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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 黄金在処
22/107

 閂のかかった木扉を叩き、不機嫌な表情で戸を開けてくれた宿の主人に口早に詫びを入れて、サリュはすぐに部屋に戻るとベッドから転び落ちそうに眠るセスクを叩き起こした。寝ぼけ眼の少年が頭をふらつかせている横で瞬く間に荷を整えはじめる。

「……街、出るの」

 静かな双眸を向けて彼女は答えた。

「ええ。あなたは、残ってもいいのだけれど」

 少年が首を横に振ったのに、サリュはむしろほっとする思いだった。こんな年頃の子どもが一人、街に置き去りにされてどうなるのかということを考えたからだった。それを表情にはおくびにもださず、

「そう」


 ランプの灯りを近づけて少年の顔色を窺う。一日休んだところで体調が戻っているわけがないのは自身のそれでわかりきっていたが、少年の目、肌、唇、それから心臓の鼓動と握力を確かめて一瞬目を閉じ、逡巡を振り払うように開いた。

「河川沿いを行くから夜には、休める処に着けるはずだから。それまで我慢して」

「……あのさ。村に寄る道、通りたいとか言ったら。迷惑かな」

「――村に帰るの?」

 訊ねる言葉に、彼女自身気づかない感情がこもっていた。慌ててセスクは頭を振って、

「そうじゃないけど。そうじゃなくて、やっぱり、挨拶しときたいなとかって。親父と、あと、母さんの墓に」

 視線を逸らして言った。サリュはすぐに答えなかった。容易に答えうるものではなかった。


 今の体調で往路と同じ道を行くなどということは、とても薦められたものではない。確かに砂海を突っ切る方が直線距離としては短いだろうが、自分達の体調が万全で無い以上、そのような利は些細なものでしかなかった。

 だが、セスクの村に行くためには水源の枯渇した砂海を渡る以外に方法はなかった。そして、そんな無謀な少年の希望を引き受ける旅の同行者など、自分以外には望めないだろうことも彼女にはわかっている。

「それに。俺、聞いたんだ」

 少年が思いつめた表情をしているのにサリュは気づいた。

「昨日姉ちゃんと行ったあの食堂で、兵士みたいな連中が話してたんだ。ここの領主が、どこかに兵を出すって。水場が見つかったとか、そんな噂」

 サリュは眉をひそめた。

 水場。一帯での水源枯渇が取りざたされる中で、そんな場所がたやすく見つかるとは思えない。つまりそこは彼らの知る場所である可能性が高い。

 セスクの故郷である水と塩と緑に溢れた集落。そこに兵を送る意味があるだろうか。あるだろう。今の状態で安定した水場というのはそれだけで価値がある。河川から離れた位置にあるタニルからすれば、その存在は貴重な生命線にもなりえた。実際にこの街を治める領主と話した彼女には、その可能性を否定する理由が見つからなかった。


 セスクが不安に思うのは当然だった。村はツヴァイに反抗しているわけではない。それどころか、それまで隠遁していた自らの在り処を伝えてきたのだから、積極的な恭順の姿勢と見るべきだった。そこに向かってあえて兵士を向かわせるというのは、それは村に対する姿勢そのものだ。

 ケッセルトという、あの獣のような雰囲気を纏った男がそう愚かな行為に出るとは思えなかったが、どんなことでもやってのけそうな気配もある。村が自分達で選んだ道とはいえ、セスクにしてみれば兵が向かうかもしれないことを伝えたいのだろう。例えどれだけ憎く思っていても、彼にとってその場所は故郷なのだ。

「……わかったわ」

 家族。大切な人との別れ。結局、彼女の判断をそう傾けたのは、それを持たないことへの引け目と、それに近い存在を無くした事の経験からきた感傷のようなものというしかない。到底、合理的なものではなかった。もしかしたら自分はまた間違っているのかもしれないという予感がサリュの頭をよぎった。

「けど、来た時よりも辛い旅になると思うから。それは覚悟して」

 決意を固めた表情で頷くセスクに、彼女はこれからのことを説明した。その必要があった。

 領主の元から勝手に抜け出して、出兵の噂まであるのだから、すんなりと街を出られるとは限らない。そうした達しが出ている可能性は高かったし、商人ならまだ日の昇らないうちに出立することもありうるが、旅人がこの朝方に出ようとすることだけで門兵から不審を抱かれる恐れもあった。

 天然の要害である街から抜け出すことそれ自体は、そう難しくはない。自然の地形をそのまま利用しているから、逆に目に行き届きにくいところが必ずあるはずだった。外から登るのは困難でも、中からそうだとは限らない。切り立った崖のどこかから砂海に出られる道を探してもよかった。

 ただし、その場合にはこぶつき馬や積荷を諦める必要がある。最悪の場合、それを選択することも彼女は考えており、だから荷物は最低限、必要なものだけを選び抜き――水、食料、航路図などの旅道具と、一冊の本――不要な物はここに置いていく予定でいた。彼女の懐には分不相応な岩塩の結晶もその一つだった。


 荷をまとめると、サリュは宿の主人に迷惑料込みの後金を払って宿を出た。不機嫌そうな顔のまま、最後まで主人は何も言わなかった。それが消極的な黙認であれば助かるが、あるいはすぐに裏口から館に密告に出たかもしれない。こぶつき馬をひいてすぐに街の出口に向かい、そこに出立間近の商隊らしき一団を見つけて、サリュはそれを率いる男に金を払って街の外までの同行を願い出た。

「なんだってそんな必要がある? お前さんら、なにかやらかしたのかい」

 胡散臭そうな視線と言葉を向けられる。当然の疑問に、打ち合わせどおりにセスクが答えた。

「あのバカ領主、姉ちゃんに声かけてしつこいんだよ。俺の女になるまで街を出さないぞなんて言いやがるから、すぐに逃げたいんだ。お願いだよ、俺、あんなバカに姉ちゃんのこと取られたくないんだ」

 期待していた以上に真に迫った演技に、それを聞いた男が目を丸くし、大きく笑った。

「ここの領主の女癖の悪さは有名だからな。お前さん、いい根性してるじゃねえか。よし、わかった。ちゃんと外まで送り届けてやるから、それからは姉ちゃんのこと守ってやるんだぞ」

 サリュは幌で覆われた荷車にかくまわれることになり、セスクは見習いとして一団に加わりそのまま街を出ることに成功した。この時点で、門兵にはサリュ達に対する通達など届いてはいなかったのだが、もちろんそのようなことがわかるはずもなかったから、事が上手く運んだことをサリュは素直に安堵した。


 街の外で、よければこれからの道程も一緒するがという男の誘いを断り、二人は彼らの後ろ姿を見送ってから航路ではない方角へと足を向けた。

 南西に半日程行った水場で、彼らは旅の同行者と再会した。クアルは水場にいなかったが、口笛を聞きつけてすぐにその姿を現した。大げさな感情表現でサリュへとのしかかってくる若い砂虎にじゃれつかれながら、そこで日が落ち始めるのを待った。少しでもタニルから離れておきたかったが、今の体調で日射のきつい時間帯を歩くのは危険すぎる。



 昼前までたっぷりと睡眠をとったケッセルトが私室で遅い朝食をとっていると、事務官を務める小柄な男が入ってきた。

「飯がまずいぞ、キーチェン」

 文句の形で口が開かれる前に、機先を制して告げる。

「は? はあ、左様ですか。私には普段のものと変わりなく感じましたが――」

「起き抜けに景気の悪いツラを見せられたせいで不味くなった」

 渋面になって押し黙る事務官に、木匙をくわえた口を歪めてケッセルトは報告を促した。不満げな表情のまま、男は口を開いた。


「姿を消した旅人の宿に兵をさしむけましたが、もぬけの殻でした」

「逃げたか」

「はい。どこか別の宿に身を隠しているだけかもしれませんが、昼までに何組か街を出た連中がおります。二人連れの姿はなかったようですが、南との定期商隊が一つ、流れの商人も幾つか。その中に紛れ込まれた可能性は高いでしょうな」

「ふん。まあ、そんなところだろ」

「すぐに門兵に指示を出しておけば、見つけられたかもしれませんが」

 恨みがましい視線に、男は片眉をあげた。

「見つける? どうしてそんな必要がある」


 思いもがけないことを言われた事務官が戸惑いをみせた。

「あの旅人にお尋ねになりたいことがあったのでは」

「ないな、そんなもの」

 昨夜のやりとりを思い出しながら、男は手を振って言った。

「あの娘はなにも知らんよ。人を探してここに来たらしいが、本当にそれだけだろうさ。どうも巻き込まれたらしいな。世慣れてもなかったから無理もない。人が好いんだな」

「しかし、それではなぜここから逃げだすような必要があります」

「さて。なにも知らんとはいえ、秘密にしておきたいことぐらいあるだろうさ。女に隠し事はつきものだ。俺が昨夜、少し虐めすぎたかもしれん。できれば悦んだ顔も見てみたかったが」

 それを聞いた相手の表情が、またか、という呆れたものになる。


「あなたの死に場所はきっと寝台の上でしょうな」

「そうありたいもんだ」

 部下の皮肉を軽く受け流して、ケッセルトは話題を変えた。

「幸福な人生の終わり方についてはともかく。準備は」

「は、明日の夕刻までには全て整います。お言葉どおり馬ではなく、輜重用にて二週分。……本当に百名でよろしいので?」

「ここらで戦場楽を聞かなくなって久しいが、一応今でも最前線だからな。独断でそれ以上抜くわけにはいかんだろう。集落程度の示威行為には十分すぎる数だ」

「は」

「拙速は大事だが、砂海に出ようというんだ。焦ったところで得はない。手抜かりのないようにな」

「……しかし、やはりどうしても信じられませんが。そのような場所が本当にあるとは」

「なんだ。疑り深いな。あの岩塩は見たんだろう」

「見ました。宿にも、大きな結晶が捨て置かれていたそうです。街を出るのに荷になると思ったのでしょうな」

「ああ、それは――悪いことをした。やはり、虐めすぎたか」


 心の底からすまなそうな表情をつくる上司の態度に、小男は内心で肩をすくめた。

「確かに、極めて純度の高い岩塩のようです。あれだけのものが採れて、安定した水源まで確保できる。普通なら妄言としか思えません」

 男はつまらなそうに鼻息を鳴らし、卓上に置かれた羊皮紙に目をやった。

「だが実際に塩は辛いし、こうして手紙も届いてある。砂に定まる道理はないぞ」

「ですから、砂海を渡ったなどというのが虚言なのでは。どこか別のところから用意した岩塩と架空のオアシスの存在で我々を騙し、出兵したところを攻めてくることも」

「寡兵でもって奇襲、占拠か? 俺が相手方ならぜひやってみたいところだが」

「……ご冗談でも、そのようなご発言は」

「気にするな。まあ、無理だな。ここら一帯の枯渇は向こうとて同じだ。南の河川域は現状、我が国が占有している。補給線が整わずに兵は動かせん」

「しかし。例えばその手紙にあるオアシスがあるのは実は敵方で、そこに兵を隠しているということも考えられます」


 むしろそうした事態を心待ちにしているように、男はうっすらとひげの生えた顎をなぞった。

「ああ、いいな。そういうのはとてもいい。しかしだからこその少数派遣だろう。百名が抜けたところに敵が来たところで、半月も持たせられないほど無様な部下は持っていないはずだがな」

「それは、そうですが」

「ならその間に、こちらは包囲する奴らの背後を迂回して兵站を切る。件のオアシスがそちらにあるというならそのまま奪うまでだ。こちらが先手を打てる限り自由にさせてやればいい。誘い水に終わるならそれもよし。挟撃を阿吽で図れるくらいには俺とお前の付き合いも長いと思っていたが、違ったか? 違わんだろう」

「もちろんです」

「だが、そこまで考えての謀略なら、届けられた手紙とあの娘の言い分に食い違いがある理由がないな。騙すために、統一されていない情報を与えることになんの得がある。こちらの足を鈍らせるだけだ。下手に細工を弄して大本の謀略を崩すような阿呆ならともかく」


 ひらひらと羊皮紙を揺らす。挨拶状といって渡されたそれには、確かに初めて聞く村、その長からの言葉が並んでいた。ただしそれはただの挨拶状では終わらなかった。あの若い旅人は中身を知らなかっただろう。知っていれば、あのような態度をとれるはずがない。つまりはそれが男の結論だった。

 反駁する言葉を持たずに事務官は沈黙したが、

「あの娘はシロだよ」 

 という強い断定の言葉にはうろんな視線を向けた。

「どうしてそのような自信がおありなのです」

「さあ、どうしてだろうな。勘みたいなものじゃないか?」

 忠実な男の部下は何も言わなかったが、表情が何事かを雄弁に語っていた。とりあわずに男は続ける。

「まあ、行って何もなければ笑われるのは俺さ。付き合わせた兵どもには申し訳ないが。ともあれ、間諜らしき存在が外に逃げだしてくれた以上、兵を動かす名分は立つ。気をつけるべきは南の河川域の状態だけだ。そこさえ落ち着いていれば、もしここが取り囲まれたところで行動の主導権はこっちにあるからな。斥候は密に、もちろんこちら側の連中にも怪しまれないようにしろ。漏らす情報は商人どもの噂程度で留めておけ。せっかくの手柄を嗅ぎ付けられても、なんだ、困る」


 男が独占したがるものが女だけではないことを知っているキーチェンも、それについては何の不満はなかった。誉れは自分達に在るべきだと当然のように考えている。今回の件は戦場の武勇とは異なるが、比べ物にならないほどの価値を持っていることを正しく理解していたし、自分の上司がそうした高みからの視野を持っていることを尊敬してもいた。このタニルという街を治める人物は、ただ戦場働きに優れるだけでは許されない。

「準備のあとに出発だ。念は入れて、だが遅滞させるなよ」

「時は砂底に黄金を埋もらす、ですな」

「そして我々が向かう先にも黄金が待ってくれている。せっかく降って湧いた奇跡のような機会だからな。せいぜい、どちらも手広く頂くべきだと思うね」

 ケッセルトは笑った。己の行動に一切の疑問を感じていない、邪気のない笑顔だった。



 空の色が変わる頃、二人は水場を出た。

 本当なら日が翳りだした時間に出発する予定だったのだが、クアルの横で膝を抱えたままいつかうつらうつらとしていたサリュが気づいた時には、もう西の地平線が朱色に落ちかけていた。目の前で、心配そうにセスクが彼女を見ている。

「大丈夫?」

 返事をしかけて、開いた唇が乾燥して張り付いていた。防砂具の隙間から入り込んだ砂塵が喉をくすぐり、咳き込んだ彼女にセスクから水袋が渡される。わずかに口をつけて水気を得た彼女は改めて礼を述べた。

「ありがとう」

「ううん。ごめん、起こしたほうがいいかなって思ったけど、疲れてたみたいだから」

 確かに起こしてくれたほうがよかった。だが悪いのは眠りこけていた自分なのだから、少年にあたるわけにはいかない。それよりも、ここまで自分の体調が芳しくないことの方が彼女には恐ろしかった。頭には疼痛がへばりつき、四肢がひどく重く、だるい。セスクの村まで約一週間の道のりがある。果たして乗り越えられるだろうか――こちらを見る少年の瞳が不安そうに揺れているのを見てとって、サリュは内心の動揺を押し殺して立ち上がった。


 ここで死ぬわけにはいかない。セスクを殺すわけにも。二言目に頭に浮かんだものに、彼女は自分でも少し意外に思った。いざとなれば、彼の血で咽の渇きを癒すことも考えているはずなのに。それは決して大げさな表現ではなく、実際にそうするしかない状況になったなら、ためらわずにそれをする覚悟がサリュにはあった。


 それなのに、そんなことを思う自分に違和感をおぼえ、少年の瞳に映る自身の姿がぶれ、そこに誰かの表情を見出して彼女はいまさらのように得心した。

 自分は、この少年にあの頃の自分を重ね合わせていたのだ。セスクを殺したくないのは、自分が殺されたくないから。自分が殺されなかったと思いたいからだ。何かあればいつもすぐに胸に起こす短い言葉をサリュは呟いた。――あの人なら、どうしただろう。

 流砂に巻き込まれ、水を枯らして二人で砂海をさまようことになったら。私の咽を裂き、血で渇きを癒しただろうか。それとも、達観した瞳で薄く哂い、何もせずに死を享受しただろうか。わからない。前者のような気もするし、後者のほうがあの人の生き方には似つかわしいとも思える。ひどく短い時間しか共有しなかったその人物について、サリュにはその程度の認識しか持ち合わせていなかった。


 確かなことは、彼は私に生きろと言ったことだ。それと、もう一つ。彼は私を守ってくれた。実際に水に飢えるような状況になったことはなかったけれど、しかし事実として、私の喉は裂かれてはいない。だから私は死なないし、セスクを殺したくもないのだ。

 そのために必要なことは明らかだった。歩かなければならない。足を留めていたところで、終わりの無い砂の果てにまで流されるだけだ。

「――行きましょう」

 声をかけ、こぶつき馬の手綱をとって彼女は足を踏み出した。


 それからの道中を、彼らはほとんど無言で歩き通した。

 往路より救われた点は、既に休息に使える水場や、村の跡の場所を把握できていたことである。もちろん、水島ならこの数日の間に枯れてしまっている可能性はあるが、一度知った航路を歩くというだけで心理的には気が楽になる。

 あとは自分達の体調に気をつけながら、一歩踏み込むたびに疲れを訴える体の各部位を騙し騙し、足を進めるだけだ。まだ目標ははるか彼方に蜃気楼となってすらいなくとも、一歩前に進むたびに目的地に近づいているはずだった。


 四日目。航路図では行程の半ばを既に過ぎたあたりで、セスクが体調を崩した。急性の脱水症状というよりは、疲労で身体全般の機能が低下しているような症状だった。成長期前の未成熟な身体を思えば、よくここまでもったというべきであった。

 サリュは近くの水場、あるいは村の跡で休まずに先を急ぐことを選んだ。追っ手の存在もあるが、ここで多少休んでみたところで、セスクの体調の悪化が緩和することはあっても、上向くことはないと判断したのだった。かわりにセスクの荷を全て自分で抱え、セスク自身はこぶつき馬の背に跨らせた。

 背中のこぶの盛り上がりをへこませたこぶつき馬は、とびきりの不平に口を歪ませて、いつものように何も言わなかった。のそりと近づいてきたクアルがサリュを見上げる。視線が、まるで自分に乗るかといわんばかりの態度に見えて、彼女は自分にとって弟のようなその砂虎の小さな額を揉んで好意に応えた。

「……あと二日で着くから。頑張って」


 ほとんど生気を失って青ざめた表情のセスクに声をかける。少年は弱々しく口元に笑みを浮かべて頷いてみせた。サリュも微笑みを返したが、それが笑みの形になっているかあまり自信はなかった。体調が悪化しているのは彼女の連れだけではなかった。 

 歩き出す。いつもはほとんどかかない汗がにじみ、それが目に入って視界を歪めた。ぬぐってもぼやけたまま景色が戻らない。きつくまぶたを閉じて、闇の中で平衡感覚を崩しかけた彼女はこぶつき馬に寄りかかった。手綱に引かれたこぶつき馬が煩わしげに首をもたげる。足元になにかの温かみが触れた。ようやく視界を取り戻し、目を開いたそこに心配そうに見上げるクアルの縦に切れた虹彩があった。

 声をかけるどころか、防砂具の奥で相手に向かって瞳を和らげる余裕も彼女には残っていなかった。無言で砂虎の頭を撫でて、再び足を持ち上げる。鉛のように重いそれを一歩、一歩、踏みしめた。

 そう遠くない先に訪れるだろう限界まで、彼女は僅かに残された余力を両足に集中させ、頭の中は空白に染め、ただひたすらに足を前へと投げ出し続けた。


 その日の夜には、サリュは昼間とは逆にまるで唾が出なくなった。危険な兆候だった。身体に負担のない範囲で水を補給し、干し肉をかじって唾液を促して、なんとか滋養を確保する。彼女以上に体調の悪いセスクはほとんど水しか受け付けようとせず、半ば無理やりに水に浸したパンを含ませて、喉の奥に嚥下させた。無理にでも食べておかなければ、明日まで持たないことは明白だった。

 何か消化のよいスープでも作れればよかったのだが、手持ちの水にも余裕がなかった。恐らく明日には村に着けるはずだが、かといって全てを使い切ることはできない。あと一日、我慢してもらうしかなかった。


 衰弱しきった身体では、砂漠の夜の冷え込みは一人では到底耐えられない。サリュとセスクは互いの身を寄せ合い、その二人をクアルが囲むようにして彼らは夜を明かした。


 身を切るような寒さに耐えられず、彼らは日が昇る前に出発した。朝焼けが東から大地を照らし、それまでの冷え込みが嘘のように吹き払われる。かわって大気に熱がこもり、すぐにじりじりと身を灼く暑さとなった。朦朧とする視界の先に、何かが見えた。

「……セスク。前、見て」

 ぐったりとこぶつき馬に倒れ掛かっていたセスクが目線をあげた。地平の果てに、緑色の靄がかかっていた。森。その蜃気楼が遠くに浮かんでいる。

「もう、少し?」

 かすれきった声でセスクが言う。サリュは頷いた。

「そう。もう少し」

 追いかければ逃げるそれをただただ追いかける。

 夕方前にようやく、幻はその姿を地に根付かせた。実在のものとなったその麓に小さな集落の存在が見える。サリュは隣を歩くクアルの首を撫で、先へと送り出した。村に砂虎は連れて行けない。すぐに意図を察した若い砂虎が地を駆け、少し進んだところでこちらを振り返って心配するように一鳴きしてから身を翻した。森に直接向かわず、砂海を縫うように駆けてゆく。そのまま遠回りに水場へと向かってくれるだろう。


 やがて、砂海の中でぽつんと浮き出るように緑に囲まれた集落の姿が近づいてきた。入り口に立っていた誰かが彼らに気づき、慌てて村の中へと戻っていく。その態度を怪訝に思う余裕もなく、ファラルドがすぐに出てきてくれることを祈りながら集落へと向かい、入り口の手前でついに彼女は力尽きた。

 足から崩れ落ち、そのまま前のめりに倒れこむ。ざらついた砂の感触とそこにこもった熱が一瞬だけ彼女の意識を覚醒させ、目線だけで見上げた先で何人かの村人がやってくるのが見えた。

 その中に見知った顔があった。他の人間より隆々とした体格の壮年の男。こちらへと一直線に足を向けるファラルドの顔つきがひどく険しく、その視線が憎々しげな気配をたたえていることに彼女は気づいた。



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