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砂の星、響く声  作者: 理祭
 一章 海を渡る
30/107

 切り立った崖の狭間に伸びる細い道を駆ける一人の男がいる。

 一般的な防砂具に身を包んだ男だった。頭部から足の先まで幾重に布を巻いたような格好は、砂の侵食を防ぐとともに夜間の防寒の為でもある。当然、通気性は悪くなるので昼間は意図的に緩めて着崩すこともあるが、その男がほとんどはだけるように外套をなびかせているのは、そうした理由からではなかった。


 男は追われていた。その背後に迫るのは馬に跨った複数名の姿で、一見して野盗の類とわかる輩だった。

 広大な砂海の中で人が通る場所は限られる。それがすなわち航路と呼ばれる存在で、当然それを狙って悪事を働く連中も集まってくることになる。特に、砂海の漂流物が流れ着いて険しい地形と化すような場所ほど物騒になった。見通しの悪さが、不意の襲撃を受けやすくするからであった。


 男もそうした襲撃を受けた被害者の一人だった。懸命に手足を交互に振りながら、悪罵を向ける。怒りの矛先は航路に出る前に雇った護衛に向けられていたが、遠く背後の砂の上で喉を切り裂かれて死んだ当の護衛人には恐らく異なる主張があるだろう。この道を通るのは止めた方がいいという忠告を聞かずに断行したのは雇い主の男本人だった。

 こんなことなら、どこか大商人の商隊が通るのを待って、その尻尾にくっついていけばよかった――隊列を組み、多くの護衛に周囲を見張らせる彼らを襲おうとする盗賊はまずいない。後悔の想いは、いまさらのことではある。危険を踏まえた上で、男は行動したはずだった。


 しかし、砂海の商いに身をやつす者として、危険はむしろ当然のことでもあった。男は一介の行商人であり、そんな彼が儲けを出すために周りと同じことをしていては埒があかない。大商人の後ろにくっついていては、飲み干された水場しか残されないというのは常識だった。

 故に、誰もが多からず少なからず、賭けに出る。それに打ち勝ったものが巨万の富を得て、外れをひいたものは躯となって砂漠に骨をさらす。砂海の商人とはつまりそうした存在である。


 男はその賭けに負けたのだった。だからといって、すぐ傍に訪れようとしている死を淡々と受け止められるものではない。

「誰か――」

 息が切れ、言葉はほとんど飛ばないうちに掻き消えた。それでも足を止めるわけにはいかない。野盗達はまだ追いついてきていない。追いつこうとしていないのだった。肉食の猛獣が故意に獲物を追い立てる稚気を見せていたぶるように、野盗は逃げ惑う男の姿を嘲笑っていた。


 かまうものか、と男は思う。如何に見苦しかろうが、命はたった一つなのだ。一秒でも長く生きれば、生き残る機会が訪れる可能性はある。命乞いだろうが泣き落としだろうが、使えるものはなんでも使ってみせるのは商人という生き物でもあった。

 少しでも足を進めれば、どこかの商隊に追いつけるかもしれない。こうしているあいだに強い砂が吹いて逃げ切れるかもしれない。その為にも、今は少しでも無様に逃げ惑い、野盗達が飽きないように努力するべきだと考えていた。必死な芝居を打ちながら、男は逃げた。

 男は特別な信仰を持たない。商いこそが彼の宗教だった。今、この場で命を助けてくれるのならいくらでも宗旨替えをするつもりでいたが、もちろんそのような不信心に応える神はなかった。


 男に応えたのはもっと別なものだった。


 遠吠えが響いた。


 この世に存在する全ての不吉さを含めた咆哮に、男は思わず足を止めた。あわてて周囲を見回す。馬に乗った野盗達も同じように、警戒した表情で周囲に気を配っている。

 彼らの態度は当然のものだった。先ほど響いたのはそれだけの意味を持つ凶兆である。

 砂虎。砂海に生きる生態系の頂点に位置するその獣は、砂を渡る人間にとっても災厄でしかなかった。成長すれば一丈にも届く巨体に似合わぬ俊敏性を併せ持ち、獲物によっては徒党を組んで襲う程度の知恵も持っている。大商隊といえども油断のならない、交渉の余地がないことを考えれば野盗などよりも遥かに性質の悪いのがその生物だった。


 その恐るべき砂海の猛獣の雄たけびが、高らかに鳴った。こうなれば人間同士の諍いどころではない。行商人の男と野盗達は、ともに周囲に警戒し、その姿を探った。

「上だ!」

 野盗の一人が悲鳴とともに指差す。顔を上げた崖に男はその姿を目撃した。

 黄色と砂の毛皮に包まれた大柄な肢体。堂々と下界を見下ろす様は、この場における彼我の優劣さをそのまま示していた。砂海の王者と呼ぶのにふさわしい風采。砂虎の遠い眼差しが自分を見据えているように思え、男はいつのまにか口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。

 まさか砂虎にでくわすとは。どうする。この隙に逃げ出すか。いやしかし、砂虎がこちらに掛かってきては困る。いざという時に盾にする為にも、今は野盗達の側を離れないでおくべきだ――そんなことを考える男の耳に、野盗同士のやり取りが届く。


「こいつをぶっ殺して逃げれば、そっちをあさるんじゃねえか?」

「……馬の方が狙われるかもしれんが、釣ってみる価値はあるな」

「ちょ、ちょっとまった!」

 慌てて男は彼らの会話に口を挟んだ。

「あいつら、他にもまだ群れてるかもしれない。俺を殺すなら、それを見定めてからでもいいんじゃないか?」

 群れで住む動物ではないのに、狩りでは複数匹が示し合わせたかのように連携をとることもある狡猾な砂虎であるから、男のその場しのぎの弁解にも説得力はあった。考え込むように視線を交わしあう野盗達に、男はさらに語った。

「奴らは頭がいい。自分達が不利な狩りは決してしないはずだ。頭数は揃えておいて間違いない」

「ふん。まあそうだな」

 頭役の野盗が頷いた。

「ならせいぜい、仲良く谷を抜けるとしようか。ただし、商人。先頭はてめえだ」


 いざという時に生け贄にしようという魂胆だが、男に不満はなかった。前はともかく、左右と後ろについて野盗達が目を光らせてくれることになるのだと考えることにする。

 前に砂虎、後ろに野盗。ひとまず自分が打ち捨ててきた積荷へと戻る道すがら、依然、進退窮まる状況に違いはない。愛想よく薄ら笑いを浮かべて集団の先頭に立ち、なんとか両者を食い合わせる策はと考えを巡らし、ふと気づいた。

 崖の上の砂虎が姿を消している。かわりに、前方に誰かが立っていた。

 旅の人間だろうか。小柄な体躯を防砂具で念入りに覆っている。商人には見えないのは、こぶつき馬を連れてはいても荷車を曳いていないからだった。護衛の人間と考えるのが妥当ではあるが、それなら一人、馬といる理由がわからない。

 しかし、そうした考え事はこの際どうでもよかった。男にとっては紛れもなく、その存在は救いの手になりえる。その人物の近くに商隊があるにせよ、ないにせよ。

 男は大声をあげた。

「そこの人、危ないぞ! 助けてくれっ」

 後半の言葉には、二重の意味が込められている。



 ――彼じゃない。


 遠目にしただけで判別がつき、目深に被った大外套の下でサリュは嘆息した。

 とはいえ、落胆はない。彼女は人探しの旅の途中であり、誰かが襲われている悲鳴を連れが聞きつけ様子を見に来たのだが、そんな情けない声をあの人物が出したところは見たことがなかったし、そうする姿も想像できない。それでも万が一にと、確認に来ただけのことだった。


 視界には四人の男達の姿があった。馬に乗った三人は野盗の類だろう。その男達に突っつかれるようにしているもう一人が、悲鳴の主らしい。商人、あるいは逃げ出した護衛崩れかもしれない。

 かかった声に応えず、身を翻して彼女は歩き出した。あわてた様子で声が追いかけてくる。

「お、おい。ちょっと待て! さっき聞こえなかったのかっ、近くに砂虎がいるんだって!」

 もちろん、聞こえたし、知ってもいる。だからといって恐れる道理がないことまで答える義理もなかった。そのまま歩を進めてると、背後に近づいてくる気配を感じた。


「おい、あんたっ。聞こえないのかよっ」

 まあ、そうだろう。野盗に襲われ、今にも殺されようとしているのが相手の立場なら、通りがかった人間をそのまま見過ごすようなことをするはずがない。彼女はちらりと隣のこぶつき馬を見た。どうしようか、と目線で訊ねてみるが、相手はいつものように達観した眼差しで遠くを眺めて答えない。砂虎とは違った意味で澄んだその瞳を見ながら、彼女は息を吐いた。仕方ない。足を止め、振り返る。


 砂漠に水場を見つけた表情で、男が近づいてくる。その後ろをゆっくりと馬を進ませてくる野盗の姿をちらりと眺め、彼女は低くかすれた声音で言った。

「なにか」

 そっけない言葉に、男がきょとんと瞬きする。はだけた防砂具から見える素顔が一瞬、若く見えた。髭がないせいかもしれないが、自分とさほど変わらないかもしれない。

「え。ああ、いや、砂虎だよ。聞こえたろ? 一人でいちゃあ、危ないって」

 砂虎が危ないから、野盗と一緒にいろと言う。少なくとも彼女にとっては、前者より後者と共にあるほうがよほど面倒だった。

 醒めた瞳を大外套の奥に隠し、サリュは言った。

「商人ですか」

「ああ。あんたも? それとも商隊の人かい」

 期待にうわずった声を無視して、彼女は周囲を取り囲むような野盗達へ視線を移した。


「早く積荷を取りにいった方がいいですよ」

 三人の中で、恐らくまとめ役だろう髭面の男に告げると、男は精悍な顔つきを歪めた。頬についた刀傷が笑う。

「なんだと?」

「さきほど通りかかってきました。まだ砂群にはあさられていませんでしたが、いつ彼らがやってくるかわかりませんし、それに。すぐに大勢がやってきます」

 探るような視線が彼女を見た。

 砂群とは砂海に生きるコボイと呼ばれる生物である。群れを成し、集団で襲い、強者には立ち向かわない。狡猾さの点で、砂虎とは違った意味で砂を渡る人間にとってはやっかいな連中だった。彼らは浅ましく、執念深い。食べ物ではないとわかった後の積荷まであさられることもあった。打ち殺して捌いた腹の中から、未消化の異物が取り出されたという話もある。


 もちろん、野盗達をより警戒させたのはその砂海に生きる獣のことではなかった。

 男は油断のない眼差しで彼女の身なりを確かめている。手慣れた旅装に、こぶつき馬。それを曳く荷には最低限の物以外、商品になりそうなものは含まれていない。商人でも野盗でもない人間が、一人でこんなところにいるはずがない。彼女の狙い通り、慎重な野盗はそう判断を下したようだった。

 ふんと鼻を鳴らした男から、わずかに警戒の気配がそがれている。

「面倒ごとはごめんってか?」

「そこまでの仕事はもらっていません」

「なるほど。ガキのくせによくわかってるじゃねえか」

「お、おい、ちょっと待てよ。何を勝手に、人の積荷のことをさ」

 若い商人が言うが、それは野盗達の耳には届いていないようだった。彼女にしても、取り合うつもりはない。

「いいだろう。見たところ金目の物も持ってなさそうだし、それで手打ちにしてやる。ただし、後の連中に余計なことは言うなよ」

 黙ったままサリュが首肯するのを見て、男は満足げに頷いた。

「おい、行くぞ」

 不満そうな二人を連れて去っていく。


 話のわかる人間でよかった。男が自分のことを商隊の斥候だと信じたかどうかはわからないが、もしも本当にそうであった場合と、二人の人間に刃向かわれるリスクを考えたのだろう。損得を考えるのは何も商売人ばかりではない。砂に生きる者なら、自然と引くべきところを弁えている。

「おい」

 野盗達を見送りながら、怒りのまじった声に彼女はそちらを振り向いた。若い男が眉を逆立てている。

「なに勝手に人の荷物を交渉に使ってんだ」

 瞬き一つ分だけ思考して、彼女は答えた。

「命が助かったのだから、いいでしょう」

「いいわけあるか!」

 怒鳴り声に冷淡に告げる。

「なら、今から追いかけては? 私は止めません」


 そもそも、こちらを巻き込もうとしてきたのは男の方なのだ。命を救ってやったとまでは言わないが、それで怒鳴られる筋合いはないはずだった。サリュはこぶつき馬の手綱を曳いた。少し歩いてから、その前に男が立ちはだかったのに足を止める。

「……まだ何か」

 睨むようにした男が、ふと表情を和らげた。

「いや、悪かった。確かにあんたを引き込もうとしたのは俺だ。とりあえず命が助かったことに礼を言わせてくれよ」

 言いながら、そのまま道を空ける気配がない。

「――それで?」

「ああ。あんた、本当に護衛の人なのか。少なくとも、商人じゃないよな?」

 確信を持った眼差しだった。彼女が答えないうちに男は続ける。

「なら、商談だ。あんた、俺の護衛にならないか。今の倍、払うよ」

 何を言い出すかと思ったら、馬鹿なことを。大方、荷物を取り返した上での出来高払いでと言うつもりなのだろうが、そんな言葉にのる人間がいるはずがなかった。

「前払いの料金も支払えるようには見えませんが」

 護衛の仕事を請け負ったことならサリュにもある。そうした依頼では、成功報酬とは別に前払いが渡されることになっていた。

「ああ、そのとおり。だからそこは信用払いってことにしてもらいたい。俺はメッチという、クァガイ商会の人間だ。これが身書。サハンコユ様からのものだよ」

 焦っているのだろう。口早に言いながら、男が懐から羊皮紙を取り出した。


 それぞれの土地には治水権に基づいた領主がおり、多くの商人はどこかの組合に所属して商いを行う。その証となるのが商会を通じて発行される身書で、いわゆる身分証明だった。砂海で商売をするには信用が大事で、顔の知られていない場所ではそれだけがその支えとなるのだから、命や積荷と同じく、彼らにとっては最も大切なものの一つである。

 広げられた羊皮紙には、確かにメッチ、サハンコユという名前が見て取れた。ざっと見たところ、商売の許可を云々という文章に読める。細部までの自信はなかったが。

 クァガイという名前にも聞き覚えがあった。確かトマスから南場を中心に交易路を持つ大商会だったはず。それを信用に前払いを勘弁して欲しいということだが、もともとそんな依頼を受けるつもりもない上に、図々しい物言いだった。

「商会に顔を売れるぜ。この辺りで商売するなら、うちに顔が利くのはかなり便利だと思うけどな」

 恐らくそれが切り札だったのだろう。しかし、彼女は護衛業を生業としているわけではない。男の台詞は完全に的が外れていた。


 一方で、男の思惑を理解していないのは彼女も同様だった。男が口早に交渉を進めようとする理由を彼女は勘違いしていた。

 商売品を失くした男には同情するが、だからといって情けに流されるほどお人よしではない。今は特に、人と関わりたくない気分でもあった。強引に押し通ろうとして、彼女はふと男の様子が異なることに気づいた。笑っている。

「なあ。どうしても駄目かい」

 サリュが答えないでいると、これみよがしに男がため息をついた。

「そっか。ならしょうがない。……あんた、さっき命が助かっただけでもって言ってたろ。今後の勉強にさ、いいこと教えてやろうか」

 聞きたくもないが、不吉な予感があった。思わず足を止めた彼女へ、男は悪意ある笑顔で告げた。

「商人に取っちゃ、積荷が命より大事な時だってあるんだぜ。切羽詰ってたりなんかすると、特にさ」

 まさか、と思い、それを止める間もなかった。

「なんだよ! 商隊が通るなんて嘘なんじゃないか!」

 わざとらしすぎる大声に、視界の隅で野盗達が振り返った。



 立ち止まった野盗がこちらへと馬首を返す。舌打ちして、サリュは男へと詰め寄った。

「何を……」

「へへ。これであんたと俺は一心同体ってわけだ」

 ひきつった笑みで男が言った。絶句の後に怒りが湧き起こる。交渉が無理だと知れた途端、強引にでも巻き込ませる。たくましさといえば言葉はいいが、ただ身勝手な意地汚さだった。

 こんな男などうち捨てて逃げたいが、彼女が連れているのはこぶつき馬である。野盗達の馬と足で競って勝てるわけがない。背には荷も載っている。

「礼はするよ。一緒にさ、なんとか切り抜けようぜ」

 それ以上言葉を交わすのも嫌になり、サリュは男から顔を背けた。


 ゆったりとした足取りで近づいた髭面の男が、気だるげに馬上から彼女を見下ろした。

「商隊がどうしたって?」

 サリュは答えなかった。

 今更、どう言葉を繕ったところで意味はなかった。この愚かな商人がやった行為はただ言葉の信用を失わせただけでない。暗黙のうちに取り交わした契約を破ったのだから、今更どう弁解しようとしたところで不可能だった。隣の男を突き出すのは容易いが、それで話が収まるわけでもない。

 面倒な事情は野盗の男にとっても同じだろう。少なくとも、話を壊したのは野盗達ではない。非はこちらにあるのだから、彼女は申し訳なく思った。

「とりあえず、一緒に来てもらおうか。話は住み家で聞く」


 当然、そうなるだろう。

 サリュは天を仰いだ。心情を表した行為だったが、それだけではない。砂防具の下に指を入れ、思い切り息を吐く。甲高い指笛が響いた。

「……何の真似だ」

 その場の注目が集まり、男達は誰も崖上に現れた影に気づかなかった。音もなく飛び降りる。傾斜の厳しさをものともせず谷底に降り立ち、四肢を張った獣が一声吠えた。慌てて野盗達が後ろを振り返った時には、既に彼らの眼前に凶器が迫っている。


 一薙ぎとともに血飛沫が跳ねた。猛獣の接近に驚いた馬がいななき、乗り手を振り落とさん勢いで駆け出す。悲鳴がそれを追いかけた。追い落とされ、そのまま走るように逃げ出した後には、一撃で絶命した一人と、腰を抜かした様子の商人だけが残っていた。

 返り血に模様染めをした体躯を悠然と揺らし、若い砂虎が寄ってくる。

「ひ……!」

 情けない声をあげる男を無視して近づいてきたその喉元を撫でると、ごろごろと機嫌良さそうに喉を鳴らした。

「ありがとう。クアル」

 感謝しつつ、彼女の気分は優れなかった。砂海で命のやり取りが行われるのは日常のことではある。だが、これは避けられたはずのものだった。気分がいいはずがない。

 地面にへたりこんだ商人へ冷たい一瞥を向け、砂虎とこぶつき馬を連れて歩き出す。


「ま、待ってくれ!」

 声を無視するが、再び男が前に立ちはだかった。サリュは大外套の奥から険悪な声で言った。

「――いい加減にして」

 はっと男が表情を改める。

「女? あんた、女の人なのか」

「いい加減にしてというのが、聞こえなかったの?」

 彼女の剣幕を察知した砂虎が同調するように唸り声をあげる。男があわてて両手を投げ出した。

「待ってくれ、さっきはすまなかった。こっちも必死だったんだよ!」

「早く積荷を取りにいけばいいでしょう。これ以上、関わらせないで」

「いや、礼をするって言ったんだ。ちゃんと受け取ってもらわないと、商会の名前に傷がついちまう」


 まるで本気でそう思っているかのような真剣な表情に、彼女は呆れた。

 商人らしからぬ、あるいは信用を大事にする商人だからこその発言かもしれなかったが、同時に彼らがどんな時でも得を考える人種でもあるということは知っている。

「護衛の話ならお断りよ」

 見透かしたように言うと、若い商人は口元を引きつらせた。やはりそんなところか。

「まあ待ってくれ。話を聞いてからでも遅くはないぜ」

「話を聞いているうちに日が暮れるわ」

 砂虎の恐れではないが、夜が訪れる前に野営場所を探さなければならない。地面の安定ということではこのあたりは問題なかったが、だからこそ先ほどのような連中も多いはずだった。

 にやりと笑みを浮かべ、男が言った。

「だから言ってるのさ。このあたりは普段からよく回ってる。ここから一番近い野営どこだって判るし、穴場の類も知ってる。普通の奴が通らないようなところだってな」

 さりげない一言に、少なくとも表面上から得られた感触はないはずだった。頭巾つきの大外套を目深に被った彼女は男と目線すらあわせてはいない。それでも男は脈ありとばかりに笑みを強めた。

「何か理由ありなんだろ。情報を取り扱うのだって商人だ。手伝えることだってな、あると思うんだよ」

 得意げな口調を不愉快に思い、彼女は頷き一つすればすぐに相手を噛み殺しそうな姿勢でいるクアルの額に手を置いた。熱を帯びた体毛を撫でながら、空を見る。


 白い翳りのない蒼天には砂の濁りも少なく、ただ乾いた遠さだけが永永と続いていた。外套の隙間から二重の環を持つ瞳で仰ぎ、青色を取り込むようにしばらく空を見上げ、顎を引き戻す。

 緊張した面持ちでこちらを見る若い商人に、彼女は小さく頷いた。



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