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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 砂の呼び手
26/107

 不意に広い空間に出た。続けて発した自らの言葉で彼女はそれを確信した。

「ここは……」

 声がこもらず、浅く残響に木霊している。立ち止まったサリュの前を歩く男の足音が強い水気を帯びていた。

 光源が増えた。男が手持ちの灯りを分けたのではなく、壁際に何かを灯したらしい。男が壁に沿って歩く度に橙色の光が灯り、壁際に寄った彼女はそれが蝋燭の類だと気づいた。幾らとも知らず壁に配置されているそれらは、この場所に度々人が訪れてきていることの証でもあった。


 半円状の照明がその場を仄かに浮き上がらせた。

 無数につけられた灯りが闇を照らし、それでも行き届かない奥深さがかえってこの場所の広がりを示している。白さのある壁は純粋な色合いでないのか、蝋の灯りに様々な光となって表れていた。光はゆらめいている――風がある。

 音はない。奇妙な既視感をおぼえて、彼女はすぐに理解した。静謐な空気が、動物も争わないという砂海の水場の雰囲気と似ている。

 空間の中央には水が溜まっていた。巨大な水溜りのような、つまりここが。

「基の――水の、源」

「ま、ここの水場の源ではあるんだろうがな」

 灯りを手に戻ってきたケッセルトが言った。


「小難しい話は学者どもに任せるとして、どうやらこいつは本物だな。やれやれ、うちの近くにこんなものがあったとは――よくもまあ、今まで隠し通せてきたもんだ」

「砂が」

 サリュは呟いた。

「あ?」

「……砂がありません」

 洞窟には砂の気配がなかった。外にでれば轟々と響くあの唸り声もない。いったいいつからだろう。

「ああ。そういや、砂っぽくねえな。ここまでは入り込まんか」


 風はあるのに?

 どこかに繋がっているはずなのに。人の手が加わっていない場所で、こうまで砂から解放された空間があることが彼女には不思議だった。まるで、この洞窟が隔絶されているように思える。


「ふん。荒ぶる風の神も大地母の御許ではお行儀よくってとこだな」

「――この場所は。どこに繋がっているのでしょう」

「……さて。まあ、そのうち帝都から調べたがりどもがやってきて解明するだろ」

 確定した未来を語る男へ、サリュは鋭い視線を向けた。

「村の人達をどうするつもりです」

 問われた男は灯りに浮かび上がった口元を面白くもなさそうに歪めた。

「知らんよ。それを決めるのは俺じゃない」

 ぐるりと周囲を見回し、

「ようするに、ここは奴らの祭壇だろう? 自分達の水と信仰を持った、奴らは一個の“国”ってことだ。なら、従うか、滅びるか。それだけだろうよ」

 嘲笑うように男は言った。

「不思議なんだがな。そっちこそ、こんなところで何をしてる。死にたがりに利用され、用済みになった挙句、どうしてこんなところを彷徨っているんだ?」


 サリュは押し黙った。男の言うとおり、いまだに彼女は自分がここにいる意味を図れずにいた。

 村の住人については特別な思いはない。この村で彼女と関わりがあるのは二人で、そのうちの一人であるファラルドは恐らく――死にたがっている。セスクは? 彼らに対して、いったい何ができる。

「ここでお前さんの探し物が見つかるのか、それとも情にほだされただけか。砂海の旅はよほど人を乾かせるからな。毎晩、砂虎に慰めてもらうだけじゃ寂しくなったか?」

 男の言葉を無視し、彼女は見通せない底深さを誇るその空間に対峙した。

 黄暖色の灯りに照らされた水場。男が祭壇と表現した、確かにそれに似た厳かな雰囲気がそこにはあった。祝福の地。

「――アタリア」

「ああ?」

「ここの村の人達が呼んでいました。この場所のことを、アタリアの喜び。祝いの地と」

「火と水の豊穣か」

「……その神様は、このあたりで信じられているのですか?」


 ちらりと彼女を見下ろして、ケッセルトは答えた。

「水陸南方の古い土俗信仰だな。端に追いやられているが、融合化教策の煽りを受けた類だから、名前が知られているところは多いだろ。本流から遠ければ遠いほど、信仰が残っていても不思議じゃない。もともと、このあたりは土俗が強いからな」

 やはり男の知識には相当なものがあった。あるいは、彼女が短い期間を過ごした人物達に近い教育を受けてきているのかもしれない。サリュの疑問に応えるように、男は肩をすくめてみせた。

「これでも一応、貴族なんでな。火と水。太陽と誕生。転じて豊かさの象徴となるんだったか」

「つまり、善いものの」

「どちらかといえば、好ましいもの、か。どっちだっていいが。死の砂なんてものと対極にあるのは確かだな。死の砂が祝いの地とやらに吹いてどうなるかは――まあ、興味がなくはない」

「埋もれることはないと?」

「砂の恐ろしさくらい承知してるとも。だがな、あれが死の砂だとどうして断定できる。いったい何をもってお前はあれを死の砂だと?」

 からかうように男は言った。

「何か死の砂の秘密を知ってるのか。それとも、あれを呼んだのはお前なのか? そのおかしな瞳で。砂虎を手なずけた魔術が、砂をも従えると思い込んででもいるのか」

 サリュは答えず、振り返った先にいつのまにかファラルドの肩を抱いたセスクの姿があった。少年が何か言いかけて目線をそらし、抱えられた男が辛そうに口を開く。

「死の砂は……死を望む者の前に現れる。なら――あれは、そうだ。死の砂だ」

 は、とケッセルトが嘲笑した。

「たった一人の死にたがりに呼べるんなら、ずいぶんお手軽なこった」

 口調にわずかな怒気がこもっているように思えて見上げたサリュを、男は舌打ちを我慢する表情で見返した。

「くだらん。水源は確認できた。俺は戻る」

 言い捨てて歩き出す。唸りをあげるクアルにも動じず、去っていく男の姿を見やり、彼女はセスク達に告げた。

「……私達も、出ましょう」

 父親と息子は無言だったが、あえてこの場にとどまろうとはしなかった。先を行くケッセルトの灯りが先導する。先行する男は洞窟内を迷いなく歩き続け、やがてうっすらと外の光が視界に入り込んだ。


 洞窟を出たすぐのところで、ケッセルトが立ち止まっている。男の後ろに追いつき、サリュはその理由を知った。砂の中、青ざめた表情で立ち並ぶ村人達が周囲を取り囲んでいた。手に鍬や鋤、それぞれ農具をかまえている。

「いいね。実にいい」

 ケッセルトが言った。背中から聞こえる声は、さっきとは一転して機嫌よく響いている。

「それでこそだろ。砂に埋もれるくらいなら殺される。それが矜持ってヤツじゃないか。なあ?」

 吹きすさぶ砂に抗い、唐突に男が吠えた。


「――“気勢を示せ”!」


 突然のことに何事かと眉をひそめる前に、暴風が応えた。

 暴風のような、それは声だった。大勢の男達の地を揺らすような雄たけび。砂声を駆逐して轟いた集団の絶叫に、サリュは身のすくむ思いを味わった。


 姿はないが、それはケッセルトの率いた兵のものに違いなかった。声は集落全ての方角から聞こえた。取り囲んでいる。雄たけびはそのまま、集団の持つ暴力性を体現していた。砂海で出会った砂虎のそれと同様に。思わず恐怖に身震いしながら、サリュはおびえる村人達の間を悠然と通り抜けるケッセルトの後ろ姿を見送った。

 誰にともなく声が残る。

「一日待つ。それまでに決めろ。死ぬか、生きるかだ」



 男が去った後、集落には砂の吹く音だけが訪れた。

 唐突な勧告を突きつけられた村人達は茫然自失として、不条理な現実に対する怒りを誰かに叩きつけることもできずにいる。彼らが凶暴な集団性を思い出す前に、サリュはセスク達を連れて宿へと戻った。


 ファラルドの自室に入り、古びた木製の寝台に横たわらせる。傷の手当ての為にセスクに大量の水と清潔な布を準備させ、その間に彼女がファラルドの衣服を脱がせていった。

 砂が入り込むのを防ぐ目的で木窓を閉めており、室内でも部屋に明るさはない。あらためて見る男の身体には無数の傷が刻み込まれていた。打ち傷、切り傷は全身に広がり、拷問の真似事のつもりか、両手は指先が潰されている。職人にとってそれは、ほとんど死に等しいものであるはずだった。


 傷跡から熱を帯びたのか、ファラルドは意識を朦朧とさせていた。我が家に戻って気が休まった部分もあるのだろう。脂汗を浮かべて苦悶に浮かべた表情が、悪夢にうなされているように何事かを呟いた。

「――ヘシカ……」

 何かではなく、誰かへの声だった。


 セスクが戻り、彼から受け取った大量の布を湿らせて傷口を拭う。セスクにアルコールをとってきてもらい、消毒はそれですませた。濃度の高そうな香りのする酒精を傷に染み入らせても男はくぐもった声しかあげなかった。ずいぶん体力も落ちてしまっている。

 全身に処置をほどこし、清潔な布で覆った頃には、ファラルドは意識を失ってしまっていた。浅い呼吸が男の腹部を上下させている。熱と痛みはこれからさらに増すだろう。栄養を、とらなければならない。

 傍らで心配そうにしているセスクに向けて彼女は言った。

「食べるもの、作ってくるから」

「あ、それなら俺が――」

 椅子から立とうとするのを制止し、サリュは部屋を出た。厨房に向かいながら途中の廊下の窓で外の様子を窺ってみるが、村人達が取り囲んでいる気配はなかった。厩にはこぶつき馬とともにクアルが待機しているので、何かあれば遠吠えで報せてくれるはずだった。


 使い込まれた厨房で適当に材料をあさり、肉と野菜をふんだんに使ってスープを作る。弱火で具材が煮込まれるのを待つ間、セスク達の様子を見に部屋へ戻ると、男の寝息は少し落ち着いたものに推移したようだった。

「……何か、お父さんと話せた?」

 少年は無言で首を振った。その隣に腰をおろし、かける言葉を思いつけずにいると、ぽつりとセスクが言った。

「外のって。死の風なの?」

 顔の向きを動かさないまま訊ねるのに、サリュは返事のかわりに頷きで答える。

「……どうしてわかるの」

 一泊の間をおいて、彼女は言った。

「――声がするから」

 少年の振り向く気配を感じながら、

「聞こえるの。耳に、響く。そして風が吹く。……何故かは、私にもわからないけど。ずっとそうなの」


 外からの風が木窓を叩き、寝台横の机に置かれた灯りを揺らした。彼女の陰影のついた表情の中央で二重の環が輝いている。その怪しげな相貌に意識を吸い込まれたように、セスクは沈黙した。

「……声なら、俺も聞く」

 いつから意識があったのか、寝台のファラルドが擦れた声で囁いた。

「あいつの声が。いつもあいつは言っている……滅んでしまえ、と」

「――ヘシカ、という方ですか」

 ぴくりとセスクの肩が震える。

「……母ちゃん?」

 ファラルドは息子に答えなかった。儚く、千々に細切れた呼吸の後に声が漏れる。

「あいつは……怨んでいた。俺を、この村を。いつか自由になれることを夢見て、元の家族のもとに戻れることを期待して。それが叶わないとわかってからは、ずっと空ばかり見ていたよ。きっと――呼んでいたんだろう」


 椅子を蹴り上げたセスクが立ち上がった。

「そんなの当たり前じゃんか! 自分の家族を殺されて、無理やり身籠らされて! 怨んでたに、決まってる……!」

「……わかっているとも」

 男は穏やかな声で応じた。

「どれだけ砂が流れても許されはしない。あいつが癒されることもない。だが――変わっていけるんじゃないかと思った。村も俺も、あいつも」

 男の顔が痛み以外のもので濁る。

「そんなこと、できるはずがなかったんだがな。いつまでたってもここは止まったままで。そしてあいつは死んじまった」

「……だから。こんな村滅んでしまえって? そういうことかよ」

 非難に、ファラルドは苦笑するように口元を歪めた。

「お前もそう思っていたんだろう。だからここを出た。そうじゃないか?」


 重苦しく嘆息し、答えないセスクに男は続けた。

「それでいいんだ。外は広かったろう――こんな村とは何もかもが違ったはずだ。それでいい。なのにどうして戻ってきた。ここは滅ぶ。昔のまま、何も変わらずにな。黄金なぞ砂に埋もれればいい……お前までそれに引きずられることはない」

 叱りつけない声が、諭すように語りかけている。彼女がこの村を訪れてから初めて見る光景だったが、セスクにとっても慣れないものだったらしい。大きく頭を振って、叫んだ。

「勝手なこと、言うな!」

 部屋から飛び出していくセスクを追いかけようとして、寝台の男を振り返ったサリュは、体中に激痛があるはずなのに満ち足りて見える男の表情に顔をしかめた。

「――私も。あなたは勝手だと思います」

 ゆるやかに首を振り、男は視線を落とす。

「親ってのは……そういうもんさ。あいつのきっかけにまで、あんたを利用させてもらったのは申し訳ないが。――本当に、あのまま帰ってきてくれなかったらよかった」

「どうして、もっと早くに話し合わなかったのですか」

 ファラルドの妻、セスクの母親が死んだのがどれほど前のことかは知らないが。二人の間にはいくらでも時間はあったはずだった。


「……どうしてだろうな。いつまでも時間はあると勘違いしたのか、この村の空気に浸りきってたのか。そんなわけがないと、あいつが死んで思い知ったはずなのにな。あいつはもう……俺に同じことしか言ってこないよ――お前さんにもそれは、わかるだろう?」

 求められた同意は、単純に不快だった。怒りを気色に乗せ、扉へと向かいながらサリュは告げた。

「一緒にしないで欲しい。確かに私にも聞こえる声はあります。しかし、それは私に死を囁きはしない。声はいつも言います。――生きろと」

 それ以上の反論が届く前に彼女は部屋を出た。


 建物の空気は低く静まり返っている。セスクを探して宿の中を歩き、部屋の隅で膝を抱えている姿を見つけた。

 泣いているのかもしれない。そう思ったが、顔を上げた少年の目に涙はなかった。

「……クソ親父」

 そこにあったのは反抗の光だった。砂を見上げるような。そして、そうした眼差しを砂に向けることができるのは常に子どもなのかもしれなかった。彼女自身がどうであったかは別として。感情の激しさに違いはあっても、似たような視線を誰かに向けた覚えがあった。だから訊ねた。

「どうするの? これから」

「――皆を、説得するよ。絶対に――ここで生きてやる。負けるもんか。絶対」

 言葉には迷いがなかった。

 それはつまり、ケッセルトに服従する道を選ぶということだ。自分達だけの水源を独占し、隠者のように生きてきた人々にそれが可能だろうか。変化は、ファラルドが望んで諦めたものであるはずだった。

「そう」

 頷いて、サリュは手を差し伸ばした。

「――なら、行きましょう」

 見上げてくるセスクの手をとって、引き上げる。

「……手伝ってくれるの?」

「ここにいるもの」


 不明瞭な答えに少年が眉をひそめるが、彼女はそれ以上言葉を重ねなかった。

 セスクがこの村で生きようとするのなら、それを手助けするのが自分がここに居る意味だろう。死の砂が吹いているのに、とは思わなかった。そもそもが少年の為などではない。過去の自分の為にそうするのだ。それは一年前の自分には叶えられなかったことだった。

 納得していない様子のセスクの頭を撫で、外へ向かう。セスクが村人が集まっているだろう建物まで案内した。戸を開くと、陰気な視線が針を飛ばしてくる。中には暗がりが濃くわだかまっていた。


 話し合いをしていたのか自分達の不幸を嘆いていただけなのか、顔を付き合わせた男達の表情はほとんどその暗がりに同化しているかのようにくすんでいる。

「なに、やってんだよ」

 情けない大人達に向かって、セスクが吠えた。

「外には砂が吹いて、兵隊まで取り囲んでるんだ。明日までにどうするか決めないと、皆、死んじゃうんだ。なにやってんだよ」

「……裏切り者の息子が、何を偉そうに」

 部屋にこもった空気そのものが口を開くように、声が響く。

「帰れ。お前達と話すことはない」

「死を引き連れた罪人め」

「呪われろ、……ファラルドはどうした。せめてやつに報いを受けさせねば」

「うるさい」

 少年は一言で亡者の声を断ち切った。


「親父のやったことは、俺のやったことさ。責任とれっていうならいくらでもとってやる。俺が言ってるのは、じゃあ村の皆はこれからどうするんだってことじゃないか。親父が仕組んだとおり、皆して死んじまうのかよ」

 熱弁に応えたのは冷えた空気だった。開け放たれた扉から吹き荒れる砂風をもってしても、室内から追い出すことができないほどにこびりついた何か。歴史や慣習といった汚泥に対して、サリュは息を吐いた。

「死にたいなら、死ねばいい」

 隣に立つ少年が仰ぎ見るのがわかる。彼女は続けた。

「私はあなた方がどうなろうと、あまり興味はありません。もう二度と訪れない昔を想って、そのまま砂に埋もれるというのならそれでもいいでしょう」

 防砂具に隠れた口元が自嘲に歪んだ。すぐにそれを消し去り、

「ですが、この子はあがけと言っている。私もそうするべきだと思います」

 サリュは身を翻した。

 ここはセスクの戦場だった。彼女の役割は他にあった。



 向かった集落外れの泉で、男は優雅に水を浴びていた。

「おう、一緒にどうだい」

 鍛え抜かれた裸身を晒し、盛大に水しぶきを上げてみせる。砂の猛威も幾重に茂った木々に阻まれ、ここの水場まではまだほとんど届いていなかった。

「……遠慮します」

 周囲にいた兵達が下卑た笑みを浮かべるのに、彼女の傍らに侍るクアルが一睨みして黙らせる。濡れた黒髪を後ろに流したケッセルトが水面に立ち上がった。


「それで、何の用だ?」

「村の人達の処遇について。お聞きしたいことがあります」

「――そりゃまた、一介の旅の人間が言うには過ぎた話だな」

「それが私の受けた依頼ですから」

 男は片方の眉を持ち上げた。

「依頼?」

「あなたにお渡しした手紙。タニルと村との橋渡しが、私の役目です」

「ああ……なるほどな」

 可笑しげに笑う。

「なるほど、筋は通る。つまり村の交渉人として来たわけだ」

「はい」

「しかし、交渉の余地がどこにある? 従うか、滅ぶか。さっき言ったとおりなんだが」

「その後のことについて、あなたからはまだ何も伺っていません」

 サリュは言った。

「従った結果、村人はどのような扱いを受けるのでしょうか」


 ケッセルトの眼差しに鋭さが増した。為政者として油断のない表情を垣間見て、サリュは胸の中で緊張の息を吐いた。男が彼女の立場を受け入れた以上、話は公的なものとなる。周囲には男の率いる兵達の姿があるから、ケッセルトが発言に気を遣うのは当然だった。

「……奴らは長きに渡って明かすべき水源を不当に隠し、占拠していた。罰せられて当然だろうよ」

「具体的にはどのようなものに? それによって、私も相応の行動をとらなければなりません」

「ほう。例えばどんなだ」

「村は自ら恭順の意を示したはずです。確かに被るべき罪について、その情状を斟酌されないとあれば――村には、それを訴える用意があります」

 その台詞が一線を越えた発言であることを承知の上で口にした。笑みを消したケッセルトの視線が突き刺さる。自分の推測が正しいことを祈りながら、サリュは続けた。

「この地域一帯は水が枯れ、空白状態になっています。そこで生じた問題を治めるべきなのはいったい誰なのか。場合によっては、砂海を渡った先へ使いに出る必要もあるでしょうか」

「……できると思うか?」

 声色が、危険なほど低く奏でられる。クアルの咆哮が応えた。

 砂の巻く音だけが遠くに鳴り響く中、ひやりと底冷えた緊張感が辺りを支配した。周囲に散らばる兵からもからかいの気配が消え、近くの武具を探り寄せる者の姿が見えた。


 不穏な空気を察知した砂虎が歯を剥き、いつでも飛びかかれるよう身を屈めた姿勢をとって周囲を威嚇する。サリュは平静な態度を取り繕い、男に向かい合った。


 ケッセルトが外部の介入を嫌うのではないかという推測は、半ば以上当て推量によるものではあった。以前、彼女自身が巻き込まれた出来事で、そうした支配者同士の牽制、あるいは策謀が日常茶飯事であるということを知った。それならば、と考えたのである。


 どうやらそれは正しかった。少なくとも、男を交渉の卓に引きずり出すことには成功している。必要なのは、これからそれをどうまとめるかだった。そうした交渉事について根本的に経験が少なかったから、彼女は沈黙に耐えられず自ら口を開いた。

「村に、抵抗の意思などありません。どうか寛大な処置を願います」

 それを聞いたケッセルトが不快そうに鼻を鳴らした。言葉を掛け違えたかと、さらに言い募ろうとするのを止められる。男は言った。

「どうしてそこまでする?」

「……先ほども言ったとおりです。依頼を」

「赤の他人であるはずのお前が、どうしてそこまでして手間を折るのかと聞いている」

 重ねて訊ねる口調には、いつもの不真面目さが欠けていた。

「――私にも覚えがあります」

 眉をひそめる相手に、サリュは本心からの言葉を吐いた。

「失くしたくないと思って。でも失くしてしまいました。理由は、それだけです」

「つまり感傷か。女子どもの」

 くだらん。と吐き捨てる。尊大に男は告げた。

「我々は黄金を手に入れる為にやってきた。その功も罪も、良きも悪しきもだ」


 奇妙な言い回しだったが、男がこちらの言い分を認めないということは理解できた。臍を噛み、脳裏で瞬時にこれからの展開を考えて、サリュは隣にそっと語りかけた。

「――殺しちゃダメ」

 周囲では兵達が武器を構えていた。徐々に包囲を狭めようとしていた男達へ向けて、クアルが再び咆哮した。

 先ほどとは質も量も異なる、本気の雄たけびだった。村でケッセルトが兵達に吐かせたものに比するほどのそれを、たった一匹の獣が吼えた。


 動揺が生まれた。動じなかったのは、それを知っていたサリュの他にはケッセルトのみだった。

 身をすくませた男達が肉体の自由を取り戻す僅かな間に、サリュは駆け出していた。口元に笑みを残すケッセルトに背を向け、男達の一角へ走る手にナイフがある。長槍を構えた髭面の男が手に持った槍を振る前に、彼女はその懐に入り込んだ。


 鮮血が舞った。男の二の腕を浅く切りつけ、悲鳴をあげた兵士が槍を落とす。すかさずサリュは隣の男にも切りかかり、同じように得物を失わせたところで奇襲の効果は尽きた。

「貴様……!」

 怒気を膨らませ、近くの男が槍で突こうとする。兵士から見れば小柄な彼女の身の、その背中を飛び越えて影が現れた。

 砂虎に爪を抑えた一撃を加えられ、半ばで折れた槍ごと兵士は弾き飛ばされる。そのまま空を駆けるように跳躍する猛獣の脚に腕を絡め、サリュは男達の包囲を突破した。

 空中にいる間に手を離し、着地と同時に二手に分かれる。クアルが凶悪な突進力で蹴散らし、その隙間を縫ってサリュは地を駆け抜けた。


 悲鳴と怒号が交錯する。撹乱された兵達は、たった二人の襲撃者に翻弄されて無様を晒した。牽制としては充分過ぎるだろう。戦果を確認し、機を逸しないうちにこの場を離れようとサリュが指笛を吹きかけて、


「――――っ」


 半身に捻った眼前を、一本の殺意が貫いた。

 ぞっと血が引く音を聞きながら、彼女は目の前のそれを見た。樹木に突き刺さった槍の柄が振動している。穂先は彼女の頭部に巻かれた防砂具の一部をひっかけていた。


 遠く離れた水面から、投擲した姿勢のまま、涼やかにケッセルトが笑った。

「せっかく面白い見世物なんだ。もう少し続けろよ」

 男を睨みつける余裕はなかった。縫いつけられた布防具を剥ぎ取り、サリュは周囲の様子を窺った。悲鳴が途絶えていた。クアルの姿を探し、背後で静かに息を吐く音に無事を知ってほっとする。

 周りは再び男達に囲まれていた。取り囲む兵の表情には怯えも混乱も残っておらず、先ほどまでとは明らかに異なり、その統率を成し得た人物の器量が窺えた。

 奇襲と強襲。一方的にこちらの戦力を示し、それを相手との交渉の材料にする。彼女の考えは破綻した。こうなった以上、ケッセルトを人質に――? しかし、それでは対立が決定的になってしまう。意味がなかった。


 考えがまとまるより先に、兵達が危険なまでにその包囲を狭めていた。明らかに一人で飛び掛る愚を控えている。水平に構えられた槍が、呼吸をあわせて一歩一歩距離を詰めていた。

 これ以上、留まることはできなかった。態勢を立て直す為に解囲するしかない。サリュは駆け出した。

 彼女達の手法は常に一人が切り込み、残った方が生じた隙をつくというやり方である。この際、サリュが先手を務めたのは小柄さと応用の幅の度合いによる。クアルは砂虎としては若くとも巨体で、その力は手加減して振るうのにさえ大きすぎた。

 連携した動きは、既に相手する兵達も把握するところだった。穂先が一斉に突き出される。如何に身軽でも、砂虎の体ではその全てをかわしきることは不可能だっただろう。ほとんど転がるようにして、サリュはその刃の群れをかいくぐった。

 伸び上がって切りつけようとする、その動きが阻害され、彼女は背後を振り返った。防砂衣の裾が、一本の槍の先で再び地面に縫いつけられていた。歯噛みする。上空を影が差した。

 砂虎が一足飛びに挑みかかる。襲い掛かる脅威に、男達が即座に槍を手放し、道を空けるように左右に散るのを見て、サリュの脳裏に不吉な予感がよぎった。その影を探す。すぐにそれは見つかった。


 前方に弓を構えた一団がいた。立ち姿勢の一列と膝斜に構えた一列が、それぞれ鋭い視線を放っている。それらの瞳に映る目標の姿が彼女には見えるようだった。

「逃げて……!」

 悲鳴にも似た指示に、砂虎は従わなかった。大きく跳躍することなく、逆に四肢で地面を踏み抜き傲然と身を反らす。背後の彼女をかばうかのような態度にサリュの思考は絶望に塗りつぶされた。


「――ま、こんなとこか」


 猛獣を射殺す矢嵐に代わり、言葉が降った。

 地面に突き立った槍を引き抜き、自由になった彼女の腕をとって身体を立たせる。下半身に布を巻いただけのケッセルトは、砂虎の威嚇の唸り声にもまるで動じず、からかうような表情を浮かべていた。

「頭は良く回る。度胸もいい。少々、行動が感情的に過ぎるが――若い娘にしては上出来だ。まだ可愛げもあるしな。そう思わんか、お前ら」

 どっと笑いが起きた。傷を負った兵までが苦笑まじりに笑っていることに気づき、サリュは屈辱に頬を染めた。――遊ばれていた。

 一気に弛緩した空気が気に入らないのか、クアルが吠えた。男はおどけて肩をすくめてみせた。

「いいぞ」

 短い言葉の意を汲み取れず、サリュはとっさに反応できない。

「連中の処遇、保障してやってもいい。あの集落が砂でどうなろうがな」

 二重の環を持つ瞳を驚きに見開いた彼女が一呼吸する間に、言葉は続いた。


「ただし、お前は俺の女になれ」

「……っ?」

 男の顔が不自然に近づくのに、反射的に身をよじらせた。距離をとろうとするが捕まれた腕がそれを許さなかった。声を荒げる。

「何を、ふざけたことをっ」

「俺のものになれよ。そうすれば、村の奴らの話を受けてやる」

 返答の代わりにナイフを振るった。ようやくケッセルトが拘束を解き、後ずさる彼女と男の間にクアルが立ちふさがった。

「ふざけてる? お前が言った交渉事の、正式な回答だが。引き換えに、奴らの罪は俺が全部飲み込んでやる。施政に刃向かわん限りな。我ながら大した条件だと思うぜ。キーチェンの奴が聞いたら泡吹いて卒倒するだろうよ」

「――そんなことを。一人の人間のどうこうで決めると」

「喜べって。それくらい、お前を気に入ったってことだ」

 馬鹿げている。怒声をあげかけ、それが男の「手」ではないかと疑ったサリュは無理やりに頭を落ち着かせた。昇った血流を冷やす。


 村のことに関する言質を取った、その一事で行動の甲斐はあった。彼女にとっては最も懸念すべき事柄でもあった、砂の影響。それについてまで男の方から口にしてくれたのだから、これは即席の交渉人に得られる成果としては望外の収穫といっていいはずだった。

「誰か探してるんだろ? それも力になってやる。一緒に、お前の乾きだって癒してやるさ」

 傲慢な物言いに眦を吊り上げる。感情の迸りを抑え、彼女は身体ごと男から顔を背けた。

「……明日、お待ちしています」

 村へと戻るサリュの背中を追って、届いた声は気安かった。

「日没だ。いい返事を期待してる」



 日の入りを控えた集落には砂が吹き続けていた。風が人の気配を飛ばし、辺りは沈滞して生気に欠けている。それは死の風の吹いた場所に見られる大きな特徴だった。

 そうしたところだから死の風が吹くのか。それとも死の風が吹くからそうなのか。砂の声を聞く彼女にもわからない。ただ、風が吹いた場所に生きることに絶望した人々が溢れているのは彼女が今まで多く見てきた事実だった。

 しかし、この村にはまだ絶望していない者もいる。昔の自分とは違う眼差しで砂を見上げ、昔の自分と同じように求め、あがいている少年の気概は好ましかった。


 セスクはまだ宿に戻っていなかった。暗く落ち込んだ建物の中で灯りをともし、サリュは厨房に向かった。スープを火にかけたままだったことを思い出し、鍋の様子を見る。中身を一舐めし、彼女は再び鍋を火にかけた。充分に温まったそれを器に移し、ファラルドの寝室へと持っていく。


 部屋に入ると、男は閉じた木窓の向こうを眺めるようにしていた。やや憔悴した表情だが、熱に朦朧とした様子はない。

「食事を持ってきました」

 木の匙とともに器を渡すと、ファラルドは黙ってそれをすくい、口に運んだ。

「……焦げてるな」

 上澄みをよそったのだが、あっさりとその風味を看破する。男は唇を歪めて言った。

「あいつの作ったような味だ」

 それが生者ではなく死者を指しての感想だったから、サリュは眉をひそめた。過去にすがっている姿に苛立ちを覚えるのは、セスクに好感を抱く理由と根幹が等しいことは自覚している。だから、彼女は何も言わなかった。


「この村では、金が採れるのですか?」

 かわりに訊ねると、ファラルドは怪訝な視線を向けた。

「金だと?」

「少し、気になったので。この村の名前の由来でもあると聞きました」

 男は擦れた笑い声をあげた。

「ここにあるのは水と塩だけだ。いや、もちろんあるにはある――」

 そこで口を閉じた。皮肉げな表情で、男はそれ以上語るつもりがないようだった。扉を開いたままにしていた廊下から誰かが宿に戻ってきた音が聞こえ、サリュは席を立った。

「……死の風が、生きろと言うのか?」

 ファラルドが訊ねるのを、彼女はあえて答えないまま部屋を出た。


 入ってきたのはセスクだった。見るからにくたびれ、疲れきっている。

「ただいま」

 村人相手にどれほど声を荒げたのか、声が老人のようにひび割れていた。辛そうに喉をさするのに、サリュは厨房からすくってきたばかりの深皿を渡した。一口して、セスクは顔をしかめた。

「なんか、……苦い」

 黙って飲み水を差し出す。

「待っていて。お風呂、沸かしてくる」

「そんなの、俺がやるって。ちょっとだけ休ませてくれれば――」

 彼女は首を振ってそれを断った。彼女が湯を焚き、戻ってきた時、食堂にセスクの姿はなかった。大きな器に注いだ湯と布を抱え持ち、サリュはファラルドの部屋に向かった。

 父親と息子は互いに目線をあわせないまま、部屋の中には収まりの悪い沈黙が幅を利かしていた。両者の中央の床に器を置き、

「セスク。あとであなたも入ってね」


 声をかけて彼女は部屋を出た。セスクが父親にかかりきりな間に自分が湯を浴びてしまうことも考えたが、その前に様子をみなければならない相手が残っていることを思い出し、厩舎へと足を向けた。


 厩に入った途端にクアルに押しかかられた。積まれた飼葉に倒れこみ、痛みなく埋もれる。嘆息し、しばらくされるがままになってから、クアルの身体がいつもより熱を帯びていることに気づいた。

 先ほどあった争いが砂虎の気を昂ぶらせていた。彼女の言いつけを守り、爪を立てず、児戯のような争いに終始してくれたことに感謝して、サリュは砂虎の大きな頭を抱きかかえた。

 今日はここで寝ようと心に決める。飼葉の寝床には虫も湧き、寝心地の点では宿のそれと比ぶべくもなかったが、今夜は懐かしい匂いの近くで眠りたかった。湯は明日、水を浴びればいい。

 こぶつき馬がいなないた。耳元ではクアルが喉を鳴らしている。轟々と鳴る砂の響きさえも彼女にとっては不快ではなかった。


 集落での最後の夜が過ぎていった。



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