2
それから周囲の店をまわったが、彼女の探す人物に関する情報はなかった。水や食料の仕入れに砂海で夜営するための道具の手入れや購入、あるいはボノクスへの道のりや航路周辺の最近の動向についての確認。街に来た人間がそれらの何一つとして行わず、誰とも言葉を交わさないことはありえない。それでいて何の手がかりも掴めないことはつまり、唯一つの事実を指していた。見渡す範囲の店に足を運び尽くした結果、ようやくサリュはその結論を受け入れた。
彼は、この街を訪れていない。
まったく頭になかったわけではなかった。食堂で女中から話を聞いた時、あるいはその前から。もしかするとこの街に着くより先に、自分は半ばその結果を思いついていたかもしれない。果たしてそれは予測か、それとも諦観なのだろうか。
陰鬱な気分が足元から忍び寄り、そのまま喉元まで這い上がるような思いを覚えた彼女はそれを吐き出す息を吹いた。隣で心配そうな表情で見あげるセスクにわずかに目元の和らいだ一瞥を送り、
「戻りましょう。ごめんなさい、疲れているのに」
気遣わしげな表情で、少年は何も言わなかった。
今になって身体が旅の疲れを認識したかの如く、宿への道を歩く全身に重さがのしかかってきた。これからについて。セスクについて。考えるべきことは多いが、それを行うだけの余裕が今の彼女にはない。振り払ったはずの気配がまだ足裏に残り、彼女を砂地獄に引きずり込もうとしていた。
何の手がかりもなかったことに自分でも思っている以上に衝撃を受けていることを自覚して、無意識の動作で隣に手を伸ばしかけ、そこにいるのが砂虎ではないことに気づいて首を振った。クアルは、今頃どうしているだろう。
すぐにでも街を出て合流したいところではあったが、しかし身体を休めずにこれからまた一週間近くの日程に出ることは文字通り自殺行為でしかない。それに、自分以上にセスクは疲れきっている。
心と身体の双方に鎖が纏まりついているようだった。煩わしさに顔をしかめ、ふと思う。あの人も、そうだったのだろうか。
――今は何を思っても、良い様には考えられそうになかった。思考を遮断して彼女は足元に視線を落とした。一歩一歩地面を踏みしめる自分の足だけに意識を集中させて、砂海をそうするようにただ歩くことへと専念する。
宿に戻り、仏頂面で鎮座する主人に会釈を向けて階段を上った。その背後から、主人が声を掛けた。
「客だよ」
振り返った先に、複数の男達の姿があった。いずれもさっぱりとした服装に身を包んだ、壮年よりは幾らか若く見える集団。表情に貼り付けられた笑みにむしろ警戒をおぼえ、彼女は油断なく周囲に目を配りながら口を開いた。
「……なにか」
「失礼。先ほどこちらに到着された旅の方、というのは貴女方で間違いありませんかな」
一団の中の一人、最も小柄で痩せこけた様相の男が言った。奇妙に甲高い声だった。質問口調でありながら、実際にはそれは確認でしかない。門番や宿屋の主人も含め、裏をとっていないはずがなかった。否定してみせて得るものはない。無言で頷くサリュに目を細めて、男は口上を述べた。
「我々はケッセルト男爵様の使いです」
控えめな――そう本人は思っているだろう、自尊心を忍ばせた言葉に、サリュは沈黙で応えた。
目の前の相手が驚きを示さないのに、男が露骨に顔をしかめた。もしや聞こえなかったのかと、やや声高に繰り返す。
「我々は、ケッセルト男爵様の使いの者です」
「その使いの方々が何の御用でしょうか」
男の眦が吊り上がった。連動するように笑みの形だったはずの口角まで持ち上がると、途端に不自然に歪んだ顔相を晒す。階段の下から見上げる相手の下手な百面相じみた変化を、頭に被った防砂服の奥から冷めた眼差しでサリュは眺めていた。
別に挑発したつもりではなかった。疲れていたし、目の前のこの男のように権威を笠に着た存在を好ましく思っていないだけだった。その居丈高な態度は、彼女が知るある若い貴族の姿からあまりにかけはなれている。
なんとか怒声をあげるのだけは必死に堪えた様子で、男は口ひげを震わせた。
「砂海を越えてこの街に現れたという旅の人間に、男爵様は大変強い興味をお持ちでおられます。ぜひ直接お話を聞きたいとの旨、たまわっておりますれば、我々にご同行いただけますかな」
丁寧を装ったその言葉もやはり、同行を前提としたものでしかない。彼女は傍らで不安そうに立つセスクを一瞥し、それから階下に向かって首肯した。ただし、と付け加える。
「この街に着いたばかりで、酷く疲れています。この子は宿で休ませてあげたいので、伺うのは私一人ということでお許し頂けませんでしょうか」
多少、相手を慮ってみせた言葉で、男の自尊心は満たされたようだった。鷹揚に頷いてくる。
「けっこう。それではご案内しますので、お支度があればお早く」
「ありがとうございます」
うわべだけの礼を述べて隣に視線を向けると、言いたい台詞がそのまま顔に書いてある少年が口を開きかけ、サリュはそれを遮って声を上乗せた。
「それじゃ、セスク。少し行ってくるから、あなたは部屋で休んでいて。もし帰りが遅ければ、ご飯は……お願いできますか?」
それまで彼女と男達の話を我関せずの態度で聞き流していた宿の主人は、問いかけられた言葉に一瞥もくれないまま、ただ顎を引いて了承の意を示した。
「ご飯はそういうことで。荷物のお手入れ、よろしくね」
少年が眉をひそめた。それが男達から見えないよう、微妙に立ち位置を変えながら、彼女は少年にだけ聞こえる大きさの声で囁いた。
「準備だけ、しておいて」
その言葉の意味を正しく少年が理解したか確認しないまま、彼女は背中を向けた。男達の面白がるような視線を受け流して、痩せこけた男の前に立った。男は彼女より背が低かった。
それをなじるように見上げて、
「では。こちらへ」
言葉に呼応して彼女の両脇に二人の男が立った。客ではなく、ほとんど連行するような応対にも表情を動かさず、彼女は淡々とそれに従った。
男達の先導を受けて外を歩く間に、考える。
ケッセルト男爵というのは確か、この街を治める地方貴族の名前だったはずだ。
文字通りの意味での「領土」という概念の意味合いが薄い世界ではこの時代、地方貴族というのは単に身分の低さを表すものではなく、武門の者であるかどうかという意味合いが強い。特に、現在は小康状態にあるとはいえボノクスとの国境線、その趨勢を左右する重要な拠点を任されている人物が、無能なはずがなかった。
どのような人物か、彼女が半日ほど街で聞いた話の中ではそれを判断する材料はない。せいぜい、人並み以上に女遊びを好むというだけのありふれた醜聞のみだった。ただ、この街の在り方を見てみれば想像がつくところはあった。武断的でありながら、決して後方の存在を軽視しているわけではない。
そのような人物と相対するなど、考えただけでもあまり気が進むものではなかった。できれば丁重にお断りしたかったが、そうもいかない。権威者である彼らは、自分達の権威を軽んじられることに何より怒りを覚えるからだった。今、先頭を歩くこの小男のように。
彼女が案内されたのは、険しい地形の最上段に設けられた屋敷だった。とはいえ、屋敷というにはいささか以上にこじんまりとしている。無理もなかった。土台となるべき広い地面が存在しないのだから、横に広く間取りをとるわけにはいかない。
それは屋敷というより、砦と呼ぶほうが似合いの姿をしていた。街の上部にあるのも、たんに見下すことを好んだわけではなく、物見の役割を兼ねている雰囲気がある。ここを拠点にしている人間が極めて実際的な性格の持ち主であることが窺えて、サリュはこっそりとため息をついた。
厳しい顔つきの番兵に誰何を問われ、小男が答える。十字に遮られていた槍が胸元で捧げ構えられ、男が彼女を振り向いた。
「それでは、どうぞ。男爵様はすぐにでもお話を聞きたいとの仰せです」
男は、野で鍛え抜かれた獣のような気配を身に纏っていた。そう思ったのが自分の過剰な感想であるか、一瞬サリュには見当がつかなかった。
部屋には、多くの獣の燻製が壁に飾り立てられていた。肉食獣から、大型の草食獣まで。いずれも砂海を生きる生態系の上位に存在するだろうと思われる物ばかりで、なかには砂虎のそれまでがあった。クアルなどとは体格が倍ほどは違うのではないかと思われる、その砂虎の毛皮をそのまま剥いで座椅子にかけた敷物の上に、その男は腰掛けていた。若い。多く見積もっても彼女と十は違わないように見える。
「おう、来たか」
無数の野獣の死骸を従えて、彼女を見るその瞳には意外に知性の光が強い。
「キーチェン、あんがとよ。下がっていいぞ」
「しかし――」
「なんだよ、じゃあ茶でも持って来いよ。そしたら仲間に入れてやっから」
なにか言いたげな小男を追い払って、男は気さくな態度で肩をすくめてみせた。
「すまなかったな。偉そうな態度で腹が立ったんじゃねえかい?」
「はい、少し」
豪快に笑う。
「正直だな。いや、悪かった。俺が行けばよかったんだけどな、いい顔しない連中が多いんだ。立場があるとか言ってな。肩が凝る話さ」
愛嬌のある表情で言われても、彼女はもちろん警戒を解かなかった。むしろ、いっそうの注意を払うべきと自身に言い聞かせているところに、ふんと見透かしたような笑いが空気を打つ。
「そう緊張しなさんな。別にとって食おうってわけじゃない。いや、そのボロい旅装の下に何が隠れてるのかってのには、興味が沸いてしょうがないってのは確かだがね」
彼女は応えなかった。例え内心で驚いていたとしても、その気配はわずかも外に漏れ出でてはないはずだった。男はにやりと笑って、
「さすがにひっかからねえか。だが別に無理してだんまりなんかしてくれなくていいんだぜ。ちょっとした男なら、相手がどんなやつかなんてわかるもんだ。匂いでな」
獣じみたことをうそぶいてみる男の軽口はとりあわず、彼女は平坦な声で訊ねた。
「私に、お話があると聞きましたが」
「なんだよ、つまんねえな。ああ、今日着いたばっかりだったか。そりゃ疲れてるとこに悪かった」
男の表情が変わった。
「この街を預かるケッセルトだ。男爵、なんて流行りもしない爵位をつけて名乗ってるくらい、気に入ってない名前だけどな。別にどっちで呼んでくれてもいい」
さっきまでと同じように語る冗談さえも、意味合いが全く異なって聞こえる。今の男には確かに人を従える気配があった。平民であればそれだけで萎縮してしまうようなケッセルトの威風に、サリュは身じろぎせずに応じた。
「砂海を旅しています、サリュといいます」
ケッセルトが面白そうに口の端を歪めた。
「まあ、ちゃっちゃといこうか。聞きたい話ってのは大体、見当がついてるだろ? あんたが通ってきたっていう水島に、航路。それから、こいつについてだ」
そう言って男が脇から取り出した物を見て、さすがにサリュも少し眉を動かした。
白い欠片は、街に入る時に彼女が番兵に渡した物だった。岩塩。人頭税として提出されたそれが領主であるケッセルトの手に渡っていることはおかしくないとしても、あまりに手早い。さらに言うなら、その欠片は税として提出したものではなく、もう一方を目的として彼女が供した物であるように思えた。
その視線の意味を感じ取った男が、ひょいと手を広げて言った。
「安心してくれていい。うちは、別に賄賂を禁止しちゃあいない。賄賂を受けたことを隠すな、って言ってるだけでな」
貴族というより、砂賊の頭目じみた物言いだった。番兵にまで行き届いた自らの統率を誇る様子もなく、男は手のひらに転がした岩塩を興味深そうに、
「トマスでもそうはお目にかかれないくらいの上物だ。そりゃあ気にもなる。だが、俺としちゃこっちは二の次だな。さっそくだが、いくつか質問させてもらおうか」
彼女の立場なら、否応もない。無言のまま相手の言葉を待った。
「年はいくつだ?」
いったい何の冗談かと、一瞬反応が遅れた。ケッセルトが眉をひそめる。
「何だよ、教えてくれんのか?」
「……正確なものはわかりません。必要な時は、十八と答えています」
「おぉ、若いな。二十と見立ててたんだが。俺もまだまだ甘い」
腕を組んだ頭を振る男の態度が、サリュには全く理解できなかった。それまで知られていなかった航路を使って街に現れた旅人相手に、その最初に聞くべき質問とは到底思えなかった。しかし、男は真剣そのものの表情で、
「好みの男はどんな奴だ?」
頭痛に近いものを感じて、彼女は目を閉じた。
「私は、からかわれているのでしょうか」
「からかう?」
豪胆そのものというくっきりとした眉を持ち上げる男に、
「オアシスを使った航路と、それに岩塩のことを聞きたかったのでは」
「その前に言ったろう。その下に興味がある、と」
臆面もなく言ってのける、その男の顔は端正というより精悍さのにじみでたものではあったものの、女好きのする類のものではあった。確かな自負が男の魅力を人並み以上のものへとしており、それは男を目の前にしたサリュにも感じられる。稚気めいた言動が嫌悪に至らず、むしろ人間的な器の大きさでさえあるかのように映る、しかしそのことに惑うつもりはなかった。
「場をわきまえない男の人は、好ましくないと思いますが」
「そうかい。そりゃ残念」
いつの間にか、部屋に入ったときのような雰囲気に戻っている。やりづらさを彼女が感じた次の瞬間、
「それで、どこの間諜だ?」
鋭い言葉が剣のように突き刺さった。
言葉の音程も、口調も何一つ変わらない。顔には笑みさえ浮かべているというのに、与える印象だけで全く異なっている。これがこの男のやり方なのだと痛感して、サリュは小さく息を整えた。
「どういう意味でしょうか」
「まあ、普通に考えてくれればわかるだろうさ。どっかから突然現れた。荷にはばかでかい岩塩。怪しいと思わないほうがどうかしてる」
「私は、人を探してこの街を訪れただけです。オアシスについては、偶然立ち寄っただけで、その長からの手紙をお渡ししたはずですが」
「ほう。なら、その偶然見つけたオアシスの存在を知らず、どうして砂海を渡ろうなんて考えたんだ? まさか適当に歩いてれば水場が見つかるだろうなんて、安易に考えて砂海に飛び込んだわけじゃあるまい」
自身の劣勢をサリュは感じた。
砂虎の存在を隠したまま、彼女が強行した砂海の突破を説明することは確かに不自然だった。しかし、そのことを話せばそれはそれでまた面倒なことになる。
「探している人が、通ったかもしれないと思っただけです」
「どこもかしこも干上がった砂海を? そりゃただの自殺行為だ。ありえないと思うがね」
自殺したがっている、その後を追うのも自殺行為だ。そう言いたげに男は顔をゆがめる。
「河川沿いで探し人の話は聞けませんでしたから。可能性として残っているなら、リスクをとる価値はあると思いました」
「リスク」
男は繰り返した。
「そのとおり、リスクだ。その大きすぎるリスクを賭けて、いったい何が得られたのか――得られると思ったのか。それに興味があるね。もしかしたらその何重にもなってそうな旅装を剥ぎ取ること以上に」
部屋に小男が戻ってきた。盆に三杯の碗を持ってきているそのキーチェンと呼ばれた自分の部下に、ケッセルトは手を振って言った。
「面会は終わりだ。彼女には少しここに留まってもらう。部屋の準備をしろ。……そういうわけだ。もう少し詳しく話を聞かせてもらおうか、旅のお嬢さん。ああ、下の安宿よりはマシなくらいの待遇はできると思うから、安心してくれ」
反論の為に口を開きかけ、鋭い眼差しを受けたサリュは答える言葉を持たなかった。痛恨の思いが胸に湧く。横柄な態度で顎をしゃくる小男の後について、部屋を出た。その背後で、男がつまらなそうに欠伸を噛み殺していた。
男の言葉どおり、サリュの連れて行かれたのは牢ではなく客間だった。普段はそのまま兵の詰め所に使っていそうな質素な風情ではあるが、窓に格子はなく、壁を叩いても内側に鉄板が埋めこめられているような音は返ってこない。もっとも彼女の体格ならなんとか身をくぐらせることもできそうな窓の外にあるのは断崖であり、その必要がないというだけのことかもしれない。
唯一つ客向けかと思われるのが、中央に置かれる羽毛の敷き詰められた長椅子の存在だった。ふわりと肌をくすぐる天然の毛皮に腰を下ろし、彼女は部屋の内装を確かめた。時計はある。武器になりそうなものはない。ただし、謁見の時にも所持品についてはたいして調べられることはなかった。寛容、あるいは横着。そのいずれもしっくりとこない。この館の主の態度を思い出し、彼女はようやくそれに似つかわしい言葉を見つけ出していた。
自負。目の前の相手に殺されることなどありえないという、不適さ。それが倣岸であるかはともかく、在り方の一つとして留めておくべき事ではある。長くかかるかもしれない。確信めいた思いに、サリュは細く長い息を吐いた。
後悔はある。しかしそれがどれを指してのものかについて、ということになると彼女自身にもいささか不明瞭だった。この街に来たことか、あの岩塩の処置か。セスクの存在、あるいはその村で頼まれたことを了承したことか――
この街を訪れることは確かにリスクではあった。国防の最前線。その周辺では水源の枯渇が頻発し、戦時とは違った意味でぴりぴりと空気が張り詰めている。それでも訪れたのはケッセルトに述べたとおり、それが彼女にとって何より大きな旅の目的だったからだ。
リスクというなら、それは無視するしかないものだ。だから問題は別にあった。岩塩。あるいは街で聞き込みを終えてすぐここから去らなかったこと。それができなかった理由。今ある状況を作り出したのは彼女自身だった。つまりは、自分のせいということになる。
過ぎたことを思い悩んでも仕方がない。疲労で頭が鈍くなっていることを自覚しつつ、サリュはこれからの展開について考えを進めた。
男はこちらから情報を得ようとしている。一つはあの岩塩の存在。二つは枯渇した砂海を渡ってきたという事実。三つ目は、それをした理由。岩塩についてはセスクの村でもらったのだから、と答えるしかない。後の二つに関しては、すでに男に向けて口にしたとおりだった。砂虎のことを話すわけにはいかない以上、先ほどの抗弁で既に彼女は全てを語っていた。
せめてあの岩塩の存在についての説明で、相手を納得させることができれば――それを考えた彼女の頭に浮かんだのはセスクの存在だったが、かといってこの場所に少年を呼ぶことが果たしてどう物事に影響を及ぼすか。別々の場所に置かれている状況そのものが、すでに相手の狙いに適ったものである可能性もあった。当然、こちらが動くことを予想に入れていることも考えられる。いずれにせよ一日程度なら問題がなくとも、いずれはセスクに連絡を入れる必要が出てくるが――
思考の洪水がめまいを起こしかけ、サリュはまぶたを押さえた。元々、あまり考えることが得意な方ではない。疲れもあった。案内人が置いていった水差しの中身を注ぎ、一応の風味の確認のあとに口に含む。保存と匂い消しを目的とした柑橘系の香りが広がった。ぬるいが、昼に食堂で出たものとは比べようもない。それがもたらす意味について考え、ろくにまとまらず、いい加減に自身の体調に限界を感じた彼女は、少しばかり仮眠をとろうと長椅子の上で身を丸めた。
ここは敵地であるのだから、むろん熟睡するような隙は見せられない。手元に短刀を備え、何事かあればすぐに跳ね起きられるよう抱え込んだ膝に頭を伏せるようにして、ひと時の眠りについた。
防砂具ごしに触れる何者かの気配で、彼女はうつろいながら意識を戻した。クアルだろうか。しかし今、彼女の頭にあるのはざらりとした舌の感触とは異なっている。もっと滑らかで、こちらへの気配りを感じさせた。それらが思い起こした古い記憶に、願ってそのまま再度意識を委ねかけ、そこで唐突に思い至った。
掴んだままの短刀を滑らせる。使い慣れた刃物が相手の急所へと深く突き刺さる前に、その動きを止めた。目の前に、ちょっかいをかけていた両手を挙げ、おどけた態度をとるケッセルトの姿があった。
「……何をしているのですか」
険悪な声に、男は気にした様子もなく肩をすくめた。
「いや、起きねえから」
「忍んで部屋に入る理由になるとは思いませんが」
「声ならかけたぜ? そっちが気づかなかっただけだろうがよ」
白々しい言葉に、歯噛みする。砂虎のようにとはいかないまでも、誰かが近寄れば目を覚ます程度の自信が彼女にはあった。それが出来なかったのは、自分の疲労がそれほど根深かったのか、それとも相手が一枚上だったからか。どちらにしても不快なことには変わりない。
「――なんの御用です」
飄とした態度に、猛りそうになるのを抑えつけて言葉をぶつける。男は背後を指し示した。
「飯でも一緒にどうかと思ってね」
長椅子の前の卓に食膳が二つ並べられていた。ちらりと目線を巡らせれば、窓の外にはすでに光が消えている。相手の技量はともかく、奇襲は彼女の不覚による部分が大きかったらしい。
「……領主ともあろう方が、得体の知れぬ客と食事を共にするのですか?」
確かにそれは、随分と腰の軽いことではある。ただ食事に招くならなくはないが、わざわざ主人が客間に足を運んで、しかも用意されているのは下の食堂で出たものとそう大差がないように見える。彼女の警戒は当然のものだったが、
「気さくだろ」
男はただの一言で彼女の疑問に答えたつもりであるようだった。向かい側に腰をおろし、端に置かれたガラス瓶の中身を碗に注ぎ、手馴れた動作で食事の用意を整える。サリュが黙ってそれを眺めているうちに、男は手のひらに収まるほどの小刀でパンを切り分け、その上にまぶす乾酪をそぎ落とし、同じように削り取った何かの調味料を主菜の盛り合わせの上に振るった。ひどく手際がよかった。
「さて、食おう。といっても大したものじゃねえが。正直に言えば、下で食うのとそうは違わんよ。ただ、これがあるだけでだいぶ違う」
にんまりと男が碗を掲げてみせる。
「ほれ、乾杯」
辟易した思いを口にするのも馬鹿らしくなり、サリュは黙って言葉に従った。碗の縁がこすれあい、純度の低い音を響かせる。そのまま杯を傾ける男の前で、彼女はそのまま碗を置いた。美味そうに表情をほころばせたケッセルトが、怪訝にしかめる。
「なんだ。飲まんのか」
無言で目の前の食事に手をつけるサリュに、男は不満そうに鼻を唸らせた。
「せっかくの晩餐だ、旅の話でも聞かせてくれたら嬉しいんだがね」
男のやり口は身に染みていたから、相手にしないのが一番かもしれない。しかし黙秘を貫いたところで事態が改善するわけではないだろう。せいぜい慇懃な態度でサリュは言った。
「芸で身を立てているわけではありませんので」
「別に歌え踊れと言ってるわけじゃないさ」
苦笑するようにしてから、ちらりと犬歯を覗かせる。
「砂海を渡っていれば、いろんなことに巻き込まれるものだろう? 特上の岩塩。知られていないオアシス。それに、人になつく砂虎なんてものはどうだ」
男が空中を摘むようにした指先に、きらりとしたものが見える。それが自身の防砂具に残り、取り払いそこねていたクアルの体毛であることに気づき、サリュは鋭い視線を返した。笑い、手にしたそれを払い捨てた男が言う。
「話したくなければそれでもかまわんが。しかし俺はこれでも忙しい身でね、明日話を聞く暇があるかどうかはわからん。そうなると困るのはそっちじゃないか? 下で待ってる相手もいるらしいじゃないか」
全ての手札は向こうに握られているだということを、改めてサリュは実感した。クアルの存在さえ嗅ぎつかれては、対等な舞台に立つことすら難しい。もはや黙っているという選択肢すら彼女には残されていなかった。それならばと、少しでも相手の手札を探れるか試みるべく口を開く。
「私がお話できることは、すでに昼間にお伝えしていますが」
「なら、身の上話でもいいさ。女子どもが砂海を渡るなんざ、なにかあるんだろう。お涙話は嫌いだが、人情モノで酒がすすむってのも事実でな」
「あなたを喜ばせろと?」
「その方が身の為だと思うがね」
不意に権威者の傲慢さをまとわせたケッセルトに、彼女は防砂具の中で眉をひそめた。まるでもう酔ってしまったかのような態度で、くつくつと男は肩を揺らせる。
「とりあえず、その頭のを脱ぐだけでだいぶ興に入ると思うが。飯だって食べづらいだろう?」
「慣れていますので」
「そうかい。なら言い直そう。――見ててつまらん、いいから脱げ」
ひやりとした冷気が室内を吹かした。
サリュは無言で、酩酊しきった様子のケッセルトを睨みつけた。男の態度が演技であるということは考えるまでもない。問題なのはそれに対してどう受け答えるかということだった。形としては主人自らのもてなしの中にあって、旅装をとらない非礼はどう考えても客の側にある。下手に勘気に触れれば、咎められるのは彼女だった。
頭に巻きつけた布切れを取り払ったサリュの素顔を見たケッセルトが楽しげに頬を緩めた。
「おう、驚いた。覆面の下には美形、話の筋としちゃありきたりすぎるが、人間つまりはお約束が好きってところはなかなか変わらんらしい」
俯きがちに伏せるサリュの、その瞳の中の二重の環について目に見えなかったわけがないのだが、男はそれについて言葉を追わせなかった。それどころか、
「そんなものを見せられちゃ部下どもの士気に関わるな。覆面についちゃ、触れないように達しておこう。せいぜい、うっかり晒したりしないでくれると助かるね」
サリュの視線の意味を察したケッセルトが笑い、
「勘違いしないでくれ。別に嫌がらせをしたかったわけじゃない。隠されたら見たくなるのが人情だろう? それに、とっておきの秘密は自分だけのものにしておきたいってのも。すまんが、俺は我侭なんだ」
あけすけな台詞に、サリュの口元に小さく苦笑が浮かんだ。演技や抜け目のなさはともかく、この相手に悪い印象をおぼえるのはひどく困難な作業であると彼女は思った。それでも杯をかわす気にはなれなかったが、男はそれも気にしないことにしたらしい。一人で瓶を独占して手酌で二杯目を注いでいる。
「で、あの岩塩だが。それともオアシスの話からの方がいいかね」
どちらでも、とサリュは軽くまぶたを伏せて応じた。
「ならオアシスだ。お前さんが持ってきた書状は読ませてもらったが。正直に言って、なかなか信じがたい。あのあたりで、まだそんな水場が残っているなんてね。そのあたりについては、どうだ?」
「どう、とは」
「見た感じさ。オアシスなら渡り歩いてきたんだろう」
少し思案してから、サリュは口を開いた。
「オアシスとしては十分すぎると思いました。潤沢な水、動植物の生息。周辺が枯渇している現状を見れば、航路の中継点としての価値は高いのでは。河川沿いをまわるより確実に距離は早まります。当然、かかる時間も」
「河川を短縮するわけにはいかんからな。思うが侭にぐにゃりと曲げられるなら、それが一番だが――」
言葉を切り、ケッセルトが顎を撫でて笑う。
「そんな村が今まで見捨てられていた理由はなんだろうな」
「……村人達は、あまり外の世界と関わろうとしていませんでした。だからではないですか」
「ひきこもってた。まあそれはわからんでもない。水を持つってことは、つまりそれを奪われるってことだからな。だが、それならどうしてそいつらは今頃、手紙なんてよこしてきたんだ?」
「航路がとだえたからでは。村の中だけで全ての生活品をまかなうのは難しい。物流から孤立しては、いずれ滅びるだけです」
「滅びる、ねぇ」
含んだ口調で呟き、それから男はくつくつと肩を揺らせた。眉をひそめるサリュを見てひょいとすくめてみせる。
「まあ確かに、言うとおりだな。こんな状況で砂海のど真ん中に水場がある。それだけでほとんど奇跡のようなものだ。砂上に身を投げ出して神への感謝を表現したい程に」
男の台詞は何か含むところがあると意図的に示しているとしか思えなかったが、それが意味するところまでをサリュには把握できなかった。沈黙を貫く、その反応を見定めるような視線で眺めていたケッセルトが、
「それで、お前さんはこの後どこに向かうつもりなんだ? ボノクスか?」
話題が一定しない。一々そのことに抗うのにも疲れたサリュは正直に答えた。彼女は意識しなかったが、ある意味で男の話術に屈した瞬間だった。
「探し人の話は聞けませんでしたので。戻ります」
「どこにだ。トマスにか」
それには、いくら疲れきった頭でも考えなく頷くことはできなかった。この男にトマスから来たなどと言ったおぼえはない。確かにここから戻る航路で最も近く大きな街はトマスしかありえないのだが、かまかけのつもりかとサリュは鋭い視線を男に向けた。それを受けても男は余裕の態度を崩さず、むしろその態度から何かを読み取った様子で片眉をあげて、
「いやなに。少し思い出しただけさ。一年くらい前か? トマスでちょっとした騒ぎが起きた時のことだよ。なんでもその原因となったのが街で流行りかけていた魔女狩り裁判で、それに被告として訴えられたのが、砂虎を従えた奇妙な瞳の少女だった。そういう内容だったか」
サリュは黙して答えない。その沈黙こそが答えになっていたとしても、それ以外の反応は出来なかった。
「ずいぶん、突拍子もない話だったが。その裁判に出奔した宰相の実子を名乗る男が現れたとかな。あそこには宰相家と懇意にしてるアルスタ家の次期当主が駐在しているから、妙に生々しい話ではある。そういえば出奔した次男と当主ってのは、許婚の間柄ではなかったかな――」
愉快そうに言ったケッセルトが、演技ぶった仕草で両の手を広げた。
「どうした。もう食わないのか?」
食欲など完全に失せている。これ以上一切の隙を見せない決意でサリュは男を見返し、それを受け流して男は自身の杯を乾かす。しばらく無言が続いた後、男が言った。
「まあ、所詮は噂だな」
男としてはそれで矛を収めたつもりだったのだろうが、それでサリュの気分が落ち着くはずもなかった。ほとんど親の敵を前にした気配を放っている彼女に、ケッセルトが苦く笑ってみせる。
「正直すぎるな。慣れてないのか、それとも日が悪いのか?」
立ち上がると、自分の膳を手に扉へと向かう。広い背中を見せたまま、言った。
「今日はしまいだ。休むといい。そちらの都合はしらんが、まあ焦る必要もないだろう。ここに逗留しているうちに、お前さんの探し物もひょっこり顔を出すかもしらんぞ」
「……そこまでご迷惑をおかけするわけにはいきません」
砂虎の唸り声にも似た謝絶の言葉に、男は肩越しに振り向き、
「気にするな。飲食代が気になるなんて殊勝を言うくらいなら、客人じゃなくて俺の女になればいい。砂虎仕込みの閨技というのも、興味があるしな」
扉が閉じる。
去り際の言葉に不快感をおぼえる間すら惜しんで、サリュは残された食事をいそいで片付けると、早々と横になった。内心で焦る気持ちを押し殺し、ひっそりと息を整える。獣脂のランプが消され、暗闇に包まれたその中で、二重の環に光る銀色の光だけがしばらく爛々と輝いていたが、それもすぐに消えた。
居室に戻り、一人で杯を重ねていた男のもとに報告が入った。腰を屈め、椅子に座る自分と同程度の高さの目線を向けてくる相手に胡乱な視線を返し、気のない口調で男は幾つかの指示を与えて下げさせた。
追加の報告が入ったのはその夜遅く、ほとんど早朝といっていい宵明けの頃である。蒼白な顔つきの部下から受けた言葉をほとんど夢うつつなままに聞き、退出する間際にふと思いついて急備えの客間を調べさせる。
すぐに兵は戻ってきた。招いたばかりの客の姿がないという報告に、男はむしろ満足げな笑みを浮かべ、兵を下がらせた。男がそのことについて指示を与えたのは彼が再び目を覚ましてからである。時刻はとうに昼前になっていた。