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彼の姿が桟橋から水面に落ちたのが見えて、サリュの頭は真っ白になった。
「リトっ!」
あらん限りの声を張り上げて、呼ぶ。そして、少しでも彼に近づこうとして。船が揺れた。投げ出され、気づいた時には彼女は水中に落ちていた。
冷たい水温が全身に突き刺さる。反射的に空気を吸い込んだ口から大量の水が入ってきて、彼女は大きくむせた。手をばたつかせる。固いものに当たった。ボートの縁だった。周辺をまさぐって停留索の切られた綱を掴み、彼女はようやく水面から顔を出すことに成功した。
ぎゃう、ぎゃう、という情けない声がする。慌てて見れば、少し離れた水面に飛沫があがっていた。その中央で足をばたつかせているのは、クアルだった。
「クアル……っ」
もとが砂漠に生きる生き物なうえ、生まれてまだ間もない。泳ぐことなどできるはずもない。今にも溺れそうなクアルへと、サリュは手を伸ばした。届かない。綱を持っていた左手を離した。
小さな体を捕まえると、クアルは必死にしがみついてきた。震えている。爪が食い込んでいたが、すでに刺すような水温の冷たさがあったので気にはならなかった。目に見えて衰弱しているクアルを自分の肩に寝かしつけるようにして、彼女はボートを探した。
すぐ近くにあったボートになんとか近寄っていって、縁にクアルを横たわらせる。ほっとして、自分もボートに上がろうとするが、その力がなかった。
意識せずに身体が震えているのがわかる。水温は予想以上に冷たく、酷い勢いで体力を奪っていった。牢暮らしでもともと体力が落ちていたせいだった。視界が暗転しかけ、なんとかロープだけは放さないようにしながら、彼女はふと全身から力が抜けるのを感じた。
そのまま、彼女の小さな姿が冷たい水の底へと沈もうとした瞬間、
「生きろ!」
声が響いた。彼女の男の声だった。
遠くで水面を叩く音がする。彼は生きている。こっちに向かってきている。早く、あの人がやってきた時にわたしがひっぱりあげないと。
意識は一瞬で覚醒した。失われた体温と力は戻るはずもなかったが、彼女は震える両手でなんとか、水を含み嘘のように重い自分の体をボートへと持ち上げた。
歯を食いしばり、木の温もりを肌におぼえ。そして急な浮遊感を感じたのと同時、そこで彼女の意識は闇に落ちた。
気づいた時、少女は砂浜に倒れていた。
うっすらと目が開いた先に、黄土色の砂粒が見える。無数のそれは日の光を反射して、目に痛いほどに輝いていた。
視界の隅にある左手に力を込める。まるで自分の手ではないような、ずれた感覚しか返ってこなかった。拳いっぱいに握り締めようとしてほんの少ししか動かない自分の肉体を彼女は笑った。
駄目だ。
これはもう、駄目だ。
どのくらい倒れていたのか。体中に水分がなく、喉はぴくりとも動かない。
思考を麻痺させる頭痛、それに吐き気と倦怠感が全身を支配していて、もう起き上がることすら叶わなかった。
ここで自分は死ぬ。干からびて死ぬ。砂に埋もれて死ぬ。たった一人で死ぬ。
たった一人で、
「生きろ!」
声がした。
少女は、いつの間にか視界の半ば以上をさえぎろうとしていたまぶたを開いて、必死に頭を持ち上げた。声は視界の外から聞こえた。残った渾身の力を込め、顔を這いずらせるように顔の向きを変える。皮膚に触れた地面は焼ける様な熱さだったが、喜びに打ち震えた彼女にそれはまったく問題にならなかった。
――いてくれた。
近くにいてくれた!
そうしてようやく視界に入ったのは、自分の右手だけだった。
誰かの姿はなかった。
「生きろ!」
だけど、声はした。
幻聴だった。
泣きたくなって、だけどそんなことができる水分は自分の中からとっくになくなっていて、少女はただ全身を細かく震わせた。
ふと、握り締めたその右手の端に、何か白いものが見えたような気がした。
「生きろ!」
そこから声がした。
彼女は全ての力を振り絞って手のひらを広げた。
そこにあったのは白い花だった。
水分を失くし、しわくちゃに萎れた本物の花。魔法がとけた、ただの枯れ花だった。
視界が滲む。もう出ないはずの涙が一気に溢れてきて、動かないはずの喉が震えて叫び声を上げた。
「ああ……ああああああ……」
「生きろ!」
それでも声は消えなかった。
「うあああああああああ……っ」
「生きろ!」
わたしはあなたと生きたかった。
わたしはあなたに食べられたかった。
あなたの為に生きたかった。
あなたの為に死にたかった。
「生きろ!」
なのにあなたはそんなことを言う――
今はもう滅んでしまった集落で、それまでの彼女は全てを受け入れて生きてきた。
物覚えがついた時から、いつも村人からは薄気味悪そうにしか見られておらず、その原因が自分の目と名にあることがわかった。呪われた子。影でそう言われていることが、聞きたくもないのに耳に入った。
両親はなかった。名前も、育ての親である変わり者の老婆がつけてくれたものだった。彼女は優しくもなく冷たくもなかったが、一度なぜ自分にこんな名前をつけたのか尋ねたことがある。老婆はなにも答えず、火をくべた暖炉の前で椅子に座り皺くちゃの顔でどこか遠くを見上げているだけだった。
水面に映る自らの瞳孔が意味するものも知らず、いつしか少女は自分のことを村の噂通りの存在だと思い始めるようになった。そして、その名前で呼ばれるものの存在に興味を持った。それから彼女は村の外れで舞い上がる砂を見るようになった。
死の砂を、見てみたかった。
そんな少女の姿に不吉なものを感じた村人達は、老婆に彼女を村から追い出すよう言い迫った。生きることにさして執着をもてなかった彼女は別部屋で自分の処遇が決まるのを待っていたが、隣から今まで聞いたこともない老婆の怒鳴り声が響いて驚いた。
老婆の台詞まではわからなかったが、その日から少なくとも表立って少女の追放を唱える声はなくなった。彼女の砂が舞い上がる様を見上げる日々は続いた。
病がちだった老婆が死んだ時、少女に悲しみはなかった。一緒に住んではいたが、ほとんど他人といっていいほど互いに親交はなかったからである。もちろん、老婆が幼い自分を助け、今まで育ててくれたことには感謝していたので、老婆の友人だった男、サジハリと葬儀を行ってせめてもの恩を返すことは忘れなかった。
葬儀が終わった後も、意外なことに少女は村から追い出されなかった。かといって引き取ろうなどという酔狂な人間も現れなかったので、それからはサジハリの家に住むことになった。
もし村から追い出されていても、少女は淡々とそれを受け止めていただろう。そして恐らくは砂海に埋もれてあっさりとその人生を終えていたはずである。彼女にとって、生とはその程度のことでしかなかった。
少女が唯一、感情らしい感情を行動に示したのは村に一匹の小さな砂虎が現れた時のことである。村人の誰もが怖がり、殺そうとしたところを少女が根気をもって手なずけて見せた。村人は気味悪がったが、サジハリのとりなしもあって番犬がわりに飼ってみてはどうかということになり、少女が世話役になった(それなら、猛獣が牙を剥いた時まず最初に殺されるのは彼女だった)。
いつも砂を見上げる姿が、一人と一匹になった。
時がたち、真ん丸い毛むくじゃらでしかなかった砂虎も大きく成長し、その存在が村を襲った盗賊まがいの連中を追い返したこともあった。村人は少女の努力と献身は少しも讃えず、ただ自分達の先見の高さを誇ったものだが、それも水源の枯渇という事態に襲われるまでのことだった。
貴重な水の消費を抑えるため、あっさりと砂虎の毒殺が決定された。
彼女はその決定に反論しなかったが、もちろん納得したわけではなかった。夜中、彼女は砂虎の繋がれた小屋に行き、村の出口まで連れて行ってからその鎖を解いた。殺されるなら、逃がして悪い道理はない。
しかし砂虎は出ていこうとしなかった。
村はずれの、いつも少女と見上げていた場所で座り込み、彼女がいくら押しても言い聞かせても動こうとしなかった。やがて世が明ける頃、ようやく立ち上がったかと思うと自分でまた小屋の中に戻り、そして村人が持ってきた毒入りの餌を食べてあっけなく死んだ。
少女は泣かなかった。
空を見上げるのがまた一人になった。
水源の水量低下が決定的になり、新天地を求めた村人達が出て行った。少女は当然のようにその旅には呼ばれず、村にとどまった。
他にいた村人はそれぞれ毒を飲むなり、あるいは限られた生を静かに全うするなりの行動を起こしていたが、少女はいつものように村はずれに立つ日々を続けていた。
そして、いつからか村に死の砂が吹いた。幼い頃から待ち望んでいた瞬間だった。
死の砂は、ただ圧倒的なまでの奔流で集落を包み込んだ。まさにこの星を支配する力そのものの姿を前にして、少女はただまなじりを見開いて立っていた。
その中から男は現れた。
透き通った瞳の奥に多くの揺れを包んでいるような、そんな男を一晩もてなした夜、サジハリに呼ばれ男の部屋に行くように言われた少女はそれに従った。言いつけのとおりに、身の穢れを綺麗に落として。それが何を意味するのかわかって訪れて、そして彼女は男に否定された。
彼女は男の言葉に戸惑い、同時にその見下してくる視線が心の波紋を呼び起こすのを感じた。
軽蔑しきった態度で男がこちらに放り投げた短刀を、手に取る。闇夜の雫を集めてうっすらと光り輝くそれは、人の悪意を吸い取って存在するかのような禍しさを持っていた。
「生きるってのはそういうことだ」
その時、少女の胸に沸き起こったのは確かに男への敵意だった。
知らないくせに。なにも知らないくせに、知ったようなことを言いたいだけ告げて寝入ってしまっている。それならば言葉どおり、喉をかききってやれば――そこまで考えて、彼女は内心のざわめきに自身の動きを止めた。
驚いていた。
こんな風に激しい感情を抱いている自分に戸惑い、そして不意に彼女は理解した。自分は今まで、全てを受け入れて生きてきたのではない。全てを諦めてきただけなのだと。
何故、あの時砂虎とともに村を出なかったのか。
それで生き残れたかどうかはわからない。今まで集落から外に出たこともなかった子どもが、ろくな準備もせずに砂海に飛び込み、無事に渡りきれたとは思えない。
しかし、それが生きるということなのではないか。
自分はそれをしようともせず、ただあの砂虎を死なせてしまった。もしかしたらあの子は、自分がいつか歩き出すのを待っていたのかもしれない。最後の朝の、最後の瞬間まで。
涙は出なかった。かわりに月夜の零れた光が短刀に揺れた。男への悪意は一瞬で霧散し、彼女の胸の裡にそれとはちがう感情が芽生え始めていた。なぜこの人の言葉は、私に届いたのだろう。その疑問にやがて彼女自身が出した答えは、
――似ているのかもしれない。
結論から言ってしまえば、つまるところそれは大いなる錯覚に過ぎない。ただ確かに、真実の類ではあった。
しかし、それが正しいかどうかはともかく、少女はやがて人生で初めて、自ら生きる目的を見出した。彼女は壊れ物を扱うように真摯にそれを信じようとしていた。
「生きろ!」
それが、再び否定された。
「生きろ!」
その声はただひたすらにそれを告げていた。
それは呪いだった。
ある小心者の魔法使いが残した、彼女の耳から一生離れない呪いだった。
手を動かさないことを許さない。
目を閉じることを許さない。
足を止めることを許さない。
諦めることを許さない。
強い、とても強い呪いだった。
「生きろ!」
力の抜けきった身体で、少女はゆっくりと這いずっていく。
灼熱の砂を掴み、張り付いた頬を砂で焼きながら獣のような声をあげ、きらきらとまがい物のように輝く水辺に向かい、身体を震わせて進む。
やがて、叫び声を上げるのをやめて。目を閉じて暗い闇に落ちゆく中で、彼女は呟いた。
誰かに伝えようとして、言えなかったその言葉。
孤独な砂漠の夜、腕の中の彼女にしがみつくようにして一晩中震えていた、まるで幼子のような男の姿を思い出しながら、夢うつつの中で紡いでいた。
なにかに脅えていた。
なにかを探してた。
あなたは――
「あなたは……ただ、寂しかっただけでしょう」
自分自身を見つけられず、ただ泣いていただけだった。
一人では、人は自分の姿も見ることなんて出来やしないのに。
わたしの瞳に、あなたはいつだって映っていたっていうのに。
その日、水陸最大の商業都市トマスを襲った暴動事件は公爵の迅速な対応もあり、一両日中に完全に鎮圧された。
「敵対国による許されざる策動」の結果、街には一時火の手があがったが、帝都から招かれていたアルスタ家の若き名代の指揮もあり、被害は最小限に抑えられた。
暴動を扇動した者として数名が捕まったが、その素姓や目的などについての詳細は不明のまま、公には敵対国からの間者とだけ発表されただけである。
当該事件での負傷者及び死亡者についての調査は、ひどく難航した。
やがて一月が経ち、公爵家からようやく発表されたその負傷者名、あるいは死亡者名の一覧に、ニクラス・クライストフの名は、ついに載ることはなかった。