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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 呪われた少女
11/107

 講堂の廊下に逃げ込んだリトは、彼を見る二人に向かって肩をすくめた。

「少し盛り上げ過ぎたな」

「仕向けたのはお前だろう」

「止めをさしたのはお前だぞ」

 ぐ、と口を閉ざすクリスから視線を外して、彼は考え込んだ。順調に物事が進んだとはいえ、まさか聴衆が暴れだすとまでは思っていなかった。思惟のかけらが、ぽつりと彼の口からこぼれた。

「扇動者でもいたかもな」

 無言で形の整った眉をひそめる彼女に、視線を送る。

「暴動をけしかけた奴さ。俺のように」

「馬鹿な」

 クリスは絶句した。


「なぜそんなことをする意味がある。暴動など」

「公爵家にちょっかいをだす口実になる」


 あっさりとリトは断定してみせた。

「ヴァルガードとトマスは常に互いを追い落とそうとしてる。今回の魔女騒ぎもそのあたりが噛んでるんじゃないか」

「待て。聞き捨てならんぞ。どういうことだ、ニクラス」

 足を止め、クリスは冗談のない表情で訊ねた。

 ただの仮説だが、という前置きを入れて彼は自分が思うところを説明した。例えば公爵領において魔女狩りが起き、人心が乱れたとする。それで最も利益を得るのは誰か。治安を正す為といって介入の口実を得る帝都側だろう。そして無実の罪で人々が殺されたとなれば、それをもって為政者失格の烙印を押すことも可能になる。


「まさか、その為に帝都が? あの老女はその為に仕組まれたと言うのか」

「さあ。でも、その企みが失敗したから、せめて――なんてのがこの暴動だとしたら、どうだ?」

 信じられぬ。苦虫を噛み潰したような表情で押し黙るクリスに、リトは軽い感じで鼻を鳴らせた。

「まあ、もちろん証拠はないしな。けどそのぐらいの搦め手を使いそうな奴、あそこにはいくらでもいるだろう。さっきの暴動はさすがに不自然すぎる。そうじゃないにしても、裏になにかあっただろう」

 思い当たる顔が多すぎるのだろう。クリスは考え込んだきり黙ってしまった。


 元々、権謀術数を嫌う彼女がその可能性に思い至らなくても当然と言える。むしろ、だからこそ彼女は選ばれてこの地に送られたのではないかとリトは思うのだった。帝都の意思を伝える表の顔として。裏があることなど知らされもせず。

 だが、どちらにせよ彼には関係ないことだった。取引はすでに済ませていた。

「取引? 公とお会いしたのか?」

 彼はあっさりと頷いた。

「俺の身元の保証も公からのものだよ。あの魔法使いの庇護者だった奥方は今この街にはいない。病気療養なんて名目で、すでに遠く別荘にいるんじゃないか」

 今まで妃の勝手を許していた公も、ようやく重い腰を上げたというわけだ。あくまで表には立たずに。


 もちろん、リトが今回の裁判の弁度に失敗したなら彼自身が何らかの処置に動いただろうが、その時には事が起こってしまった責任も彼自身問われることになる。酔狂人と噂の帝国宰相の次男坊がもし事を納められるのであれば、それが公にとっても最も望ましかったのだ。加えて、帝国宰相に貸しを作るきっかけにもなる。

「まさか……まあいい。それは後だ。それで、どうする。すぐに連中は外を取り囲むだろう。これでは袋の鼠だぞ」

「わかってる。裏口は?」

 あそこだ、と告げるクリスの先に、古い大きな木製の扉が見えた。近づいて耳をそばだてる。厚い板の向こうに、興奮に狂った暴徒の声は聞こえなかった。

 その扉を開ける前に、彼はサリュを見た。裁判が終わって、初めて視線を交わした。すぐにその胸元にいるクアルへと視線を向けて、

「連れて行くのか」

 言った。

 サリュは一瞬だけ迷うようなそぶりを見せたが、すぐに唇を結んで、それから頷いた。

 その少女に、

「……好きにしろ」

 とだけリトが告げたところで、不意に扉が開いた。

 少女が身を固くし、クリスが油断なく身構える。やや西に傾いた眩い光が彼らの目を射して、その中から逆光になって人影が進み出た。


「お待ちしておりました」

 礼儀正しく腰を曲げてみせる。

「お前は」

 再び絶句するクリスの前で、黒い執事服に身を包んだ男は一瞬、悪戯に成功した子供の表情で微笑んだ。



「つまり、私は自分の使用人にまで騙されていたというわけか」

 執事服の男の案内でとりあえずは安全な場所まで移動すると、無人の廃屋の中でクリスは不機嫌をあらわに呻いた。

「申し訳ございません。しかし、そのようにとのニクラス様からのご指示でございましたので」

 さらりとした言葉で全ての責任を押し付けられ、リトは悪びれた風もなく肩をすくめた。

「知った上で、器用な立ち振る舞いができるとは思わなかったからな」

 今回の裁判に弁護人として参加することについて、リトは男に頼ることが多かった。そうそう名を明かすわけにもいかない状況では人脈や手段も不足している。そこで、彼の主人であるクリスに内密で協力を求めたのである。


 もちろん彼女に話を通さなかったのには理由があった。

 クリスは、彼女なりに全ての手を尽くした。だからこそ帝都への言い訳もたつというものだ。そこで彼の企みに関わってしまえば、立場が悪くなるのは彼女である。少なくとも、彼らは帝都側の意図したものを一つ蹴り捨ててしまった可能性があるのだ。恨まれる危険は避けるべきだろう。

「……気に食わん」

 頭の回転の早い彼女である。理解はすぐにできただろうが、それでも感情がついてくるものではないらしく、何かを反芻するように押し黙った。


 既に昼の時間は過ぎ、あたりには夜の帳が落ちていた。小屋から外に出て、周囲の様子を確認する。

「いかが致しますか。経路は複数用意しておりますが」

 執事の男が訊ねた。

「屋敷までは行けるな?」

 無言で頭を下げる。頷いて、リトはクリスを見た。

「騒ぎが収まるまで匿ってくれるか」

 問われたことで逆に名誉を傷つけられたように、彼女は顔をしかめた。

「当たり前のことを言うな。お前達二人ぐらい」

「いや」

 冷たい声音がその言葉をさえぎった。

「かくまってもらうのは一人でいい」


「なに?」

 クリスの顔が険しくなり、サリュが彼の服の袖を強く掴んだ。それに気づきながら、あえて意図した冷酷さでリトは続けた。

「俺はこのまま街を出るよ」

「馬鹿な。街には今、暴徒がうろついているのだぞ。数日は様子を伺うべきだ」

 彼女の言葉は正しかったが、そうもいかない事情がある。

 彼は生家の名を出してしまった。それだけで本人だと言う証拠があるわけではないが、このままただの同姓同名にするには、当の本人がいてはまずい。彼が姿を消すしかないのだ。街の騒ぎが落ち着けば人目にもつくようになる。帝都からも様子を探る為の密偵も来るだろう。そうなった時、彼らから見つからずに姿を隠すことは不可能だった。


 今回の件が何者かの策謀だったとして、その何者かがもし彼の実家と敵対している貴族だった場合、それは彼の家にとって汚点となりうる。もちろんアルスタ家は言うに及ばず。自侭に家を出た以上、どちらにも迷惑をかけるわけにはいかなかった。


 消えるのなら、今このタイミングしかない。


「しかし、正門はどこも閉じられているはずだ。外に出ることなど不可能ではないか」

 なおも反論しようとするクリスだったが、

「川を下る。水門の前あたりで岸に上がれば、いつもは監視が厳しいが今なら兵士達の目も街に向けられているだろう。前もってボートを用意して荷物も積んでもらってある、問題ない」

 男の筋の通った説明に言葉が出てこず、やがて悔しそうに下を向いた。

「お前は、いつも。いつもそうやって。私を置いて――」

 声が震えていた。日ごろ、常に冷静であろうとしている理性の檻が壊れ、過去から溜め込んできた感情が今にも爆発しようとしている。それを遮るように、

「クリス。サリュを頼む」


 男が投げかけた、それは逃げの言葉だった。

 最後の最後まで、ニクラス・クライストフはクリスティナ・アルスタから逃げようというのだった。それを悟り、しばらくの沈黙の後にクリスがその顔を上げた時、そこにはいかなる戦場画にも登場し得ないような、凄烈な瞳を湛えた女騎士の瞳しか残っていなかった。少なくとも、表面上には。

「――剣に誓おう」

 頷いて、リトは手を差し伸べた。彼女もそれに習った。固く握手を交わす。


「また会おう」

「必ずだぞ」


 彼はその隣に視線を移して、黒服の男を見た。そう言えば名前も聞いていない。ゆえに言葉の別れは必要なかった。彼は無言で首を引いて、男はそれに微笑と直角に近い辞儀で応えた。あくまで執事の分を越えない応対だった。


 そして、最後にリトはそれまであえて見ないようにしていた少女へと目をやった。爪が手のひらに食い込むほど強く彼の服を掴んで、必死な表情で見上げている彼女に、呼びかける。

「サリュ」

「いやです」

 彼が何か言う前に、初めて見るような必死さを瞳に込めて少女は言った。

「わたしも連れて行ってください。邪魔なら途中で置いていってもかまいません。盾にしても。突き落としても。だからどうか、どうかわたしも一緒に連れていってください」


 悪魔も哀れむ声だった。彼が見ているうちに、少女の魔女の証とされた二重の瞳にみるみる大粒の涙が溜まり、頬を伝って落ちた。

「サリュ。聞け」

「聞きませんっ」

 濡れた声は、情けないほど言葉になっていなかった。あまりに切実なその光景に、クリスと執事服の男が息を呑んでいる。彼らが固唾を飲んで成り行きを見守る中で、リトは口を開いた。


「俺は生まれた時から一人だった」


 反発しようとした少女が、なにかに押さえつけられるように口を閉ざした。

「ずっと一人だった。それは悲しくもなんともなかった。自分と周りが違うことはわかっていたからだ。だから俺は今までずっと一人だった」

 そこで出会った少女を見て、


「そしてこれからも一人だ」


 はっきりと告げた。


「俺は自分の為にしか生きてこなかった。自分の為にしか何もしなかった。そしてこれからも自分の為にしか生きないし、自分の為にしかしない」

 目に深い暗闇が灯っている。少女の不可思議な瞳孔に映る自分自身、その黒い虚無の底をこそ見るようにして、彼は続けた。

「勘違いしているみたいだけどな、俺はお前を助けたことなど一度もない。守ったことも一度もないんだ。想ったことも一度もない。全て俺が、俺の為にやっただけのことだ。全部、俺なんだ」


 それは何一つ偽りのない事実だった。

 あの集落で気まぐれに旅の共を申し出たのも。砂漠で倒れかけたのを介抱したのも。街で騒動から助けたのも。売春宿に迎えにいったのも。服を買い与えたのも、裁判で弁護したのも。全て自分の為。彼が自分自身の為にやったことだった。少女の為になど欠片も脳裏に浮かんだことはなかった。本当にそうだった。


 少女はただそこにいただけだった。

 彼は一人だった。そのことを生まれながらに自覚していた。

 世界には膜がかかり、思いは鏡で歪められ、言葉はからっぽの空洞に虚しく響く。それが自分自身故にであることもわかっていた。この世界を汚らしく見てしまうのは、その人間が汚らしいからに他ならないことを理解していた。


 だが生を受けた以上、それを中途で放棄するような弱さ。あるいは強さもまた彼にはなかった。あの晩、少女に告げた言葉はそんな彼が初めてもらした弱音であったかもしれない。 

 彼は答えを探していた。

 たった一人で。自分だけの答えを。その問いそのものの内包する矛盾に、二十数年を生きて気づかない。それはつまり、これからも永遠に気づけないということでもあった。

「お前が魔女なのかどうか――そんなことどうでもいいんだ。その奇妙な目も、お前のように砂虎を飼える人間がいるのかどうかなんてことも興味ない。俺はただ、あのままにするのが気に食わなかったから弁護しただけなんだからな。だからな、サリュ」


 そして、言った。


「お前はお前で勝手に生きて。勝手に死ね」


 少女の呼吸が止まった。そう錯覚させる程、表情が凍りついた。目を見開き、口を開いたまま身動き一つしない。彼女の時は完全に止まっていた。

 リトは背中を向けた。

 歩き出すその後ろ姿に、声をかける者はなかった。



 彫刻のように動かない少女にクリスはかける言葉を見つけることができなかった。

 彼女はその時初めて、友の持つ闇の奥深さを直視した。

 彼が大学の頃から周囲と違っていたのは、誰でも認めるところだった。何事も達観して、くだらない争いに関わらず、どこか淡々と生きている変人。その中にどうしようもない渇きがあることに、少なくとも彼女だけは気づいていた。

 しかし、彼がそれをクリスに打ち明けることはなかった。

 打ち明けてくれることはなかったのだ。いくら残酷な言葉だろうと。別れの為の言葉であろうと。


「……追いかけなさい」

 やがて、彼女の口をついて出たのはひどく冷たく、同時に灼熱のマグマのように煮立った感情の込められた嫉妬の言葉だった。


 人形のように感情のない瞳で振り返った少女が、彼女を見る。その年端も行かぬ少女を憎しみの交じった瞳で睨み、クリスは言った。

「追いかけるんだ。サリュ」

 少女の瞳に、微か戸惑いの気配が生まれた。無理もない。あれほど強烈に否定されたのだ。まだあのひねくれた孤独者に立ち向かおうと思える者など果たしているだろうか。


 しかし、少女は言われたのだ。自分とは違って。


「頼む。あいつを……一人にしないでくれ」

 声が掠れてしまった。少女の顔が歪んだのは、自分の視界が歪んだからだと彼女は気づいた。

 その瞬間、クリスは騎士であることを放棄していた。五年前の十八歳の少女に戻って、涙を流して懇願していた。

「お願いだ」


 私は一緒に行けなかった。

 なぜ行かなかったのだろう。あの日以来、そう思わないことはなかった。家を捨て、身分を捨て、なぜ私は彼と共に進まなかったのだろう。そうすれば未来は変わっていたかもしれないのに。彼からその言葉を聞いたのは自分だったかもしれないのに。


 しかし、現実にはそれはただの夢想でしかなかった。彼女は武家の名門アルスタ家の名代として、近い将来には当主になることが既に定められている。彼女には守るべき人々がいた。それは五年前にも存在していたが、今ではその数と質は何十倍にも膨れ上がっていた。


 自分にはもう、あの馬鹿な男に何を言う権利も、機会もない。

 だから。


「サリュ。行ってくれ」


 驚きに目を見張った少女の瞳に、光が戻った。ゆっくりと頷くと、胸に砂虎の子を抱いたまま駆け出した。すぐに闇の中に消えた少女の姿をいつまでも見続けるように、クリスはその場に立ち尽くしていた。

 彼女が騎士の顔を取り戻すのに、あと僅かばかりの時間が必要だった。その間、執事服を着た男はただ黙って彼女の側を離れなかった。



 暴徒は中央の広場から、やがて飛び火するように街中に拡散していった。

 中央から憲兵によって制圧されていき、その結果より外へ外へと押し上げられていく。外側のほうが経済的に貧しく、暴徒の波が膨れ上がることが懸念された。


 実際に、街の四方を取り囲む水掘りのすぐ中、外円部では中央とは異なる発火での暴動が起きているようだった。経済的不満、その機に乗じた富裕層の襲撃。考えられることは幾つかあるが、背後に扇動者の存在があることは想像がついた。

 暴動の発生が明らかに不自然だからだった。そして、不自然だからこそ収束まで時間はかからないだろうと思えた。次々に燃え広がらない火ならすぐに消されるだけだ。そういった意味では、このタイミングで出火したのは仕掛けた側にしてみてもやはり想定外だったのだろう。


 いい気味ではある。しかし、貧民街の危険度が増すことは、そのまま彼の逃亡が難しくなることも意味していた。身なりのいい服装をしているだけで襲撃されかねない。目立つような装飾は既にちぎり捨てていたが、根本的な仕立てのよさは遠い夜目にもすぐわかるだろう。

 個人は集団に決して敵わない。一度に向かわれてしまえば三人にも勝てないのが個人というものだ。そして、暴徒と化した人間の行いは日頃の人間性と関わりなく、極めて残酷に変わりうる。


 しかしこの街から出るには外に向かうしかなく、つまりは注意して進むしかない。松明を掲げて闊歩する住人から避けるように、彼は川べりへと向かった。

 その背後から、

「――っ」

 人の気配を感じると同時、リトは振り向いてナイフを突きつけていた。その小柄な体格に嫌な予感がして、その人物の顔を確認した彼は表情を凶悪に歪めた。

「なにをやってる」

 そこにいたのは、サリュだった。目の前に光るナイフに身を竦め、胸のクアルがそれを威嚇して必死に前脚を伸ばしている。


「クリスの家にいけと言っただろう!」

 いっそ憎々しげな口調で、リトは言葉を叩きつけた。少女はその感情に顔を緊張させて、しかし正面から彼を見返した。

「わたしの行動はわたしが決めます。あなたのように」

 毅然とした態度で言う。

「俺のように?」

 虚をつかれたように、リトは目をしばたかせた。

「はい。あなたこそ勘違いしています。わたしは、わたしの意志で、わたしの為にあなたの側にいたいのです」

 そこで一旦息を吸い、

「わたしが何をしようと、わたしの勝手……ですよね」

 精一杯の感情を込めて睨みつけた少女を見て、瞬間、リトの背負う憎悪が極限まで膨れ上がったかに見えた。そして、それでも顔色を変えない少女の姿に、

「……好きにしろ」

 毒づくような言葉で答えた。

「はい」

 嬉しそうに微笑んで、少女は彼の隣に並んだ。



 街の中央部から輪を広げるように暴動の鎮圧を行っていた憲兵隊は、やがて街の外円部にも迫ろうとしていた。両者の争いに巻き込まれるのは好ましくない。しばらく機を見ていたリトだったが、結局強引にその場を突っ切ることにした。

「走るぞ」

 隣の少女に声をかけて、駆け出す。

「おい、誰かいるぞッ」

「追え!」

 やはり見つかった。

 すぐに背中からかかった声を振り切るように、彼らは走った。


「あっ――」

 不意にサリュが小さく声を上げて、頭のあたりを押さえた。怪我でもしたのかと思ったが、そうではない。彼女の頭を飾っていた白い花がなくなっている。どこかにひっかけてしまったのだろう、立ち止まって戻ろうとする彼女を強引にリトは引っ張った。

「馬鹿、捕まるぞっ」

 目の前に月光を照らして光る河川が見えて、ようやく走るのをやめた。肩で呼吸をするサリュの様子を見ながら、リトは桟橋を探す。すぐそこにあった。いくつかのボートが停留されている、その一つに荷が積まれていた。あれだ。

 暴徒はまだ追いついてきていなかった。今のうちに出れば逃げられる。さすがにほっとして、彼は傍らの少女の様子を伺った。


 サリュは消沈していた。理由はすぐにわかった。あの偽花だ。

 あれの何がそこまで重要なのか。まったくわからなかった。ため息をついて、リトは彼女を引っ張って桟橋へと向かった。その途中、川原の風にそよぐあるものを見つけて、彼はそれを手に採った。そのままボートへと向かい、沈んだ表情のサリュとクアルを乗せる。


 リト自身はすぐに乗らなかった。ボートはこれ以外にもいくつかある。もしかすると、追っ手はこれに乗って追いかけてくるかもしれない。

 彼はナイフで桟橋に結ばれた綱を切っていった。左手に持ったそれが邪魔で、まずサリュに渡そうと顔を向けて、その少女の顔がはっと強張るのと同時、

「いたぞ!」

 声が響いた。

 無数の松明が土手の上に見えた。舌打ちして、リトは桟橋に残るボートを見た。まだ数がある。この状態で出るわけにはいかない。

 彼はサリュの待つボートへと向かうと、その停留策を乱雑な手つきで切り離した。


「先に行け!」

 驚きに目を見張る少女の右手にさっき採ったそれを押し付けて、力を込めてボートを離岸させると、

「リトも、早くっ」

 その声を無視して、彼は桟橋を戻った。

「リト!?」

 残っているボートと岸を繋ぐ綱に向かう。切って、ボートを押す。あと三艇。


「ボートで逃げるぞ!」

 声がすぐ側まで近づいていた。被さる様に、もう一つの声が届く。

「早く! リトっ」

 両者の声を同時に耳に入れながら、平静を装ったリトの頭は混乱していた。

 自分でも何をしているんだという思いがあった。さっさとボートに乗るべきだ。時間稼ぎが必要ならあの少女を差し出せばいい。本人が言っていたように、盾にするなり、突き落とすなり。それで多少とはいえ時間は稼げるかもしれない。


 しかし、自分は今、念には念を入れようとでも言うかのようにこんな行動をとっている。これは慎重なのか。そうとは思えなかった。ただ自分だけの生存を考えた上での行動としては、論理的でなかった。

 困惑しながらも、彼の手先は冷静にその行為を続けていた。残る一つの綱を切って、押す。ゆっくりと、だが確実にボートは岸から離れていき、そして、


「リトっ――!」


 悲鳴が上がった。と同時に遠慮のない力で背中を引っ張られて、身体が桟橋を転がった。受身を取って回転する視界の中で月が笑い、松明の火とそれに浮かび上がる悪魔のような形相の人々の姿が見えた。

 すぐに立ち上がると油断なくナイフを構え、距離を計る。熱狂という名の業火に身をやつした暴徒は、それを見てもまったく怯まなかった。


「貴族だ」

「あのボートにも誰かいるぞっ」

「きっと金目のものが積んでるんだ」

「追いかけろ!」


 その言葉を聞いて、リトはちらりと後ろを見た。少女の乗ったボート。それと桟橋との距離はまだ、近い。あれじゃ駄目だ。あれでは追いつかれてしまう。

 その自分の思考に、一瞬彼の動きが止まった。


 俺は、いったいなんの心配をしている?


 その隙を突いて、暴徒の一人が突っ込んできた。松明を槍のように突きだされて、腹の辺りに激痛が走った。かまわず、彼はナイフでその暴徒を斬り捨てた。下から、何か焼ける匂いがした。

「リト――っ」

 さっきから叫び続けているサリュの声が、濡れている。振り返って、月光に照らされて、身を乗り出しながら涙を流してこっちを見ている少女にリトは心配させまいと笑いかけて。


 その瞬間、唐突に彼は全てを理解した。


 理由。

 理由はくだらなかった。


 彼はサリュを守ろうとしていた。逃がそうと、助けようとしていた。

 だがそれは決して彼女の為ではない。誰かのためなどではない。

 あくまで自分の為に、それをしようとしていた。

 ただそれだけ。

 そこに矛盾はなかった。少なくとも彼は納得した。なぜなら――


 つむじ風が吹いた。街から外へ、リトの背中から暴徒達に向かうようにして無数の砂粒が叩きつけられ、ぶつかりあって上空へと昇りあがっていく。闇夜の中でもがく人々をあざ笑うかのような自然の理不尽な気まぐれは、彼に少女との出会いを思い出させた。


 死の砂。そして、生の運び手。その名を持つ少女。体現者として、彼女は自分にとってそのどちらなのだろうか。死か、それとも生か。

 自分はもっとあの少女に話を聞いて、そして話をきかせないといけない。話がしたい。その時彼が思ったのは少女への想いでもあの衝動的な欲求でもなく、ただそれだった。


「はは」


 我知らず、笑みがこぼれる。

 もしかすると彼の人生で初めてかもしれない、心の底から沸き起こる笑いの衝動だった。


「ははははははははははっ」


 狂ったような笑い声を上げて彼は走った。桟橋の先ではなく、岸へ。暴徒の集う方へ。

「リトっ! どうして――」

 絶叫するサリュ。

 その背中に響く声をこそ確かな原動力として、彼は走った。


 走りながら、思う。事実と真実の相似した関係性について、全くとりとめのない、くだらない考察を。

 なるほど。――確かに神はいた。



 小太りした中年の男を突いて、退く。狭い桟橋で奴らは複数ではやってこれない。狂人のような顔相を月光にさらしながら、それでもリトは冷静に考えていた。

 可能な限り時間を稼いでから、泳いでボートに向かう。その為にも暴徒に恐怖を与えなければならない。こちらが狂ってると感じさせることで彼らの中に躊躇を生まなければならない。


 彼にはここで命果てるつもりなどなかった。

 当たり前だ。自分はやっと探していたものを見つけたのだ。それを手離すつもりなどなかった。諦めるつもりなどなかった。ここで死ぬわけにはいかない。


 しびれを切らして飛び込んできた若い男の胸にナイフを刺して、引き抜こうとしたその手が止まった。男は自身の胸に生やしたナイフを、自らの手で押さえつけていた。彼もまた狂っていた。

 身動きが取れないリトに、別の男が襲い掛かった。身体を捻ってかわそうとするが、背中から別の手が伸びた。後ろから視界に入った手が、その指がそのまま視界を塞ぎ。


 リトの右目が潰された。


 彼は絶叫を上げた。後ろにいる男を力任せに振り落とし、ナイフを生やした男を蹴り倒した。男はナイフを刺したまま川へ落ちた。

「リトっ……駄目、もういい、はやく――!」

 暴徒から距離をとって、彼は振り向いた。半分に閉ざされた視界、ようやく遠くになったボートの上で、それでもはっきりとわかる少女の顔がこれ以上ないほどに歪んでいた。


「生きろ!」


 右頬に血の涙を流しながら彼は叫んだ。遠くで泣き喚く少女に届くよう、喉を裂いた。


「生きろ! 生きろ!」


 そして、駆け出した。体格のいい男にタックルしてそのまま川に落ちる。離れようとして、しかし男がしがみついてきて上手くいかなかった。したたかに水を飲む。男に水中に押さえつけられる。必死に抵抗して、逆に男の顔面を水の中に埋め込んだ。

 万力で抵抗してくる男のもがく腕から逃れるように顔を背け、天を見上げた。月が見える。大いなる存在の化身とされるもの。事実ではなく、真実の証。

 一瞬、サリュの不思議な二重の瞳が重なって見えた。それに対して吠えるように。


 彼はもう一度叫んだ。


「生きろ!」



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