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タニルを進発したその軍勢は、行軍の途にあった。
百名からなる隊列による砂海の横断には、十数頭の輜重馬が用いられている。その先頭を進む男が跨っているのもやはりこぶつき馬である。偵察、強襲を主な役割とする軍馬は水と糧秣の消費が激しく、運用が難しいと判断されたのだった。
帝国の軍事力を支えるツヴァイ騎兵の精強さは水陸中に鳴り響いているが、そのような理由からしなやかな四肢と鬣を振る軍馬は伝令用にわずか数頭が連れ出されたのみであり、斥候に出ていたその一頭が今まさに戻ってきたところだった。廃墟と化した集落に設営された幕内でケッセルトはその報告を受けた。
「あったか」
「はい、西に十里といったところに。嘘のような緑が生い茂っておりました。思わず、我が目を疑いましたが」
「村の規模は。おおよそでいい」
「全てを見渡したわけではありませんが、土塗りの家屋が二十といったところかと思われます。ご命令どおり、遠目からに留めておきましたので」
それでは集落に住む数は多くて百といったところか。当然、女子どもや老人も含まれる。先遣隊でも充分に示威に足りることを確信し、男は頷いた。
「次に頼むときは後ろに駆けてもらうことになる。馬を休ませておけ」
「は」
脚を飛ばし、疲労の色が濃い兵を下がらせて、男は手元に広げた地図に目を落とした。
そこには大水陸の中心に繁したツヴァイ領を中心とした流動的な地形が記されている。帝国の中心ヴァルガードから、水陸の中心トマスへ。そこから不必要なほど大回りに伸びた河川との円弧の内側、ぽっかりと空いた空間に無数の印が跳ねていた。
それら全てが、最近の大規模な地下変動で水源枯渇が認められた水場、及び集落の跡地である。航路途中にあったオアシスで、いまだ湧出が確認されている場所はない。その失われた航路を辿るように、せめて砂と風を避ける目的で男は軍を進めていた。
地図の右下半、ボノクスとの国境圏にあって孤立するように記されている文字をなぞった男の唇が歪む。タニル、と崩れた字で書かれたそこから西に延長した先に、報告を受けたその座標がある。
イスム・クとかいうのだったか? 男はその地図上の一点を小突いた。何度かそうするうちに興に乗り、くつくつとついに我慢しきれなくなった笑みがこぼれる。これから向かう先にあるものは、それほどまでに男の心を浮き立たせるものだった。
水、水源。この惑星においてはそれと、それらを繋ぐ水路こそが“領土”である。いかに広大な版図を持とうが、そこに住むことができなければ意味がない。何人も砂には逆らえないのだ。たとえどれほど強大な国、そこに君臨する王であろうとも。
自然の気まぐれによって、国境を含めた一地帯が広く枯渇した状況に陥ったツヴァイとボノクスは、それ故に長い硬直状態に陥っている。結ばれた水路を押し引くすることしかできない。そこでは水路を介した両国の商取引も表に裏に行われているのだから、これは全く馬鹿馬鹿しい茶番というべきだった。全ては航路が河川のみに限定されているからこそである。
タニルという街がどれほど特殊かは、その事実を考えれば自然と浮き上がってくる。そもそもが水路に近いとはいえ、枯渇した砂海の只中に在り続けていることの不自然さ。その理由は、タニルが奇跡の水源を持っているからなどではない。
事実はむしろ逆だった。タニルの水源はとうに枯れきっている。それはタニルの中でも一部の者しか知らないことではあったが、少なくとも水の湧出量が周囲一帯と同じく激減しており、人を養い、軍が駐留するのに必要量には明らかに不足しているだろう程度のことは、街に住む人間だけでなく、相手方であるボノクスにもとうに見透かされているだろう。
生活用水として消費される莫大な水は、全て南の河川水路との間を商う旅商によって運ばれている。無論、そうした実態も敵国に全て隠しとおせるものではないが、それでもこの地にしがみつづけるのにはそれなりに意味があった。
一個の軍事拠点と見るだけでも、相手方の点に対して、こちらは二つの点となる。二正面を強いることもできれば相手の後背を突くこともできるから、戦略の幅は当然、あるとなしでは大きく異なる。政治的な意味もあった。あるいはもしかしたならば、ツヴァイ側にはまだ生きた水源が残っているのではないか。そう敵国に思わせられるからだった。
ツヴァイ帝国の上層が、もはや人の住むことのできないはずの拠点を莫大な経費をかけて存続させているのはこれらの理由による。つまりは政治であった。もちろん、砂漠に突如突き上がって聳え立つ天嶮の要塞であり、防衛に適していることもそこが選ばれた理由にはなっている。
その街を治めるケッセルトはもちろん、それを理解していた。その問題点についても。
タニルの存在は、南の河川域が勢力下にあることを前提としている。補給がままならなくなればそれはただの孤立であり、当然、水がなくて戦える兵など存在しない。国防の最前線とうそぶきながら、つまるところこの街の平穏はその程度のものでしかなかった。
タニルには後方が存在しない。一枚めくれば中身がたかが知れる、所詮は砂虎の被りものだ。だが、その事実も話によっては変わってくる。例えば、タニルにほど近い砂海に潤沢な水源があれば――夢想のような望みが、しかし現実のものとなった。
水と、塩。特別な水源の近くでは鉱物等の資源が産出されるということを若い頃を帝都で過ごしたケッセルトは学んでいる。そこが価値ある源である可能性は大いにあった。
なぜその場所だけが、というような疑問についてはどうでもよかった。彼は学者ではない。その水源を中継した航路の復活がツヴァイにおける商交易へどのような影響を与えるかについても頭にはなかった。そんなことは、金稼ぎの業にまみれた商人どもが考えればいい。
男にとって重要なのはただ一つだけだった。これでもう少し、ましな戦争ができる。
精悍な顔つきには子どものような表情が浮かんでいる。内心もそれと同じく、枕元で英雄譚を聞いて眠れない心境に等しかった。身体のうずきを紛らわせるため女の身体を欲したが、さすがにこの場に帯同させてはいない。ケッセルトは脳裏に若く鋭い眼差しを思い出した。
怪しげな瞳を持った、冷えた獣のような少女。様々な意味でそそられる相手であったことは確かだが、今の今まですっかり忘れてしまっていた。奇妙な縁を感じるから、あるいはまた会うこともあるだろうが。
その少女を介して封書を渡してきた何者かについても、同じようにどうでもいい。旅の人間である少女は特に疑問にも思わなかったらしいが、少なくともその何者かが、その行動が自死にも等しいものであるとわかっていないはずがない。しかし、その選択が如何なる苦難と熟慮の結果のものであろうともそれに興味はなかった。それほどまでに、男の意識はただ道の先にある集落へと注がれている。
瞼にかかった砂を払ったサリュはゆっくりとその場に立ち上がった。一面の黄土色に塗りつぶされた視界に頭を巡らせると、先ほどとほとんど位置の変わらない太陽の下、保護色と化した色彩を纏ってかすかに蠢く人影が見えた。
遠く、地平の奥に見える緑の茂りに向かう少年の後ろ姿を眺めた彼女の顔が歪む。胸中に感情が飛来している。
集落に戻ろうと決めた少年の決意は、彼自身のものだ。それは尊重されるべきものだった。その結果に何が待ち受けていようと、自分で決めたのだから。それをわかっていて、サリュの内側では靄が晴れなかった。
奇妙な感覚があった。
自分がセスクに過去の自身を映し合わせていることは既に自覚するところだったが、それではこの判然としない思いは何なのだろうと彼女は疑問に思った。今自分から遠ざかっていく少年が、過去の自分だというのであれば――今のこの自分は、いったいなんの感情に引きずられているのか。
問うような視線に気づいた。若い砂虎が彼女を見上げていた。その瞳は野生の獣に特有の、澄んだ感情の色を映している。
「……ごめんね」
その耳元をなぞるように手を沿えて彼女は言った。クアルの瞳に映った表情に、なぜかそんな謝罪の言葉が浮かんでいた。
若い砂虎は応えず、ただ砂を吹かす微風に髭を揺らしている。荷をとり、達観した眼差しでいるこぶつき馬の手綱を掴む。去り行く少年に背を向けて歩き出し、ふとクアルがついてこないことに気づいて肩越しに振り返った。
砂色と同じ体毛をしなやかになびかせた若い砂虎が、じっと彼女を見つめていた。成熟した大人の砂虎に比べればまだ肉の薄い顔つきに、先ほどから変わらない静かな眼差しがこちらを捉え、ぴくりとも動かない。
「クアル……?」
声をかけた彼女を無視してクアルは歩き出した。サリュと反対側の方向へ。のっそりとして少し進んだ先で立ち止まると、誘うように振り返った。その延長線上には、はるか先をセスクが歩いている。
クアルの示す態度の意味を図ったサリュは戸惑った。彼女を叱るように、砂虎が咆哮した。
空間を裂いた轟声は、遠くを行く人物にも届いたらしい。ほとんど麦粒ほどになったその動きが止まり、確かにこちらを振り返ったようにサリュには思えた。
もはや顔色どころか上背さえ把握できないその人影が誰なのか、一瞬彼女は幻視した。それはいつか過去の遠ざかろうとする彼の姿であって、いつか未来に自分の下から離れる彼の姿にも思える。気づけば、彼女の足はそちらへと向けて歩き出していた。
さっと風が吹き、乾いた砂に何かが目に染みた。想いが喉元までを浸し、そこからあえぐように言葉が漏れる。待って、と彼女は言った。
ふらりと引き寄せられるように身体が揺れ、亡者のような足取りで砂漠を行く彼女の姿を哀れむように眺めた砂虎が、ひらりと身を翻してその後を追った。
「――ごめん」
近づいてきた彼女を迎えるなり、セスクは早口で告げた。緩い防砂具から覗いた幼い顔が、今にも泣きだしそうになっている。
「ごめんなさい。俺、やっぱりほっとけなくて。ごめん」
どうしてそんな顔をするのだろう。目元以外を隠したこちらの表情が見えるはずはないのだが、しかしサリュはそのことについて問わなかった。わずかに覗く目尻に、まだ泣き顔の名残が残っていたのかもしれない。
「村に戻って、どうするの?」
口ぶりに意図しない感情がのらないよう、注意を払いながらサリュは訊ねた。
「……わかんない」
セスクの返答は途方にくれていた。
「ぜんぜん、わかんない。なんでこんなことになったのか、どうして親父があんなことしたのか。でも、だから、話がしたくて。もしかしたらもう会えないのかなって。あんな村、大嫌いだけど、――母ちゃんの墓だって。あるんだ」
沸きあがる情動をもてあまして、その事を自身で苦しみながら少年は言った。静かさを装った視線でそれを眺めやって、
「そう」
「だから、一緒にいけなくて、ごめん」
少年らしからぬ苦渋に満ちた表情に、ようやくサリュは少年の言葉の意味に気づいていた。同時に、可笑しくもなる。こんな年頃の子にまで気を使われていたということを考えると恥ずかしさに我が身を呪いたいほどだが、それを表に出さない程度の自尊心もまだ残ってはいた。首を振って、彼女は小さな苦笑だけですませた。
「いいえ。……行きましょう」
歩き出すと、慌てて横に並びながらセスクが訊ねてくる。
「どうして?」
ついてきてくれるの、という省略された言葉に彼女は答えない。少年を納得させ、自分をごまかせるだけの答えを持っていなかったからだった。話題を転じて、サリュは訊ねた。
「セスク。村の人達は、タニルから兵がくると知って驚いていたの?」
「……うん。初耳って感じで、それでお姉ちゃんのことを話したら、皆が怒り出したんだ。俺も、すっごい叱られたけど。親父も何か言われてて、何も言い返してなかった」
「他には何か聞いた?」
セスクは申し訳なさそうに首を振った。
「ずっと寝てたから。……起きたら姉ちゃんが悪者にされてて、それで祝いの地に閉じ込められてるって親父に聞いて。助けなきゃって」
「そう」
情報はあまりに少なかった。それでも、洞窟で聞いたファラルドの台詞を思い出せばいくつか推測することはできる。
考えられる仮説としては、彼女に託された手紙が村の総意に基づいたものでなかったというのがもっともわかりやすい。集落の一部、あるいは誰かの意思で秘匿されていた水源の存在が勝手に公になる。軍や国家レベルの戦略など彼女にはとてもではないが想像につくものではなかったが、貴重な水源が近くにあれば、それを占拠に来るのが彼らという存在だということは理解していた。
水源の確保と管理は国の存在意義の根底にあった。国家に属する以上、貴重な水源の秘匿はただその一事だけで大罪である。周囲の地域で水源が枯渇している状況の中、イスム・クの枯れない水源――セスクによれば百年続いているというその水源の価値は計り知れない。
それを考えれば村人達の態度は納得がいく。自分達の水源を知られるということは、奪われることと同義であるからだった。それを納得した上で手紙を出したか出してないかでは、まるで意味が異なる。
しかし、それが何故、村の滅びに繋がるのかがわからない。恐らくは今回の一件を考えた犯人、少なくとも主犯格であるはずのファラルドが晩餐で言ったことは、それとは全く違った内容だった。あの時、あの男は航路と共に人の流れが途絶えた先に訪れるものが滅びだと言っていたではないか。
その言動がただの演技である可能性はもちろんある。しかし、男の動機が掴めなかった。確かなのは、ファラルドがその“滅び”に自分の息子を巻き込まないことを選んだということである。だからこそ自分をあの洞窟から逃がしたのだとしか思えなかった。
そのセスクが村に戻ろうとしていることを男は好ましく思わないだろう。かといって、いまさら彼を止めるつもりはなかった。では、どうするというのか。セスクの供をして村へ行き、それから? 自分の行動と感情の意味するところを把握できず、彼女はため息をついた。セスクに聞こえないように、ひっそりと。
内面に矛盾を溜め込み、せめて表情から一切の感情を削ぎ落とそうとする行為は、彼女には気づきようもないことだったが、彼女がごく短い時間を共に過ごした人物のものとよく似た思考のそれだった。
昼前には集落まであと少しというところに来たが、正面から村に入ってはもちろん村人達に捕まる恐れがあった。集落の隣に広がる外泉、その生い茂った緑にこぶつき馬とクアルを残し、二人は夜にまぎれて村へと忍び込んだ。
村の入り口には炎が焚かれ、夜番が立っている。セスクの案内で監視の目を潜り抜け、宿屋の裏戸を叩くと、重苦しい悲鳴をあげて開いた扉の向こうから現れた顔が驚きに歪んだ。
「お前達――」
絶句し、周囲を憚って中に招き入れてから振り返った顔に太い眉が逆立っている。
「なんのつもりだ」
射殺すような眼差しはサリュへと向けられていた。それと静かに相対して、彼女は傍らへと目線をやった。忌々しく男も隣へと視線を落とす。高みから見下ろされ、堪えて歯を食いしばったセスクがまっすぐに自分の父親を見返した。
「どうして帰ってきた」
「自分の家に帰って、なにが悪いんだよ」
「ここは俺の家だ。村を捨てたお前に戻る家などない」
雷鳴にも似た言葉。セスクが身体をびくりと震わせる。拳が強く固められた。
「――でも。俺の家で、村だ」
それを聞いたファラルドの表情がますます険しくなる。睨みあう両者から等分に距離を置いて、サリュは口を挟まなかった。挟む気もなかったが、どちらの言い分もわかるような気がしたし、どちらともが自分とは遠いところにあるようにも感じられていた。故郷。彼女には縁のない言葉だった。少し胸がうずいた。
「死ぬことになるんだぞ」
苛立ちを隠さずにいるファラルドに、セスクが噛み付いた。
「なんでさ。なんでそんなことになるんだ。村でなにが起きるっていうんだよ」
答えず、ファラルドは視線をサリュへと向けた。恨みがましい視線を受け流して彼女は言った。
「話すべきではないでしょうか」
「よそものが、勝手なことを言ってくれるな」
「確かに私は外の人間です。しかし、手紙を届けたのは私です、――捕まりかけてまで、などとは言いませんが。何が書かれていたかくらいは、聞かせてもらってもいいのでは」
ひとまず話を進めるためにサリュは言った。ここまで来た以上、彼女としても何かしらの結果を見届けたいという思いはある。その何かというのが、現状ではまるで検討もつかないのが問題だと思ってもいた。
それでもなお、ファラルドはしばらく口を開こうとしなかったが、彼らが部屋にあがった際に舞い上がった砂埃が全て床に落ちきった頃、ようやく重苦しい息とともに口を開いた。
「この集落はな、このあたり一帯の王様だった。自分達ではそう思っていた」
砂色の声を響かせて男は言った。
「祝いの地は、祝福だ。村にとっては信仰そのものだ。ここが、この場所こそが選ばれた土地で、自分達が選ばれた人間だとずっと信じていた。もちろん表向きにはそんなこと出しはしなかったがな。おおっぴらにする必要なんてなかった。ただ自分達が知っていればそれでよかったのさ」
無数の航路のなかにまぎれてひっそりと存在し続ける。胸の中を、傲慢な自尊心で満たして。
しかし、水源を隠し、訪れた旅人を騙してまで自分達の我侭を貫いたことの是非はともかくとして、その現実はあっけなく崩れ去った。
「……十年前。一帯の水源が枯れ始め、少ない人の往来が途絶えた時、俺達は思い知らされた。自分達がやってたのが結局、王様の真似事だったってな」
たとえ村に豊富な水と塩があっても、生活に必要なものが全て揃うわけではない。鉄をはじめとする鉱物、それを扱うための技術。流通に取り残されるということ。それは、治めるべき人を持たない王の愚かしさの比ではなく――一人きりの世界で自分こそが王なのだ、とほくそ笑むような空しさだ。
「まわりの土地が豊かなのも、ここの水源のおかげだとすら考えてたんだがな。実際にはまわりの水源は俺達とまったく関係なく湧き、まったく関係なく枯れていった。少なくとも俺達にとってはそうだった。なぜならどうしようもなく分かれてたからだ」
男は繰り返した。
「分かれていた。俺達と周りの世界は、まったく別だった」
「……それは、水源の問題ではないのでは」
控えめにサリュが言うと、男はじろりとした視線を向け、自嘲気味に笑った。
「その通り。問題は俺達だ。自分達は周りと違う、なんて思い込んで、引きこもっていたんだからな」
「だからこそ、タニルへの連絡が私に任されたのではないのですか」
自分達の過去を改め、他者との繋がりを求めた行為ではなかったのか。
男は答えなかった。その表情は暗く、例えようのない重さを含んでいる。それに違和感をおぼえて、彼女は気づいた。
前にファラルドの表情を見て感じたのは不平、あるいは不満だった。しかし今の彼にはそれがない。男はただ疲れきっていた。その表情に彼女は覚えがあった。それは彼女の村で、ただ死を待っていた人々が顔に浮かべていたものとよく似ている。苦い確信を込めて、彼女はうめいた。
「……あの手紙は、はじめからこの村を滅ぼすつもりだったのですね」
答えず、男はその混沌とした瞳孔の奥に秘められた感情を彼女へ向けた。
「なぜです。あの手紙は、閉塞したこの村の状況をかえるためのものではなかったのですか」
ファラルドはタニルから兵が来ることを聞いても驚かなかった。最初からその可能性を考えていたのだろう。それどころか、それこそが男の臨んでいたものだったのだ。サリュには目の前の人物の考えが理解できなかった。
「お前さんにはわからんよ」
ファラルドは言った。
「自分達が間違っていた。なら改めよう。そんなわけにいけばどれほど楽なものかね」
吐き捨てるように続ける。
「自分達の信仰。自分達の生き方。砂にまみれ、祖先がいきついた土地。村の人間にそれらをいまさら捨てることができると思うのか。そんなことを選ぶくらいなら今のままの状態で、いっそ孤独な死を選ぶ。それが村の総意だ」
矜持、などではないはずだった。ただ頑迷なだけだ。サリュは顔をしかめた。自分ではない他者が決めたことだから、自分には関係がない。しかし、何かがひどく不快だった。
かといってファラルドに共感ができるというわけでもない。村の意見に納得しなかった男がとった行動はつまり、
「滅びるくらいなら、滅ぼされる?」
「埋もれるなら、せめて奪われるべきだろうさ」
「――勝手ですね」
はじめてはっきりと不愉快さの含まれた言葉がサリュの口から漏れた。それを聞いたファラルドはわずかに眉をあげ、平静に応える。
「その通りだ。しかし、とやかく言われるいわれはねえな。俺があんたに非難されるとしたらたった一つ、騙して手紙を届けさせたってことだけだ。それにしたって、騙されたあんたが悪いとしか言いようがないがね」
眉をひそめ、しかしサリュは声を荒げはしなかった。彼女としても、いまさらあの手紙の中身を聞く気は失せていた。
恐らくは内容などどうでもよかったのだ。村の所在と、水と塩のことを伝えることができたなら。それに加えて彼女の外見がもたらすものも少しは考えたのかもしれない。旅装に身を包んであたりをはばかる旅人。その瞳の異質を見れば当然のこととして、そうでなくとも不審に思われるのは予想に難しくない。懸念、疑惑。そこから必然的に生まれる興味を結びつけるための餌に、たまたま通りかかった自分が選ばれただけ。
確かに文句をいう筋合いではなかった。巻き込まれ、いいように利用された自身の浅はかさを呪うしかない。岩塩に対する処置の不味さも、セスクを連れていたせいでいざというときの動きが鈍ってしまったのも。そもそもが危険があると承知したうえでのタニルへの旅だったのだから。沈黙するサリュから視線をはずし、ファラルドは自分の息子へと顔を向けた。
「この村は滅ぶ。お前が村と一緒に死にたいというのなら、好きにしろ」
「……なんでだよ。なんでそんな。お袋だって眠ってるのに」
「眠っているだと?」
言葉を震わせたファラルドが何かを言いかけ、それを飲み下した。顔を背けて、そのまま振り返ることなく男は部屋から出て行った。
残されたサリュとセスクはしばらく無言で、その長い沈黙を破ったのはサリュだった。
「休みましょう」
情けない表情で見上げてくる少年に向かって彼女は言った。
「疲れてるわ。そんな状況で考えても、ろくなことは思いつかないから。ファラルドさんの決意は固いから、いったいどうすればいいのか。あなたは考えないと」
「……俺、どうしたらいいんだろ。どうしたら、いいと思う?」
途方にくれた様子に、
「わからないわ」
そっけなくサリュは言った。本心からの言葉だった。自分のことだってよくわからなかったから、助言のしようもない。途方にくれた思いは彼女も同じだった。
「どちらにしても、時間はあまりないと思う。早ければあと数日で、タニルからの兵が来るかもしれない」
サリュが一度外へ出て、こぶつき馬を繋いでから戻ってきた時も、セスクはその場に立ち尽くしたままだった。
思考にとらわれて身動きできないでいる少年を一瞥し、声をかけずに彼女は二階へとあがった。ファラルドの許可は得ていないが、身体を休めるのに適当な部屋を使わせてもらうつもりだった。
階段をあがったすぐそこにあった部屋に入る前、最後にもう一度、階下へと視線をめぐらせる。セスクはやはり、たたずんだまま動いていなかった。
闇と埃が沈殿した部屋を進み、外に光が漏れないよう木窓を確かめて灯りをつける。外套を剥ぎ取り、おっくうさを覚えながらいつもの一連の行為をすませて寝台へ腰掛けた。そのまま横になる。
疲れは骨の髄まで残っていたが、睡魔の訪れはなかった。昼間、日陰で身体を休めていたせいもあるが、それだけではない。
この一日中、自分のなかでずっとなにかがざわめいている。不定形のそれを手には掴めなくとも、せめてそれがなんなのかだけでもわからないものかと、彼女は目を閉じた。
どうしてこの村までついて来たのか。セスクと別れることができなかったのか。集落に近い将来、訪れるだろう未来にまで思いを巡らせてから、自分が村についてなどどうでもよいと考えていることに気づく。
彼女の心にあるのはセスクのことだった。いや、そうではない。正確には――あの少年に投影された、過去の自分。しかし同時に昼間、彼女は去り行く少年の姿にそれ以外のものも重ねていた。
息を吐く。
結局、自分は寂しいだけだ。そう認識せざるをえなかった。
トマスを出てから彼女は一人だった。それがセスクという旅の供を得て、そのたった一週間のことで誰かといることに慣れきってしまった。それまでもクアルと一緒にいて、これから先もあの忠実な友人は自分の側にいてくれるというのに、おかまいなしにそんなことを感じる性根がひどく弱々しく、彼を裏切っているようにすら思えた。
それほどまでに、誰かの存在は甘美な毒物に似ていた。表情が自嘲に歪む。今さらのことではあった。彼女の生は根底から一人の人物に囚われている。ではあの人は私にとって毒のようなものなのと考え、昔は自分の方がそうだと考えたことがあることに思い至って、笑みに苦みが増した。つまりは、どちらにとっても有害なだけかもしれない。
それでも彼を探すことを諦めるという選択肢はなかった。言葉どおり、それが彼女の生きる目的だった。なんとしてももう一度あの人に出会い、そして。
頭を振る。それ以上の想像には苦痛が伴った。螺旋に彷徨いかけた思考を終わらせ、荷物から飲み水を取り出そうと身を起こしかけたところで、部屋の扉が叩かれた。
「……どうぞ」
蝶番をきしませて姿を現したのはファラルドだった。手に持った灯りで顔に深い陰影をつくりながら、男は言った。
「どうしても出ていかないつもりか」
男の発したのは、うなるような声だった。
「明日にでも。その前に、少しは身体を休ませないといけませんから」
男は噛み締めた歯の隙間から押し出すように、
「悠長なことを。村の連中に見つかったら、ただですむと思っているのか」
「あなたが黙っていてくれさえすれば、一日程度は潜んでいられます」
ファラルドはあきらかにセスクを村から遠ざけようとしていた。洞窟から自分を逃がしたのも、温情というわけではないだろう。もちろん、利用したことへの罪滅ぼしなどでもないはずだ。
セスクに生きてもらいたがっている。その意図はわかっても、理由についてはよくわからなかった。親だから? それだけで納得できるほど、彼女は家族というものを理解していない。
「むしろ聞きたいのは私のほうです。どうして、セスクと一緒に村を出ないのですか」
「あんたにはわからん」
先ほども聞いたその言葉は、なんの感銘も与えはしなかった。暗い顔の男が出て行き、部屋に残された彼女はふとセスクのことを思い出したが、様子を確かめようと廊下に出ることはなかった。
少年が何を思い、悩んだ末にどんな結論を出すのか。出せるのか。関心がないわけではない。しかし、自分の感情が少年ではなく、過去の自分に向けられたものであるとわかっていたから、偽りの気持ちで彼に接するべきではないと思った。
実際には、そうしたくないだけかもしれない。ファラルドとセスクの、自分には理解できない関係性について思うところがあった。家族。親子。故郷とともに自分が持ち合わせていないそれらに対して、嫉妬しているのかも。いいや、あるいはもっと別種のものではないか。たとえば――誰かがいないことの代償を他に求める。そんな自分を認めたくないだけなのではないか。
――ならいっそ、一人がいい。
ああ、とサリュはうめいた。他者の存在を否定する呟きは過去、彼女の捜す人物が漏らした本心と近似していた。少しはあの人に近づけたのかと思い、しかしそのことに喜びを感じるよりも無性に悲しくなって、彼女は寝台へと身体を投げ出した。
引き寄せた腕にひっかかるのはシーツの手触りだけで、小さく丸めた身体に触れるものはない。温かな毛皮も、少年の息遣いも。求めて与えられないものの代わりに胸に抱こうとしたそれらを思い、自分のその浅ましさが彼女は嫌になった。
思考から逃げるように目を閉じても、しばらくのあいだは寝付けそうになかった。