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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 熱砂攻防
101/107

 ◆


 どこかから零れた水滴が石を打った。


 それを耳にしたリトが唇を歪めたのは、水源豊かなヴァルガードやトマスならともかく、今この場所で意味もなく水が滴り落ちてくるようなことがありえないからだった。つまりは幻聴。それでも、その幻が混濁しかけていた意識を覚醒させるきっかけになってくれた。途端に殴られた頬に鋭い痛みが蘇り、顔をしかめる。倍以上の時間をかけて、彼はゆっくりと頭をもたげた。


 視界に人の気配はない。辺りは暗闇に押し潰され、その底に淀むように埃が沈んでいた。光源はなく、天井に近い採光窓から月光が降り注いでいるだけだが、物の濃淡を掴む程度の明るさはあった。引きつるような痛みを訴える身体の各所に気をつけながら苦労して仰向けになり、吐息をつく。月が見えた。


 タニルの地下牢に捕らわれたリトは、先程まで看守兵達による歓迎を受けていたところだった。その歓迎はひどく手荒なもので、逆に言えばそれだけで済んだ。彼らは他人に暴力を振るうことには慣れていても、人間を壊すことを生業にしているわけではない。意図的にそうした行いに長ける為には特別な信仰と、ある種の職業意識が必要だということを彼は知っていた。

 無論、だからといって素人の暴力行為が恐ろしくない理由にはならない。それが素人の手だろうが玄人の手管だろうが、あっさりと砕けてしまう程に人間の身体は脆いからだった。むしろ素人の方が加減を知らない分、意図せずに深刻な事態を招きかねない。

 今日の尋問――という名の暴力は、双方にほとんど意味をもたらさなかった。いや、と思い直す。少なくとも兵士達にとっては、一時の気を紛らわせることにはなっただろう。周囲を敵兵に囲まれて、普段通りの精神状態でいられる人間はまずいない。それを出来る極少数の相手も泰然自若と言えば聞こえはいいが、結局のところ、それはなにかが摩耗しているに過ぎない。あるいは始めから欠けているか。その欠けた部分に後から注ぎ込まれるものを、人は狂気と呼ぶ。


 自分自身を振り返って、リトは自嘲気味な笑みを浮かべる。彼自身、他人事のように言える立場でもないという程度の自覚は持ち合わせていた。

 床に投げ出された身体に鞭を打って起き上がり、近くの壁に寄りかかる。あちこちの痛みはともかく、ひどく喉が渇いているのが難儀だった。持ち合わせの水袋は他の荷物とともに取り上げられてしまっている。気のいい看守が思い立って、それを差し入れしてくれる可能性にもあまり期待はできないだろう。


 人間は水さえあればある程度の期間、なにも口にしないで生きてはいける。だが、水がなければほんの数日で干からびてしまう。砂海の炎天下なら二日とかからない。ほとんどすべての地表を砂に覆われたこの地で、渇死はもっともありふれた死に方だった。ありふれて、さらに残酷でもある。

 リトはこれまで数えきれない程の渇き死んでいった躯を見てきたが、その死顔はどれも壮絶なものだった。削げた頬に落ち込んだ眼窩。眼差しは血走り、肌にはどす黒い筋が何本も張って、生前の面影を見る影なく変化させてしまう。まるで、水分とともにその人を表す様々な要素が蒸発してしまったかのように。そして、その最後に凝縮して残るのは概ね一つだった。この世界全てに対する色濃い怨恨の形相。空を、水天を怨むような彩りだけを表情に、彼らは逝く。

 少なくとも、今まで心やすらかに渇いて逝った死顔というものをリトは見たことがなかった。その表情の違いで、どういう死に方だったかがわかる。


 ……昔、非道な死について大学で討論されたことがあった。渇死と凌遅刑、どちらがより残酷かというのがその日の題目で、疑いようもなく悪趣味だが、それは同時に大学の倫理的自由さの表れでもあった。どちらがより多数の賛同を得たかについては記憶に残っていない。あまり興味がなかった。当人にとっての死に様は、死んだ人間だけのものだ。それを見せられる者、残された者の立場であればどうかで考えるのなら――渇死以上に残酷な死に方というのはあまり思いつかなかった。一切の水分をそこから失った遺体は、死顔を整えようと瞼を閉ざすことさえ出来ない。


 自分がどのような死に方を迎えるか予見する能力をリトは持たなかったが、少なくともこの場で渇死という結末は訪れないだろうと予測していた。それほど楽観的な展望というわけでもない。死が訪れるとして、それに数日の猶予を与えてくれるようなことにはならないだろうというだけだった。

 明日にでも、この砦は激しい戦闘状態に入ることになる。そうすれば砦の兵士達にもこちらに構う余裕はなくなるだろうが、その前に始末をしておこうという判断にならないとは限らない。運よくそうならず、砦を占領したボノクス陣営に発見されたところで、こんなところに捕らわれていた自分が丁重に扱われるとは思えなかった。仮に、幸運に幸運が重なって、ボノクスの人々がこの地下牢の存在に奇跡的に長く気づかないという事態が起こった場合――その時に、彼ははじめて渇き死ぬというありふれた死に方に辿りつくことができるはずだった。そこで自分がどのような死顔を残しているかは、やはり興味がない。その時には、自分は死んでいるのだから。

 とはいえ、それは現実にはありえない妄想だった。実際には、潜伏する残党兵を探すボノクスの兵士に発見されるというのが妥当な結末だろう。そして、恐らくはボノクスを率いる人物に引き合わされることになる。その場面を想像してリトは憂鬱になった。あらゆる意味で、好ましい未来とは思えなかった。

 できることなら回避したいところだが、そのためにどうすればよいかが難しい。彼は現在、間諜の疑いをかけられており、そうではないことを証明するのは容易くはなかった。出自を明かそうにも証拠になるようなものは何一つとして持ち合わせていない。ケッセルトがいれば話は違ったのだろうが――古い知己の人を喰ったような表情を思い出して、リトは苦々しく頭を振った。確かにこの牢からは出られるだろうが、その後はあまり愉快なことになりそうにない。ボノクスの指揮官と対面させられるのと、どちらがましかというところだった。


 いずれにせよ、ケッセルトは不在なのだから、それに代わってこの砦を預かる相手をどうにかするしかない。

 キーチェンという名のはずのその男は、面会した時の様子から見るところ、不慣れな指揮官が陥る袋小路にはまりこんでしまっているようだった。自分の主観的な判断を信じきっている。あるいは必死に信じようとしている。そうすることで精神を安定させようとしているのだ。

 経験豊かな指揮官が不在のなか、国境の砦を防衛する責務を負わされているのだから、その心理的な負担は察して余りある。ただし、とリトは考えた。ケッセルトは恐らく――いや必ず、ボノクスが攻めてくることを予想していたはずだ。期待していた、と言い換えてもいい。その上で自分を留守にまでしてみせたのなら、それは相手にわざと隙を見せたということ以外の解釈は不可能だが、だとすればその後の対応についても当然、考えを巡らせていたはずだった。

 そうした意図をあらかじめ伝えられた上で、この場を任された臨時指揮官はああした態度なのか。あるいは、考えを披露されたからこそか。そのあたりの微妙な差異に、重要な意味が含まれているのだろう。それとも、と考える。単純に、なにも教えられていないのかもしれない。あのケッセルトの性格からすれば十分にありえることだった。相手の破天荒な性格と、それに日頃から振り回される副官の苦労を思いやってリトは苦笑した。


 もしかすると、思わせぶりな言葉を告げたのは逆効果だったか――という後悔も浮かびかけたが、同程度には仕方ないという諦観があった。あの時点で、ある程度はこちらの有用性を仄めかしておかなければ、すぐに処刑などという話になっていたかもしれない。とかく、戦闘や戦争の渦中では様々な非道や不条理が起こるものだ。

 そうした状況下にある場所へ自分から進んで足を突っ込んだのだから、誰を怨むでもない。それに、と自分を慰める意味ではなくリトは付け加えた。そうした状況だからこそ、平時には不可能なことが出来るということでもある。


 ともあれ、キーチェンと話をする機会を持たなければならない。明日にもボノクスの攻撃は本格化するだろうから、それより早く。少しは痛めつけられてからの方が、自白して得られる情報にも真実味が増すだろうと思って、彼は見張りの看守が様子を見にやってくるのを待っていた。

 それからしばらくも経たないうちに鉄扉が動いた。軋むような音ともに開いたその隙間から、暖色の灯火に浮かび上がった相手の顔を見て取った瞬間、リトは渋面になった。


 そこに立っていたのはセスクだった。手に持った蝋燭の炎が揺れ、引きつった表情に濃い影を作っている。セスクは無言のままちらと背後を窺うと、隙間から滑り込むように部屋のなかに入って来た。じゃらりという金属音が擦れる。その音は、セスクの手に握られた鍵束が鳴らしているものだった。

 セスクがなにをしようとしているのか、それを見れば相手に訊くまでもない。リトは頭を振った。

「……馬鹿なことをしてないで、帰るんだ。セスク」

 制止すると、セスクは頬を震わせた。笑おうとしたのか、それともなにか言い返そうとしてそのどちらにも失敗したような表情で、牢屋の前に来ると手にした鍵束を試し始める。がちゃがちゃと音を立てながら開錠を試みる相手の後頭部を見下ろしながら、リトは途方にくれた。

 数本目で鍵が合い、勢いよく牢扉が開け放たれる。顔を上げたセスクの表情は引きつったまま、そこにわずかな達成感が含まれているのを見て取って、リトは黙って牢を出た。

 打撲の痛みを堪えながら少年の隣を通り抜けて、室内のものを物色し始める。背後から、ちぇ、と不満そうな舌打ちが聞こえた。

「ありがとうとか、ねぇのかよ」

 リトは肩越しに後ろを振り返り、そこに不満げに自分を見上げる眼差しを見つけて、告げた。

「誰も頼んでないだろう?」

 むっとしたセスクが口を開きかけるのを無視して訊ねる。

「この後のことは、なにか考えてるのか?」

 セスクは顔をしかめた。

「後って? 俺はただ、放っておけないって思ってさ。だから――」

 言葉が途切れ、そこで俯いてしまう。


 つまり、無計画というわけだ。相手に気づかれないように、リトは額に手を当てて吐息をついた。

 ――面倒なことになった。

 彼は朝になってからこの砦の指揮官に面会を申し入れるつもりだったが、それどころではない。今からでも、セスクに怒鳴って鍵をかけ直させた上で追い払うべきかと思ったが、セスクがどこからか手に入れた牢鍵を何事もなく元の場所に戻せるとは限らない。今頃、その誰かが無くなった鍵を探しているかもしれなかった。そうでなくとも、セスクが帰り際になにか一つでもしくじれば、少年は捕まり、間諜疑いがもう一人増えるだけの結果になる。そして、その際にこちらに向けられる疑いは、一人の時より格段に強まっているだろう。

 最悪なことに、どういった行動をとるべきか、それを考える時間さえろくになかった。こちらは看守の巡回頻度を把握していない。こうしている間にも、あの鉄扉が開いてしまうかもしれない。眠気をこらえながら見回りにきた相手と、牢から出たはいいがこれからどうすればよいか立ち尽くした二人が顔を見合わせるのは、控えめに言っても間抜け過ぎた。

 ふと、リトはセスクが鍵とは別に大きな袋を持っているのに気づいた。訊ねる。

「それは?」

 不満そうな表情のセスクが無言で突きつけてくる。なかを覗くと、兵士達の服が入っていた。外套もある。

「なるほど。助かる」

 牢を開けてくれたことはともかく、この差し入れは素直にありがたかった。素早くそれに着替えて(サイズはやや小さかったが、外套のおかげで目立たなかった)、リトは自分が来ていた衣服を丸めると、牢の奥に置いた。形をそれらしく整えて、上から襤褸布をかぶせる。ひどい子供騙しだが、扉のところから軽く覗いただけなら誰かが寝ているように見えるかもしれない。朝になれば間違いなく露見してしまうが、夜間だけならやり過ごせる可能性はあった。精々、巡回する人間の仕事に対する不熱心さに期待したいところだった。


 セスクから受け取った鍵束で牢屋を閉め直した頃には、リトのなかで即席の行動計画が練られていた。

「どうするのさ?」

「……そうだな」

 訊いてくるセスクに向かって無感動に頷いて、

「君に人質になってもらおうと思う」

「はぁ? なに言って――」

 ぎょっとして身を引きかける身体を捉えて、後ろ手に捻りあげる。セスクが甲高い悲鳴を上げた。

「痛ぇ! なんだよ、感謝もしないでさ!」

「そっちが勝手にしたことはともかく、協力には感謝するよ。人質になってくれてありがとう」

「なるなんて誰も言ってないだろ……!」

「静かに。……他の連中に見つかったらどうなるか、わかるだろ」

 はっと息を呑んだセスクが、それでも納得いかないらしく、

「だからって、なんで人質になんてならなきゃいけないんだよ……っ!」

 脅されてこんなことをしでかしたなら、いざという時の言い訳も幾らか立つだろうさ――とは口に出さず、リトは肩をすくめただけで済ませた。

「とにかく、静かにするんだ。協力してくれたら、無事に帰してやれる」

「脅迫かよっ」

「もちろん、そうだ」

 あっさりと認めて会話を切り上げると、リトはセスクの口を塞ぎ、廊下に繋がる鉄扉に耳をあてた。誰の気配もないことを確認して、扉を開ける。


 リトは廊下に出て、セスクを引き立てるように前に出しながら道を進んだ。

 兵士の多くは城壁に配置されているらしく、人の気配が少ない。それでもあちこちには最低限の歩哨が立っているはずだった。

「おい、どこ行くんだよ。出口はそっちじゃないって」

 さすがに声を潜めて言ってくるセスクに、

「誰も出口に向かうなんて言ってないさ」

「はぁ? あんた、一体――」

 セスクが振り向きかける。

 その時、廊下の向こうから誰かの足音が響いてきて、リトは少年の腕を捻りあげた。セスクから悲鳴が上がる。丁度そのタイミングで、二人連れの兵士が角から姿を見せた。

「なんだ、どうした。そいつは?」

 怪訝そうに訊ねられたリトは、軽薄な表情をつくった。目の前の頭を小突いてみせる。

「馬世話のガキさ。どうにも腹が空きかねて、つまみ食いしようとしてたらしい。ちょいと痛い目にあわせてやろうと思ってな」

「ああ、昨日もそんな奴がいたとか言ってたな。ま、あんまり虐めてやるなよ」

「わかってるさ。ちょっとばかしビビらせたら、帰してやるって」

 ほんとかよ、と薄笑いを浮かべた兵士達が去っていく。彼らの姿が十分に離れて見えなくなったのを確認してから、リトは腕の力を弱めた。

「セスク、大丈夫か?」

「……大丈夫なわけないだろ! 加減しろよっ」

 涙目で睨みつけてくる相手に、リトは肩をすくめて言った。

「演技が得意か聞いてなかったからな」

 まだ文句の言い足りない様子の少年の身体を後ろから押して、再び歩き出す。


「……こんな奴、助けなきゃよかった」

 セスクはぶつぶつとしばらく呟いていたが、ふと不安を覚えたらしく、不安そうにこちらを見上げて来た。

「なあ。さっきから、やけに自信満々に歩いてるけどさ、一体どこに行くつもりなんだよ」

 リトはちらりと相手を見下ろして、

「地下だ」

 言った。

「地下? 牢屋に戻ろうってのかよ?」

「いいや」

 素っ気なく答える。

「地下の、貯水湖だよ。そこに用があるんだ」



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