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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 熱砂攻防
106/107

14

 ◇


 全身を血化粧に飾った女性が一人、タニルの町を歩いていた。

 遠くの騒々しさと比べて、その周囲は奇妙なほどに静かだった。路上には転々と血が滴り、幾つかの躯が転がっている。すでに物言わぬ存在となったそれらの死体からは赤色の泉が湧いて、徐々にその血だまりを大きくしつつあった。

 音を殺し、同時に死を生みだしながら町中を歩んで、女性の表情には自身が敵地にいるという緊張は微塵もない。ほとんど超然とした趣で女性は近くに井戸の類を見かけると、そこに近づいた。小石を落として少し待ち、返ってくる音を確認して歩みを再開する。


 そうした行為を何度か繰り返した後、女性の表情に変化が生じた。唇を捻じ曲げ、皮肉っぽく持ち上げる。小さく、口の中で何事かを呟いた。

 顔をあげる。町の頂上に位置する砦をちらと見上げ、女性は自らの口元に左手を持っていき、

「――――ッ」

 高らかな指笛があたりに鳴り響いた。


 長い一声を吹き終えて、踵を返す。

 その足先は砦ではなく、町の防壁と向かっていた。要塞タニルを取り囲む外壁。そのなかで先ほどから一際大きな喧騒のあがる、その一角へと。


 ◇


 喧騒の最中、ほとんど擦れきったその音を、リトは辛うじて拾うことが出来た。

(笛――?)

 音が聞こえてきたと思われる町中の方角を見やる。だが、それに気をとられたのも一瞬、すぐにリトは目の前の事態に意識を戻した。


 防壁の外には成果が生まれつつある。即席の油袋を投げ込まれて炎上する範囲は決して広くなかったが、塔の進路を妨害するのには不足ないだろうと思われた。

「なあ」

 隣で投擲役を受け持っていた若い兵士が、心配そうにリトの方を見やった。

「もっと横のあたりにも、投げておいた方がいいんじゃないか。あれじゃ避けられちまいそうなんだが」

「あの塔自体は、左右にはそんなに自由に動けないはずだ。範囲を横に広げるくらいなら、縦に深くしておいた方がいい」

 わかった、と頷きかけてから、兵士はふとそこで初めて気づいたという風に顔を歪める。

「ところで、あんた誰だ? さっきから、ついつい言うことを聞いちまってるけどよ」

 苦笑してみせて、リトは若い男の肩を叩いた。

「流されて火が消えたりしたら面倒だ。休まずに投げ込んでいこう。油袋も、もっと作っておいた方がいい。追加の油はまだか?」

「ああ、それならそろそろ正門から届くんじゃあ――」

 釈然としない様子で答えかけていた男の言葉が止まった。

 周囲の喧騒が収まりつつあることにリトは気づいた。見れば、悠々と砂海を渡っていた塔が、いよいよ目前の炎の海原、その縁まで迫ろうというところまでやってきている。


 辺りが緊張感に包まれた。矢を射かけていた者、油袋を投げ込んでいた者も皆、その動きを止めて眼前に注目する。

 塔の大きさはすでに、遠近の差異を図ることも可能だった。高さは悠に防壁まで届きそうな程。横幅は大人二人が武器を振るうのには不自由な程度ではあるが、それでも梯子や縄に比べれば侵攻経路としては十分過ぎる。

 目前まで迫ったその巨塔は、全体が黒ずんだ姿も相まって異様な迫力があった。あの黒ずみはなんだ?とリトは胸中で呟く。そうした材木の種類か、あるいは防火のためになにかを塗り込んでいるのか。燃えにくい材木というのはリトの知識にもあったが、それはむしろ白っぽい種類のはずだった。それもあくまで難燃性というだけで、決して燃えないというわけではない。少なくとも、あの自重で、あれだけの炎のなかを渡ることは不可能なはずだ。


 それを塔自身が察したかのように、一瞬、塔の動きが鈍った。その行き足が緩まり、直前で停止しかけて――ゆっくりと、炎の海へと足を踏み入れる。

「……冗談だろう」

 さすがに容易に信じられない思いで、リトは呟いた。

 炎の海へと一歩を投じた塔から、悲鳴や、抗議の唸り声の類はない――少なくとも、リトの耳にはそれらは届いてこなかった。無理やりに進ませていないのだとすれば、一体どんな絡繰りなのか。動力と砂海を渡るための機構、さらにはそこに防火まで兼ね備えるとなれば、彼には到底思いつきもしなかった。


 周囲から悲鳴が上がった。状況の推移を見守っていた兵士達が、火矢や油袋を狂ったように投げつける。しかし、塔にはやはりなんらかの防火処置がしてあって、その横壁に火が燃え移る様子はなかった。

「お、おい、あんた! どうすればいい……!」

 強い力で肩を捕まれ、血相を変えた若い兵士に懇願するように訊ねられる。一瞬、リトは答えに詰まった。周囲を見回して、

「槍とか樽。なんでもいいから、あれの進路上に物を投げ込んで妨害するしかないな」

 いま思えば、油袋を投げ込むのと同時にそれをやっておいてもよかった。思いつきが遅れたことを呪いながら、脳裏には砂海を渡れるだけの走破性を持つ対象に向かって、そうした妨害がどの程度の意味を持つのかという疑問も湧き起っている。

 だが、やってみる価値はあるはずだった。少なくとも、やってみなければ無駄かどうかはわからない。わかった、と駆け出す兵士のあとを追って、リトもそちらに向かおうとしたところで、別の方角から違う悲鳴が上がった。

「暴れ馬だ!」

 嘶きと罵声に次いで、荒れ狂う馬が壁上に駆けあがってくる。


 その馬は全身におびただしい数の矢傷を負っていた。背には誰の姿もないのは初めからそうだったのか、はたまた暴れる途中で乗り手を落としでもしたか。自らの流血をあたりに飛ばしながら鬣を振り回し、周囲の兵士を問答無用に突き飛ばす様は、容易に手がつけられそうになかった。狂ったように暴れ回るその馬鞍がツヴァイのそれではないことに気づいて、リトは背筋に冷やりとしたものを覚えた。


 周囲を見渡す――その馬の主だろう人物の姿を探そうとしたところで、暴れ馬から逃げようとした兵士の一人に押され、その場に倒れ込んだ。舌打ちしながら顔をあげて、はっとする。振り上げられた前脚が、今にも彼の顔面に向かって打ち込まれようとしていた。辛うじて首を捻ったその間隙に、重量ある一撃が落ちる。一つ、二つと踏みつけが連続して、リトは血の気が引くのを味わった。人間の胸壁程度であれば鎧の上からでも容易く踏み抜いてみせるだろうその重量をリトが見舞われずに済んだのは、ほとんど奇跡のようなものだった。肝を冷やしてとにかく暴れ馬が離れるのを待ち、身体を起こそうとしたところで全身が硬直する。反射的に、リトは近くに寝転がる誰か――顔が潰れていた――の身体に顔を隠した。


 色濃く死の気配を纏った女性が、そこにいた。


 全身を血赤に色取ったその女性は静かな足取りで、まるで戦場の只中に在ることに違和感を覚えそうな風情だった。遠目には眠たげにさえ思えるその容貌を一目見て、リトは深い息を吐いた。……あの人にだけは会いたくなかったんだけどな、と胸の裡にぼやく。


 女性――ジル・イベスタ・スムクライは、混乱する戦場をただ歩いていた。塔の接近と、暴れ馬の存在で周囲は混沌としており、彼女に気を配る余裕がない。なかにはその存在に気づいた兵士もいたようだが、あまりに堂々とした立ち居振る舞いに、なんと声をかければいいかわからない様子だった。


 スムクライの女性の足は暴れ馬に向かっていた。やはりあれは彼女の馬かと思いながら、状況の推移を見守るリトの目の前で、女性は静かに自身の乗り馬へと近づいていく。

 暴走する馬に近づこうとする行為は、たとえその馬の持ち主であろうと危険極まりないことに違いはない。興奮して前後不覚に陥った暴れ馬に蹴り殺される事例が起こるのは、なにも戦場に限ったことではなかった。

 実際、自身の主人である女性が近づいても、暴れ馬にはそれに気づいた様子はなかった。前脚を振り上げ、勢いのまま突き飛ばそうとするのに体を躱して距離を詰め、女性は馬の鬣を掴むと思い切り馬面を引き下げた。そのまま腰から矢の一本を抜いて握りこみ、脳天に矢尻を突き立てる。

 びくんっと大きく痙攣してから、彼女の馬はどっとその場に倒れ伏した。


 一撃で絶命した自身の乗り馬の亡骸に、労るようにそっと手を掲げてみせる。慰霊を済ませた女性が顔をあげ、唖然としていた周囲も自然とその視線を追って、全員が息を呑んだ。

 いつの間にか、炎の海を越えた塔が至近に迫っていた。防壁までの距離はほとんど一丈もない。そこからいつでも乗り込もうという気配の大勢の兵士達の姿まで垣間見えた。


 まずい、とリトは内心で呻いた。この状況で攻め込まれれば、一気にタニルが陥ちかねない――なにか取れる手立てはないか、と顔を上げかけたところで、女性がちらとこちらを振り返ったのに気づいて慌てて顔を伏せた。

 女性はしばらく周囲を睥睨するようにしてから、不意に口元を歪めた。塔へ向かって歩き出す。

 ほっと安堵の息を吐きながら、リトは今更ながらの違和感に気づいた。ボノクスの兵士達に、防壁に乗り移ってこようとする気配がない。全身に戦意を漲らせながら、彼らはなにかを待っているようだった。この場合、その何かというのは明らかだったが。

 女性がひらりと塔に飛び移る。近くの兵士達に何事かを語りかけ、それに頷いた男が口を開いた。


 号令。そして、ゆっくりと塔が動き出した――離れていく。


 ついに敵方が乗り込んでくるかと身構えたツヴァイ兵達は皆、徐々に遠のいていく塔の姿を見送って虚を突かれたように呆然としている。リトも驚いていたが、半分以上、その驚きは別のことに捉えられていた。――炎の海を前に進めるだけでなく、後ろにまで自在に動けるのか。ここまでくれば、一体どういう機構なのか彼にはまったく理解が及ばなかったが、それはともかくとして、

「……助かった、のか? 俺達」

 震える声に振り見やれば、さっきまで行動を共にしていた若い兵士の顔がすぐそこにあった。名前も知らず、知人と呼べる程の間柄でもないが、その相手が暴れ馬に巻き込まれずにすんだことをひとまず喜びながら、リトは息を吐いた。

「さあ、どうだろうな。……どっちかというと、より不味い状況になった気もするけどな」

 独り言のように呟きながら、半身を起こす。怪訝そうにこちらを見やる相手に手を貸しながら、肩をすくめてみせた。

「まあ、そんなことはどうでもいいだろう。俺もあんたも、お互いに生きてるんだしな。今はまだ」

「……そうだな。うん、そうだ」

 若い兵士は顔面蒼白で頷く。そこでようやく緊張が途切れたのか、泣き崩れるように脱力した。


 ◇


「――如何でしたか」

「仔細は見たし、裏も取った」

 宿営地に向かって移動しつつある塔。その内部で、声を掛けられた女性は返り血を拭いながら素っ気なく続けた。

「情報の通りだな。最早、あれ(・・)には攻める価値もない。力押しは不要だ」

「……なるほど」

 返答にわずかな反意を見て取って、ちらりと男を見やる。

「勘違いするな」

 冷ややかな声が男の全身を貫いた。

「勇士の命を惜しむのではなく、勇無き戦場を厭うのだ」

「はっ」

 指揮をとるべき相手は砦に閉じこもり、前線には馬一頭にさえ劣る有象無象ばかり。

 あのまま攻めて砦を落とすことは容易かったが、それでもまったくの無傷とはいくまい。たとえそれが数名のことであったとしても、自分の兵をその死に値しない場所で死なせるのは彼女いとって不快極まりなかった。


「あの町はとっくに乾いている。囲んでいればすぐに音をあげる」

「しかし、後詰めが来ないとも限りませんが……」

 女性は冷ややかに眦を裂いて男の続く言葉を黙らせた。

「我らはそれ(・・)をこそ殺しに来たのだろうが」

「はっ……」

 男が頭を下げる。


 それ以上かける言葉を持たず、相手を下がらせようとして女性はふと背後を振り返った。徐々に遠ざかりつつある防壁の上にぽかんと間抜けをさらして立ち並ぶ兵達を一瞥する。

「如何なさいましたか」

 味方の声を無視して、彼女はしばらく沈思した。

 一瞬、懐かしい気配を感じたような気がしたが――昔、殺し損ねた相手でもあの場にいたか。

 気にならないわけではなかったが、すぐにまあいい、と考え直した。思い出せば改めてその時に殺せばいいし、思い出さないならそれだけの相手だろう。彼女にとっては、つまりはそれだけのことだった。



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