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強い風が吹いていた。
それは一時のものではない。切り立った崖の狭間には常に強風が吹き、激しくあおられた砂で地元の者でなければ目を開けていることもかなわないだろう。
だからこそ意味があった。内部への砂の侵食を防ぎ、夜盗の類からの襲撃にも対しやすい。もっとも、外れにある対侵入者用の柵は見るからに古く、大人が一押しすればあっさり折れそうだったが、今となってはそれで十分ではある。
もはやこの集落を襲うような意味などないからだった。集落は死に瀕していた。
伝染病や飢饉の類ではない。もっと根本的な問題、“枯渇”である。この世界において人が生きる場所とはつまり水のある場所であり――それを失った時、そこは生活の場でなくなる。この集落では何十年と沸き続けていた水源が枯れ始めていた。
表現としては、むしろ枯れ終わろうとしていたというのが正しい。湧き上がる水量の緩やかな減少という事実は当初こそ楽観視されていたものの(小幅な水量の増減自体は珍しいことではない)、集落の中央にある泉の水位がやがて半分に近づく頃になると、笑みを残していられる者はいなかった。
しかし、だからといって集落に住む人々は絶望しなかった。気まぐれな水源の枯渇。それはこの世界に生きる人間にとっていつでも起こり得る茶飯事である。商航路の途中にあったオアシスがある日突然なくなるどころか、栄歌を誇った一国でさえあっさりと滅びてしまう。人々はいつものように可動式の住居を畳み、旅装を調え、持ち運びが難しい物は処分し、携帯の食料と水を十分に用意して以前から見つけておいた水場へと移動を開始した。
集落移動。幾年が経とうともその姿が在り続けるような世に誇る大水源を近くに持たぬ以上、それは避けられない宿命であった。彼らがまず目指した水場はこれあることを予測し前もって定めておいた仮の避難所だったが、その場所は水量が不安定で、立地的にも長の生活には向いていなかった。そこを拠点とし、そこからまた新しい生活の場を探して旅に出るのである。
その旅は上手くいけば一週間で終わることもあった。今までの集落のわずか数里先に新天地を発見したという笑い話もある。一方で数十年と流浪の旅が続くこともあった。例え運良く水場を見つけても、そこに先住の存在がないとは限らないからだった。
旅は過酷を極めた。水場を拠点とした捜索とはいえ、どこで終着するかわかるものはない。喉から入り込む砂は弱った身体に容易に毒となり、不安定な砂場の地面を長期間にわたって歩くことは、慣れた人間にも大変な苦痛を伴う。
故に、それを選ばないという者も少なくない。具体的には老い先短い者、体力のない者、身寄りのない者。つまりは行き抜くことができない存在。そういった人々だけが残り、先のないその場所で慢性的な終わりを迎えるのである。
そういった集落にはある一つの共通項があった。人気のなさ、寂れた風情。そういった特徴以外に、その場所の上空には必ず、ひどく強く砂が舞うのだった。
「死の砂はそれを選んだ者の上を舞う」
はるか昔から伝わる通り、それは今まさに集落の頭上で高く弧を描いていた。
天に舞う砂は人外の起こす不可避の洗礼であり、それを前にした人にできることは文字通りただ見上げるだけである。強風が集落の入り口である裂け目に吸い込まれ、轟音となって不吉なうなり声をあげていた。
そこから少し離れたところに一人の人間が立っていた。全身を防砂衣に包んだ姿は良くも悪くも平凡であり、右手にコブつき馬を引いている。男であるということは隙間から覗かせる眼光の鋭さで分かるが、険しくはあっても深みの浅いその瞳はまだ十分に歳若いことを示していた。
男は旅の人間だった。傭兵や用心棒などで生計を立てる、人々から忌み嫌われる輩の存在は珍しくないが、その馬は何者かを襲撃することを重視したものではなく、長く歩くことを目的とした商隊の所有するようなコブつき馬である。前者は速度に特化し、後者は持久力に富む。人を襲うのに適したものではなかった。
馬には一週間程度なら食いつなぐことができる食料と水が左右に積まれている。男が前に寄った集落で買い集めた荷は片道分としては不必要な程に多く、それはこの集落について、そろそろ危ないらしいという情報を耳にしていたからだった。行ってはみたが滅んでいました、食料も水も補給できずではこちらの身が危うい。旅の連れの身を捌き、その血で喉を潤わすようなことにならない為には必要だった。
それもどうやら間一髪かというところか、あるいは間に合わなかったかもしれない。
この集落はもう幾らも保たない。男はそう見立てた。死の砂は、吹き出しておおよそ一月もすればその全てを覆い尽くしてしまう。残されるのはただ曖昧な砂の廃墟のみ。この集落の存在を聞いた時には死の砂が現われたという話まではなかった。町を出てすぐに吹き始めたとして、そろそろこの集落に終焉が訪れていてもおかしくはない。
もしかしたらそれはつい昨日きたばかりかもしれない。甲高い叫び声の続く村の入り口に向かいながら、男はむしろそうであることを望んでいるような心情で呟いた。
死者は何も必要としない。食料も水も、貴重品も。そして、ただ風化に晒されるのであれば有効に活用したほうがいい。当然のようにそう考えている。わざわざ墓を荒らすような趣味まではなかったが、かといって誰か他の人間がそれをしていたところで止めようともしないだろう。
それは男のような生活を過ごす者からすればむしろ当然のことであり、彼らが言うところの「お高く止まった」連中、貴族やそこに住む街の人々が眉をひそめたところで知ったことではなかった。豊富な水源と壁に囲まれ、砂にまみれたことのない者の言葉などなんの説得力も持たない。
男は砂の怪物の出す声に怯えるコブつき馬の足を急かし、集落へと進んだ。ともあれ、今日一晩は室内でこのうっとうしい砂から開放される。それだけでも十分だった。
入り口である裂け目に入った辺りが一番、風と砂が強かった。暴れだそうとするこぶつき馬の手綱を引っ張りながらようやく開かれた場所に出た、そこに一人の少女がいた。
十半ばよりは上、といった風情だが、年齢がいくらか不明だったのはその外見のせいもある。
少女は、清貧と表現するにはやや頬がこけすぎていた。今にも空へ舞い上げられてしまいそうな少女が身に纏っているのはボロきれじみた貫頭衣で、腰元には植物の弦を結った粗末な代物が巻かれている。洗って丁寧に櫛を通せばそれなりの光沢を出しそうな銀色の髪は葉っぱが絡まり土に汚れ、鋼のような鈍い艶すら既に失ってしまっていた。
ただ、埃に煙った薄褐色の表情の中にある瞳だけが爛々とした輝きを放っていた。真っ直ぐな視線に射すくめられ、男は思わず足を止めた。
「――やあ」
いくら気をつけても浸入を防げない砂塵が口内に張り付いて、やや声がかすれている。それに対して反応がなかった。聞こえなかったのかと思った男がいくらか近づいて、少女が自分を見ていないことに気づいた。少女は集落の出入り口、正しくはその上空に最もはっきりとした姿を見せている砂の暴流を見つめていた。
眺めていたのではない。もっと厳然とした意志があった。集落を死に追いやる現象への恨み、憎しみ。そういった類のものでもない。
奇妙に思いながら男はさらに少女へ歩み寄り、それでも視線を動かそうとしない少女の顔を覗き込むようにして、息を飲んだ。
少女の灰色の虹彩とその中にある瞳孔。その間に、くっきりとした円がまるで描かれるように存在していた。円環。顔を近づけなければわからない、しかし紛れもない異彩だった。水気のある灰色が、まるで銀色の如く濡れている。
見れば見るほどに違和感を覚えてしまうその相貌をしばらくの間見つめてから彼は我に返った。喉を鳴らして整えると、改めて声をかける。
「こんにちは」
水を含まなかったわりには、満足できる声が出た。
初めて訪れる町で如何に信用を得るかには、身だしなみももちろんだが、最初の一声が重要となる。もっとも子供相手ではその計算もしきれない部分があり、少女は初めて男に気づいたように瞳を瞬きさせると、顔を歪ませた。
「……誰?」
透き通った響きに警戒の色をのせた声は鋭い。男は慌てずに頭部を覆っていた布巻きをとって、
「はじめまして。俺はリト」
砂に生きるもの特有の精悍さの現れた素顔は若かった。彼の年齢は二十を越えたばかりだが、口元に笑みを浮かべればたいていの場合、他人から無用な警戒を受けることはなかった。
しかし、目の前の少女は違った。
刺すような眼差し。敵意さえ感じられるそれを受け止めながら、リトは落ち着いて腰に下げた袋から甘味物を取り出した。
「旅の途中で寄らせてもらったんだけど、長さんはいるかな」
目の前に差し出したそれを、少女は一瞥しただけで手を出そうとしない。そして、無言のまま左の奥にある一軒家を指した。
少女はそれで用はすんだとばかりに背を向けて歩き出した。男の手に持った物になど目もくれない。自らの卑小さを嘲笑された気がして、リトは苦い笑みを浮かべる。子供は苦手だった。
立ち上がり、同情するような目線をくれているコブつき馬を一撫でしてから向かおうとしたところで、彼は少し離れた場所で少女が立ち止まっていることに気づいた。肩越しに振り返りながら彼が歩き出すのにあわせるようにして進む、その足の向かう先には先ほど教えられた家があり、それで少女が自分を案内しようとしてくれているのだとわかる。
どうにも捉えどころのない少女だった。時たまこちらを見ては一定の距離を保ち続ける相手に、リトは大声で訊ねた。
「君の名前はっ?」
返事はなかった。あるいは、聞こえなかった。まるで状況を見計らったかのように一際大きな暴風が吹き、轟音と共に視界が黄土色に染まる。
目を細めるリトの前で、不意に少女が振り返った。
少女は砂埃が舞う中でなんでもないように目を開いたまま、一直線の眼差しを向けていた。その口元が開き、何かの言葉を形作ったような気がしたのだが。
「――――」
音は届かなかった。
案内された家屋に住んでいた初老の男性は、疲れきった表情に無理に浮かべた笑みで彼を出迎えた。
その家は集落を見渡した中でもさして大きなものではなく、むしろ年季のある古びた移動式の木製住居である。男は長ではなく、集落に残った者達の取りまとめをしていると言った。この世界で一般的な飲み物である葉茶を勧めながら旅の目的地を聞いてきた男に、リトは水陸の中央とも呼ばれる都市の名を挙げた。
「それはそれは……私など話にしか聞いたことがありませんが、あのような場所まで向かわれるとは、何かのご理由があるのでしょうな」
サジハリと名乗った男は素直に驚いた様子で頷いた。実際はその逆なのだが、リトは黙って首肯しただけである。
「決して水の枯れることのない『妖精の地』ですか。ただの夢物語かと思っておりましたが、このような状況になってしまえばただただ羨ましい限りです」
冗談にはいささか苦すぎる成分を含んだ男の表情は、しかし現実を受け入れた清々しさも併せ持っていた。不自然にならないよう、リトは手に持った茶碗に目を落とした。
「水源の様子はいかがですか?」
「十分の一にも満ちません。ご覧になられたでしょう、ついに死の砂まで吹きました。いよいよこの村もおしまいです」
幸いでした、という言葉に眉をひそめると、サジハリは笑った。貴方が間に合ってよかった。こうしてお茶を振舞えたのですから。
リトは微妙な表情を浮かべる。
いつも思うことだが、死を前にした人間と対話をしていると尻が落ち着かなくなるのだった。それはもしかしたら自分が死を覚悟できていないからかもしれなかったし、死を受容しようとするその態度が癇に障るのかもしれなかった。この世界で死などありふれているというのに。
居心地の悪さに背中を押されるように、リトは早々と用件を告げた。今日一晩の床を貸してもらいたいということと、もう一点。
「書物、ですか。伝承や言い伝えなどの記された?」
食料や水、その他の貴重品の引取りを申し出されることは考えても、まさかそのような要望が出るとは思わなかったらしい。戸惑った様子で顎を撫でるサジハリに、
「ただの趣味なのです」
リトは精々なんの裏もないように微笑んだ。実際、正直な発言だった。
彼は旅の途中、立ち寄った集落や町に伝わる言い伝えや伝承を集めて回っていた。基本的に紙というものがまだ高級なこの時代、大都市ならまだしもこのような辺境の地にそれが普及していることは少ない。集落にある書物は唯一つ、大陸全体に広がるとある宗教を司る教会から配られた聖典が一冊だけということも珍しくなく、その聖典にしたところで誰も読めないので冬場の暖のために燃やされた、などという話もある。
だから、実のところ書物についてはもしあればという程度の期待でしかなかった。その代わり、どこの集落にも古くからの伝承を聞き話す役目の人間はいるもので、むしろ本命はそちらだったのだが、
「そのような者なら確かにこの村にもおりましたが、先日肺を患いまして……」
失望を顔に出すわけにもいかず、リトは傾けた茶碗の中で息をついた。軽いため息になってしまう。無駄骨だった。しかし、続いた言葉は彼にとって幸運でしかなかった。
「ただ、書物なら長がいくつか集めておりました。今でも残っていると思いますので、どうぞ見ていってくだされ」
思いがけない返答に礼を述べるリトを見やって、サジハリはやや言いづらそうに表情を困らせた。
「あぁ、申し訳ありませんが一人村の者をつけさせていただいてもよろしいでしょうか。このような状況ですが、外の方に一人で歩かれると不安に思う村人もおりまして」
案内役兼見張りというところだろう。自分の村の中でよそものに好きにされて不快でない人間はいない。当然の処置だと思えたので、リトは深く考えずにそれを了承した。
寝床には隣の空き家を使っていい旨を聞き、さらに村の中央にある浴場を使用してもよいとのことだった。このような状況下での水はいつも以上に貴重なはずで、それにはリトも驚いたのだが、
「どうせあと数日で埋もれてしまうものです。最後くらい豪気に使おうというのが皆の一致した意見ですので、おかまいなく」
明るい絶望とでも題するような表情で言われて答えに困り、リトはただ無言で頭を下げるだけですませた。
水を浴びられるだけでも僥倖だったが、湯を沸かすことさえ可能とのことだった。確かに、空き家はそこら中にあるようなので材木に困ることはないかもしれないが。
そこらの村より贅沢な待遇をいぶかしみながら、せっかくなので存分に使って湯樽に火をくべて、リトは町を出て以来久しぶりの湯に浸かった。髪の奥まで入り込んだ砂を念入りに落とすと、ついでに護身用のナイフで少し伸びていたひげも剃りあげる。半刻ほどもしてそろそろのぼせてしまうかもしれないところで風呂から上がり、いつもの旅装に戻った。
綺麗になって外に出た途端、砂まみれでは意味がない。せめて一晩くらいさっぱりした姿で床に就きたいところだった。いつもより念入りに服装の隙間をなくしてからリトが戻ると、部屋の中でさっきの少女が立ち尽くしていた。
「やあ」
すぐに少女の足元に置かれてある幾つもの水桶に目がいった。ぎりぎりの縁まで水の入ったそれは、洗濯用も含まれているのだろう。やはり水源の枯渇で滅びようとしている村とはとても思えないほど潤沢な量だった。
「君が?」
やってくれたのか。後半の言葉を略して訊ねると、少女は黙ったまま首を頷かせた。
「そうか、ありがとう。飲むかい?」
今度は横に振る。本当に淡白だなと思い、それはそれとしてなんでここにいるのかと考えたところで思い至る。
「もしかして、君が案内人なのかい」
「はい」
やっと出た言葉も、息を吐くような一拍子で終わった。
考えてみれば、移動する為の長旅が出来ないからここに留まっているわけで、もともと歩くことが自由な人間が村に少ないのも当たり前のこと。少女のような存在は案内役としては適任だった。
しかし、そうなると当然もう一つの疑問に行き着く。
見た限り旅をするのに不足ないように見えるこの少女が、なぜこんなところにいるのか。だが、それは彼のような人間が口を挟む問題ではなかった。
「それじゃ、よろしく。なんて呼べばいい」
また頭を横に振られる。
「……名前がないのか?」
少し待ってから、今度は縦に振られた。
「そうか」
かける言葉が見つからず、リトは腰の袋に手をかけて、少女の視線に気づいた。苦笑する。
「それじゃ、さっそく案内してもらおうかな」
反応らしい反応も見せず、少女はやはり頷いたのみだった。
集落の奥まった場所にあったその家は、大きさはともかく造りとしては他のそれとほとんど変わらないように見えた。
教会のないこの集落では最も権威ある場であるはずだが、それに耐えうる外見であるかどうかは微妙なところだった。木製の家屋は横に広がる二階建てで、その隣に不自然な空間の空白がある。そこに前まであったのは可動式住居で間違いなかった。
集落の移動が前提となるこの世界で、大部分の人は本来の意味で根を生やした生活を送ることができない。最低限の財産と言うべき可動式住居は大人が三人両手を広げられる程の円形住居が最も一般的で、腰を落ち着かせることが可能な水源にたどり着いたらその隣に固定式の居住空間を増築するのだ。
その増築部分と可動式の境目が密閉されているか否か。それがこの場合最も重要な違いだった。普通はそんな手間は省かれてしまう。理由は明白で、手間だからだった。自分達がいなくなったあとのことまで気を配る者はいないし、その必要もない。最近は、ある程度の生活水準の集落――村というより、町――では密閉式が一般的にもなっているが、こんな集落に期待できるものではない。
だから、扉を開けた少女に続いて中に入った時、そこに黄土色の侵食がないことにリトは安堵の息をついていた。外気との接触は、すなわち風化の促進に他ならない。紙という保存性の低い代物など、まず初めにやられてしまう。
少女に礼を言って、丸机の横にある木棚の前に立った。数冊の本が並んでいる。表紙は薄汚れ、縁こそボロボロになっていたが、通して見たところでは中身に問題はなさそうだった。一冊以外を取り出して(持ち出さなかったのは聖典だった)安定の悪い椅子に腰を落とし、部屋の真ん中で立ち尽くしている少女にかまわずに頁をめくった。
一冊目の本は、この大陸の歴史について記されたものだった。こういった類もよく見かけるもので、細部が違うものも含めれば教会の聖典の次に多いかもしれない。斜め読みで過去に読んだものとそう違いがないことを確認すると、二冊目に移ろうとして、リトは少女がまだ立ったままでいることに気づいた。
「ちょっと座って待っててもらえるかな」
無断で外に持ち出すわけにはいかないから、彼としてはそうする以外ない。少女は素っ気のない仕草でうなずくと、向かいの席に座った。背筋を伸ばした姿勢がひどく大人びて見える。そのままこちらへ静かな眼差しを向ける少女を物言いたげに見やり、リトは何か言うのを諦めた。
代わりに、腰から下げた袋からあるものを取り出す。さっきのような甘味物ではない。ちょうど手のひらに乗る大きさの正方形の物体を差し出すと、奇妙な形のそれを見た少女の眉がわずかに寄った。
「色を揃えるんだ。そういう遊びさ」
六面体がそれぞれ九つに分かれていて、今はばらばらの色に彩色されていた。本来なら一つの面には同色が揃うわけで、縦横に動かしてそれを六面とも完成させるという玩具だった。
ある街で手に入れたもので、ところどころ塗料が剥がれかけてはいるがまだ使えないこともない。少女は考え込むようにそれを凝視して、それからかちゃかちゃと不器用に手元で回し始めた。
少女の露骨な視線から逃れられたことに満足して、リトもまた読書に戻った。
二冊目のそれは、この集落に伝わる伝承を書き記したものだった。探していたものを見つけた喜びに口元が緩む。昔話や物語が書き手の違う筆跡で綴られていたそれは何代もの手を渡ったものであることがわかり、たまに濃い墨料で注釈がされていることもあった。
どうやらここで長をしていた人物もそれなりの道楽者だったらしい。同じ趣味人への共感をおぼえながら、読み進める。
水が湧き、動物の集う泉。聖なる獣。一晩で滅びた集落の悲劇。真実と事実が不等分に混ぜられたそれらには、誇張されることはあっても一定の現実を含んでいる。例えば水源の位置や過去に起きた事実を、警句や美麗に修辞した形で残しているのだ。
彼が求めているのはそれだった。御伽話の中に隠された事実。そのことに興味があった。
本の中で最も記述が多かったのは、やはり死の砂についてだった。死を告げる舞い。星々の怒り。生命の運び手。死の砂について書かれることは大抵が似通ったものになるが、最後に見つけた表現が気になった。
生命の運び手。
それは一般的な印象と異なっている。死の砂は全てを覆い潰し、その場所には二度と生命が育つことはない。その存在を真逆の意味で呼ぶような話はひどく珍しい。
その伝承は短い詩のようなもので、死の砂を指して一個の生命体のように捉えているようである。
『其はクルルギゥヌの怒り。嘆き。悲しみ。
此はアタリアの笑い。叫び。また喜び。
汝は地が求めし一切の演舞者であり、
程なくして全ては天に還らん。
それこそが新生の証にして、
故に汝こそは万物、生命の運び手よ』
恐れるどころか、賛美さえしているような文章だった。この地方独自の固有名詞が連なっており、伝承は最後に死の砂についてだろう。その名を呼びかける形で終わっていた。
「サ、リュ。……サリュ」
死の砂を呼び表す言葉はいくつもあるが、これは今まで聞いた中で最も簡単な呼称かもしれなかった。どこか耳に残る名前だったので何度か舌の上に滑らせていると、視線を感じて顔を上げた。
少女がなにか言いたそうな、驚いた様子でこちらを見ていて、しかしリトが視線を返すと顔をうつむかせる。と、その手元に置かれた正六面体のその色が全て揃っているのに気づいて、リトは驚きに目を開いた。
「もうできたのか」
叱責だと勘違いしたのか、少しだけ身を縮ませる少女からそれを受け取って、まじまじと確かめてみた。間違いなくどこの面も色が揃っている。中には塗料がほとんど剥げかけている場所もあるというのに、しかも初めてでこの短時間。自分が初めてこれをやった時には、それなりに時間がかかったことを思い出した。
「ごめんなさい」
囁くように謝罪する少女に手を振って、リトは笑った。素直に感心していた。
「いや、怒ってるわけじゃない。凄いな、慣れるまではけっこう時間がかかるものなんだけど」
返事はない。
沈黙に困り、リトは顔をうつむかせる少女の目の前になにも持っていない右手を出した。擦るようにして手のひらを開くと、そこには白い小さな花が現れている。
驚いて顔を上げる少女に笑って、リトは少女の髪にその花を挿してやった。窺うような視線が中空をさまよい、それからわずかに口元を綻ばせる。微笑未満の表情だったが、ようやく少しだけ打ち解けられた気分で、リトは改めて甘味物を取り出した。
「ほら。甘くて美味い」
練った砂糖菓子を小さく固めたそれを、少女はおずおずと受け取って、口に含んだ。途端、その二重の瞳が真ん丸くなる。
ようやく見た、年相応の表情だった。
手強い小動物の餌付けに成功して彼は満足した。一日だけの付き合いとはいえ監視役を懐柔しておいて損はない。思わなくてもいい感想がわざわざ頭に浮かび、唇の端が自嘲の形に歪んだ。




