プロローグ
その惑星において、砂は天を舞い、地を流れ、人を逐うものである。
地表を覆う黄土の群れは手に摘めば微細な一粒でしかないが、しかしそれこそがこの星に生きる全てのものの在り方を決定付けていた。
砂は命を生み出さない。
万物の生命の母が水であるということはこの時代においても既に知られていた。不定期に湧き、枯れる水源で、いったいどのような経緯をもって生命が発生したのか、それについて議論も多くなされている。それらの中で最も一般的に信じられていたのは、大水源と呼ばれる希少な水源の存在が深く関わっているという説である。
明日にも枯れるかもしれないという不安定な水源がほとんどを占める中、大水源とその下流にだけは安定した水が約束されている。現存する最も古い時代の記録にすでにその存在が確認されている通り、その水源の在り様が生物の繁栄を促した事実については疑いようがない。それらは基水源と呼ばれ、人類及びその他の動植物が生息するための地盤となった。
一方で、ただ基水源の存在だけでは生命の誕生について語ることはできないと唱える者もいた。彼らは、むしろ基水源とは「何かが起こった後に残されたもの」なのではないかと言う。真の意味で始祖と呼ぶべき生命が生まれたのはそれ以前、つまり今の世界の在り方とは違った環境が過去にはありえたのではないか。
彼らがその証拠として挙げるのが、流れる砂、砂海の果てに集まる漂流物の存在である。
流れがあるからには終わりがあり、一時的にせよそれらが溜まる場所もある。砂漠で果てた動物の死骸や枯れはてた植物の他に、岩層などの砂とは異なる地質の欠片が大小に渡って流れ着き、ぶつかりあい、盛り上がって他にはない奇観が様々な場所で現れる。そこには貴重な鉱物類も多く含まれていることもあり、また砂海の境として一目でわかるものでもあるため、航路として使われることとなったが、少なくともその流れ着く地質の存在は砂中にある砂以外の物質の証になった。
あるいは太古の昔には、この地表が砂に覆われていない時代もあったのではないか――学者達の想像は大いにかきたてられたが、その仮説を証明するまでの学論は未だない。逆に言えば、どれほど突飛なものもその全てを否定はできなかった。とはいえ、現時点で有力な学説として語られるのは、水陸で最も信仰される一宗教の観念が多く含まれるものになっている。
そうした学者達と異なる視点で日々を生きる者達には、また違う見解があった。
彼らにとって、生命の誕生やこの惑星の在り方になどなんら意味はなかった。彼らは遠い過去や遥か未来に生きているわけではなく、今この時を砂に吹かれて生きているからであった。
必要なのは事実ではなく真実であり、客観的なものではなく、主体的な経験と物語りが人々の世界を形作っている。その最も顕著な例が、宗教の東西を問わず似たような意味で語られる自然現象である。
死の砂と、それは呼ばれている。