2
「――大いなるもの?」
かけられた声に、興味を引いたような口調がうかがえて、彼女は隣を見あげた。
まだ若い、それなのに乾いた。澄んだようで濁り、奥底まで容易に見通せない混沌とした色の瞳が、少女の顔を映し込んでいる。静かな声で男は言った。
「それがお前達の集落で信じられていたものか」
少女は黙って首を頷かせる。男もそれ以上聞かず、思案げな表情を宙にさまよわせるようにした。そのことを少し不満に思ったから、彼女から口を開いた。
「それが、どうかしましたか」
ちらりと醒めた視線が見下ろし、
「変わってる。それは、名前がないままに呼ばれていたんだろう」
「はい」
その回答だけでは、少女は満足しなかった。男は嘆息をして続けた。
「人はたいてい、何かを表すのにまず名前をつけることからはじめる。他者との間で共通させるのには、それがてっとりばやい。自分達の生活の根っこにあるような文化、宗教ならなおさらだ。それがないということは、つまりその必要がなかったのか。それとも名前の必要性以上にまずい理由があるのか。それとも――」
肩をすくめ、
「まあ、お前が聞かされてなかっただけかもしれないな」
そんなことはない。と思いながら、少女はそれを告げなかった。視線をはずした少女に、少ししてから男の声が届いた。
「……育ての親、だったか。村の語り部をつとめてたという人には、会ってみたかったな」
意外に思えて、彼女は男を見上げた。
男はわざとつくったような表情でこちらを見ないまま、
「村長とも。あんな田舎で本まで集めてるような変わり者なんてそうはいない」
本。文字。確かに、村でも簡単な数字はともかく、文字まで読める人間は少なかった。少女の育ての親である老婆もそうだ。
「文字は、必要ですか」
との問いには、男は少しだけ眉をひそめて考えたようだった。
「なくても生きていけるのなら、不要だろう。必要とする奴が必要としていればいい」
「名前のように?」
「……そうだな」
「それが、呪われた名前でも」
鋭い視線が射抜くように少女を見た。そこにある感情の意味を汲み取ることができず、彼女はまっすぐにそれを見返した。
「サリュ」
「はい」
少女は応えた。それが彼女の名前だった。
「お前の親がつけたのか?」
「いいえ」
「なら、育てた相手か」
「はい」
「意味は。知っているんだな」
「――昔から、村の人達に言われていましたから」
淡々と答える少女の、二重の環を描いた不可思議な瞳を見ながら、男は不快そうに顔をゆがめ、言った。
「嫌なら変えればいい」
「……え?」
「嫌なら変えろと言った。普通、名前はついているものだとは言ったが、それが絶対だなんて俺は一言も言っちゃいない」
ほとんど憎々しげに続ける。
「俺はリトだ。だが違う名で呼ぶ相手もいる。どちらで呼ばれたからって自分が変わるわけじゃない。サリュというのが嫌なら勝手になんでも名乗れ。嫌なら嫌と言え」
言い捨てて、むっつりと押し黙った。なぜ男がそこまで感情を害したのかわからない。少女は戸惑ったまま沈黙した。
「――夜に昇る、大きな星があるだろう」
いくらか経ってから、囁くように男が言った。
「お前達のところではどうだったか知らないが。あれは、月という。昼間にあがる燃える星とは対照的な存在だ。激しさと静かさ。昼と夜。光と闇。色々な呼ばれ方がある。意味も。たとえば、大いなる存在なんて呼ばれることもある。月は日によって姿を変える。膨らみ、細くなり、忽然と消える。その姿が一周してまた元に戻るまでを一月。多様に変化し、見るものを惑わせる。怪しく、実態が知れない。それでいて、月をこんなふうに呼ぶものもいる。真実。その象徴だと」
「……昼間の、あの大きな星は」
「太陽。中天にあり、姿を変えない黄金の作り手。命の育み。天上神の御姿。そして――真実。そう呼ばれもするな」
少女の混乱した表情を見て、男は小さく笑った。
「地域による。似ていることもあればまったく異なることも。大いなる、というところだけは共通しているか。――サリュ。そう呼ばれる自然現象についても同じことだ」
わずかに息を呑み、少女は訊ねた。
「死の砂、以外にも?」
「……さあな。だが、死とはなんだ。生とは。お前にとっては? お前は何を生かし、何を殺すんだ。それはお前が考え、認めたことなのか? 他者がそう言うから、そうだというのなら――それは愚か者の思考だ」
再び、男の口調に熱がこもった。
「“それ”はたんなる自然現象だ。意味などもたない。持たせるのは人間だ。だから、お前も持たなければならない。わからないなら探さなければ。考えろ。悩め。その上で選択しろ。その必要がある、そうしないといけない」
男はこちらを見ていなかった。だから、少女はその台詞が、自分を通して違う相手へ語りかけているのではないかと考えた。その時は訊ねることが、できなかったが。
「自ら生きるというのは、そういうことじゃないのか――」
ため息のように言葉を締めて、男はそれ以上何も言わなかった。
昔の夢を見て目を覚まし、うつらとしているうちにまた別の夢が訪れる。そんな風にしているうちにどれほどの時間がたったのか、茫洋とした意識の中でサリュは扉を叩く音を拾った。
「――はい」
そっと短刀を右手に忍ばせて答えると、気難しい表情をはりつけたファラルドが姿を現した。手に盆を持っている。
「……飯だ。いつまでたっても降りてこないんでな。そろそろ昼になるんだが」
「すみません」
窓際の机に食事の載った盆を置き、そのまま出て行こうとする男に彼女は声をかけた。
「セスクは、どうしていますか?」
「出かけたよ」
立ち止まり、こちらを振り向かずに答える。
「村の連中を説得するんだと。何を説得するつもりかはしらんが」
サリュは眉をひそめた。
「村の人達は、私があの洞窟にいないことを」
「まだしらんよ。だが、時間の問題だろう。あの馬鹿が騒げば、あんたを引っ張り出そうとする連中もいるだろうからな」
もともと一日程度の違いかもしれんがね、と続ける。
「それは、あなた方にとって都合が悪いのでは」
「……あいつはあんたが捕まってると聞いたときにずいぶん騒いでいたし、あんたを殺さずに様子を見るべきだと言ったのは俺だ。そのあんたが逃げだしたなら、最初に疑われるのはどうしたって俺達だろうな」
肩越しにこちらを見て、男はあっさりと言った。
「止めないのですか」
サリュの言葉を、むしろ意外なものであるかのように、男は片方の眉を持ち上げた。
「あいつが勝手にすることに、どうして口をださなきゃならん」
「……あなたが、セスクに生きてもらいたがっているから」
それを聞いた男は口を歪めた。誰かを馬鹿にする表情で沈黙する。
「なぜ、そこまでこの村に固執するのです」
背中を向けて歩き出した男は、今度は立ち止まらなかった。
サリュは寝台から降り、男の後を追った。すぐに追いついた。男は廊下の壁にかけられた剥製の前で立ち止まっていた。アタリアの、祝福。確かそんな言葉が書かれた、記念碑のようなもの。
「――水もあれば塩もある。あんた、もったいないと言ったな」
ファラルドが言った。
「その感覚からして、俺とあんたじゃあもう天と地ほどに違う。だから――あんたには、わからんさ。なあ、それじゃあ、水と塩以外に何があればこの村はやっていけた?」
問われて、サリュは少し考えてから答えた。
「……人、でしょう。旅人や、商人。物を運ぶ流れ。そこから取り残されたから、この村は苦しんでいる」
男は何も言わなかったが、表情がそれが正解ではないことを告げていた。口の端を持ち上げたさきほどの表情で階段を下りながら、話題を変える。
「出られるなら、今のうちに村から出たほうがいい。が、見つからんようにってのはまず無理だろうから、中でじっとしてるのが賢明だろうな」
「私を突き出せば、あなた方が許される可能性はあるのでは?」
そんなことを受け入れるつもりがあったわけではなかったが、サリュはそう訊ねた。それを聞いたファラルドは面白くもなさそうに鼻を鳴らし、
「今さらあんたが生きようが死のうが、俺にとっちゃあどうでもいいことさ。騙した借りも、洞窟の件で返したつもりだからな。後はあんたの自由にすればいい」
ゆっくりと階段を下りていった。ぽつりと言う。
「重く、錆びず、価値のある。それがこの村だというのなら、滅ぶのは当然なことなのさ」
去り際の言葉は謎かけに似ていた。
部屋に残された食事を取り、いつでも動けるように防砂衣をしっかりと身につけて、サリュは室内で考えをめぐらせた。
考える以外にはろくにすることがなかった。ファラルドが指摘したとおり、昼間、人の目があるうちに村から出るのは危険が大きすぎた。とはいえ、セスクの行動次第で村人が宿に乗り込んでくる可能性もあったから、逃げる算段はつけておかなければならなかったが。それに関しては、前にここの部屋に泊まったときに見当をつけていた。この部屋なら、窓から低木をつたって外に出られる。
木窓を閉じているため暗い室内には、それでも砂の粒子がどこからか入り込み、浮かんでいる。日中とは思えない静けさは建物の中も外も変わらないらしかった。あまりに人の気配に乏しいため、まるで生きている人間がいないのではないかと錯覚してしまいそうになる。
むずがゆさに頭を振る。何か大切なことを忘れているようなひっかかりを覚えて、彼女は立ち上がった。廊下に出て巨大な剥製の前に立つ。古びた文字で刻まれた言葉をなぞった。
アタリア。祝福の土地。その言葉の意味について、セスクはなんと言っていただろうか。確か、水や火。それから生命だったか。彼女が持っている本にある記述では――笑い、喜んでいる? ようするに、良いことの象徴。大いなる存在。
また、何かが頭にひっかかった。
なんだろう。何か見落としている。漠然とした不安に目を閉じて、光の無い視界に浮かんだのはセスクだった。
セスクのことは心配に思っていた。それがたとえ過去の自分を投影しているだけであっても。しかし、違う。今、自分が感じている焦燥はもっと別のものだ。クアルか、それとも自分の生命の危機か――
――――。
背筋を刺すような震えが駆け巡り、彼女は急いで部屋へと戻った。
木窓にとりつき、はめこまれた枠に手をかける。彼女がそうしている間も、やはり周囲は静かだった。否、実際にはあまりにも彼女にとって身近でありすぎて、かえって騒音として認知されていなかっただけに過ぎなかった。
開け放ち、愕然とする。視界に広がった彼女にとって見慣れた光景、それをたった今まで忘れていた自らの愚かしさに彼女はきつく唇を噛み締めた。
そこにあったのは黄土色の侵食だった。
この惑星で最も純粋であり、最も凶悪な自然現象。
死の砂が吹いていた。
轟然と吹いた風が螺旋を巻き、互いに喰いあうように空を駆け上がる。集落全体を包む砂の怪物は停滞していた室内の空気を一瞬で吹き飛ばし、無数の砂粒を彼女に叩きつけた。
木窓を閉めることも忘れ、しばらくサリュはその場に立ち尽くした。
死の砂。自身と同じ名前を持つその現象について、決して予感がなかったわけではなかった。気配ははじめてこの集落に足を踏み入れて宿泊した、その朝からあった。タニルへ向かう途中でも。それは常に彼女と共にあったのだ。
驚いたのは、死の砂が吹いたという事実についてではない。何故、今になって――ただの自然現象であるはずのその出来事の意味について思いを巡らせ、脳裏で男の嘆息を聞いたような気がした。
木窓を閉め、荷物をとって部屋を出た。一階へ下りてファラルドの気配を探すが、宿には誰も残っていない。そのまま扉を開けて、こぶつき馬のいる厩へと向かった。
砂が舞ってひどく視界が悪い。積み荷を乗せたこぶつき馬を引いて村の入り口に向かいながら指笛を吹いた。どこかに村人が待ち構えているだろうと思ったが、その気配を感じたのは前ではなく、後ろの方である。
振り向いた先にいたのはセスクだった。後ろに数名の村人達の姿も見える。彼らの表情は皆一様に暗く、何かを思いつめている様子が伺えた。
「お姉ちゃん、助けて」
泣き腫らした表情でセスクが言った。
「親父を助けて」
全身を振り向かせたサリュは、セスクではなく、その背後に幽鬼じみて佇む村人達へ訊ねる。
「ファラルドさんになにを?」
「――あいつは」
村人の誰かが答えた。奇妙に調子の平坦な声だった。
「あいつはこの村を裏切った」
「村のことを話した」
「祝福の地の秘密をばらした」
「あの男は話した。誰が知っている。誰が来る?」
喋りながら、誰も口を開いてはいない。そう見えるのに、呪詛のまじった囁きが途切れることなく次々に連鎖する様は、まるで集落全体が彼女にそれを訊ねているかのような不気味さがあった。
サリュは答えた。
「タニルから、じきに兵が来るでしょう。もうすぐそこまで来ているかも」
「――お前が呼んだっ」
悲鳴にも似た告発に、あっさりと頷く。
「頼まれて手紙を渡したのは、私です。内容まで知っていたわけではないですが、その手紙で兵が動いたのなら。私の行為の結果ということになります」
「なにを、ぬけぬけと」
表情に殺意を抱いた村人達が足を踏み出した。それを静かに眺めながら、
「そんなことより、支度をはじめたほうがよいのではないですか?」
「……支度?」
「旅の支度を」
砂と風を身に纏い、砂のうなり声に負けぬよう張った声でサリュは言った。
「これは死の砂です。すぐにここは砂に埋もれる。いまさら兵がどうこうではないでしょう」
その単語を聞いた村人達に、はっきりと動揺が生まれた。
顔を見合わせ、ひきつった表情で何事か確かめるようにしたあと、代表した一人が口を開く。
「馬鹿なことを。そんなもの、ここに吹くはずが」
「実際に死の砂を見たことのある人がいますか」
沈黙する一同に、静かに続ける。
「私は何度も見てきました。故郷や、旅の途中で。そんなわけがないと思いたいのはわかりますが、すぐに準備を始めるべきです。水や食料。この村の人達は皆、旅慣れていないのですから、準備にも時間がかかります」
「ふざけるな!」
遮った声は、隠し切れない恐怖で彩られていた。憤怒の形相で中年の男がサリュに掴みかかろうとするのを、砂の向こうから現れた巨体が跳ね飛ばした。よろめいてそのまま尻餅をついた男の目にしたのは、まだ幼い、しかし人間の大人と比べてもはるかに容量の巨大な若い砂虎の、縦に裂かれた虹彩だった。
「ひぃっ……」
足音一つなく現れ、男に歯を剥こうとしているクアルの頭に手をあてて抑え、
「――この村は、一月もしないうちに埋もれます。離れる準備をしてください」
「勝手なことを……」
怨嗟の声を涼しげに受け止め、さっきだった気配の中で泣き顔で立ち尽くしているセスクに近づいて、声をかける。
「ファラルドさんは?」
「……洞窟。お姉ちゃんがいた、あそこに」
「そう。なら、行きましょう。灯りは用意できる?」
「う、うん」
「私達は洞窟に行きます。なにか御用があれば、そちらまで」
そう宣言してから、少年を連れて歩く。村人達は皆、何か言いたげなままこちらを遠巻きにするだけで、背後ではクアルが目を光らせてくれているから、危険はないはずだった。
「ああ――じゃあその洞窟とやらに、俺も一緒に連れて行ってもらおうかな」
飄々とした声が、彼女の足を止めた。
いつの間に現れたのか、背後に男が立っていた。砂が強く巻き上げる中で平然と、ろくな防砂衣もつけずに軽装でいるその人物の名前をサリュは知っていた。タニルの領主ケッセルト。
――もう現れた。予測の最悪を突かれたことに内心で舌を打ちながら素早く視線を走らせたが、ケッセルト以外には村人ではない兵士の影は見つけられなかった。もとよりこの視界の悪さである。いくら彼女が砂に慣れているとはいえ、容易に見通せるわけがなかった。
傍らのクアルが気づかなかったのも同様に、この暴風ではろくに鼻も利かない。ケッセルトは図ったように彼らの風下に位置していた。
その場に漂う険悪な雰囲気をまるでものともせず、男は気さくな様子で近づいてきた。顔を寄せ、彼女だけに聞こえる声で囁く。
「今ここで兵を呼ばれたくはないだろ?」
兵。不安と恐れにおののく村人達の前に兵士達が槍を向けた時、何が起こり得るだろうか。少なくとも、行動の自由さが失われることは確かだった。
無言で睨み上げ、サリュは黙ったまま歩みを再開した。不安げなセスクと、口元に笑みを浮かべた男がそれに続く。三者三様の彼らを、遠くから、亡霊の視線が取り囲んでいた。
「兵は、どこに潜めているのです」
「村の外れさ。長旅を終えたとこにけっこうな水場があったからな。ちょうど兵どもを休ませようとしてたら、ぶっそうな獣が村の中に駆けていくじゃないか。これは面白そうだと思って様子を見に来てみたわけだ」
「……一人でですか」
貴族の、それも領主ともあろう人間が。信じられない思いでサリュが訊ねると、男はあっさりと頷いた。
「気さくだろ」
返す言葉もなく呆れ果てたが、口を閉じずに彼女は続けた。
「目的は?」
「行っただろ。おもしろそうだったからさ。砂虎なんて、間近で見れるもんじゃない。……しかし凄いな。どうやって手なずけた?」
興味深そうに頭に手を差し伸べるのに、クアルが威嚇のうなり声で応じたのでケッセルトはその手を引っ込めた。自分の心情を感じ取ってくれている友人に感謝しつつ、
「あなた方の目的は、ここの水源なのでしょう」
「俺の質問は丸ごと無視かよ……まあいいが。そりゃあまあ、な。領水は国家に管理されなければならない。下流源の不当利用すらたいがい重罪だってのに、それが基水源だってんなら――。それに、この状況だからな」
男の発言内容、その意味の詳細はわからなかった。しかし、地域一帯が枯渇しているのに豊富な水源があることを言っているのだろうと想像できた。祝福の地と呼ばれる特別な水源が、この村にはある。
「それを奪うために、やってきたのですね」
「管理だ」
短く、強い口調で男は言い直した。
「村人がそれを承知しなかったら?」
「聞かなきゃわからんか? 兵士って因果な職業はいったいどうして存在していると思う」
揶揄する口調に一瞬沈黙し、サリュは言った。
「この集落がすぐに滅ぶとしてもですか」
「――なんの話だ」
はじめて、ケッセルトの表情に眉が寄る。
「村に吹いているのは死の砂です。水源ごと、すぐに砂に埋もれてしまうはずです」
「……へえ。そりゃ大事だ」
男の声にはまるで真剣さが欠如していた。サリュは不快に顔を歪めた。
「怒るなよ」
苦笑したケッセルトが肩をすくめる。
「だとしたらなおさら、様子を見に来てますます正解だったな。集落が砂に飲み込まれるところなんざ、軍人やっていたってそうはめぐり合えんよ」
変わった演劇を楽しもうとでもいうかのような軽薄な台詞に、心底から軽蔑しそうになって、サリュはふとタニルの街でのやりとりを思い出した。この男は油断ならない。うわべで何を言っていても、腹には他に一物あると考えるべきだった。気持ちを引き締めた彼女の眼前に、大きく口を広げた洞窟の入り口が姿を現した。
こぶつき馬とクアルを連れたまま暗がりへと進む。徐々に外からの光が届かなくなり、セスクが用意した灯りをともした。照らされた周囲の視界に、ケッセルトが小さく息を吐いた。
「おう。こいつは――岩塩か。岩塩の洞窟か」
暗がりの中、灯りを薄く反射する岩肌は確かに普通のものではないとはいえ、それを一目見て言い当ててみせた男にサリュは目を見開いた。
「なるほど。あの岩塩の出所はここってわけだ。水と塩ねえ。はっ、実際この目で見ても信じられんな、こりゃ」
皮肉げな視線が彼女を見たが、サリュは答えずにセスクの先導に従って足を進めた。
歩数とともに数えて一刻もしないほどのところで、彼らはたどり着いた。恐らくサリュが連れられたのと同じであろう空間に、うずくまるように腰を下ろした何者かの存在がある。
「――父ちゃんっ」
駆け寄ったセスクに、顔を上げたファラルドの顔面はひどく腫れ上がっていた。暗がりの中でもはっきりそれとわかる打撲に、唇から流れた血がそのまま跡に残っている。
「私刑か?」
鼻を鳴らしたケッセルトがつまならそうに言った。
村への裏切り行為に対して、村人達が制裁を加えたのだろう。近づくと一層、ひどい怪我の具合だとわかったが、ファラルドは薄くしか持ち上がらないでいる瞼の奥から彼女を見あげると、笑いかけてみせた。自らの様を笑ったものではなく、まだこんなところにいる彼女に呆れたような笑いだった。
「……あんたは」
視線を移し、しわがれた声でファラルドが言った。咳き込み、あわててセスクが水袋から水を飲ませようとする。問われたケッセルトは極めて軽い口調で答えた。
「タニルの人間さ」
口中で水が傷に沁みたのか、苦痛に顔を歪め――ファラルドは笑った。
「そうかい。ようやく来てくれたわけだ……」
「ってことは、手紙の主はお前さんってことだな」
「ああ――そうだ。そこの嬢ちゃんに、頼んだ」
「押し付けて、の間違いじゃないのか?」
にやりとしてケッセルトが訂正すると、表情に苦味を増してファラルドは頷いた。
「そう、だな」
「興味をひかせるよう土産まで持たせて」
「……ああ。そうだ」
「自分達の自殺に、利用しようとしてくれたわけだ」
ファラルドがこちらに視線を送るのを、サリュは感情なく受け流した。
「――自殺?」
驚いたように声をあげたのはセスクだった。少年を一瞥しただけで何も言わず、ケッセルトはファラルドへと視線を戻した。
「父ちゃん? それって」
「……セスク。村の連中はどうした。全員、死んだか?」
「死って――」
息子の質問に答えず、痛みに歪んだ壮絶な顔で訊ねるのに、セスクが声を失う。代わりにサリュが答えた。
「生きています。ひどくうろたえていますが」
「うろたえる?」
「今、外では砂が吹いています。恐らく、止むことはないでしょう」
「――死の砂が?」
ゆっくりとサリュが頷くのを見て、男は笑った。乾いた声が洞窟内に反響する。
「なんということだ。今になって……今さら。いや、だからこそ、か」
それから、低いくぐもった声で笑い続けた。狂ったように。恐ろしげにそれを見やるセスクの向こうで、ケッセルトがどこかにいこうとしているのを見かけ、サリュは立ち上がった。
「セスク。ファラルドさんの様子を見ていて」
当然のようについてこようとしたクアルにもその場で待機するよう言いつけ、追いかける。自分の存在に気づいているはずなのに気にしたそぶりのない背中に声をかけた。
「どこへ」
「散歩。よければ一緒にどうだ」
いつの間に用意したのか、手に灯りを持っている。黙ってサリュはその背後に寄った。男の行動には警戒していたし、セスク達のいないところで話したいこともあった。
洞窟はひどく入り組んでいた。この洞窟がどういった経緯で作られたものかわからないが、天然のものと、人間が掘り進めた部分も当然あるだろう。
「こういう洞窟がどうやってできるか、知っているか?」
どういった基準で道を選んでいるのか。勝手知ったる場所を歩くように気楽な様子で足を進める男の態度に若干の不安をおぼえながら、サリュは答えた。
「土が。土や岩、砂より重く、大きなものが集まって、固まったもの。それらが砂中で長い時間、四方から押しつぶされ、隆起して作られると」
「……よく知ってるな。ちょっとした街の学校でもなきゃ教えないようなことだが」
感心した風に言われ、途端に無表情になるサリュを笑って、
「この世界では全てが流れている。と、いうより、流れている砂が全ての基礎になっている。大いなる砂に追いやられて右往左往と生きている。人も、動物も植物も。砂の中でまざりあったさまざまな重さのものが流れをつくり、ある場所ではせきとめ。その隙間を通った水が地上に湧き、はじめて生活の場を生み出す。全ては砂の悪戯のままに」
詠うように言う。
「だからこそ、基水源。基となる水の源という。三大水陸。それを司る大水源。それのことも知っているか?」
知ってはいる。だが、詳しくはなかった。サリュの持つ知識は正式な教育の中で授けられたものではなかった。沈黙を知っているものと受け取り、男は続けた。
「つまり、それは抵抗なのさ。流れよという自然の声に対する、俺達人類のな。砂に逐われながら生きることをやめ、地面に打ち込んで生きていくための、軸。それが基水源。三大水陸、三大水源だ」
ふと立ち止まり、男は息を吐いた。
「だが、不安はある。――なあ、お前さん、石造りの街に行ったことがあるか? つまり、流れない類のだ」
黙したまま、サリュは頷いた。トマスの名をだすつもりはなかったが、男にそれを気にした様子はなかった。
「それが大水源の恩恵だな。なら思わないか? 本当にその水流は、いつまでもそこにあるのだろうか、とな」
言葉の内容より、自分を見る男の意外なほどに真剣な表情が、彼女には驚きだった。にやりと表情を崩して、男が笑う。
「なんてな。まあ、こういうのは本来なら俺の興味の範疇外なんだが。特に最近、このあたり一帯の枯渇なんてことがあったもんでな。ちょっとばかし不安にも思っちまうわけだ。で、そんなときに、ぽっかりと湧く水場なんてものが見つかる。いったいどういうことなんだろうなぁ」
ふらりと歩き出すケッセルトに問いかける。
「――ここが、その基水源だと?」
男の答えはなかった。