前に気づいた。
視界の端に動く影があった。砂虎ではない。もっと体高のある、それが馬に乗った人であることを悟り、素早く周囲を見渡す。人影は一人だった。クアルは、近くにはいない。彼女の様子に気づいたメッチもそちらを振り向き、その人影に向かって手を上げた。
「ああ、部族のヤツだな。――おーいっ」
点のような遠くから近づいてきたのは、一目見て馬格の良さがわかる月毛の駿馬と、それに似た薄い色の防砂具を纏った乗り手だった。サリュに劣らぬほど念入りに巻かれた頭巾からわずかに窺える眼差しで、相手が女性であることがわかる。纏った布防具のあちこちには装飾の類が飾られていた。
「何者だ」
鷹のように鋭い目が二人を見据えた。