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水は地下より湧き出で、低きへと流れる。最も高き場所――水源を確保した者が強者となり、源泉から離れれば離れるほどその立場は弱く、貧しくなる。
ゆえに、源泉の存在はこの世界において最も単純な闘争の理由と成り得る。より多く、より高い位置にある水源、その地上への表出地を人々は争い求め、そこを手にしたものが権力を握る歴史が続いていた。
一つの大水陸の中央、ツヴァイ帝国は帝都ヴァルガード自身のそれと水陸最大の商業都市トマスの水源を併せ持つ一大勢力であり、その軍事力は他を凌駕していた。特にトマス水源は各地に散在する多くの水源と直結された商業・交通の要路であり、『唯一の水源』の名称を冠してもいる。トマスはツヴァイに属するがその立場は一都市としては危険なほどまで巨大であり、両者の関係は張り詰めた糸のような状況が続いていた。水陸最大の軍事国家の潜在的な敵の最大は、このトマスであるとすら言えた。
そのトマスから南東に、こちらは敵対がすでに顕在化している強大な国家が存在する。はるか昔、東方に存在した騎馬民族の末裔を自称する国の名前はボノクスといい、ツヴァイと長らく水陸の覇を競ってきた国である。その版図は一時、ツヴァイをも凌駕するほどまでに膨れ上がった時期もあったが、領地拡大における空洞化、そして近年のバーミリア水陸東方における水源量減少の事態が直接の引き金となって以降、全体的に見れば領土縮小政策をとっている。
水源量が不安定なことを懸念してツヴァイも積極的な逆襲を控えており、両者は一種の小康状態に陥っていた。人間の国家が起こす軍事活動など、惑星の気まぐれにかかれば砂上の一粒のように吹き飛ばされるものでしかない。
そこに加えられるツヴァイの懸念が富の象徴であるトマスの存在である。建国の忠臣によって切り開かれた土地であるトマスはその起源に加えて商業的な意味からも、一地方都市という枠組みからは明らかに外れており、表立った抗争こそないものの、もし次にどちらかが相手国への遠征を企図した場合、トマスはボノクス側に立つのではないか――最近ではそのような噂までもが酒場をにぎわしている。
ある意味では、その三すくみのような関係こそが無用な戦火を鎮めているとも言えた。もちろん、いつかくるその日に備え、誰もが今もいずこかへと騒乱の種火を溜め込んでいるのに違いなかった。
ヴァルガードとボノクスとの間に直接の交易水路はないが、トマスとの間には築かれている。国家として時に戦争も辞さない関係でも、互いに互いの交易品を必要とすることに変わりはない。特にボノクスは良質な毛皮の産地として随一であり、互いに槍を突き合いながらもトマスを介することで貿易関係は続けられていたほどである。
トマスから南へ流れ、それから分派する水路の一つがそのままボノクスへと続いている。それ以外にも砂漠を中継して複数の商航路は存在したが、この地方における大規模な水源減少によってその多くが廃れていた。航路は厳選され、限定されるゆえに行き交う品々の価値は急騰している。そのことが、最近では両国の新しい火種にもなろうとしていた。
その廃れた航路の一つを今歩いている、猛獣を連れた旅人は商人ではなかった。
傍らに連れたこぶつき馬には水、食料以外の荷は見えず、後ろに荷車も引いていない。野盗でもなかった。そういった類はまず人の往来の激しいところに集まるものであるからだ。
砂上での一泊を終えた旅人は、簡単な朝食をとると、取り出した地図を確認して改めて南東へと足を向けた。こぶつき馬の手綱はひいているが、近くに砂虎の姿はない。体躯に見合うだけの食料が必要なその猛獣は、今頃自らの餌を探し求めているところだった。とはいっても旅人の風上へ行くことは稀で、一日以上の距離を開けることもない。今も、旅人が呼べばすぐにその姿を現すだろう。
しかし旅人はそうせず、こぶつき馬だけを供に歩みを進めている。
元来、人と相容れぬ存在である砂虎は、長い年月を経て家畜化された様々な動物種と違い、人と共存することは不可能だと思われていた。必ずしもそれが正しいわけではないことの証明が旅人とその一匹の砂虎の存在であるのだが、他の人間が彼らを見たときに見せる反応は概ね一致している。恐れるだけならまだしも、なかには槍を向けてくる者もおり、それを連れた旅人自身まであやしげな術を使うとして町を追われたこともあった。
命を落としかけたことさえある。それから彼らは日中、互いに距離をとって移動するようになった。航路もなるべく人通りの多いものは避けている。今、旅人が寂れたこの航路を使っている理由の一つも、そうしたものに他ならなかった。
太陽の位置はまだ空の半ばだったが、日光は既に充分な脅威を持って地上へと降り注いでいた。昼夜での激しい寒暖差は砂海の特徴の一つで、旅慣れた者でも容赦なく体力を削られていく。手綱を引くこぶつき馬と無口を競うようにして、旅人は歩を進めていた。風もなく、動物の息吹を感じることもない。だから、こぶつき馬の吐く呼吸と砂を踏みしめる音にまじって響いた遠吠えを聞き逃すこともなかった。
雄叫びには聞き覚えがあった。その声が威嚇と、同時にさほどの緊急性を告げてはいないことにも気づいている。だから旅人は口元に右手をあてて高く指笛を鳴らすと、さほど急がずに声のした方へと向かった。隣では、耳元で騒がれたこぶつき馬が五月蝿そうに耳を動かしている。
いかなる風象の影響か、小高く盛り上がった砂丘を迂回するように回った旅人は、そこで視界に飛び込んできたものに軽く目をしばたかせた。それまでの青と黄の世界とは全く異なる世界が目の前に広がっていた。
そこは水島とも呼ばれる、砂海の憩いの場だった。濃く、薄い緑と茶に囲まれるよう中央にひっそりと姿を現している水源。その脇に見慣れた巨体と、それを目の前に腰を抜かしている一人の姿があった。
砂虎は攻撃態勢までとっていない。つまりその必要はないと判断したのだろう。獲物を逃がさず、また自身いつでも逃げられる慎重な距離で円を描くようにしていた肉食猛獣は、旅人が姿を現すとひらりと身を翻してそちらに駆け寄った。挨拶のように身を寄せてくる砂虎の咽喉をなで上げながら、旅人は地に伏した誰かの目の前に進み出た。声をかける。
「きみ、大丈夫?」
そこにいたのは、まだ十を数えたばかりのような少年だった。近くには不釣合いな大きさの、一見してよく使い込まれていることのわかる弓が落ちている。砂虎を目にしたことがよほどのショックだったのか、大きく見開かれた目がゆっくりと旅人に焦点をあわせ、その隣の砂虎の姿まで捉えて再度悲鳴を上げた。頭を抱えて何者かへ祈り始めた少年の姿にため息を漏らし、旅人は砂虎に合図して後ろへさがらせた。不満そうに一鳴きしてから数歩下がり、行儀よく腰を下ろす連れに微笑んで、少年へと振り返る。
「きみ、……きみ。もう大丈夫だから」
まるで角があればそこから全身を食いつかれてしまうとでも思っているかのように必死に姿を丸めている少年は、旅人が何度か声をかけるうちにようやく恐慌状態から脱することができたらしい。脅えの残った色の瞳が、旅人を見た。
少年から砂虎の姿を隠すように身体をずらしながら、旅人は懐から水袋を取り出して目の前の相手に差し出した。まだ震えの収まらないまま受け取り、ゆっくり口に運んだ少年が大きく息をついたのを確認してから、改めて訊ねる。
「近くの子?」
そうあたりをつけたのは、少年が旅装ではなかったからだ。日差しと、砂を防ぐ最低限の格好ではあるが、日中はともかく夜の急激な冷え込みにまで耐えられるような姿ではない。少年は頷き、南の方角を指し示した。
「すぐ向こうに、あるんだ。もうだいぶ、人が減っちゃったけど」
「そう」
頷いて旅人は水辺へと近づいた。
泉は、動植物を癒すのに充分な水量を誇っていた。この程度の規模であれば、文字通りのオアシス――砂海を行きかう人々の憩いの場になってもおかしくはない。それがほとんど誰もいないというのは、つまり商航路が寂れたことの影響だろう。水がないところに人は生きられないが、それだけではない。
実際、前に寄った集落で聞いた話にも少年のいう集落の存在は出ていなかった。ようするに、忘れられた村というわけだ。
「あれ――」
退屈そうに尻尾を振っている砂虎を直接見ないようにして、少年が恐々とした口調で聞いてきた。
「飼ってるの?」
旅人は即答しなかった。
「一緒に旅してるの」
はっとして少年が旅人を見やり、なにかを確認するように厳重に巻かれた防砂具の奥を覗き込むようにしてから、慌てて視線をそらした。
「でも、……怖くない? あれって。砂虎だろ?」
「子どもの頃から一緒だから。大丈夫」
少年から水袋を受け取り、水を汲みながら旅人は答え、立ち上がった。こぶつき馬を引いて水を飲ませ、旅人が現れる前にすでに水分補給はすませてあるらしい砂虎の様子を確認して、
「驚かせてごめんなさい。それじゃ」
「待って!」
去ろうとしたところで声をかけられる。
「うちに泊まっていきなよっ。この先は夜までに着くようなオアシスなんてないし、明日の朝早くに出たほうがいい。日の出の前に出れば夜には次の村に着くはずだよ」
一般的な旅なら少年の言い分は正しいのかもしれなかったが、この場合はまた少し事情が異なる。水と食料が充分にある上、旅の同伴に砂虎がいる以上、集落に寄ることは極力避けるべきだった。砂海の夜は危険だが、砂虎が側にいれば温かさも、他の猛獣も恐ろしくはない。
「せっかくだけど――」
断るために肩越しに少年を見た旅人は、そこにある必死な表情にそれ以上続けることができなくなってしまった。
なんの意図があってのものかはわからない。だが子どもながらの真剣さには、相応の理由があるのだろう。だからといってそれにつきあうのはただのお人よしでしかないが。旅の連れである砂虎を見ると、呆れた様な上目づかいがあった。もう一方の連れであるこぶつき馬を見れば、いつもどおりの無表情。
旅人は、防砂具の中で薄いため息をついた。
「それじゃあ、一晩だけ。お世話になるわ」
「ほんとうかいっ」
目に見えて表情を輝かせた少年が旅人の手からひったくるようにこぶつき馬の手綱を取ると、意気揚々と先導をはじめる。
「ありがとう! 俺はセスク。お姉さんは?」
「サリュ。こっちの子は、クアル」
「よろしく。えっと……クアルもなっ」
傍らを歩く砂虎に半ばおびえながら声をかける少年の後ろを歩きつつ、サリュと名乗った旅人は遠くに見え始めた古びた集落の姿を視界に、なにか思い出す表情になっていた。
忘れられた村。子ども。そして旅人。別に珍しい組み合わせではない。おそらくこの星のどこにでもあり、起こったと同時に砂に掻き消されていってしまう些細事だろう。しかし彼女が決して忘れることのできない過去を、それは呼び起こすのだった。