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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 熱砂攻防
102/107

10

 砦のなかを進む男の足取りには迷いがなかった。


 その動作はほとんど内部の構造について知り尽くしているかのようで、一瞬も立ち止まることがない。セスクはそのことを訝しんだが、疑問を口にすることはできなかった。ほとんどが外壁に出払ってしまっているのだろう、周囲に兵士の姿はなかったが、いつどこですれ違うかわからない。腕を捻りあげられたまま、大人しく連行されるしかなかった。


 いくつかの廊下を曲がり、長い螺旋状の階段を下ると、目の前に暗闇が現れた。ぽっかりとした大穴が岩肌に深く刳り貫かれていて、深い闇の塊が下へと向かう石段の奥に広がっている。階段の終わりは見えなかった。

「……ここかよ?」

 相手を睨みつけるが、語尾がわずかに震えてしまっている。セスクは恥ずかしさを覚えた。

「ああ」

 頷いたリトから背中を押される。セスクの腕を捻る腕の反対側には、いつの間にどこの壁から調達したのか、松明が握られていた。舌に溜まった唾を飲み下して、セスクは硬い地面の感触を確かめながら徐々に体重を移していった。恐る恐る、闇のなかを進み始める。光源はリトが足元に向けた松明だけだった。

 壁にすがりつき、一歩、二歩と頭のなかで数える。石段のつくりは均等ではなく、まっすぐに続いているわけでもなかった。大きく曲がり、うねっている。決して狭い空間ではないはずだが息苦しさが拭えない。決して、これまで生きてきて暗闇のなかを歩いた経験がないわけではなかった。


 ――生き物のなかみたいだ。意識した瞬間、それまで虚ろに広がっていただけの暗闇が、なにかひどく恐ろしげな存在に変化した。一瞬で足が竦み、全身が硬直する。怪訝そうな気配を向けられるのがわかったが、そちらに対して反応することさえできなかった。

 溜息のような音と共に、拘束されていた腕が解放される。体勢を崩しかけたセスクを大きな手が支え、男の背中がセスクの前に現れた。手が離れ、そのままリトが先を下りていく。

「待っ――、待ってくれよ。おいっ」

 こんな真っ暗闇な場所に一人、置いていかれてはたまらない。セスクは擦れた声で呼びかけたが、男は止まらなかった。それどころか振り返りもしない。

本当に、置いていかれてしまう! 衝動的な恐怖がセスクを動かし、ほとんど無意識のうちに足が一歩を踏み出していた。途端、全身をきつく縛っていた緊張が嘘のように消え、慌てて男の後を追う。ちらとこちらを振り返ったリトの眼差しが半暗い闇の奥に浮かび上がる。相変わらず感情の読めない瞳に、かすかにからかうような雰囲気があった。

 セスクは頬が熱くなるのを自覚した。なんだ、こいつ。嫌な奴だ。声くらいかけてくれたっていいじゃないか。サリュ姉ちゃんなら、そのくらい――そこまで思ったところで急速に怒気が萎み、かわって情けなさでいっぱいになる。次に沸き上がった感情は、自分自身への腹立たしさに成り代わっていた。


 拳を握り、奥歯で頬肉を噛み潰す。口に広がる鋭い痛みのなかに自身の感情を誤魔化して、セスクは果てのないような階段を荒々しく踏みつけていった。

「……地下というのは、とても稀少なんだ」

 先を行く男から声が届いた。

「安定した地盤でなければ、地下に空間は生まれない。だけど、実は大変なのはそこじゃない。本当に難しいのはそれを維持することだ。砂はどこにでもあって、どこまでも入り込む。流れる砂が、吹かれた砂がどんどん浸食していってしまう。……誰も人の住まなくなった集落が、半年もすれば完全な廃墟になってしまうように。地下という空間が残っているのは、本来、奇跡的なことだ」

 淡々と事実を述べるだけの口振りだったが、それが自分を非難しているように聞こえて、セスクは顔をしかめた。地面を蹴りつける力を気持ち弱めながら、

「知ってるよ。こういう場所、俺の村にだってあったし」

「へえ、そうかい」

「本当だよっ。イスム・クって知ってるだろ。最近、新しい水場が見つかったっていう。俺はあそこの出身なんだからな!」

 リトが振り返る。松明に照らされた表情に、驚きに近いものが浮かんでいた。

「……本当かい?」

「ああ、ほんとさ」

 相手からはじめて満足できる反応を受け取って、セスクは胸を張った。なにかを考え込むような表情になったリトが、

「それじゃ、あいつも――」

「なんだって?」

「いいや、なんでもない」

 セスクが聞き返すと肩をすくめる。口を閉じて、男は再び階段を降り始めた。

「あ、おい。待てよ。待てってば。あいつって誰のことさっ」

「……地下水洞に入った経験があるんだろう。それなら、その場所とここ、なにか違うことにも気づくんじゃないか?」

 はぐらかされたような気がしたが、セスクは男の言葉を受けて故郷の水場のことを頭に思い浮かべた。集落の真ん中にあった、地下の隠された水源。そこには塩があり、そして――そこでふと、あまりにも当たり前のことに気づく。それと同時、先程から全身を包む違和感の正体にも思い至った。


「――水。水が、ない」

 水どころか、その気配すらない。周囲には乾いた砂が舞っているだけだった。

「そうだ。ここは“枯れた水源”なんだよ」

「でも、おかしいじゃないか。タニルにはたくさん住んでるんだぜ? 水だって、そりゃあんまり綺麗な水じゃないけど、たくさん……」

「タニルの用水は、すべて南の河川から運ばれてきたものだ。この町に毎日、隊商がやってくるだろう。あれは水を運んでいるんだ。もちろん、食料その他も」

「でも、じゃあ、大変じゃないか!」

 町の周りに敵がいては隊商がやってこれない。隊商が来ないと水が届かない。つまり飢えてしまう。

「問題ないさ」

 リトは肩をすくめた。

「隊商がやって来れなくてもしばらく飢えなくてすむように、タニルには普段から大量の水が備蓄されている。それがされているのが、“貯水庫”だ」

「あんたが行きたがってた場所? それがこの先に?」

「いや、この先にあるのは、さっき言ったとおり枯れた水源だよ。ただし、大抵の場合、水源と貯水庫っていうのは繋がってるもんだ」

「……そこに行って、なにがあるんだよ?」

「なにがあると思う?」

 男はからかうように問い直した。

 セスクは唇を尖らせて、

「知るもんかっ」

「そうだな。実をいうと、俺もわからない」

「はあ?」

「期待しているものはあるけどね。実際、得難い機会なのさ。珍しいんだ。枯れた水源を目にできるっていうのは。さっき、地下のことを話しただろ? 地下に空間が維持されるのは稀少で、それを成り立たせるには安定した地盤が必要だけど、それだけでも足りない。砂の浸食を防ぐためには、別の力が必要なんだ。わかるかい?」

「……わかんないよ」

 不貞腐れたようになった返答に、リトは小さく笑って、

「さっき君が言ったじゃないか。“水”だよ。水が砂を押し流してくれるから、空間は空間として存在できる。だが、ここにはその水がない。とっくに枯れてしまっている。その代わり、毎日、南から多量の水が運ばれてくるが、それは人の手によるものだ。つまりここは、人の手に拠ることで、辛うじて地下という空間が残っている場所なんだよ。こういう例は水陸でも珍しい。考えるまでもなく、とんでもない労力だからな。しかもそれがすべて戦争のためだというから、馬鹿馬鹿しいが――まあ、悪いことばかりでもないか」

 最後は独り言のように口にして、話は終わりとばかりに肩をすくめる。


 セスクは黙ってリトの後ろを歩きながら、男の背中を見つめていた。……変な人間だ、と考える。地下がどう、水がどうこうと難しいことを言って、しかも目的の場所になにがあるかわからないらしい。そんなことのために、今から戦争が始まろうとしている町にやってきて、その挙句、敵の人間ではないかと疑われて捕まってしまうのだから。変人としか言いようがない。

 ――サリュ姉ちゃんのことも。あの不思議な瞳をした旅人のことを聞こうとも、その行方を知ろうともしない。セスクにとってはそれがもっとも不可解であり、不愉快でもあった。

 男の背中を睨みつけるようにしながら、でも、と考える。

 さっき、間違いなく“あいつ”と口にしていた。あれは、サリュ姉ちゃんのことじゃないか。きっとそうだ。そうじゃないかもしれないけれど、――そうであって欲しい。


 是が非でも、確かめなければいけない。自分にもよくわからない所以の感情に突き動かされて、セスクはそう胸に決意を固めた。



 終わりのないように思われた階段の先、唐突に拓けた空間が現れた。

 リトが持つ松明以外に光源はない。当然、視界の奥行などわかるはずもなかったが、それでもセスクは目の前に異質な広がりを感じ取って、背筋をぶるりと震わせた。水の気配が絶えた闇の底には虚無的な沈黙が揺蕩うようにしていて、ひどく不気味な静寂だった。――死。脳裏に不吉な単語が浮かんだ。

「――おい」

 セスクは、はっと我に返った。隣から、肩を掴んだリトがこちらを覗き込んでいる。いつの間にか、目の前の闇に向かって足を踏み出そうとしていた自分に気づいてぞっとした。

「……どこから傾斜になっているかわからないから、足元に気をつけるんだ。壁に手をつけながら歩け」

 言いながら、片手に松明を掲げたリトが、もう片方の手を壁に触れさせながら壁沿いに進んでいく。その後を慌てて追いかけながら、セスクは手に触れたなめらかな感触にはっとした。

「これって、」

「蝋だな。補強か、それとも灯りを用立てた跡か。……使い古しの松明かなにかが残っていてくれたら、ありがたいんだけどな――ああ、あった」

 光源が二つに増える。壁に設けられた横穴に生まれた黄暖色はひどくか弱かったが、その灯火はセスクの心を落ち着かせた。なんとはなしに揺れる灯りをしばらく見つめていると、壁面に奇妙な引っ掻き跡が目についた。

 その傷跡はなにか硬いものを擦りつけてつけられていた。線が意図を持って伸び、曲線し、交錯している。それは絵だった。見れば、壁面のあちこちに同じようなものがあった。

「……なんだよ。ただの落書きじゃん」

「そうかな」

 リトが言った。興味深そうに壁画を見回している。

「どういうことさ」

「いつ、誰が残したものかわからない。もしかしたら、ずっと昔にこの水場を縄張りにしていた連中が残したものかも知れないな。文字を持たない人々にとって、絵は大切な事柄を伝承するために重要だったんだ」

「これが……?」

 男の言葉を胡散臭く思って、セスクは改めて壁画に目を転じた。子供が描いたとしか思えない稚拙な落書き群には、とてもそこに重要な物事が書き残されているとは思えない。

「どうせこの町の兵士の誰かが、酔っぱらった勢いで書き殴っただけ――」

 言いながら、壁の下の方を見ようと身を屈める。恐ろしげな眼と目が合った。

「うわあ!」

 セスクは飛び上がって驚き、したたかに尻を地面に打ちつけた。


 涙目になりながら、恐る恐る確かめると、壁面の下部に大きな獣の姿が描かれていた。

 一対の瞳が吊り上がり、大きく裂けた口からはぞろりと牙が連なり覗いている。頭には巨大な角が生え、毛のようなものがびっしりと渦を巻くように描きこまれた容貌は異様な存在感を放っていた。そして、もっとも不思議なことに、そこに描かれているのは顔だけだった。手や足など、全身のその他の部位は描かれていない。

「……顔だけ?」

「――いや、違う」

「わっ! なんだよ、急に!」

 いつの間にか背後にリトがやってきていた。またも飛び上がって驚いたセスクは文句を言ったが、男は気にした様子もなく壁画を注視している。

「これには、最初から身体がない。いや、厳密に言うとそれも違うか。……ともかく、そういうことさ」

 リトがそっと壁画に手を伸ばした。巨大な獣の顔を撫でる。その所作には、どこかそれまでにない丁寧さが窺えた。すぐにそこから興味を失ったように、またどこかに向かって歩き始めてしまう。セスクは急いで後を追った。

「待てって! どういうことさっ」

「なにが?」

 不思議そうに訊ねられる。

「なにがって――さっきのあれだよ! 身体がないって。そんな生き物、いるわけないだろ!」

「身体がないわけじゃないさ」

「だから、それがどういうことなのか説明してくれよ!」

 広大な空間に、吸い込まれるように声が反響する。リトがため息をついた。

「……身体はある。あそこに描かれていないだけで。正確には、描く必要がないんだ」

 謎かけじみたことを言われて、セスクは顔をしかめた。

「どういう意味さ。さっぱりわかんない!」

「あの獣の“全身”はここだよ。ここが、あの獣の身体なんだ」

 リトは地面を指さして、言った。

「ここって、」

 セスクはますます混乱して、頭を振った。

「町? タニルの町のこと? あれって、そんなに大きい獣なの!?」

「まさか」

 あっさりと肩をすくめられる。

「それどころじゃない。あれは、もっと大きい」

「もっとって――」

 絶句するセスクに、リトは静かに続けた。

「あの獣は、この世界でもっとも巨大な獣だよ。地下を巡る一匹の蛇。それをあるいは流といい、脈と呼ぶ」

「リュウと、ミャク……?」

「そうだ」

 ゆっくりと頷き、リトは告げた。


「この星を巡る生命の元。命のそのもの。“流脈”だ」



 不意に、大勢が駆け下りてくる音が響いたかと思うと、大勢の松明を持った兵士が現れた。武装した兵士をかきわけるようにして、小男が姿を見せる。

「貴様――」

 肩を怒らせた男は、服装はすでに整えられている。案外、早かったなと思いつつ、リトは口を開いた。

「もう日が昇りましたか」

「黙れ! 貴様、どうやって牢から出た! ここでなにをしている!」

「その前に」

 激高した様子の男を落ち着かせようと、リトは手を挙げた。穏やかに告げる。

「上に戻りましょう。指揮官がこんな地下に潜っていては、不測の事態に対処できません」

「不測? 不測の事態だとっ」

 甲高い声を引きつらせるようにして、男がこめかみを震わせる。

「貴様のような者が、今、ここにいることが十分に不測すぎるわっ。いったい、これ以上なにがあるっ!」

「怖い人が来ます」


 ◇


 ボノクスによるタニル攻め。その三日目は早朝、まだ日が昇りきらないうちから再開された。


 前日までのボノクスの攻勢は、タニルの周辺を騎馬で取り囲み、遠巻きに弓で射続けるというものだった。慎重、あるいは様子見といった感が強い。

 そもそも、タニルという砦は力攻めをするには難攻不落に過ぎた。

 反り返った岸壁に四方を取り囲まれたタニルはそれそのものが天然の要塞という名にふさわしかったが、さらにその周囲を取り囲む砂海の存在があった。


 砂海に浮かぶタニルの周辺には、常にいくつもの流砂が確認されている。元より、砂海とは流れる砂地のことではあるが、タニルの周囲は特にその流れが激しかった。それが時にぶつかり、不規則に渦を成して、下手に足を取られれば砂底にまで溺れかねない。タニルを攻めようとする側からすれば、集団での運動どころか、まず安全な拠点を設けることすら困難を極めるという点に、タニルという要害の厄介さがあった。

 タニルを攻める際の『航路』は、タニルの正面に位置する。タニルと外とを唯一に繋ぐ正門もそこに存在するため、攻め手としては当然そこに注力することとなる。そうした状態では、攻め方も単純にならざるを得なかった。一方、防衛側としてはそこに戦力を集中させればよいわけで、守るのは圧倒的に容易い。守備側の注意を逸らそうにも、正門以外では梯子も満足に架けられないような――砂に流されてしまうため――状態では、他にやりようがなかった。

 砦そのものの頑丈さと、周辺の複雑な地形効果。これらが相乗して、タニルを鉄壁の要塞として成り立たせている。


 タニルを攻め落とす困難さは、ボノクスも承知している。過去、幾度も攻めきれなかった過去があるからだった。

 そのボノクスが今回、新たに持ち込んだ攻城兵器は、昨日のうちに組み立てが完了している。本来、そうした大型兵器は砂海を渡ることが困難だったが、彼らは宿敵であるツヴァイの技術を研究することで、分解と小型化に成功したのだった。タニルを防衛するとしてはもっとも注意しなければならないが、三日目の早朝の時点で、その攻城兵器が運用される気配はない。


 ボノクスはまず、全体の半数ほどの騎馬が群をなしてタニルの周囲を駆け、遠巻きに弓を射かけた。前日までとなんら変わらない消極的な手段であり、すぐに防壁上からの応射が行われる。

「奴ら、あの調子で撃ちまくってたら、そのうち矢がなくなっちまうに違いないぜ」

「そりゃいい。そうしたらすごすごと帰っていくだろうな」

 防壁に身を隠しながら、ツヴァイの兵士達のなかにはそんなやりとりを交わす者がいた。彼らは、ボノクスの先頭を走る人物がただ一人、一度も弓を射ってないことには気づいていなかった。その人物が、砦の方など見向きもせず、地面を注視していたことも同様だった。

 ボノクスの緩慢な(そのように見える)攻勢は、砦を一周するまで続いた。矢筒の矢をほとんど撃ち切りながら、自分達の陣に戻る。


 情勢の変化はそこから始まった。

 それまで駆け続けた騎馬兵達と交代するように、待機していた残り半数の騎馬達が動き始める。ただし、彼らはその手に弓矢を握っていなかった。

 彼らが握っていたのは綱であり、彼らはその綱でそれぞれ木板のようなものを引きずっていた。もうもうと砂埃が立ち込める。

 何事かと訝しんだツヴァイ陣営から、すぐに失笑が沸いた。

「なんだ、あいつら。あれで砂を巻き上げて、目隠しにでもしようってのか?」

「馬鹿馬鹿しい。子供騙しにも程がある!」

 たちまちに防壁から矢の雨が降るが、ボノクス騎馬兵達はその矢が届かない距離を悠然と駆けていく。明らかにツヴァイ側の弓矢、その有効射程を把握していた。

 木板を引きずった騎馬兵達が、やがてある地点で停止する。その先頭には、先程、一度も弓矢を射かけなかった人物がいた。


 その人物がゆっくりと腕を挙げ、そしてある一点を指さすと、再び、騎馬兵達が行動を開始する。


 一千人からの騎馬兵が、先程の人物が指さした方角に向かって駆け、まず先頭の者がそこで引きずっていた木板を放した。地面に落ちた木板はすぐに砂に捕まり、流されていく。そこに後続の騎馬が続いて木板を落とし、さらにその後続も同様に繰り返していった。

 たちまち、地面には落とされた木板が増えていくことになるが、それは山積みとはならず、まるで列のように伸びていく格好になる。そして、その列は砂の流れに沿ってある方角へと向かっていた。――タニルへと。


「まさか――」

 防壁の上から見ていたツヴァイ兵のなかで、巡りの良い者がはたと気づいた。

「連中、あれで橋を渡すつもりなのではないか!?」

 ぎょっとした数人が、改めて下を見る。

 ボノクスの騎馬兵達が落とした木板は、まるで初めからそれを計ったように、タニル防壁に向かって流れてきている。だが、その心配を別の兵士がすぐに笑い飛ばした。

「馬鹿な。そんなこと出来るもんかよ」

 確かに、砂の流れを読んで木板を届かせようとするなど、常人には不可能な所業ではあるが、仮に木板を渡したところで、それが橋になるはずがなかった。圧倒的に強度が足りないし、流れが変わってしまえばすぐに瓦解してしまう。そんなものは橋とは呼べない。

 その反論は正しかったが、同時にそれは別のことを意味している。その論は、あくまで“軍として用いるのであれば”という前提に基づいているのに過ぎなかった。



 一千人の騎馬兵が落とした木板は、砂に流れ、揉まれ、いくらかは沈み、その上に新たな木板が流れ込んで、いまやタニルまでの一本道を示している。

 とはいえ、それはやはり道と呼べる代物ではなかった。ひしめきあった木板はあちらこちらが隆起して、馬の脚でも容易に駆け抜けられるものではない。――常人であれば。


 全員分の木板が投入されたのを確認して、その先頭でいた人物は満足そうに頷いた。背後から近づいた別の騎馬が声をかける。

「行かれますか」

「行く」

 短く応える。

「では、予備の矢筒を」

「要らぬ」

 そっけなく言って、その人物は軽く頬を持ち上げた。

「矢の控えなら、お前たちが先程入れておいたもので十分だ」

「はッ。……では、お気をつけを」

「手筈通りに動け」

 簡潔な命令を残して、その人物は乗り馬の腹を軽く占めるように合図した。すぐに馬が走り始める。その目前には、瓦礫の集合じみた木板がひしめき合っている。

 その人物は口元に笑みを浮かべると、前傾姿勢をとってさらに馬を加速させた。人の脚でも難しそうな足場をまるで苦にせず、軽快な足取りで踏破していく。それでいて、まったく速度が緩められていなかった。

 目前にタニルの防壁が迫る。天然の崖壁は、人はもちろん、馬の脚だろうと飛び越えられるような高さではありえない。今の速度を保ったままでは、無残に壁にぶつかるのが道理だった。

 だが、その乗り手は速度を落とさず、あろうことかさらに脚を早めて突進した。


 あまりの無茶な行いに、防壁上のツヴァイ兵達も思わず弓を射かけることを忘れ、事態を見守っている。もちろん彼らは、無様に壁にぶつかって激突死する未来を頭に浮かべていたが、

「っ――!」

 その予想は完全に外れた。


 一千からの木板が流れ、その終着点となったタニル防壁の根元には、無数の木板がほとんど山積みになって隆起している。その積みあがった高さは二丈にも近かったが、たとえそこから跳んでみせたところで、いまだ防壁には届かないほどの距離があった。

 壁に向かって全力で駆けるその人物は、直前になってわずかに馬の向きを変えた。正面から当たるのではなく、斜めの角度から侵入する格好で木板の瓦礫を走り抜けて――そのまま、壁面を駆けあがった。


 大きく後ろ足を跳ね上げさせて、一瞬、人馬が空を舞う。


 それでもなお、防壁の高さまでにはまだ足りない。女性が手に持った鞭のようなものを投擲した。防壁の先に引っかかり、ぴんと張った鞭に人馬の重さ、それ以上の負担が加わって軋んだ悲鳴を上げる。如何なる手法でつくられた鞭なのか、それはかろうじて人馬の重さを耐えきって、その結果、人と馬は全力で駆けた勢いもそのままに、大きく上へと振られることとなった。

 長い黒髪が大きくたなびく。

 防壁にいる全員が唖然として見送るなかで、その人物と、その人物が乗る馬とは、悠々とタニル鉄壁の防御を飛び越えた。

 乗馬に宙で身を捻らせ、華麗に着地する。下にあった煉瓦を踏み抜いて小さくない音がしたが、乗り馬は故障した様子も見せず、その背に乗った人物も平然としていた。


 突然、目の前に異質の侵入者を迎えた兵士達は、あまりの出来事に全員が声もない。いまだかつて、このようなやり方で砦に侵入してきた相手など皆無だった。いるはずもない。

 自分達がするべきことも忘れ、呆けた表情で自失する兵士達を馬上から見下ろす瞳に侮蔑の色が浮かぶ。自分と馬をきつく結んでいた腰紐を切って捨てながら、

「――我はスムクライ。ジル・イベスタ・スムクライ。貴様らの天敵にして、その落日を告げる者」

 詠うように名乗りを挙げる。その文句を耳にして、ようやく我に返った様子の兵士達も若干名は存在したが、彼らはそこから動こうとしなかった。全員が、目の前に現れた人物が意味する不吉ななにかに魅入られているかのように立ち尽くしている。


 その場に沈黙が落ちる。

 自身がつくりだした静寂の意味を確かめるように少しの間をおいた後、スムクライのジルは再び口を開き、

「陽は東方に昇り、西を赤く沈む。貴様らの最期を看取るがスムクライならば、勇ある者は武器を持て。その気概があれば前に出よ。このなかで、もっとも勇敢だった者だけを生かしおく。四肢を落として連れ帰り、子種の全てを吐き出させてから逝かせてやろう」

 冷ややかな声色で宣言した。



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