1
街を視界に捉えても、そのまますぐに向かえるわけではない。砂海で最も危険な生物と恐れられる猛獣を連れて、タニルほどの街に入ることはあまりに危険だった。街に寄っている間、クアルに待っていてもらう水場を探さなければならなかった。
条件はそこがある程度の規模の水源であること。加えて、なるべく航路から離れた場所にある必要もある。周辺の水源枯渇によって国境の街タニルへの他からの航路は現在、非常に限られたものになっている。そのため後者はさほど問題ではなかったが、適当な水源の発見は多分に運に左右されるし、成否は全て若い砂虎の嗅覚にかかっていた。先導するクアルの後ろを歩いて彼らは水源を求め歩き、その日の夜になってようやくそれなりの量の涌きがある水場にたどり着いた。
半日ほど開いたタニルまでの距離はやや遠い。しかしあまりに小さな水場では明日にも枯れ果ててしまう恐れがあるし、砂海に飲み込まれるだけでなく“流される”可能性すらあった。水の沸く土地の質は安定しているはずではあるのだが、用心は当然のものだった。
水場の近くに杭を打って砂虎への合図を残し、そこで一泊してから彼らは街に向かった。自分が残されることを察したクアルは不満げで、最後まで尻尾を巻きつけて離れようとしなかったが、結局は渋々と身を離して水場に座り込むと、二人を見送った。
こぶつき馬を連れて二人は街へ向かった。昨夜は一晩中、甘え性の砂虎に好きなようにさせていたから、サリュの全身にはクアルの匂いが移ってしまっていた。防砂具についた抜け毛を払いながら歩く彼女の横で、セスクが顔を俯かせている。
「もう少しで街だから。頑張って」
村を出てから一週間近くが経っていた。初めての旅で、しかも幼い身体では辛くないはずがない。サリュは彼の体調には気を遣っていたが、旅の途中ではどうしようもないことも多い。留まっていては水と食料がなくなる一方だから、多少のことでは進むしかないのだった。
むしろ少年はよくやっている。素直にそう思った。セスクは決して弱音を吐かず、喉の渇きにも懸命に耐えていた。その気力に報いるために声を掛けたのだが、少年の顔色は晴れなかった。
「どうしたの。具合、悪いの?」
首を振り、ぽつりとセスクは呟いた。
「お姉ちゃんさ。タニルからボノクスに行くの? その人を探して」
「……わからないわ」
彼女はトマスからの河川を下流に沿うように旅してきていた。もし探し人がボノクスに向かったのなら、その途中で必ずタニルに寄ったはずである――現在、タニルを経由しないツヴァイ―ボノクス航路はほぼ壊滅しているからだ。自分のように砂虎を連れていない以上、水場の怪しい砂海を踏破するような愚かな真似を彼がするとは思えなかった。
タニルなら、何かしらの情報が入るかもしれない。あるいは、そこでも何の手がかりもなかったなら。いわばタニルはこれまでの彼女の一年近く続いた旅、その一つの節目だった。得るものがあるがあるかどうかはともかく。
「あの人がボノクスに向かったと決まっているわけじゃないから。だから、街で色々話を聞いてみて、もしそういう旅人が出て行ったと聞いたら、もちろん向かうけれど。そういう話がなかったら、また戻ると思う」
「そっか」
言葉が途切れた。何か言いたそうな表情のまま口を結んで喋らない少年に向かって、サリュは訊ねた。
「セスク。あなたはどうするの」
答えが返ってくるまでに少しの間があった。
「わかんない」
途方にくれたような表情で、セスクは言った。
「ずっと村を出たいって思ってて。泉でお姉ちゃんと会って、ああ、今しかないって思ってさ。出てみたらなんか、こんなものかって。そんな感じ。今」
「――そう」
「ねえ。俺も、お姉ちゃんの旅にくっついていったら、駄目?」
二重の環を持つ瞳を向けるサリュに射すくめられ、すぐに視線をたじろがせる。
「……やっぱ、駄目だよね」
「別にいいわ」
そっけなく告げた彼女の言葉に、少年は目を丸くした。
「いいの? ほんとに?」
「ええ。ただ――」
勢い込んで顔を輝かせる少年に、サリュはそこで一旦言葉を切った。これから自分の言う内容が的確な表現であるかどうか考えてから、再び口を開く。
「例えば、今から向かう街がただの幻で、行ってみたら街なんかなかったら」
怪訝そうに少年が眉をひそめた。
「そこで流砂に巻き込まれて、元の水場に戻れなくなって、砂漠に投げ出されて。そのままずっとあてもなくさまよって、飲む水がなくなったら――例えば。そうしたら私は、まずこの子の喉を裂いて血をすすると思う」
手綱をひいたこぶつき馬を指した。冷淡な口調は、あえて意図したものである。
「私は、絶対に生きる。そのためならどんなことをしてでも。生きてみせる」
言葉こそ静かだが、その底には聞く者の心胆を冷やす響きが含まれていた。防砂具の隙間から覗く銀色の瞳。その中にある輝きが彼女を人外のもののように思わせるようだった。怪しさに飲まれて、少年がごくりと喉を鳴らした。ひたりと視線を見据える。変わらぬ音程のままで彼女は言った。
「それでもいいなら。一緒に旅をしましょう」
返事はなかった。
太陽が天頂に差し掛かろうとした時間、二人はタニルの街元へと辿り着いた。地中から牙の如く巨大な岩盤が突き出しており、そのせり出した岸壁に段々に群生している茶色の家々が見える。城壁の類がないのはそもそもの必要性が薄いからだろう。周囲はほとんど、人の手では登ることも不可能なほど険しい。街は天然の要塞だった。
ただ一箇所、大きく拓かれた街の出入り口に検問所があった。二名の武装した歩哨が立っており、胡散臭そうな表情を隠そうともせずに二人を待ち構えている。瞳を伏し目がちに落としてサリュは彼らに近づいた。
「これはまたえらい方向からおいでなすったな。あんたら、どこの砂海を渡って来たんだい」
背が低く恰幅の良い、小さく愛嬌のある瞳を持った男が言った。その隣で髭面の男も頷いている。その表情は疑わしげだった。
現在残っている航路とは異なるところから現れたのだから、彼らの言葉は当然だった。サリュは荷の中から布に包まれた書状を取り出した。
「イスム・クという、オアシスを経由して来ました。この手紙はそこの長から預かったものです」
珍妙な顔つきで二人の番兵は互いの顔を見合わせた。
「イスム・ク? 聞かん名前だが」
「そこの村長が、手紙? いったいなんだってんだい」
サリュは首を振った。
「そこのオアシスにはまだ枯れない水源がありました。けれど、最近のこのあたりの枯渇で全く人通りがなくなってしまい、困っている様子でしたが」
「水が? このあたりで残ってる村がまだあったのか」
大仰な驚きぶりで男は言った。やや過剰な態度にも見えたが、それだけ驚くということは、もしや近隣の水源枯渇はここでも問題になっているのかもしれない。サリュは予感じみたものを覚えた。
手紙を受け取った丸顔の男が胡散臭そうに丸められたそれを見て、それから改めて探る視線を彼女へと向けた。
「それで、あんたは?」
「……人を探しています。最近、ボノクスに向かった若い男の人はいませんか?」
「そりゃあ、いるにはいるがね。どれだけ水が枯れても――だからこそ、現れる連中がいるからな。探し人ってのも、商人かい」
彼女が首を振ると、男は怪訝に顔を歪めた。
「商人でもないのに、こんな辺鄙なとこに来たってのかい。そんな物好きは、最近見かけた覚えはないが……いつぐらいの話だい?」
「だいたい一年近く前から、最近までの間なのですが」
男は苦笑を浮かべた。
「そんな昔のことなんざ覚えちゃいないよ。だがまあ、何人かはいるかもしれん。俺達以外で見たやつがいるかもだ」
「できれば、中で街の人に話を聞いて回りたいのですが」
控えめに言ったサリュの言葉に、男達はもう一度互いの視線を絡ませた。
「それはまあ、かまわんが。積み荷を調べさせてもらっていいかね」
大きな街では珍しくもないことだが、街に入るためにもある程度の人頭税がかかる。直接交易品の売買に関わり、特に稀少な物品の出入りについては監視の目も厳しかった。商人はともかく、一般的な旅人にはさほど関わりのないことではあるが、今回はそうもいかなかった。彼女の荷には巨大な岩塩の固まりが積まれていた。
「こいつは、また」
見事な純度の岩塩を見た丸顔の男が息を呑んだ。
「あんた、こんなのをどこで手に入れた?」
「前に立ち寄った場所で。お礼にと、もらいました」
少し迷ってから、サリュは言葉を濁して答えた。その必要性があったかどうか彼女にも確信があったわけではない。ただ、正直な反応がいつも報われるわけではないことは、今までの旅で散々経験してきていた。
男達は岩塩の出所を気にしているようだったが、それ以上にその透明な輝きに目を奪われている様子だった。この大きさでこの純度なら、彼らの一月の給金でどうにかなるものではないだろう。
「しかし、あんたの手持ちの水や食料はともかく、これはけっこうな額になってしまうと思うがね」
ようやく岩塩から目を引き剥がした男が、ちらりとした視線を向けた。
税には現金と現物を収める場合がある。サリュは即座に後者を選んだ。驚いた表情で男が聞き返してくる。
「いいのかい。割っちまって」
「かまいません」
迷いなく彼女は頷いた。どうせ予定外に手に入れた代物である。持っていても荷になるだけだし、可能ならこの街で売り払ってしまいたいところだった。もっとも、商人でもない彼女の立場で商会の門を叩いても安く買い叩かれるのが落ちではあるのだが、この程度の大きさの街ならそういった物でも買い取ってくれる場所がないわけではないはずだ。
むしろ男達が戸惑いを見せる中、彼らから借りた鑿で岩塩の端を削り落とした。小さくない欠片と、それと同じ程度の大きさの二つを彼らに手渡す。その一つは税として、もう一方は彼らの懐に収まることとなる。
「ん。悪いね。記録にはちゃんと書いておこう、行っていいぞ」
そ知らぬ顔で賄賂を受け取り、丸顔の男が言う。臨時収入に嬉しそうな態度を隠しきれない男の隣で、髭面の男は渋い表情をしていたが、口に出しては何も言わなかった。
最後まで伏し目がちなまま、彼らに頭を下げてサリュは門を抜けた。その後ろからセスクがついてくる。緊張した様子の少年に向けて彼女は告げた。
「とりあえず宿を探しましょう。……はぐれないようにね」
幾つかの宿屋の看板が見えたが、サリュはその中からもっとも外れにある建物を選んで中に入った。採光性の悪い室内ではカウンターの向こうに陰気な表情の男がおり、愛想笑い一つ浮かべないその主人に頼んで部屋を一つとってもらう。
「できれば、明るい部屋でお願いします」
という彼女の言葉はもしかすると相手には皮肉に聞こえたかもしれなかった。彼女の払った汚れた銅貨を受け取りながら男は口を歪ませて、そっけなく部屋の番号を告げた。頭を下げ、振り返った先に入り口あたりで尻込みしているセスクの姿があった。足元に、厩舎に繋いできたこぶつき馬から下ろした荷がある。
サリュも手伝って残りの荷も降ろし、土塗りの階段をのぼって部屋に向かう。角部屋のそれに足を踏み入れると、中は光に溢れたとまでは表現できないものだったが、恐らくもっとも外気に近くはあった。
部屋に入るなり、セスクは気が抜けてしまったようだった。力尽きたように腰を落とす少年を尻目に、彼女は窓際に寄って建物の周囲を確認した。眉が寄る。街の外に近くはあったが、周りには建物がなく、なにかあったときの非常経路として足場になりそうなものもなかった。部屋をかえてもらうという考えが一瞬サリュの頭に浮かんだが、少し首を伸ばして探ってみたところ、隣の部屋にすれば解決される問題というわけでもなさそうだった。それなら、宿を変えるしかないが――四肢を伸ばし、全身で脱力した状態を表現しているセスクを見て諦める。それに、疲れているのは彼女も同じだった。
しかし、身体を休める前にやらなければならないことがあった。彼女は防砂具を脱ぎ、床に敷いてその上に荷をおくいつもの儀式を神妙な態度ですませたあと、すぐに水と食料の確認にとりかかった。羊皮紙を開いて今回使った行程、その道のりや日数について黒石で記載する。単語の羅列は暗号じみていたが、この場合自分にだけわかればいいのだからそれで充分だった。
彼女がそうする間、セスクはぴくりも動かずにいた。どうせなら寝台で休めばいいと思うのだが、そうしないのは防砂具を脱ぐことすら疎ましいからだろう。硬い土床では気休めにならないことを知っていたから、彼女は声を掛けて少年にそれを促した。セスクはのろのろと起き上がり、羽織っているものを剥ぎ取り始めた。
部屋には汲み置きの水も、飲料水の差し入れもなかった。この程度の宿ではむしろそれが当然といえる。手持ちの水袋をセスクに手渡したサリュは改めて窓に寄り、そこから空を眺めた。太陽の位置はまだ高い。岩塩の処分や尋ね人の情報について、今からでも動いておく猶予は充分にありそうだった。
いや、処分は後回しにすべきだ。彼女はそう判断した。この街の様子もわからず、あれだけの代物の話題をだしては下手に目立ってしまう恐れがあるからだった。日持ちしないわけではないのだし、事は慎重に進めるべきだろう――連れのこぶつき馬などからすれば、一刻も早く売り払って欲しいと考えているだろうが。ああ、そういえば外に出る前に彼の様子も見にいかなければ。宿屋の主人や、今のセスクの様子から見る限り、こぶつき馬の世話までしてくれているとは考えにくかった。
外套だけ床に敷いて残したまま、サリュは改めて防砂具を身につけ始めた。寝台から首をあげたセスクがその様子を見て、驚いたように顔をしかめさせた。
「どこか行くの?」
「ええ。あなたは休んでいて」
あわてて起き上がろうとする少年に彼女はそっけなく言った。別に体調を気づかったわけではない。実際、一緒に来ても何もすることはないだろうと思ったからこその発言だったのだが、セスクは一瞬ひるんだ様子をみせたものの、すぐに起き上がって自分の頬を張った。
「俺も行くよ」
「……そう」
それが何を思っての決意かは不明だが、あえて否定する必要もない。外に出る元気があるのならついでに昼食もとれる。サリュは少年と連れ立って階段を降り、主人に少し街を見てまわってくることを告げて外に出た。男からは返事一つなかった。
厩舎にまわり、こぶつき馬の様子を見る。彼女の予想に反して、彼の目の前には水桶と飼い葉の山が積まれていた。無言で視線を向けると、得意げに頬を緩めたセスクが鼻をかいている。
「ありがとう」
「全然。いつも、宿でやってるからさ」
言ってから、何かを思い出した顔が顔がわずかに強張った。そのことには気づかない振りをして頷きながら、こぶつき馬の短毛に覆われた身体をさする。水桶に頭を垂れたまま、旅の連れはわずかにも反応を返してこなかったが、気にせずにサリュは厩舎から出た。
大通りだと思えるほうに足を向ける。全体が切り立った崖のようなタニルだが、中ほどにある程度平坦な一面があり、どうやらそこが街の中心部になっている様子だった。外れの方には家屋やわずかな面積の土地を用いた段畑の存在がある。傾斜のある街を登るように彼らは歩いた。
街には人通りが多かったが、あまり栄えた印象ではなかった。それには街の在り方そのものが関わっている。サリュの知る、もっとも人と物の溢れた街はトマス――水陸でも最大の商業都市だが、タニルはそういった分け方で表現するなら軍事都市というべきだった。
もともと、タニルは領土防衛の為の防衛施設として生まれた。はじめは一時の兵を休めるためだけの簡易的な存在だったのだが、戦争の長期化によって恒常的な生活体系を必要とし、それがやがて街と呼ばれるほどの規模になった経緯がある。その顕著な例が、この世界では街と呼ばれるものにとって不可欠であるはずの河川の存在がないことだった。
水源と水源を結ぶ河川は人と物の交流の素である。トマスからボノクスに向けて連なる河川は存在するが、それはここから南方を巡るようにして掘られていた。そこから遠くはないが決して近くもない距離にタニルの街は存在する。いわばトマスとボノクスを繋ぐ最短距離にこの街はあるのだった。
その意図は当然、防衛目的に他ならない。この世界において、領土とはつまり水源の確保であり――水源、そして河川がそれにあたる。一つの河川によって繋がる二つの水源があった場合、その河川のどこまでをどちらが保有するかということについて問題が生じることは考えるまでもないことであり、“河川を赤く染めてでも”という言葉があるように、それらは過去に多くの諍いを起こしてきていた。その領土線とでも呼ぶべき河川を巡る主導権と、その周囲の(比較的安定した)水源を如何に得るかがこの世界における戦争の勝敗といえる。そして、タニルはその意味で非常に重要な意味を持っていた。
水源としての有用性はもちろん、地理的条件からも容易には無視できなかった。しかし小高い山のような天然の要塞は守るに易く、攻め手は例え河川に沿って軍勢を進めたところでタニルを経由して背後を攻められる危険を抱え込むことになる。一方、それは守り手がもし攻勢をかける時にも同じ事が言えるため、その軍事的な価値は高かった。
そうした背景があるため雰囲気も一般的な街とは異なっている。通りは兵の姿も多く、彼らを対象に商売を行う店もあった。女衒じみた者の姿まであるが、そうしたものを徹底的に排除することは難しかったし、それによって起こる問題もあったから仕方なかった。治安という意味では決して悪くない。むしろこうした街では酔った兵達の狼藉が問題になることのほうが多かった。
あまり目立ちたくないサリュのような立場からすれば、極力寄り付きたくない類の街ではある。しかしタニルは河川を使わずにツヴァイとボノクスを結ぶ重要な航路拠点だったからこうして訪れたわけで、ファラルドから頼まれた手紙も渡したことだし、あとはせいぜい人相聞きをすませて早々に街を出たいところだった。
サリュが向かったのは街の中心部近くにある食堂だった。昼時を終え、ようやく忙しさが緩まった店内には食事終わりの談笑にふける客と、卓の片付けに励む女給の姿があった。肩より少し長い髪を後ろでまとめた若い女性が来客に気づき、世慣れた笑顔を向けた。
「あ、いらっしゃい。お好きなとこにどうぞ、すぐいきますねー」
サリュは店に残る客達から離れたテーブルを選んだ。木製の盆に水入りのコップを持ってやってきた女性に二人分のランチを頼む。
女中が去り、卓上に残されたコップの水を飲んだセスクの顔が歪んだ。続いて手を伸ばしたサリュはすぐにその理由を知ることになった。水は、あまり質のよいものではなかった。セスクの村どころか、彼らが手持ちのそれより不味い。
「ごめん。飲み水ってさ、もしかして、こういうのが普通?」
声をひそめたセスクが訊ねてくる。サリュは頷いた。ここの水は確かに上質ではないが、決して珍しい程のものではない。不純物を一度沸かしてとりのぞき、口当たりをよくするような手間はよほどの店でなければしないし、そうしたものが不要な水が得られる水源の数は限られている。異常なのは、それまで少年の過ごした村なのだった。
セスクは衝撃を受けた様子でしばらくコップを眺めていたが、やがて意を決した表情で恐る恐る口に含んだ。彼女は黙ってそれを見守っていた。特に気にはしていない。少年のこれまでの生活を考えれば驚きは無理もなかったし、一度でも砂漠で水に飢えてみれば、多少の味など気にはならなくなる。要は慣れの問題だからだった。セスクもここまでの旅で少しは慣れてきていたはずだ。それを耐えたのだから、何も問題はない。そうは思いながら、再びコップを戻すセスクの様子を見て、彼女は店内を忙しそうに行き来する女性に果実水を追加で注文した。
すぐに届けられた果実水とともにランチもついてきた。パンとスープ、それに豆と肉を炒めた平皿を手際よく並べた女性に駄賃がわりの銅貨を手渡すと、彼女は心得た表情で片目を閉じて言った。
「ちょっとあたしも、他のテーブル片付けてくるんで。また後で来ますね。まずはご飯のほう、ごゆっくりどうぞ」
彼らの空腹さと食事以外に話があるだろうことを見越した発言は、年の頃はサリュとさほど変わらない風情ながらも接客商売の年季を感じさせる気の遣いようだった。セスクが食前の祈りに目を閉じ、それが終わってから二人は食事を始めた。
ほとんど無言で全てのものを胃の中に収めた頃、見計らったかのように女中が席にやってきた。
「ご飯、どうでした?」
「おいしかったぁ。これって、なんの香料? ザベージャ使ってるっぽいけど」
「あら。キミ、料理するの? これはね、炒ってるの。そのあと浸けてるからだいぶ風味が違うでしょ?」
「へえ、そんなやり方知らないや」
感心した様子で頷くセスクに微笑んでから、女性はサリュへと振り向いた。
「あんまりお口にあいませんでした?」
「いえ。美味しかったです」
こころもち抑えた声音で彼女は答えた。女中はちらりと視線を少し離れた場所に座る他の客に向けると、
「あの人達は、あんまり心配しないでも大丈夫。常連さんだし、ヘータイさんでもないから。もう少ししたら早番の人達が来てお酒を飲みだすから、気をつけたほうがいいかもですね」
言って、自然な動作で椅子に座り、小首を傾げる。媚びるようでありながら相手に不快感を与えない仕草だった。
「それで、あたしで何かお役に立てますか? 女の人と子どもの二人旅なんて、どう見てもわけありとしか思えないっぽいですけど」
子ども扱いされたセスクが頬を膨らませている。
「人を、探していて」
ここまで話のわかる相手なら、むしろ主導権は相手に任せたほうがよい。そう判断して、サリュは訊ねた。繊細な睫毛を瞬かせて、女中が逆側に首をかしげた。
「男の人ですか? 恋人?」
またか。それこそが大事なことであるかのように、後半部分を強調してくる言葉をかわして、サリュは続けた。
「年は若くて、二十歳頃の。商人じゃない旅の人なんですが」
「うぅん。それだけじゃちょっとなあ。なにか特徴とかないんです?」
軽口を流された彼女は一瞬だけ苦笑を閃かせると、すぐに表情を真面目なものに切り替えた。
「髪は濃い茶で、肌は焼けた白。背はあの扉より少し低いぐらい。もしかすると、目を――右目を、隠しているかも。あまり目立つような人では、ないです」
「その人の名前とか、聞いても?」
「リト。……多分、そう名乗ってると」
女性は、しばらくの間自分の脳裡をさらうように瞳を閉じていたが、やがて目を開けて残念そうに首を振った。
「ごめんなさい。記憶にはないですね。お店に来て話したら、大抵の人は忘れないって自信はあるんですけど」
「ここ以外で、旅人が寄りそうなお店はありますか?」
「とりあえず、食堂なら街にもいくつもありますけど、場所的に一見さんはほとんどうちに来るんじゃないかなぁ。お客さん達みたいに」
「――そうですか」
少ない言葉に、隠された感情が垣間見えていた。申し訳なさそうに女性が言った。
「あ、でも、あたしが話してないだけかもしれませんし――気休めですね。ここには、絶対に来てるんですか?」
サリュは首を振った。
「一年前に、トマスで別れて。どこに向かったかもわかりません」
「すごい。ずっとその人のこと、探してるんですか」
大きな瞳を輝かせた女性が言った。罰が悪そうに、
「あ、ごめんなさい。でも、なんだか物語みたいだなぁって。商隊と一緒にきた詩人さんが前に歌ってくれたんです、離れ離れになった人を探して砂海をさまようお話」
彼女はその歌の一節を口ずさんでみせた。有名な歌曲だが、サリュははじめて聞くものだった。
「ほんと、ごめんなさい。でも、あたしって生まれてからずっとここなんで。ちょっとそういうのに憧れたりしてて」
「お姉ちゃん、ずっとこの街にいるの?」
「そう。あたしのお母さんがね、働いてたの。あたしみたいにお店で接客やってて、そこで知り合った人と一緒になって。――こんなところ絶対でていってやるって、そうずっと思ってるんだけど。それでも結局母親と同じことやってるんだから、人生ってねぇ」
嘆くのではなくむしろ楽しむように、彼女は肩をすくめた。
「あ、関係ないですね。えっと、ごめんなさい、とりあえず覚えはないです。ここを出てちょっと行った先にボノクスに向かう人達相手の店がいくつか並んでるんで、そっちで聞いてみた方が確実かもですね」
「わかりました。ありがとう」
「あ、お名前、聞いておいても? もしこれからその人が来たら、絶対にお伝えしますから」
礼を言って立ち上がるサリュに、女中が訊ねた。
「サリュ、です。もしリトという人が来たら――ずっと探していますと。トマスにも、あなたを待っている人がいると。そう伝えてください」
女中の真剣な頷きに背中を向けて外に出る。彼女の後ろを黙ってセスクもついてきていた。
「セスク。これからまだ少し歩くつもりだけど。帰っておいても平気だから」
セスクは悩む素振りをしてから、
「俺がついていくと、邪魔?」
訊ねた。彼女が首を振ると、少年は嬉しそうに笑った。
「なら、一緒にいるよ」
そっけなく頷きながら、彼女は思いついた。もしかしたら気を遣われたのだろうか。自分より五つ以上は違うはずの相手の心配りと、それに今更のように気づく自分に苦笑したい思いで、彼女は音を立てずに嘆息した。