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しばらく身を震わせていたセスクは、やがて気分を落ち着かせるとそのまま崩れるように眠りについた。激情が残りの体力を消費したのだった。少年の衣服を緩めて少しでも風通しをよくし、サリュは自分は眠らずに目の前の代わりばえのない光景を視界に映していた。水を飲む量を極端に減らした少年の身体には熱がこもっているかもしれず、目を離すべきではなかった。
辺りには酷な日差しが降り注いでいた。太陽が降り始めようとしている今、気温は一日で最も厳しい時間帯にある。砂海の旅人はこの時間、無理に行動を起こさず身体を休めるものだが、日影に座る彼女の隣に人ならぬ若い砂虎の姿はなかった。退屈を嫌ったクアルが獲物を探しに行ったのは少し前のことだった。
少年の呼気が穏やかなことを確かめながら、サリュはさきほどの話を思い出していた。枯れない水源と、集落。
水の争いは、この星で最も普遍的な闘争要因である。乾燥した気候に降る雨は少なく、例え少量が注がれても土を濡らす前に干上がってしまうような大地では、地下から湧き出る奔流こそが全ての命を紡いでいた。
故に水源の周囲には常に血が耐えることがない。――枯れることを恐れない生き物。セスクの村の祖先が、自分達が見つけ出した水源を秘匿したのも無理はなかった。水と塩、そこに集まる動物。そこには生きるための全てが揃っている。いや、そうではなかった。それだけでは生きていけなかったから、今の彼らの状況があるのだ。
ひっそりと隠れるように過ごしていた集落。航路の中継にあるという地の利によって彼らの傲慢さは許されていた。しかし、昨今の大規模な干ばつによって村は本当に忘れられてしまった。航路そのものがなくなってしまっては迷い込む旅人も現れず、村には豊富な水と食料がありながら滅びが迫った。そこに訪れた、タニルへ行くといった自分に書状を渡した彼らの心情をサリュは考えようとしたが、とても理解できそうになかった。苦渋の末の決断ではあっただろうと思う。自ら排してきた外界との関わりへの不審と不安。村人達が遠巻きにしていた理由はそれだったのだ。
もう一つ、彼女に理解し難かったのは、隣で寝息を立てて休む少年についてだった。
セスクが村を恨んでいることはわかった。村の入り口で感じた少年と周囲との奇妙な空気の違いは、その生い立ちが影響していたのだろう。もしかしたら集落の中でも白い目で見られていたのかもしれない。自分がそうであったように。
サリュにわからないのは、少年が父親のことをどう思っているのかである。夕食を囲んだ昨晩の様子を思い出す。傍目には、仲の良い親子に見えたのだが。
それには彼女の個人的な事情もあった。まず家族というものについて想像が働かない。これまで共にあった人達で、最も長く過ごした人、最も優しかった人。もっと一緒にいたかった人。それぞれ異なっているが、そのどれが家族という概念にあてはまり誰がそうでないのか、彼女にはよくわからなかった。
わからないのなら、考えても仕方がない。サリュは立ち上がり、荷物から丁寧に布に包まれた一冊を取り出した。表紙を軽く撫であげて頁をめくる。なるべく本が痛まないよう注意を払いながら頁を進めているうちに、ふと前に読んだことのある一節に行き当たった。
『そちらはクルルギゥヌが怒り、老人が悲しんでいる。
こちらでアタリアが笑い、子どもが喜んでいる。
あなたは大地が呼んだ神。やがて全てを天に導く。
だから、そして新しい流れを作るあなたは命の母』
それを見た彼女の目が見開かれた。アタリアという単語は、つい最近目にしたばかりだった。宿の二階、大きな動物の剥製の下に記された碑文にそれは刻まれていた。彼女は戸惑った。本の中で、それはある現象について記述されている箇所だったからである。サリュ。彼女と同じ名で呼ばれる、この世界で最も凶暴な自然現象について。
既視感の種は身近なところにあった。そして、それはそのまま疑問となって彼女の中にわだかまった。アタリアという言葉が何を意味するのか。
比喩的な表現と固定名詞を使った文章が、何か――サリュ。だろう――を讃えていることは確かだった。あいまいな訳に決して自信があるわけではないが、彼女はそれよりも単語の意味を知りたかった。クルルギゥヌ。アタリア。セスクはこれらの言葉が指すものを知っているだろうか。
サリュは傍らで休む少年を見た。声をかけてすぐにでも問いたい欲求が湧く。思いがけないところで探し人との思い出の断片を見つけ、彼女の胸は高鳴った。
彼女の探し求めるその人物は、自身また何かを探してさまよう旅人だった。その何かについて断定的な確信をサリュは持っていたが、しかし、その人物が旅の中で感じた全てを彼女は知りたかった。それらの足跡を辿ることが、彼へのさらなる理解と再会に通じる道だと彼女は信じていた。
彼はこのことを知っていたのか。あるいはどう考えていたのだろうか。その現象、サリュという言葉をあの人は、どのように思っていたのだろう。
ここ最近なかった高鳴りに、はやる気持ちを落ち着かせようと瞳を閉じる。サリュ、アタリア。――リト。口の中で呟くと、気づかず砂に埋もれかけていた心に爽やかな風が吹き払ったような思いがあった。そして、その風は同時に一抹の不安も彼女に与えた。
囁きに、サリュはまぶたを開いた。周囲は風もなく静まり返り、隣には少年と、やや離れたところに佇むこぶつき馬の姿しかない。クアルの遠吠えも今は聞こえず、砂の光景はまるで一枚の絵画のように在る。
小さく耳に届いた声は、彼女の中から響いたものだった。
予兆と警戒。サリュは出立の時間を少し早めることに決めた。
それから少ししてセスクは目を覚ました。咽の渇きが彼を起こしたのだろう。身を起こすや否や水袋に手をやる姿を咎めようとはせず、少年が一息ついたところで彼女は訊ねた。
「セスク。アタリアという言葉を知ってる?」
少年の瞳が見開かれた。それは質問の中身ではなく、名前を呼ばれたことへの驚きだったようである。彼女がその名前を呼ぶのは確かに初めてだったが、彼女にはどうでもよいことだった。
「あ、え? アタリア? うん、知ってるけど」
「どういう意味なの?」
「意味っていうか――うちで信じられてる、神様みたいなもんだよ。水とか火とか、命。そういう、嬉しいことの神様」
「クルルギゥヌ、というのは」
セスクは眉をひそめた。首を振って、
「そっちは、あんまりいい意味じゃない。砂とか風、病気。声に出すと呼び寄せるから、口にもするなって言われてる」
「……そう」
良い象徴と悪い象徴、ということか。
土着信仰は土地によって異なる。この時代、水陸ではある唯一神を崇める宗教が最も布教活動に熱心だったが、辺境まではその声も届いていなかった。人々はそれぞれの集落において崇め奉る存在をつくり、それを信じていた。
近い生活圏では信仰の対象が共通することもあるから、アタリアという言葉が生まれ故郷にあった本とセスクの村の両方で見かけられたことを不思議には思わなかったが、彼女の集落でそれが崇められていたわけではなかった。むしろこの本で見るまで、そんな名前は聞いたこともなかった。砂に埋もれたあの集落で信じられていたのは『大いなるもの』というだけの、名前のない存在だった。彼女の育ての親がその語り手としての役割を担っていた人物だったから、サリュはそのことをよく知っていた。
あの本は周辺で語られる神話や伝承話をまとめたものらしいから、おかしくはないかもしれない。近くのこと、耳にしたことを記述しただけということもある。しかしそれはそれとして、気になることは他にもあった。
二つの言葉がセスクの言ったことを現す概念だとしたなら、その対比される言葉を同時に綴ったあの文章にはいったいどのような意味が込められているのか。サリュという自分の名前について、彼女は疑問を思った。神、流れ。命の母。
「サリュ。というのは?」
少年は不思議そうに首をかしげた。
「お姉ちゃんの名前だろ? 他になにかあるの?」
サリュはかぶりを振った。これ以上考えても意味がないと思っていた。だが、頭の隅には容易に忘れがたく声が響いている。――あの人は、どう考えていたの? 思いを振り切るように立ち上がり、彼女は言った。
「――行きましょう」
荷を片付け、歩みを再開する。サリュの言いつけを守ってか、あるいはただ疲れているからか、セスクも無言で足を進めていた。彼の顔色に気をつけながら、サリュは指笛で先導するクアルと合図を送り合った。
やがて、傾きだした日差しが色を変え、ゆっくりと景色そのものを塗りつぶしていった。地平の先に沈みゆく火の星を眺めたセスクが呟いた。
「金色だ」
茜の光を受け、一面がきらきらと輝いていた。それは確かに黄金にも見えた。
「……うちの村。イスム・クっていうんだ。黄金の隠された処。そういう意味」
それそのものが貨幣としての価値も有している金は、貴重な鉱物資源である。多数の黄金を所持することは、この地で水に次ぐ権力と富の象徴だった。逆光だけでない翳りを伴って言葉が続いた。
「馬鹿みたいだ。そんなの、外にだっていくらでもあるじゃんか」
彼女は答えなかった。
景色が闇に取って代わった後も彼らは歩き続けた。夜の活動は危険だが、体力の消費が少ない利点もある。日が落ちれば一転して急激に気温が冷え込む砂海の上では、早々とひとところに身を留めることも決してよい選択肢ではなかった。
満天の星明りを頼りに砂の大海を進んでいた二人の前に、光り輝く獰猛な獣の双眸が現れた。立ち竦むセスクを置いて、サリュは止まらずに光の持ち主へと歩み寄る。輝きを放っていたのはクアルだった。指笛もなく彼らを待っていた若い砂虎は、サリュに頬をこすりつけるとその隣で歩き始めた。自分の少し前を先導する彼の後を追って、彼女はやがて前方に黒い大きな影を見つけた。その影は微かに揺らめいていた。次第に近づくにつれ、白く反射するものが視界にかすめる。いつの間にか、踏みしめる地面の感触が変わっていた。
そこは小さなオアシスだった。湧き出したばかりの水島。航路や前もって聞いていた集落からは離れた方角にあるため、まだ人の目にも見つかっていない。ここを利用できるのは砂海をさまよい、奇跡的な偶然に出逢えた幸運な人間か、人間にない感覚でそれを探り当てる動物だけだった。
砂虎の嗅覚は鋭く、その活動範囲は人より遥かに広い。飢えに耐えながら砂海で獲物を探し徘徊する彼らは水場を探し当てる能力にも長け、サリュが今までの旅を無事に過ごせてきたのも、この連れの能力のおかげという点が大きかった。若い砂虎の能力に全幅の信頼をおけるからこそ、人の多い航路を避けつつ、無事に次の集落に着くことができた。
大人が十人ほど腕を広げてやっと囲めるかどうかといった水場に近づき、サリュはその水をすくった。匂いを嗅ぎ、わずかに口に含んでみる。やや鉱物の臭みはあるが、飲み水として十分に利用できる質の涌き水だった。隣で期待に顔を輝かせているセスクに、彼女は頷いてみせた。
「大丈夫。飲める水。……お腹、壊さないように気をつけて」
後半部分は、布防具をはぎとって勢いよく頭を水面に突き入れた少年にはあきらかに聞こえていなかった。息を吐き、サリュは周囲を見渡した。
少し窪んだ地形に他の動物の姿はなく、硬い感触の土に植物の気配もまだない。正真正銘、生まれたてのオアシスだった。この水場があと何日在り続けるかはわからないが、彼女にとっては今日ここに湧いていてくれただけで充分だった。得意げにも見える上目でこちらを見上げるクアルに礼を示すよう、サリュは咽元をさすった。くるるる、と甘え気味の喉声がそれに応えた。
安堵の思いだった。水が確保できたことで、どうやらセスクの村に戻る必要はなさそうだった。クアルに一日探してもらい、補給が出来そうな水場が見つからなかった場合、一旦村に戻ることも彼女は考えていたのである。旅慣れないセスクの存在を考えれば当然のことだった。だが、ここで余っている布袋に水を詰めていけば、タニルまでの行程にもいくらか余裕が出るだろう。今日はそれなりに歩けていた。星を読んでタニルまでの距離を測ろうとした彼女の耳に、こぶつき馬の不満げな嘶きが飛び込んできた。
荷を持たされたままのこぶつき馬に謝り、サリュは彼の背から積み荷をおろし、水場の近くで彼を休ませた。ふんと鼻息を鳴らして水面に顔を近づける。隣に来た誰かの気配に顔をあげたセスクが、驚いて身をのけぞらせていた。
現在地を確認し、手持ちの地図に黒石で印をつける。それから彼女は夕飯の用意を始めた。近くにはもちろん枯れ木の類などなかったので、固形燃料を取り出してそれで焚き火を作った。
昼と同じ食事でささやかに胃を満たすと、彼らは床に着いた。積荷から毛布を取り出し、天然の毛皮であるクアルを傍に手招きしたサリュは、少年が所在なさげに立ち尽くしているままなのに気づいて声をかけた。
「なにしてるの。こっちに来て」
「いや、その。さ」
砂海の夜は冷える。セスクはたいした寝具も用意していなかったようで、一人離れたところで丸まっていては朝の冷え込みに耐えられないと思うのだが、彼は躊躇いを見せたまま動こうとしなかった。
「一緒の方が温かいわ」
「う、うん――」
ようやく頷いて、おずおずと自分の側にやってくるセスクに、彼女は眉をひそめて言った。
「なにしてるの?」
「え?」
「抱きつくなら、クアルの方が温かいと思う」
若い砂虎を挟み、二人と一匹は砂の上に身を休めた。サリュとの添い寝に慣れたクアルも両側から圧迫を受けることにはさすがに窮屈を覚えるらしく、牙を剥いてしばらくセスクを威嚇していたが、彼女が機嫌をとってなんとかなだめることができていた。
空には無数の星々が浮かんでいた。上空の風も落ち着いているらしく、強弱様々な輝きはゆらめくことも少ない。毛布にくるまり、クアルの柔らかい毛並みの温かさを感じながら彼女は夜空の宝石を眺めた。今日はあまり本を読む気分にならなかった。隣でそんなことをしていればセスクが休みにくいかもしれないし、どうせ目がいくのは同じ頁だけだとわかってもいた。
「……旅するのって、大変だね」
昼間少し休んだからか、疲れているはずのセスクはなかなか寝付けない様子だった。盛り上がった毛皮の向こうから彼女に語りかけてくる。
「今までずっと村にいたから知らなかった。砂海を渡るってしんどいんだ」
「そうね」
あれほど豊富な資源に囲まれた村の生活からすれば、水を制限され、貧相な食事で生を食い繋ぐことは苦行以外の何物でもないだろう。サリュも意外に思ったのだが、まだ初日とはいえ、セスクはそれについてまったく愚痴をこぼさなかった。実のところ、サリュは彼が弱音を吐いた段階で村に戻り、ファラルドに引き渡してしまえばよいと軽く思っていたのだった。
この少年はタニルへ行き、それからどうしようというのだろう。少年は、彼女がはじめて砂海に出た時よりもさらに幼い。生きる術に力、そのどちらも持ち合わせてはいなかった。それでもよいという覚悟を持っているのか――いや。そのことがわからないほど、子どもなのだ。
息が漏れた。勝手についてきたのだからどうなろうが知ったことではない。そこまで頭を割り切らせることが、どうやら彼女にはできそうになかった。あの人とは違う。いいや、それも違う。あの人だって、決してそうじゃなかった。
サリュは目を閉じた。そのまま意識を忘我の淵に沈めようとしていたところに声がかかる。
「お姉ちゃんはさ、どうして旅するようになったの?」
月光を受けて怪しく光る銀環の瞳を開き、彼女は言った。
「――そうしないと、生きられなかったから。私の集落は、水が枯れて滅んでしまったの」
「一人で。旅に出たの?」
「……村に来た、男の人と一緒に。私はその人を探しているの」
あまり気が進む話題ではなかったが、少年への子守唄がわりになればと思い、彼女は答えた。なんだ、と明快な声が響いた。
「やっぱりお姉ちゃん、その人のこと好きなんだね」
彼女は答えなかった。
「だって、その人がいなくなって寂しいんでしょ。だから探してるんだから――絶対、そうだよ」
他人に自分の感情について決め付けられるのはあまり気分がよくなかった。寂しい。そうかもしれない。好き。それはよくわからない。その時サリュの脳裡に浮かんだのは、一人の女性の後ろ姿だった。何かを胸に抱き、必死に声を押し殺そうとして耐えきれず小さく嗚咽を漏らしていた若い女性。恐らくは、それが彼女が街を出る決定的なきっかけとなった光景だったかもしれなかった。
わからない。その時に感じた衝撃や、罪悪感が何を意味するのか。自分の感情さえわからず、彼女は頭の中のそれと自らの気持ちから逃げるために視界を閉ざした。
「会えるといいね。だってお姉ちゃん、綺麗だし。その、目だって……最初はびっくりしたけど。でもすっごい綺麗だよ。きっとその人もお姉ちゃんのこと、探してるよ。生きてるよ。絶対」
根拠のない言葉は少年なりの励ましだったのかもしれないが、煩わしくもあった。言葉を返すこともおっくうに思い、サリュは黙って彼の言葉を聞き流した。少年の何気ない台詞が胸に響いていた。――生きてるよ。絶対。
わかるものか。いつもは心の奥底に封じ込めて決して吐き出さない感情がちらりと舌を覗かせ、彼女は欠けた姿を見せる月から顔を覆って腕で伏せた。
「……お姉ちゃん?」
「――休みましょう。夜明け前が、一番冷えるから。できればその前に歩き始めておきたいの」
一方的に告げて、サリュは隣のクアルに寄り添うように丸まった。彼女の気分を感じ取って慰めるように、若い砂虎が頭を押し付けてくれるのを嬉しく思った。
水場には砂海で生きる多くの動物たちが訪れるかもしれず、その中に凶暴な肉食獣が含まれている危険性はもちろんあった。だからこそ、旅人は火を焚くか交代に夜番することで夜を過ごすのだが、こと彼らに限ってその必要はなかった。近づく気配があればすぐに気づいてくれる、砂海の生態系で頂上に位置する猛獣が側に寄りそべっていたからである。
この上なく頼もしい護衛者に守られたサリュが目を覚ましたのは夜明けの色のない、まだ早朝とも呼ぶにも早過ぎる頃だった。暗闇に包まれ、自身が吐く白い呼気さえ見ることの出来ないその中で、隙間から刺しこむような冷気が忍び寄り、意識せずに身体が震える。ぴくりと隣で暖かさを提供してくれていたクアルが反応するのがわかった。起こしてしまっただろうか。
少ない光にもはっきりと輝く一対の瞳が彼女を覗き込んできた。どうやら起きていたらしい。幼子のように身を寄せる人間達を、じっと動かずに守ってくれていたのだ。忠実な砂虎の顎を撫でて感謝を伝え、彼女は身体を起こした。
視界が徐々に濃淡の影を成す。星空にも水面にもきらめきはなく、無風だった。風があれば、遮蔽物のないこんな開けたところではとてもゆっくり眠ることなどできなかっただろう。ありがたい大地の気紛れだったが、一切の音を無くして静まり返る光景には奇妙な不気味さがあった。
ランプを灯し、サリュは荷物から耐火性のある碗――彼女の持ち物で最も高い価値を有している――をとりだして水場に向かった。セスクが起きた時に、せめて白湯でもあればと思ったのだが、彼女が起きたことでクアルは自分の役割を終えたと認識したらしい。あっさり少年を見捨てて立ち上がり、彼女のあとをついてきてしまう。暖かさを失いもぞもぞと身じろぎしたセスクが、くしゃみとともに目を覚ました。
「おはよう」
「あ……おはよ。さ、寒ッ――」
「今、お湯を沸かすから。少し待って」
ランプの上部に設けられた平底に碗を置き、彼女は寒さに身を縮めている少年の隣に座った。クアルが嫌がるなら、人間同士で暖をとるしかないが、クアルはそのことも不満に思ったらしく、鼻面を押し付けてサリュとセスクの間に割り込んできた。結局、三人が横に並ぶ形で、周囲に対してあまりに頼りなげに揺れる赤い灯火を見つめた。
弱い火力がゆっくりと温める間に、周囲に削った干し肉と麦粉の練り物もかかげ、それに火が通る頃にサリュは碗を取り上げた。火傷しないよう厚布をあててセスクに手渡す。恐る恐る口をつけた少年がほっと息をつき、彼から碗を受け取って彼女もお湯を含んだ。温かさが喉から全身を溶かしていく心地に、同じようにため息が漏れた。
それから充分に温まった食事をとり、すぐに出発の準備にとりかかった。水を補給し、予備の水袋にも満たしておく。荷が増えたこぶつき馬の責めるような視線を苦笑いで受け流し、半刻ほどで彼らは準備を整えた。出発前、中身が空になった碗に手ごろな大きさの石をいれ、赤くなるほど熱されたそれを碗ごと布にくるんでサリュはセスクに渡した。
「これを。しばらくならもつから」
「あ、ありがと」
頷いて、彼女は歩き始めた。
夜明けはまだ遠かった。少し風が出てきて、寒さに耐えるために防砂具の上から毛布を巻いて彼らは歩いた。クアルは獲物を求めて、すでに視界に見えなくなっていた。
まだ空に星が見えるうちに、サリュは現在地の確認も怠らなかった。水場の下の地面は安定しているというのが通説だが、一晩のうちに砂海に流されてしまっている可能性は常に疑っておくべきだった。
どうやら、その心配はなさそうだった。それから彼女は地図上に一日で届きそうな集落の位置を確かめ、今日の目標をそこに定めた。既に集落がなくなっていたとしても、室内で暖を取る事は出来るだろう。
やがて東の地平から太陽が昇り、落ち際と比べて透明度の高い光が空と大地を照らし始めた。薄まった闇が瞬く間に溶け去っていった。まだ気温は寒かったが、それもわずかな間のことだった。日差しはすぐに厳しさを増し、温度が跳ね上がる。毛布を片し、彼らは厳しい時間帯に休みを挟んでなお歩き続けた。
水が枯れ、住む者が誰もいなくなった集落に彼らがついたのは、陽が落ちるほとんど間際のことである。土壁で作られたどの家屋にも人の気配はなく、手入れをする者のないそれらは文字通り、砂に埋もれかかっていた。その一つ、最も砂の侵食の少なかった屋内で彼らは身体を休め、朝焼け前にはそこを発った。
そうした旅がそれから三日続いた。
集落を出て五日目の昼前。彼らの視界の果てにまず蜃気楼となってその街は姿を現した。土色の城壁と街並みが、盛り上がった岩壁に沿うようにして立ち並んでいた。