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砂の星、響く声  作者: 理祭
 一章 オアシスの少年
16/107

 多くの土壁が立ち並んだ集落は、全体が煙るような灰色に包まれていた。慢性的な砂の侵食に風のない時でも色彩を奪われてしまう、それもまたどこにでもある光景ではあったが、視界の全てに活気のなさを感じてしまうのは少年からすでに人通りのないことを聞いていたせいかもしれない。

 集落の中央道を歩きながら誰ともすれ違わず、それがいっそう彼女の記憶にある故郷を思い出させたが、一つだけ異なっているのは固く閉ざされた住居のあちこちから息を殺した雰囲気が感じられることだった。そうして、じっとこちらを窺っている。


 やはりクアルを連れてこなくてよかった。排他的な視線にさらされながら、そんなことを思う。敵意にも似たこんな環境の中では彼は歓迎されないだろうし、たとえそうでなくとも人より敏感な砂虎は落ち着かないだろう。オアシスの木陰でうたた寝している方がよほどいい。

 また少年のような誰かに遭遇する恐れも少ないはずだった。あの湧き場は集落の離れに存在していて、人通りの多かった昔こそよく使われていたそうだが、今では村の中にある湧き場だけで充分にまかなえてしまっているらしい。


「だから、今じゃあそこに行くのは猟師くらいなんだ。俺も行くんだぜ」

 少年は得意そうに胸をそらしたが、砂虎とはいえクアルを前に頭を抱えて震えているようでは、見習いもいいところではないだろうか。意地悪くそんなことを思っているうちに、目の前に数人の男達が現れた。

 それぞれ弓や槍を手にした精悍な男達が、厳しい視線をこちらに向けていた。その中央、飛びぬけて厚い体格の男が底響きのする声を発した。


「セスク」

「親父っ」


 男は駆け寄った少年の背にある弓にちらりと目をやると、無言のままその頬を張り飛ばした。地面に飛ばされる少年を見下ろして声を荒げる。


「馬鹿野郎。外の泉に一人で行くなって言ってるだろうが」

「ご、ごめん……でもよっ」

「でもじゃねえ。泉の方から獣の声がしたからって、大勢で行くところだったんだ。村の皆に余計な心配かけさせやがって!」

 押し黙ってしまう少年を怒りの収まらない瞳で睨みつけ、男は後ろを振り返った。


「すまねえ、倅はこのとおり無事だ。わざわざ集まってくれてありがとよ。迷惑かけて本当に悪かった」

 頭を下げる姿の後ろで、少年は下唇をかみ締めてなにかを耐えようとしている。迷惑そうな表情を浮かべながらも少年の無事を喜んでみせた男たちが散り散りになる前、サリュのことを気にするようにしているのに父親がうなずいて、

「旅の人、お見苦しいところを申し訳ない。たいしたもてなしもできねえが、よかったら家で休んでいってくれ」

 声にはむしろ強制に近い響きがあった。サリュは黙ったまま頷いた。


 案内された家屋は、一般的な移動式住居に仮設の木居を増築されていた。他の住居より大きいのは、村の宿場としての役割を持っているからだろう。

 だからこそ、人気がない寂しさもまた大きい。こぶつき馬を隣接した厩につなぎ、閑散とした屋内に案内されたサリュは、暗がりが内部から家全体を押しつぶそうとしているような印象を受けた。窓を閉じきっているせいかもしれない。彼女の心に生じた思いを聞き取ったように男が木枠に手をやり、たてつけの悪い窓を勢いよく押し開ける。さっと音がするように、日差しが射しこんだ。砂の侵入を防ぐための白い布を下ろし、

「セスク。水だ。それと、弓はきちんとなおしておけよ。弦を外し忘れてたりしたら、ただじゃおかねえぞ」

 中央の丸机を指し示した男に従って腰を下ろしたサリュの対面に座る。


「さて。ぶしつけで悪いが、旅の人。少し話を聞かせてもらえないかね」

 伏し目がちに、机の中央を見るようにしている彼女に対して宿の主人は言った。

「気を悪くせんでくれ。ただでさえめったに人が来ることのない村なんだ。それに、女子どもの一人旅なんてなると、どうしたって珍しい」

 男と会ってからまだ一言も発していなかったが、さすがに客商売をしているだけあって、その程度はお見通しらしい。そこではじめてサリュは目線を上げ、宿の主人と正対した。

 小さく息を呑む音が響いた。

「あんた、その目……」


 防砂具の隙間から覗く彼女の瞳孔の中に輝く二重を見た主人は、しばらく口を閉ざした後、気を取り直すようにかぶりをふった。

「いや。すまねえ。それで、いったいどんな用事でこの村に?」

「いえ」

 静かに彼女は否定する。

「この村に用があったわけではありません。タニルというところへ行くつもりだったのですが、さっきの泉で出会った彼に一泊していくよう勧められたので」

 それを聞いて、男がちらりと感情を揺らした。残念なような、ほっとしたような表情が一瞬よぎり、すぐに元に戻る。

「ああ、そうか。じゃああいつを助けてくれたのは本当にただの偶然なんだな」

 でかい獣に蹴り飛ばされそうなのを、この人に助けてもらった。セスクはそう自分の父親に説明していた。


 彼女は答えなかった。言葉にして嘘をつくつもりはなかった。かといって、全てを説明するつもりも。クアルの存在を隠すこと。それが彼女が少年に了承させたこの村に滞在する条件だった。

「悪い。命の恩人に向かって失礼な口をきいちまった。そういうことなら、そうだな。ぜひここに泊まっていってくれ。ご覧の様で、たいしたものが出せるわけじゃないが、砂の上よりはましなはずだ」


 男はファラルドと名乗った。村で唯一の宿屋と、猟師を兼ねていると言う。一人息子のセスクとここに住んでいるらしく、そのセスクがこぼしそうな勢いで水を持ってきたのと入れ替わりに席を立ちあがると、

「それじゃあセスク、俺は拵えにもどるから客人を部屋にお通ししておくんだぞ」

 そのまま奥へと去ろうとするファラルドを呼び止めて、サリュは前払いで代金を支払おうとした。彼女の取り出した、辺境では通貨よりも金銭的な価値を有することも多い岩塩のかけらをじろりと睨み、男は鼻を吹かせた。

「息子の恩人だ。そんなもんいらねえよ。あとで昼食代わりのスープでも持っていかせるから、ゆっくりしててくれ」

 そのまま何も言わせずに姿を消した父親へ肩をすくめて、少年が口を開いた。

「気にすんなって、村一番の頑固親父なんだから。それに、そんなものうちじゃ大した価値はないぜ」

「……そう」

 考え込むようにする彼女の様子にまるで気づかない明るさで言葉が続く。

「それより、部屋にいこうよ。一番いい部屋に案内するからさっ」


 水差しを持った少年に連れられて案内された二階の部屋で、食事や風呂について一通りの案内を終えた少年が去ってから、サリュはまず窓際へと向かった。見下ろした外の景色に、数人の村人が見える。その中にファラルドの姿もあった。おそらく他の村人に自分の説明をしているのだろう。悪意があってのことではなく、それも村の渉外係としての役目なのだ。

 そう警戒する必要もないと思われたが、彼女は部屋の間取りと、万が一の時に窓から脱出する公算をつけるのを忘れなかった。直接飛び降りるにはやや高いが、ちょうど良い距離に低木があるのを覚えておく。

 それから村の遠く、集落から離れてうっそうとした緑に包まれた泉――ファラルドは外泉と言っていた、に目をやった。砂海に生きる生態系の中で頂点に位置する砂虎への心配はなかったが、ここでは指笛で吹けばすぐに再会というわけにはいかない。そのことへのわずかな不安と、そんな我侭を許してくれたことへの申し訳なさを思ってから、窓に背を向けた。


 こぶつき馬から下ろした積み荷の横で、彼女はゆっくりと防砂衣を剥いだ。幾重にも巻いた布を丁寧に脱ぎながら、いたるところに紛れ込んだ砂塵がなるべく飛び散らないように気をつける。宿に入る前に丁寧に叩き落としたというのに、全身の防砂衣を取り払った頃には床に少なくない砂が舞い落ちていた、その上に覆いかぶせるように防砂具を敷いた。そして横にあった積み荷を上から蓋にすれば、これで砂塵が部屋に飛ぶことはない。


 儀式めいた一連の動作を終えると、実際の重さよりもむしろ精神的な開放感に、彼女は息を吐いた。砂に生きる者にとって防砂衣は水と等しいほど大切なもので、また外見に人と異なる点を持つ彼女にはそれ以上の意味を持っていたが、だからといって空気のように身軽に思えるものでもなかった。

 少年が置いていった水差しから水を汲み、口に運ぶ。旅の途中に飲むものより格段に舌あたりのよい冷えた水だった。大きな町の宿で出る、一度沸かして不純物を取り除いた後で改めて冷やしたそれのように美味い。

 続けて満足の吐息を漏らし、彼女は積み荷の整理にとりかかった。


 大したものがあるわけではない。保管した乾燥食料と水の確認。それから地図を取り出して、小さな布にくるまれた欠片を引っ張り出す。黒石と呼ばれるそれで地図の今自分がいるだろう付近に、集落の印を書き足した。前回測った位置からの詳しい距離と方角は、夜になってから確認するつもりだった。

 そうして一通りが済んだ頃、不器用にドアを打ち鳴らす音が響いた。


「セスクだけど。入っていいかい?」


 手早く拾った外套だけを羽織り扉を開けると、少年が立っていた。両手に盆を持っていて、その上では平皿が湯気にのせて食欲をそそる香りをたたせている。

「今朝とれたばっかりのカウディのスープと、黒パンと、あとラウのチーズね。チーズはサービスだから、親父には内緒だぜ」

 受け取りながら、彼女は少年の示す直接的な好意の意味について考えた。

 村に入った時のやりとりから、村人達と少年の間にずれのようなものがあるのは感じていた。閉鎖的な大人達と積極的な少年。それはもしかしたらただ年代の差、それに伴う価値観の相違かもしれなかったし、あるいはもっと単純なものなのかもしれない。経験上、子どもの方が彼女の連れた砂虎――そして彼女自身への恐怖を見せないことが多いのは少し不思議に思う。その少年と目が合った。


「……なに?」

 盆を渡した後も少年がその場を去ろうとしないことを怪訝に思うと、なぜかそれまで呆然としていた少年が、我に返ったように背筋を伸ばし、勢いよく後ろを振り返った。

「じゃ、じゃあ、風呂。沸かしてくるからさ! 準備できたら呼びにくるよ」

 しゃちほこばった態度で階段を降りる少年の姿が消えるのを見送り、彼女は部屋に戻った。固い感触のベッドに座り、ひざの上に置いた盆からスープを一すくいして、口に運ぶ。美味しい。

 旅の同行者達のことを思った。こぶつき馬はきっと今頃、厩で飼い葉を食しているだろう。もしかしたら少年に身体を梳いてもらっているかもしれない。クアルはなにをしているだろうか。思う存分堪能した水浴びを終えて、木陰でうつらうつらと頭を揺らしているかも。夜か、明日の朝には外泉に様子を見にいこうと決めて、サリュは目の前へと意識を専念した。



 突然送り込まれてきた思わぬ豪勢な食事に驚喜した胃がようやく落ち着いた頃、再び少年がやってきた。風呂の準備ができたということだった。

 火焚きがよほど熱かったのか、すすに混じって頬が赤くなっている。逃げるように去っていった少年の動向を不思議に思いながら彼女が準備を整え、階下におりたところで少年と父親のやり取りが聞こえてきた。


「セスク。客人には言ってきたのか?」

「へっ。ん、ああ。伝えたよ」

「……わかってると思うが、おめえ、命の恩人になにか悪さしようなんて考えてたらはっ倒すからな」

「ば、馬っ鹿じゃねえの!」


 そんなやり取りを耳に流しながら、立て付けの悪い扉から浴場に滑り込んだ。

 風呂のつくりは古かったが、潤沢なお湯が張られていた。入浴の前に汚れた衣服の洗濯をして汗をかき、身体の隅々の砂粒を洗い落としてのぼせ上がるまで湯船に使った。この時間、わざわざ沸かした風呂に入れることは最上の贅沢だった。


 豊富な水に食料。商航路の中継地点として充分に機能できるだけの両者が揃っていて、しかし肝心の利用者がいないというのはひどくもったいない気がした。思いは、もちろん村人達の方がよほど鬱積させていることだろう。


 人は水がなければ生きていけないが、それだけでも生きていくことはできない。必要なのは、人――そして物の流れだからだった。数年前に起きたバーミリア水陸東方の大規模干ばつ。この地はまさにその一端であり、トマスとボノクスを介在する貴重な航路であった幾つかは途中のオアシスと共に砂に埋もれ、まだ十分な水量を誇っていたとしても、人の行き来がなくなったことで村はさびれてしまう。むしろ、周囲の同じような村落が次々に無くなっていく状況の中で、数年も集落としての体裁を保っているこの村がむしろ稀有な存在といえた。

 それにはなにか特別な要因があるのかもしれない。考えをめぐらしているうちに湯あたりしそうになっている自分に気づき、サリュは名残惜しく思いながら浴槽から出た。


 疲れが出たのだろう。部屋に戻るとすぐに眠気が押し寄せ、夕食までのそう短くない時間、サリュはベッドの脇の椅子に座って目を閉じた。ベッドに横にならなかったのは、起きられなくなるのを心配したからだった――せっかくの準備を無駄にしてしまうのは悪いし、自衛の問題もある。


 夢を見た気がした。しかしそれがどのような内容だったかは起きた途端に忘れている。彼女はぼんやりと開いた瞳で外を見た。開け晒した木窓にかけられた防塵布を通した日差しの強さにはまだ翳りがないようで、どの程度眠ってしまっていたかはわからない。立ち上がり、サリュは防砂具を頭から被って部屋を出た。


 気配の沈みこんだ廊下を歩く。一歩進むたびに床板がきしむ、それが意図した作りかどうかはともかく、自然と彼女は慎重な足取りになった。砂虎を師に仰ぐような静かさで進み、階段を下りる手前で、壁にかけられた剥製に目が留まった。

 大型の草食動物が肢体を伸ばした形で飾られている。彼女の知らない種類の動物だった。半弧を描いた角と、長く垂れた柔毛。その下に記された碑文に眉をひそめた。


 『アタリアの奇跡に喜びを皆で。祝いの地で』


 短い文のあとには、恐らくその日の日付だろう数字が並んでいる。この狩人が獲物をしとめたのは、今からもう十年近く前のことらしい。


 サリュは文字に弱い。子どもの頃はそんなものを学習できる環境ではなかったし、今では多少読み書きができるようになったものの、そのほとんどが独学のために詳しい修辞や文法についてはあいまいだった。碑に書かれた中身も、大雑把に意訳された彼女の解釈でしかない。しかしそれでも気になったのは、いま触れた言葉にどこかで聞き覚えがあったからだ。


 どこだっただろう。文字に触れる機会というのは決して多くない。すこし記憶をさらえば思いつくことが出来そうだったが、

「――客人。飯の用意ができてるぜ」

 階下からの声に振り返った先でファラルドがこちらを眺め上げている。精悍な顔つきのなかで鋭い眼光が彼女を捉え、サリュは意識を目の前に戻すことができなかった。男に頷いて、彼女は階段へと足を向けた。



 がらんと広い食堂の一角で、三人は食卓を囲んだ。

 サリュとファラルドとセスク。彼らはなぜ二人きりで住んでいるのだろうという疑問が湧いたが、もちろん彼女はそのことを尋ねはしなかった。


 用意された食事の中身は豪華だった。肉菜とりどりの、華やかさ色彩の皿が卓上に並んでいる。自分がいる室内、その内装とのあまりのそぐわなさに、サリュは一瞬戸惑いを覚えた。ここまで贅沢な食事は過去一度しか彼女には覚えがなかった。


 ファラルドとセスクが、眉間に中指をあてる仕草で目を閉じる。恐らく彼らの信じる存在への祈りを捧げているのだろう。黙って彼らを待っていると、やがて二人が同時に目を開いた。

「さあ飯だ。の前に、客人。それ、外すわけにはいかねえのかい」

 ファラルドの言葉に、サリュはしばらく黙して答えなかった。

 男が言っているのは彼女の格好のことだった。サリュはこのまますぐに外に出てもいいよう、しっかりと防砂衣を身につけていた。


「ここには砂も、なにか隠さなきゃならんようなそれ以外もねえ。そんなんじゃこっちの気が落ち着かないんだがな。せっかくの飯がまずくなっちまう」

 つまらなそうに言うファラルドの横で、少年が緊張した面持ちで顔を強張らせている。いくらかの沈黙の後、彼らに届かぬよう息を漏らしてから、サリュはゆっくりと頭に被った布防具を剥いだ。

 露わになった彼女の顔を見た男がわずかに目を見開いた。

「こりゃ……驚いたな。えらいべっぴんさんじゃねえか」

 サリュは表情一つ動かさない。

「なるほどな。あんたが顔を隠したがるのもわかる。それに」

 言いかけて、ファラルドは頭を振ってから肩をすくめた。

「まあいい。とにかく食おう。熱い皿を冷やすことは我らが火の神への冒涜だ。セスク、なにぼさっとしてやがる、肉を切れ」

 なぜか顔を赤くしている少年が怒鳴りつけられ、あわてて主菜のとりわけにかかるのを見ながら、サリュは男の言った火の神という単語を心のうちに書きとめた。


 ファラルドは決して雄弁な男ではなかった。性格的にはサリュも似たようなものであり、昼間話した限りでは快活な印象を受けたセスクという名の少年もこの場では黙して食事を続けている。誰もがしばらく無言だったが、サリュが断わり一人で酒を傾けていたファラルドが、やがて酒精のまじった息を吐いた。

「客人。あんたはどのあたりの生まれだい」

 問われて、サリュは自分の生まれた小さな集落の名前をあげた。

「聞かねえ名だな」

「もうなくなってしまった、小さな村です」

 淡々と告げると、男は渋面になった。

「すまん。嫌なことを聞いちまったかな」

「いえ」

 答えるサリュの口調は静かに凪いでいる。


「まあ、うちも似たようなもんだ。ここら一帯じゃ、どんどん集落がなくなってる。これでも昔は人の往来がとだえない頃もあったんだがね。この宿にも、あんたは本当に久しぶりのお客だよ」

 投げやりに言い捨てる男の言葉に、サリュは思考した。男が何を言いたいのか。あるいは何を言わせたいか。短い検討の結果、口を開く。

「けれど、この村はとても潤沢です。水も食料も無くなる気配などなさそうに見えます」

 男は大きく口の端を歪めた。それが笑顔であると、少しして彼女は気づいた。

「まあな。しかしそれだけだ。ここは取り残された村さ。いずれ滅ぶことがわかりきってる。残されるってのはそういうことだ。そうだろう?」


 記憶に埋もれかけた過去の、あの集落を思い出す。新天地を目指して出て行った人々から捨て置かれた、過去の残骸としての生活体。そこに生きていた極少数の人々の死人のように虚ろな表情を思い出し、彼女は男に首肯した。

 だが、内心では不思議に思ってもいる。彼女が最後を見届けたあの村とここでは微妙に差異があるように感じられた。その違和感の正体がなんなのか、彼女は男の歪な笑顔を見て悟った。

 不平だ。この男は、今ある状態に不満を抱いている。


 彼女の集落ではそんなものを持った人間はいなかった。あの集落に残ったのは、様々な事情があるにせよ、胸に絶望を残した者たちだけだった。男は違う。不満はすなわち、将来に対してまだ希望を捨てきれずにいるということでもあるはずだ。

 それがあの砂に埋もれた集落と、こことの違いだ。では何がそれをもたらすのか。今度はすぐに思い至った。男はさきほど、こちらの言葉を否定はしなかった。つまり、

「このまま忘れ去られてしまうのは、もったいないですね」

 この村の水源は枯れない。少なくともファラルドはそう考えている。恐らく、他の村の人々も同じだろう。だからこそ彼らはここに残っているのだ。水だけのことではない。普通なら価値を有するはずの岩塩の固まりを見て彼らが顔色一つ変えなかったことをふと彼女は思い出した。


 男は答えなかった。探るような視線が向けられる。

 サリュはそれに気づかない振りをして、セスクの取り分けてくれた肉料理に手をつけた。瞬きする。よく脂の乗った肉に柔らかく火が通り、それでいて外側はぱりっと絶妙な加減で焼かれている。中に詰められた香草も芳しかった。率直に言って、とても美味しい。


 少年が、得意げな表情で自分を見ていることに彼女は気づいた。なにかを待ちわびているのがあまりにみえすいていて、意地を張る気にもなれずにサリュは言った。

「美味しい」

「へへっ。だろ、うちの得意料理なんだよ、それ。香草のチョイスがちょいと秘伝ってやつでさ、こっちではけっこうとれるんだけど。知ってっかな。ザベージャっていう――」

 それまでの箍が外れたようにしゃべりだす少年の頭を殴りつけて黙らせると、いつのまにか真剣な表情に戻っているファラルドが彼女を見た。

「なあ、客人。あんた、タニルに行くと言ってたな。ボノクスへ渡るつもりか?」


 タニルはツヴァイとボノクスの国境近くにある大きな街で、近年の水源枯渇騒ぎのなかでもなんとか安定した水量を保てているという噂が響いている。この時期、わざわざ砂海を通ってその街に行きたがる理由をそう考えるのは当然だったが、サリュはあいまいに首を振った。

「そうと決まっているわけでは。ただ、そうなるかもしれません」

 彼女の旅にははっきりとした目的地が定まっているわけではないからだった。どこどこにいけばよい、という答えがでていれば如何にも楽そうではあるが、彼女の探し物はそうしたものではない。

 男は黙り込み、それから言った。

「そうかい。なら、一つ頼みがあるんだが」


 サリュは黙って続きを待った。ファラルドの隣で、セスクが不思議そうに自分の父親を見上げているのが視界に映る。

「タニルについたら、この村のことを伝えてくれねえか。水も食料も充分に溢れてる、航路の中継点に使えそうな場所があるってな」

「……その程度なら。私が生きてたどり着くことができればですが」

「星は読めるんだろう? この村からタニルまでの正確な方向は、あとで伝えるよ」

 彼女は頷いた。

 意外だった。もっと難解な頼みごとをされるものと思っていたのだ。例えば、彼の息子のことについてといったような。もしそうなっていたら、自分はなんと答えていたのだろうか。考えたが、答えは容易に出なかった。


 彼女が頼みを受け入れたことで、ファラルドの機嫌は多少上向いたようだった。嬉しげに酒を注ぎ、思い切り飲み干す。それからやや多弁に村のことを語りだした。

 サリュは無言でその話を聞いた。他人の話を聞くのは苦痛ではなかった。言葉を交わすことも、いつもの旅の連れとはそうしたことはできないから、嫌いではない。昔を懐かしむようなファラルドと、それに茶々をいれては怒られるセスクのやりとりは、無関係の彼女にも微笑ましいものだった。


 やがて食事の終わりごろ、思い出したようにファラルドが訊ねたのは、彼女の旅の目的についてだった。サリュは銀色にも見える不可思議な瞳を伏せ、囁くように言った。

「人を探しているんです」

 薄い希望を抱きながらその名を口にする。

 それを聞いた彼らの反応はしかし、やはり彼女の想いに応えるものではなかった。



 夕餉を終え、サリュは部屋に戻った。

 本当はクアルの様子を見に行きたかったのだが、外を歩きたいという彼女の希望を聞いたファラルドはいい顔をしなかった。恐らく他の村人の感情を考えてのことだろう。思えば、宿屋の食堂といえば酒場、村人の夜の集い場も兼ねることが多いはずなのに、まだ時間がはやかったとはいえ、今夜は誰一人としてそこを訪れてくることがなかった。警戒されているのだ。


 久しく訪れなかった外からの訪問者となれば、それも当然だろうか。少し符に落ちない部分もあったが、わざわざ彼らの警戒心を煽る真似をするべきではないと思い、彼女は外出を諦めた。

 となると、他に何かすることがあるわけでもない。彼女は防砂具を脱ぎ捨て、護身のナイフと荷物の奥底から取り出した一冊の本を手に寝台へ向かった。

 獣脂のランプを枕元に置き、ナイフを隠す。それから清潔なシーツの上に横たわって本を開いた。


 その本は、元は彼女の故郷にあった物である。近くの伝承やお伽話の書かれた伝奇的な内容で、古めかしい表現やわかりづらい比喩も多く、全てが理解できるわけではない。しかしこの本が彼女が文字を学習するうえで最も身近な教本だった。より正確に言うなら、この本を読むために彼女は読み書きをおぼえたのである。


 そっと表紙を撫でる。本に触れる度に思い出すのは、砂漠の夜の下、焚き火の前で黙してこの本を読んでいた一人の姿だ。昔は、いったいそこに何が書かれているかまるでわからなかった。今でもまだ大部分については理解が及ばない。しかし、この本が彼女のものになってから一年近く、少しずつ中身を読み解きながら、サリュはまるでそれを暗唱しようとするかのように毎夜読みふけってきた。


 今夜もそうしようと思ったのだが、実際横になってみると、自分で思っていた以上の疲れが身体に残っていた。明日は早くに出なければいけないし、早朝にはクアルの様子も見にいきたい。サリュは早々に読書を諦め、灯りを消して意識を闇に任せることにした。

 輪郭を失った部屋の中で、空虚な広がりとともに閉ざされた圧迫感を覚える。宿に止まって湯を浴び、美味しい食べ物と安全な睡眠を得ることは確かに喜びではあったが、いつも彼女は寂しかった。


 ここには誰もいない。

 自らを抱くよう、サリュはシーツの中で丸まって眠りについた。



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