12
部屋から出れば、どうせまたすぐに兵士に捕まってしまうだけだ――セスクは考えたが、現実にはそうはならなかった。砦の兵士達は誰もが慌ただしく右に左にと駆け回っていて、こちらの誰何を問われるどころか、一人として目線さえ合うことはなかった。
そんななかを、リトは平然と廊下を歩いていく。いくら兵服姿とはいえ、そのいっそ堂々とした後ろ姿はやはり異様で、薄気味悪さを覚えながらあとを追いかけた。
「――なあ、おい。おいってば。どこ行くんだよ、なあっ」
「やっぱり防壁だろうな。あそこから眺めるのが一番、手っ取り早そうだ」
返ってきた言葉にセスクは愕然として、
「ば、……っかじゃねえの! 今から戦争が始まるところに行こうってのかよ!」
「戦争? 戦争なんて、とっくに始まってるだろ?」
肩越しに、なにを言ってるんだ、という視線が投げられる。
「……俺は行かないからな!」
「好きにするといい」
苦笑して男は取り合わず、砦の外に繋がる大扉に向かって歩いていってしまう。
扉の前には大柄な兵士が数名、武器をかまえて備えている。見るからに屈強そうな男達から視線が突き刺さるが、リトが何食わぬ様子で近づいて何事かを囁くと、彼らは驚いたように目を見開き、それから顔色を変えて扉を開け放ってみせた。
リトは軽く頷いて外へ出る。ぽかんとそれを見送りかけて我に返り、慌ててセスクも男を追いかけた。扉を抜けてからちらりと背後を振り返れば、兵士達は扉の前に直立不動で、それどころかこちらに向かって敬礼までしてみせている。横に並んだリトの顔を胡乱に見上げた。
「……あんた、本当に何者?」
「旅の人間だよ」
「絶対、嘘だ」
「どうしてだい」
「旅の人間相手に、兵士達があんな態度で見送ったりするもんか。意味わかんない」
「そうか? そうだな。……きっと、上からの薫陶がよほど出来てるんだろう」
男は嘯いた。表情は、まるでなにか面白い冗談でも言ってみせたかのようで、セスクが男を睨みつけてさらに言い詰めようとしたところで、
「――――」
遠くから、悲鳴――のような――音が、セスクの鼓膜を震わせた。
はっとして顔を上げる。周囲の様子を確認するが、特に変わった様子はなかった。とはいえ、この辺りの普段の様子についてさほど詳しいわけでもない。馬番の仕事で行き来しているくらいで、あとは雑用で掃除を任されることもあるが、かといってどこにでも立ち入れるわけではなかった。
タニルは砂海に聳える岩山の街だった。頂上に領主の館をかまえ、その周囲に兵舎や厩舎、それに武具などの倉庫が立ち並んでいる。街の人々が住んでいるのはさらに外縁で、同時に最下層でもある。今の声は、そのあたりからのように思えた――さっきのあれが、もしも悲鳴なら。
「なあ。今のって、」
「……街のなかに入り込んだみたいだな」
独り言のような呟きに、誰が、と問いかけた口をつぐむ。聞くまでもないことだった。例の、防壁を飛び越えてきたとかいう侵入者に違いなかった。視線に気づいたリトが肩をすくめてみせた。
「いくらスムクライでも、集団に囲まれて殴られればお終いだ。まともにやれば、一人じゃ多人数相手には勝てない。だから、機先を制して、相手を混乱させる。それに乗じてさっさと囲みから脱出したんだろう。それで一旦身を隠して、またどこかで騒動を起こす。“撹乱”の意味はそういうことだよ」
つまり、と続ける。
「今、この街のどこかには潜伏してる相手がいるってわけだ。……あんまり出会いたい相手じゃあ、ないな」
男の表情には、いつもにはない苦みがあるように思えたが、セスクが顔を青ざめさせたのはそのことではなかった。
「街に? じゃあ、街の人達が」
――殺される、と続けることは恐ろしくて出来なかった。脳裏に浮かんだのは、黄金じみた夕日の下で血溜りに沈んだ父親の姿と、――その前に佇む、異相の女性。どこか虚ろな眼差しの女性が顔を上げると、父親以外の死体が無数に横たわっていた。この街の数少ない知り合いや、知らない人達。そして、見知った食堂の女性の姿もそこにはあった。
ぎゅっと目を瞑り、身体の震えを抑えつけて、セスクは瞳を開いた。決意する。目の前で興味深そうに自分を見下ろす男に向かって、宣言した。
「――止めなきゃ」
「そうか」
淡白な反応に、セスクは唇を尖らせた。
「……他に、なにかないのかよ」
「いや? 君がしたいなら、そうすればいい。さっきから言ってる」
男は不思議そうに首を傾げている。かっと頬が熱くなり、セスクは男に罵声を浴びせる代わりに睨みつけて、
「……ばーか! 馬鹿っ、馬鹿野郎!」
結局は悪態を叩きつけてから、男に背を向けて駆けだした。走りながらさらに罵り続けるが、けれども心に浮かんだ一言は口にしなかった。お前なんか、サリュ姉ちゃんとは違う――それだけは、絶対に言うわけにはいかなかった。
駆け去る背中を見送ってから、リトは少年が向かったのとは別方向に歩き出した。
出来る限り視界の通らない物陰を選びながら、街の外縁へ向かう。件の人物と鉢合わせる危険性はあるが、向こうから一方的に確認されることだけはなくなるはずだった。
セスクについての心配は特にしていない。今、この街に来ている人物は確かに恐ろしい相手ではあるが、少なくとも無駄に虐殺を行うような真似はしないだろう。もちろん、セスクの方から相手に突っかかればその限りではないが――そちらについても、別の確信が彼にはあった。
もしも“彼女”と遭遇した事態のことを考えるなら、心配するべきなのはむしろ自分の方だ。他人事のように考えながら、岩山の街を下りていく。
外縁に近づくにつれ、徐々に喧騒が耳につくようになった。日々の営みがもたらす騒々しさではない。周囲に街の人々の姿はなかった。すべての戸が締められていて、人々はそのなかで息を殺しているようだった。代わりに街中を走り回っているのは兵士達で、表情は殺気ばしっている。彼らが血眼になって探している人物については、考えるまでもなかった。
彼らに見つからないよう、リトは慎重に足を進めた。
進むべき先には見当がついている。昨日、ボノクスが陣地を構えた場所は確認ができていたからだった。ボノクスの女性が侵入してきた方角も、砦の屋上でのやりとりからわかっている。なにかを仕掛けようとするなら、そちらから目を遠ざけようとするだろう。大雑把な推測だが、さほど的外れでもないだろうと考えているうちに、防壁の近くにたどり着いていた。
防壁へと上る階段前にも、血走った顔つきの兵士達の姿がある。彼らに見つからずに防壁に上がれれば一番だが、さすがにそれは難しそうだった。ざっと周囲を見渡して判断すると、リトはせいぜい神妙な表情をつくって彼らに近づいていった。視線が一斉に突き刺さる。
「誰だ!」
「キーチェン様からの命令だ。物見に上がりたい」
平然と、リトは嘘をついてみせた。兵士達は疑わしそうに互いの顔を見合わせてから、
「……お前みたいな奴、見たことがないな。どこの所属だ。名前は?」
「所属? キーチェン様の直属だが、それがどうかしたか?」
「名前は」
兵士達は疑惑の目を変えない。リトは溜息をついて、
「リトだよ。別に信じてくれないならいいけどな。なんなら、あんたらが上にあがって見てきてくれたっていい。その代わり、報告も自分達でやってくれよ? あんたらがなにを見落としたところで、俺は知らない」
よかったよ、と朗らかに微笑んでみせる。
「キーチェン様、かなり機嫌が悪いからな。あんたらが肩代わりしてくれるってんなら、そっちの方がありがたいんだ」
「誰もそんなこと言ってないだろうが」
吐き捨てるように兵士の一人が言った。おい、と近くの兵士に顎をしゃくる。
「お前、こいつと一緒に上がれ。おかしなことしたら、構わねえから叩っ切っちまえ」
「乱暴だな」
リトは苦笑して、
「まあ、こっちは別にそれでかまわない。武器も今は持ってないしな。なんなら調べてみるかい」
わざとらしく両手を広げてみせると、男は舌打ちした。
「クソが。さっさといっちまえ」
「はいはい。それじゃ、失礼するよ」
軽薄な調子で肩をすくめてから、リトは監視役を連れて防壁の階段をあがった。後ろから突き刺さる物騒な視線を無視して階段を上り切り、晴れた視界の遠くを見やる。
「ああ、よく見えるな」
ボノクスの宿営地。水島の一つに陣を張った様子が一望できた。無数の天幕。そして、その横にある攻城兵器と思われる存在も、昨日の時点で確認した通りだった。ただ一点、昨日と異なるのは――
「なんだありゃ」
監視役の兵士が気の抜けた声を上げる。視線は、リトと同じ方角を見据えていた。
ボノクスの攻城兵器――攻城塔だと思われる――は、昨日の時点では未完成だったが、今は遠目に見る限り、既に組み立てが終わっているように見えた。そして問題はそこではなく、
「……近づいてないか、あれ?」
男の言葉通りだった。
その攻城塔と思しき兵器は移動していた。遅々とした速度で、馬どころか人の歩くそれにも及ばないほど緩やかではあるが、確実に街に向かって近づいて来ている。
「どうなってる。あんな馬鹿でかい代物が、一体どうやって……」
狼狽を露わに、監視役の兵士が呻き声を上げるのも仕方なかった。
そもそもが、攻城兵器という存在は一般的ではない。文字通り、城壁や防塞を攻めるのに極めて有効的なその戦争のための兵器は、同時にひどく限定的な状況下でしか利用することが難しかった。この地の大部分を占める砂海。流れる砂地においては、その移動あるいは運搬が非常に困難だからだった。
砂海における運搬手法は概ね二つだった。車輪型と橇型。車輪を用いた荷車は多くの重量を運搬することが可能だが、安定した地盤でなければすぐに足を取られてしまう。そのため、荷車や馬車が用いられるのは比較的地盤が安定した、例えば“航路”と呼ばれる場所でなければ難しかった。そのため、商人や商隊などでよく使われている。
もう一つの橇型は、砂海を滑らせて進むために不安定な砂海でも扱うことが可能だが、一方で重量的な制限が大きかった。あまり重すぎる荷を積むと、滑らなくなってしまう。
攻城兵器の運搬に限って言えば、特に後者の重量制限は致命的すぎた。攻城兵器はその多くが構造的に巨大化することを宿命づけられており、その重量を以って運搬することを橇型で担うことは不可能に近いからだった。故に、攻城兵器の多くは車輪を備えるようになったが、それは結果的に攻城兵器の運用そのものについても呪縛じみた事柄を特徴づける結果となった。すなわち、「攻城兵器は極めて地盤が安定した限定環境でないと扱えない」という常識である。
砂海に聳える岩山であるタニルの周辺には常時、激しい流砂が渦を巻いている。容易に陣張りさえ行わせない環境条件こそがタニルを難攻不落足らしめているもっとも大きな要因だが、それはつまり攻城兵器がまるで接近できないという意味でもあった。激しい砂の流れはたちまちに車輪を呑み込み、防壁に届くはるか以前に立ち往生させてしまう。
しかし、今、ボノクスの陣地からは、明らかに攻城兵器としか思えない巨大な物体が緩やかに移動しつつある。流砂のなかを平然と、途中で足を取られる様子もなかった。兵士が唖然とするのも道理だった。
他にもその異常な光景に気づいた兵士がでてきたらしく、周囲で戸惑いの声が上がりはじめている。兵士達が困惑する気配を感じながら無意識に腰に手をあてたリトは、そこに普段ならあるはずの感触がないことに舌打ちした。捕まった時に道具袋は没収されており、そのなかにある遠見の道具も当然のように手持ちにはなかった。
せめて、少しでも詳細を窺えないものかと目を凝らしながら、同時に考える。
……砂海を渡る攻城兵器。そんな代物はツヴァイにも存在しない。少なくとも、自分が大学に在籍していた五年前までは――いや、とすぐに考え直す。構想だけはそれに近しいものが存在していたことを思い出したのだった。
確か、砂海における運搬重量の増大を試みる理論かなにかで、聞いた覚えがある。車輪にも橇にも欠点が存在する。それを相互に補完するような仕組みはないかとか――そこで完全に記憶が辿り着いて、リトは目を見開いた。
思い出した。
橇型の欠点を解消するために、地面に丸太を並べて、その上を引かせるという運搬手法が広く知られていることから、それを発展させて「丸太で車輪をつくる」ことはできないかという、確かそうした発想だったはずだ。あるいは――帯を履かせるように、というような表現もあったかもしれない。
過去の記憶を紐解く作業はそこで一旦中断して、リトは自分と共に防壁にあがった兵士を振り返った。徐々に近づきつつある攻城兵器を見やり、困惑した風でその場に立ち尽くしている相手に向かって、
「おい、俺の代わりに報告を頼む。おいっ」
肩をゆするが、男の視線は遠くに固定して凝視したまま動かない。
リトは舌打ちして、
「しっかりしろ。皆殺しになりたいのか?」
明らかな脅しだったが、目の前の男を我に返らせるのには十分だった。ぎょっとしてこちらを見やる相手の目を覗き込むように、
「キーチェン様に伝えるんだ。攻城兵器が接近。敵は流砂を敵とせず、と。早くしないとタニルは落ちるぞ。――ニクラス・クライストフがそう言っていたと、必ず伝えるんだ。わかったな? なら、いけ。……早く!」
兵士はまだ混乱しているようだったが、乱暴に背中を押し出すとそのまま歩き出し、すぐに階下に向かって血相を変えて駆けだしていった。
改めて遠くを見やる。やってくれるな、と呟く口元が笑みの形に歪んでいた。
ツヴァイには――自分の知る頃のツヴァイには存在しなかった技術。構想だけの理論は、おそらく大学を経由してボノクスに流出したに違いない。知識だけ、あるいはその知識の持ち主も。それが意味することを理解したうえで、まず初めに内心へと込み上げてくるものは不安でも疑念でもなく、まったくの好奇心に違いなかった。