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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 熱砂攻防
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11

 先刻、東の地平にほんのわずか顔を覗かせていたばかりの太陽は、すでにその位置を変えつつある。中天へと階を昇りながら瞬く間に強まる日差しを受けて、一面の砂海にぽつんと聳える牙の山が燃え上がるようだった。


 天然の要害タニルの防塞上に集った兵士達が示し合わせたかのように目を細めた。ちょうど彼らから見て烈日を背にするように、一人の姿があったからだった。

 この場に静寂をもたらした人と馬。堅牢な岩壁を“飛び越えて”彼らの前に現れた人物が敵方であることは明確だったが、居合わせた兵達には敵意より戸惑いの気配が強かった。虚を突かれた彼らの大半はその手に武器を構えることも忘れ、目の前の出来事に困惑した様子を見せている。


 ツヴァイとボノクスの国境を司るタニルは過去に無数の戦績を持ち、そこには血と砂とが入り混じって連綿としている。多くの成功と失敗。それらは様々な逸話に彩られ、生還した兵士達は酒精を交えて酒場でそれを大仰に歌い広める。仮にそれが大きく誇張されたものであっても、武勇伝を語るのは生き残った人々の神聖な特権だった。もはや物語らぬ無数の躯達にはそれさえも許されない。

 しかしながら、タニルの防壁を「馬に乗った女が飛び越えてきた」などという代物は、どれほどに深酔いした口から吹こうとしても容易に吹ける類の法螺ではなかった。

 その上で、女性はこうとまで言ってのけた――今からお前たちを皆殺しにするぞ。

 ここまで来れば、酒場で披露する四方山話としてもいっそ馬鹿馬鹿しくすらある。むしろ、あまりのくだらなさに周囲から意外な好評を得るかもしれなかった。彼らが後日、それを口にする機会があるとすれば、だが。


 あまりに非現実的な事態に、それをぽかんと仰ぎ見てしまっているタニルの兵士達も、本来なら決して無能な集団などではない。水陸一の大国であるツヴァイの、まがりなりにもその一方の国境を守護する役目を担うのだから、弱兵ばかりが集められる道理がなかった。とはいえ、その彼らが、まだ経験の少ない若年兵から古株の古参兵に至るまで雁首を揃えて呆けてしまっている様子は、やはり滑稽としか言いようがなかった。

「どうした! なにをしている」

 それまで立ち尽くしていた兵士達をびくりと震わせる叱責の声は、遠くの隅櫓に姿を見せたいくらか年嵩の、濃い髭をたくわえた男のものだった。安価な鎖帷子ではなく板金製の鎧を着込んでいることから、兵長以上の身分であることが窺える。

 その男は、突然現れた件の人物に向かって人差し指を突き付け、大きく肺を膨らませると怒声で一喝、

「――ぁ?」

 放たれかけた言葉が、気の抜けた息と共に零れ落ちた。雄たけぼうとしたその眉間に、一本の矢が突き刺さっていた。

 額を見上げようとした目玉がぎょろりと動き、その合間、低く潰れた鼻梁に添って一筋の血が流れた。分厚い唇に触れ、その苦みに顔をしかめてみせてから、男はゆっくりと背中から倒れていった。わ、と周囲から間の抜けた悲鳴が上がる。

 男に集まっていた視線が、矢の飛んできた方角を辿って戻る。その視線の先には、馬上から決して近くない距離を射抜いてみせた人物が特に満足した風もなく、むしろその表情には不満げな気配さえ浮かんでいた。弓矢を放った姿勢のまま自分の右手に目線を落として、

「……さすがに、しばらくは無理が利かん」

 舌打ちに近い表情で、忌々しげに呟いたその台詞を聞き取れた者は恐らく皆無だっただろう。だが、居合わせた兵士達はそこでようやく我に返った様子を見せた。

 全員の表情が一気に強張り、目に殺意の色が宿る。油断なく相手の反応を窺いながら、近くの槍を握って周囲の仲間に投げ渡し、それが行き届かない者は腰に佩いた長剣を抜いた。遠くの兵士は一斉に弓を構える。


 深く、静かにその場に充満する濃密な気配を見て取って、馬上の女性は薄く笑ってみせた。手に持った短弓を腰にしまい、代わって握ったのはおよそ馬上鞭の類とも思えない。

「仲間が死んでようやくか? 三年たっても、変わらん腑抜けさだな」

 今度の台詞にはたっぷりと、揶揄の響きが含んであった。それを悟った周囲の兵士達に憤怒の表情が浮かび上がる。

「敵襲ゥ――、殺せぇ!」

 誰とも知れぬ号令一下、人の身を纏った殺意が殺到した。



 最初に動いたのは、女性のすぐ近くにいた二人の兵士だった。

 無言のまま、不遜な侵入者の前方から一気に襲い掛かる。得物を振りかぶるような愚策はとらず、両手に構えていっぺんに突きかかった一人は剣、一人は槍。それぞれ迷いのない所作は熟練の業に違いなかったが、その切っ先のどちらかが届くより先に、彼らの目前に巨大な影が迫っていた。

 天高くまで持ち上げられた両の前脚が、一気に振り下ろされる。圧倒的な重量に一撃され、二人は悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされた。後ろにいた兵士達が巻き込まれ、あわてて仲間を受け止める。無事を問おうと仲間の顔を覗き込んだ一人が、そこに深々と刻まれた蹄の刻印を見て取って息を呑んだ。どちらも既に絶命している。

「…………ッ」

 ほとんど同時、今度は女性の背後側から飛び掛かった兵もいたが、これも後ろ脚で盛大に蹴り飛ばされて撃退されてしまう。今度は顔こそ踏み潰されるのは免れたものの、胸板を激しく打たれ、もんどり打って転げ回った。

 地面をのたうち回る味方を飛び越えるようにして、さらに一人。目線は明らかに馬上の人物ではなく、馬そのものを狙って槍を突きかかる意図が見え透いた。人より馬を潰すことは、騎馬を――特に突撃状態にない騎馬を相手にする際には常道とされる。この場合も、決して悪い手段ではないはずだったが、

「――――!」

 槍の距離に踏み込もうとした兵士に、その間合いの外から風を切って蛇が襲い掛かった。首元に噛みつき、そのままとぐろを巻いて締めつける。慌ててそれを外しにかかった男が次の瞬間、甲高い悲鳴を上げた。槍を放り出したその手から真っ赤な血が吹きだしている。

 男の太い首に巻き付いた蛇の頭に、歪ななにかが見えた。鞭の先に埋め込まれるように覗いているのは、棘というより刃そのものと言ってよさそうな代物で、無数の牙が男の首を何重にもして突き立てられている。

「“刃鞭”だ。血の河の渡り賃に覚え逝け」

 素っ気なく告げた馬上の女性が、勢いよく鞭を引き抜いた。

 鉤のように深く食い込んだ刃は柔らかな首周りの肉を容易く切り裂いて、大量の血の華が宙に咲いた。首ごと切り裂かれた兵士は声もなく、がくがくと激しく痙攣しながら膝をつく。そのまましばらく赤色の噴流を撒き散らし続けてから地に伏した。


 ――立て続けに四人。その事実以上に、あるいは最後の一人の凄惨すぎる最期が、その他の兵士達に冷静さを強制したのかもしれなかった。……不用意に近づくのは危険すぎる。先人に続こうという者は途絶え、代わりに足を擦って、それぞれが対象との距離を計ろうとする。包囲の形を保ちながら、彼らの何人かが遠くの仲間にちらりと目線を飛ばした意図は明白だった。槍の投擲か、それとも弓。投射武器によって始末をつけようというのだった。

 容易に近づけない相手への対処としては、やはりそれも正しい。だが、そこには、異なる気分が微量にでも含まれていたのかもしれなかった。たった今、目撃した味方の死に様と、それでも、あくまで相手は一人であるという事実。強制的に落ち着きを取り戻させられた彼らが、脳裏に一瞬でも命の秤を思い浮かべた可能性は否定できない。

 その結果がもたらしたのは、ほんのわずかなものだった。たとえばたった一歩分の、間合いの遠さに過ぎない。そして、この場においてそれは致命的な空白を生むのに十分なものだった。

 馬上の女性が笑みを浮かべる。今度のそれは醒めたものでも、相手を揶揄する類のものでもない。目前に獲物を見据えた肉食獣の猛々しい表情。

「ははっ――」

 剣や槍を構えて包囲する兵士達がわずかにつくった距離の空白と、味方への誤射を防ぐために弓兵達が置いた時間的な隙。その一瞬の合間を縫って突貫する。たちまち周囲は乱戦に陥って、阿鼻叫喚の血飛沫が舞った。



 地下空間で兵士達に囲まれたセスクは、リトと共にあっさり捕まり、後ろ手に縛り上げられた。

 乱暴に引き立てられる。向かったのはさきほど彼が手引きして逃げ出した牢屋ではなく、なぜか砦館の屋上で、不意に頭上に広がった見晴らしの良さに、セスクはかえって不吉な予感を覚えた。膝の裏を打たれ、強引に跪かされる。視界の端に、なにか嫌なものが見えたような気がした。

 あえてそちらを見ないように、セスクが恐る恐る目の前を見上げれば、そこには顔を真っ赤どころか赤黒くまでした小男の姿があって、その内心を如実に表すように、口髭がふるふると細かく震えていた。

 周囲には他にも何人かの兵士がいて、そのなかの一人に小男が苛立った様子で視線を突き刺すと、心得たように頷いた兵士がどこかから縄を持ち出してくる。その男が、今まで意識して目を向けようとしなかったものに近づき、なにやら縄をかけ始めるのをついに見てしまい、セスクは絶望的な思いになった。


 この町に連れてこられてすぐの頃、聞かされたことがあった。砦館の屋上には処刑場があり、そこではある処刑方法が行われるのだと。

 柱に縛りつけ、そのまま渇死させる――激しい日差しのもとで隠れることも出来ない罪人は三日と持たず、その死に様はやがて目玉が飛び出しひび割れて、肌は焦げ落ち、身体中の水分が抜けて死に至るまで壮絶な苦しみに襲われるのだという。彼の故郷では聞いたこともないような恐ろしい話だった。

 ほんの軽い気持ちで脱獄に手を貸したばかりに、自分がその処刑を受けることになるとは夢にも思わず、セスクは涙目になって震えた。救いを求めるように隣を見れば、リトはまったく平然としている。――馬鹿野郎、とセスクは胸の裡で盛大に相手のことを罵ってやった。こんな奴、助けるんじゃなかった。


「なにか言い残すことはあるか?」

 吐き捨てるように小男が訊ねる。視線は元より、セスクではなくリト一人を見据えて動きもしなかった。

 セスクはリトに一縷の望みをかけた。必死な視線に気づいたらしいリトが、ふとセスクを見て、それから小男を見やると――肩をすくめてみせた。馬鹿野郎。セスクは再び、心のなかで絶叫した。

 不遜極まりない態度に、傍から見ても危険なほどに表情を引き攣らせた小男が、さっと右手を振り上げた。二人の兵士が両側からリトを抱え上げ、そのまま壁際まで引きずっていく。そこに無造作に配置された柱に荒々しく押し付けて、縄で括ろうとしていた一人が顔をしかめた。

「……なんだ?」

「どうした」

「いや、あそこ――」

 町のどこかを指さして二人はやりとりをしているが、地面に跪いているセスクにはそこになにが見えるのか把握しようもない。おそらく、リトからなら見えているのだろうが――

「なんだ。なにをしている」

 苛々と小男が声をかける。顔を見合わせた兵士の一人がなにか答える前に、石畳を駆けあがる音が聞こえた。

「大変です!」

 大声を上げながら、兵士が飛び込んでくる。血相を変えたその兵士は呼吸に喘ぐように口を開閉してから絞り出すように、

「……敵です!」

 小男は渋面で、

「知っておるわっ。町の外にいる奴らが見えんのか、貴様」

 呆れたように言われ、兵士は懸命に首を振る。

「ち、違いますっ。敵は――敵が、街のなかに」

 なに、と小男の顔色が変わった。

「防壁を突破されたと言うのかっ。一体いつの間にだ。そんな連絡、私はなに一つ受けておらんぞ!」

「いえ、それが、」

 兵士はなにかを言いあぐねて眉を寄せ、

「相手は壁を飛び越えてきたようでして……」

「……なんだと?」

「――馬で、飛び越えてきたようです。ですので、その、誰も止める暇が、」

 間の抜けた沈黙。

 小男も、周囲の兵士達も、もちろんセスクも含めてその場にいる全員が呆然としていると、その空虚な時間を割るように、


「ははっ」

 唐突な笑い声が響いた。

 ぎょっとした全員が視線を向ける。周囲の注目を集めたその人物は、今まさに磔に処されようという格好で肩を揺らし、笑い声をあげている。小男がそれを睨みつけた。

「……なにがおかしい」

「いえ、相変わらずだなあと」

「なにを言っている、貴様」

「おわかりになりませんか?」

 リトが言う表情がセスクの位置からも垣間見えた。男は心の底から不思議そうに、

「深紅の戦旗を掲げる氏族はただ一つ。ボノクス四氏族の一つ、“鮮血”のスムクライ。そのなかでも、町の防壁を飛び越えてくるような相手は二人といないでしょう」

「……まさか、」

 恐れ戦くように一歩引いて呻く小男に向けて、リトはどこか朗らかにさえ微笑んでみせる。

「ジル・イベスタ・スムクライ。この町の領主であるケッセルト――ケッセルト・カザロ男爵とは因縁のある間柄ですね。三年前の戦役。それ以前に大学の頃からも、まあ色々と」

「貴様、貴様は――」

 なにか言いかけた小男の表情がそこで一瞬、はっとした。目を見開いてリトの姿をまじまじと見つめ、改めて何かを言いかける表情がそれまでと一変している。だが、リトの方が先んじていた。表情に真剣さを加えて、

「早急に周辺の防備を固めた方がよいのでは? 彼女の腕前なら、乱戦にさえなれば町中に逃げ込むことも可能でしょう。そのまま、潜伏して大将首を狙うことぐらいはやりかねません」

 そう、と物々しく続ける。

「それこそ、たった一人で砦さえ落としかねない」

 小男の表情から血の気が失せた。



 兵士達の動きが一気に慌ただしくなった。小男が命令を飛ばし、それを受けた兵達がその伝達に駆け回るあいだセスクとリトの二人はしばらく置いておかれ、ようやく思い出したように連れていかれたのは砦の中、どこかの一室だった。いくらか調度品の整えられた、少なくとも牢屋の類ではない室内の様子にセスクは困惑したが、リトには動揺した様子もない。

「……どういうこと?」

 セスクが聞いても、男は肩をすくめるだけだった。窓際に寄って外の様子を窺い、何事かを考えるように沈思してから、扉のほうへ近づく。そのまま扉を開き、廊下へと出ようとするのに驚いて、慌てて追いかけた。

「どこ行くんだよ!」

 気のない目線が肩越しに振り返り、

「部屋のなかにいたいなら、好きにするといい」

「そうじゃなくって……! 敵、がいるんだろ? ここに来るかもしれないんだろっ。さっき、あんたがそう言ってたじゃないか、だったら――」

 なかのほうが安全じゃないか。セスクが言うと、リトは不思議そうに首を傾げてみせた。

 溜息をつく。

 やれやれと頭を振ってから、男は言った。


「――たった一人で砦が落ちるはずがないだろう」


 至極当然のような口調で言われてしまい、セスクは唖然とするしかない。

 リトは続けた。

「いくらスムクライだろうと、まさか一人でここまではやって来ないさ。目的は撹乱か、それとも――。まあ、混乱するのは相手の思う壺だな」

 それより、と男はさらに続ける。

「彼女がわざわざ一人で敵陣を引っ掻き回している間、なにを仕掛けようとしてるのか気にならないか? 多分、町の外にある奴に関係があると思うんだが」


 セスクは背中にぞっとするものを覚えた。

 目の前の得体の知れない男。その表情にあるものが、他のなにでもなく好奇のそれだと気づいたからだった。



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