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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 呪われた少女
10/107

 彼は帝国歴二百十二年に帝都ヴァルガードでその産声をあげた。本名をニクラス・クライストフ。この時、齢二十二歳。帝国の重臣、宰相ナイル・クライストフの実子である。


 彼は幼少の頃より非凡な才能を発揮した。それは突き抜けた何かという意味ではない。しかし、全てにおいて通常を逸脱していた。

 彼は他の者より少しだけ早く喋り始め、少しだけ多くを知り、少しだけ足が速かった。やがて大学に入るとその興味は智に傾けられたが、方向性は変わらなかった。

 正しい例えであるかは不明だが、一種の比喩として、彼は「天才」の才ではなく、「秀才」の才の持ち主だった。ただし、努力の必要がない秀才であった。逆説的には、努力をしないから天才にはなれなかったと言えるかもしれない。世に大功を遂げ、天才と称される人間の中に努力をしなかったものなど存在しない。


 なぜ努力をしようとしなかったのか。それには彼の精神内面が大きく関わっている。彼は始めてその自己を認識した当初から、あることを理解していた。つまり、自分が欠陥した人間であると。

 彼には生まれたときから根本的な自己愛が欠如していた。だから彼は誰かを信じることなどできなかった。自分を信じることができない彼にはそれが当然だった。彼は産まれついての懐疑論者だった。学問に傾斜したのも、その客観性に魅入られてのことだったのかもしれない。


 その理由が如何なるものであるか、それは推測の域を出ない。幼少時代に獲得する基本的な関係性――愛情や愛着の欠如は、しかし家庭環境に問題があるわけではなかった。父は厳格だが不条理ではなく、母は優しかったが盲目的ではなかった。兄は彼より病弱だったが、誇り高かった。他の兄弟姉妹も含め、もちろん全てに欠点がないわけではなかったが、帝国でも最上級貴族という区分において、むしろ例外的に良好と表現しうる環境がそこにはあった。


 あるいは、だからこそか。なにもなかった事、それこそが彼を育んだのであろうか。しかしそれは笑止な言葉遊びでしかない。彼自身もそれには否定的だった。

 自分はただ、生まれついてこうだっただけだ。そう彼は考えていた。無論、誇るのではない。開き直りとも違う。寧ろ蔑視という感情が伴っていたが、淡々とした客観視であった。


 次のような推論もまた可能ではある。

 彼はあえて努力をしようとせず、天才たろうとしなかった。

 己のような存在が壁を突き破った時、そこに何が生じるのか彼は知っていたのかもしれない。だからこそ、彼は自身を無害の立場へと置き続けた。それはまったく周囲の為ではなかった。


 彼が十七の時に家を出た、それが全て以上のような思考から成り立っていたわけではない。彼の知的好奇心だけは人並み外れており(考えることに害はない)、彼はある問いを持って外に出たのである。

 神は存在するのか。

 それはつまり世界とは何かを知ることでもあった。そして恐らく、それは彼自身を知ることにも繋がっていた。彼は自身の存在を認める為に外に出た。


 もちろんこれらは推論に過ぎない。事実はともかく、真実がどのようであったか知る術はない。彼自身がそのどちらを重視していたかもまた同様である。もっとも、彼は自分が家を出て、大学を出た理由を「逃避」の一言で片付けてはいたが。


 確かなこととして、彼は異常であった。

 彼はこの世界の全てをそうあるままに認められない存在だった。まず何よりも、自分自身のことを。


 それではその日、彼がとった行動の意味とは如何なるものであったのか。それこそ真実の領域にしか値しない問題ではある。サリュという、銀髪と、二重に円を描く灰色の瞳を持っただけの少女。その関係性がどのようなものであったか、どのような想いを持っていたのか。語る意味はない。


 だが少なくとも、彼はただ一人の為にその行動を起こした。

 そこにだけは、疑いの余地はない。



「裁判を始める」


 厳かな声がその開幕を宣言した。

 時は正午。場所は中央広場から程近い大講堂である。中には多くの貴族と、そしてそれ以上の聴衆で溢れかえっていた。

 そこに存在するのは大きな好奇心とほんの少しの同情と哀れみで、その全てが被告である少女に注がれていた。


 裁判は、まず参加者の紹介から始められた。裁判長が名乗りを上げ、書記、そして陪審員となる街の名士たちが紹介される。弾劾する審問者にはあの皴に埋もれた魔法使いが立っていた。ヤーガス。老女はそう名乗った。

 紹介が弁護側に移り、彼は周囲に軽く一礼をして述べた。

「ニクラス・クライストフです。今回、弁護人を勤めさせていただきます」

 その名前を聞き、不可解そうに顔をしかめた陪審員席の名士もいた。あまりにも聞き覚えのありすぎる姓と、名前の方にも幾つかの尾ひれつきで噂話の中に聞いた覚えがあるのかもしれない。中には、隣に座るクリスに探るような視線を送ってくる者もいた。


 そのどれらにも反応を示さず、彼女は厳しい目つきで弁護席のその男を睨みつけていた。目が合う。自然と逸らされた。

 やってくれたな。あの馬鹿。内心で彼女は歓声をあげていたが、喜色を周囲に知らしめるわけにもいかず、知らないものが見れば顔を青ざめかねないほどの厳しい表情を続けるしかなかった。

 肩の荷が失せるのを感じて、彼女はあくまで不自然にならないよう自身にこもっていた力を抜いた。息が漏れそうになるのを噛み殺しながら、目を閉じる。

 こうなれば、彼女に出来ることなどなかった。安心して任すことができた。長年の友情にも信頼という形を返すことができないその人でなしのことを、彼女はその程度には信用していたのである。


 幾つかの視線が注がれるのを感じながら、くだらない、とリトは思っていた。思うが、それを表情に出すことはなかった。そういった行為を少しでも嗅ぎ付けられてしまってはいけない。

 魔女裁判。いや、実はそんなものですらない。


 これはただの茶番だった。


 しかし、だからこそ完璧に演じてみせなければ意味がない。彼はせいぜい緩やかな微笑を口元にたたえて、周囲からの注目に応えていた。


 最も高い位置から場の全てを見下ろす格好で座る裁判長は、その空間に流れた奇妙な空気に戸惑っていた。彼はあまりに有名すぎるその性名から、周囲が連想したような事実を思い浮かべることが出来なかった。ただ、しっかりとした身元の弁護人である旨が事前に伝えられていただけだった。


 前にリトの姿を直接目にしたことがあるヤーガスという名の老女は、しかしそのことに気づかなかった。それも無理はない。あの時のリトは布帽子を被って老女には目しか見えていなかったし、なにより服装が違いすぎた。トマスでも一部の人間しか敷居をまたぐことができないような御用達専門の服飾屋のそれは、違いなどわからずとも眩いばかりの差をもって老女の視界に映っている。


 サリュは、気づいた。名前を聞いた瞬間、それまで俯けていた顔を弾けるように上げて彼を見た。

 その瞳が驚きに目を見張るのを視界の端に、リトは自然な態度でそれを無視した。まるで少女の存在など見えていないかのような態度だった。それで少女は、また顔を俯かせた。


「あー。続ける。最後に被告、サリュ。以上である」

 とりなすような進行があって、裁判は開始された。

 容疑は魔女であると疑われること。ヤーガスと名乗る老女が高らかにそれを告げた。ただし、本人は高らかなつもりでも実際にはひどくこもった聞き取りづらいものにしかならなかった。

「この少女は街を滅ぼす魔女である。災いを失くす為には浄化の炎をもってするしかない」


 馬鹿馬鹿しい。リトの唇の端が歪みかける。どうやら最大限気をつけなければならないことは、うっかり素の表情を見せてしまわないことらしい。

「被告人サリュ。汝は自身が魔女であることを認めるか」

 裁判長が問いかけたその瞬間だけは、リトはやや視線に力を込めて少女を見た。自分から魔女であることを認められれば話はややこしくなってしまう。だいたい、そんな相手を救う必要がどこにあるというのか。

「……いいえ」

 少女は否定した。ここまでは通例どおりである。魔女の嫌疑をかけられた者は、その全てが泣き叫び、自身の潔白を主張する。その労力の無為を悟り、少女のようにはじめから無気力な者達もいた。この種の裁判において予想される最後は例外なく一つでしかない。舞台に関心を向ける聴衆達は、人間の持つ汚らしい一面をそのまま表しているような楽しげな表情でその台本どおりの展開を見守っているのだった。


「では、審問者はなぜこの少女を魔女と弾劾するか。説明を」

「魔女である証拠の一つは、その連れた砂虎の子供でございます」


 指を指されたクアルが、ヤーガスに歯を剥いた。

「なんと恐ろしや! 人をも食い殺す猛獣を人の身で従えることなどできるはずもない。まさに魔性の業でありましょう」

 老女の口調はおどろおどろしく、人々の恐怖を煽るには十分な迫力が込められていた。なるほど、と少しリトも感心する。それなりの役者ではあるらしい。広場で口上劇でも開けばそれなりに人を集められそうな気がする。まったく、そうしてくれていればこちらの面倒にもならなかったものを。

 虚栄心でも満たされているのか、皺だらけの表情の奥底に至福をかいまみせるその人物を一瞥して、リトは口を開いた。


「意義あり」


 あまりに自然な態度に、その場にいた誰もが怪訝な顔になった。 

 被告人への一方的な弾劾が基本的な流れである魔女裁判において、開幕早々に弁護人の手が挙がることなど本来ありえない。それどころか、裁判中に一言も発しない弁護人がほとんどなのだ。

 裁判といっても、あくまで見世物としてのものでしかないからだった。答えは既に決められており、弁護人の存在自体が体裁でしかない。


 魔女裁判というものは、開かれた時点で既に決着がついているものなのだ。進行も弾劾も、台本どおり。それを見守る聴衆もまた文字通りの観客でしかなく、自分ではない人間の死が決定される瞬間を見ようという下種な野次馬根性があるだけだ。

 だからこそ、彼の言葉は今回はそうでないことを強烈に示すために必要な、最初の一言だった。


「審問者は間違っておられる。帝都ヴァルガードが東方、自ら馬に乗り砂漠を駆けたという伝説の王の国では、砂虎が飼育されていたことが史書にて確認されています。飼育は難しいが決して不可能ではありません」

 滔々と天上の神に語りかけるような声で、彼は告げた。


 少しの間、全体に戸惑うような空気が流れた。

 型通りの展開から外れた出来事に、聴衆同士も顔を見合わせている。老女の進めようとする流れに楔を打つことは、どうやらできたようだった。

 自らの独壇場となるはずだった舞台に割り込んできた登場人物に、老女は毒気をぬかれた表情で立ち尽くしていたが、それでも裁判長からの催促の視線があることに気づくと気を取り直し、自身の台詞を続けた。

「二つ目はその瞳。銀色に輝く怪しい瞳の中には不吉の強調である二重の円が刻まれております。これは明らかな魔女の証。いかなる言い訳も神の前には通用致しませぬ」


 老女の発言が終わると、不自然な空白が生まれた。

 また無礼な乱入者からの反論が来るかという老女からの警戒と、さあどうなるんだという聴衆の身勝手な興味の視線が集まる。しかし、リトは悠然として口を挟まなかった。

 それを見て、得意げにいっそう顔の皺を深くした老女がさらに言葉を続けたが、その時点で聴衆の興味はすでに老女一人でなく、少なくとも等分以上には得体の知れない青年へと向けられていた。さきの一言だけで、既に彼は舞台の登場人物としての存在感を獲得していた。


 それから時間にして四半刻近くもの間、湯水の如くに喋る老女がやや空回り気味に周囲に訴えかけようとする間、周囲からのリトへの視線は消えなかった。彼はただ黙って聞いていたが、やがて言いたいことがなくなり、というよりは息が続かなくなった様子で老女が口を閉ざすと、次に裁判長の視線はやや戸惑い気味に、しかし興味を湛えながらリトへと向けられた。


「弁護人。反論はあるかね?」

「はい、裁判長。許可をいただきまして発言致します」


 礼を尽くした応対――自然に演技がかった態度で、リトは立ち上がった。

「どうも審問者は東方についてご存知ではないのではないかと思われます。審問者の仰る瞳孔の特徴は、数こそ少ないが同国において今でもなお存在しており――」

「嘘を申すな!」

 老女の甲高い声が、彼の口上を阻止した。

 聴衆からの非難の視線が老女へと向かう。彼らは今、この正体不明の人物の挙動に注目していた。最初の一言から一向に喋ろうとしなかったその人物がようやく口を開いたというのに、なぜ邪魔をするのか?

 裁判を円滑に進行するための形式上からも老女の発言は好ましくないものでしかなかったため、眉をしかめた裁判長にとりなすように手を上げて、リトは老女へと振り向いた。


「何を持って嘘と仰るのでしょうか」

「そのようなこと、でたらめを申しておるだけであろうが!」

 噛み付きそうな老女を落ち着かせるようにしながら、彼は首を振った。

「心外です。史書については我が国の誇る中央図書館に今も存在しております。もちろん今この場にはありませんが、日数さえ頂けたら取り寄せることは可能だったしょう。無論、この私はすでにそれを読んでいるからこそこうして申し上げさせていただいているわけですが」


 陪審席に注意を向けながら最後に付け加える、それが、リトが自身の姓名を利用できるぎりぎりのラインだった。

 クリスが両天秤の重さで動けぬ以上、例え自分が帝国宰相の息子であることを明かしたところで、彼もまたそれに引き込まれてしまうだけだ。いや、もっと直接的に天秤のバランスを崩しかねない。だから、あくまで含ませただけである。この青年が本物なら、その史書について知っていてもおかしくない。そう陪審員たちが考えてしまう程度に。

 彼の名前の有効性というのはこの場合、実はその程度でしかなかった。それでも充分なのだ。出てしまいさえすれば。その自信が彼にはあった。


 そして、彼が気にしているのは実は罪の可否を決める陪審員達でもなかった。彼は何よりも周囲を取り囲む聴衆達に注力していた。目の前にいる愚かな老女などはなから相手にしていなかった。これはそういう裁判なのだった。

「それはなんという本かね」

 裁判長の言葉に、リトは計算され尽くした笑顔で応えた。

「はい。『東方史書』という著書です。執筆者はD・ランウェイ。彼は生涯を東方で暮らし、その歴史の探究に明け暮れました。慢性的な水不足に悩む東方で『死ぬ時はあのトマスで、裸で河川に飛び込んで溺れ死にたい』そう言い残して亡くなったとか。なんでも最後は素っ裸で砂海に飛び込んだと……さぞ無念であったことでしょう」

 芝居がかった大仰しさで述べる彼の仕草に、聴衆から笑いが起きる。それは決して否定的なものではなかった。


「嘘に決まっておるっ!」

 場を読めずにいる老女がわめき散らした。冷ややかな感情を薄皮の下に隠して、リトは哀れな道化を嘲笑した。

 老女の言葉は実は正しかった。リトが言ったことのほうが嘘。そのような史書は存在しないし、そんな虹彩を持つ種族の話も彼は聞いたことはない。だが、それらはまったく問題にならない。


 そう、必要なのは事実などではない。


 当然のことではあるが、裁判は人が人を裁くものである。では、誰が何をもってして裁くのか。それは、王権ある者からそう任じられた者に他ならない。

 それでは宗教的な裁判になるとどうだ。神の代弁者が裁くのである。つまりは教会である。

 ひるがえってこの裁判はどうなのか。

 魔女裁判を起こしているのは、たかが自称魔法使いだという老女。まったく馬鹿馬鹿しいにも程がある。


 だから最初から、これは茶番でしかなかった。

 砂上の楼閣で胡坐をかいていた老女が自らの尻の下にあるものの存在を気づく間もなく、状況はもはや喜劇になろうとしていた。


「だからといって、この者が魔女でないという証拠はないであろう!」

 その一言を彼は待っていた。重々しく頷いて、首を振る。

「それは確かに。そうかもしれません」

 初めて相手を言い負かす喜びに老女が顔を崩しそうになる瞬間、リトは冷たい表情で囁いた。

「しかし、それはあなたも同じではありませんか」


 老女の表情が凍りついた。



 悪魔の証明。つまりないことを証明することは難しい。ゆえに、あることを証明しようと、でっちあげようとする。不可思議な瞳を持つ少女が魔女でないことを証明することより、魔女であることを証明することのほうがはるかに容易なのだ。そしてそれは、なにも少女に限ったことではない。

「魔女とはなにか。それは人を惑わす悪しき存在に他なりません」

 もはや彼の言葉を妨げるものはいなかった。聴衆も皆、このいつもにはない展開を作り出している目の前の男に、いつの間にか引き込まれている。

 そのことをはっきりと自覚しているのは陪審席にいる女騎士一人だけだったかもしれない。詐欺師め。口の端を歪めた彼女は視線でそう壇上の男に語りかけている。

「では魔法使いとは。それは人を惑わさず、人を助ける存在こそでしょう」


 リトはその場を見回して大声を上げた。彼は裁判長も、陪審員達も、聴衆すらも見ていなかった。彼が相対しているのは「場」そのものであった。空気。流れ。雰囲気。最初から彼が戦っていたのはそれであり、その戦いに勝利にしたことを確信してもいた。

「審問者ヤーガス。わたしはあなたにこそ問いましょう。罪なき人々に疑いをかけ、年端もいかぬ少女をいま火炙りにかけよと言う。あなたこそ何者ですか」


 辛辣な逆弾劾だった。


 通常、このようなことが起こる道理はない。魔女裁判において審問者は神の代理人である教会関係者であり、まずその事実によって彼らの立場は保障される。

 だが、今回はそうではない。相手もまた魔女と呼ばれても仕方がないような人間でしかないのだ。それを忘れ、得意気に審問者を気取ることこそ、いい面の皮と言うべきだった。

「あるいは、皆さん。わたしはあなた方にお聞きします。もし、あなた方のご家族やお子さん、友人が魔女という嫌疑をかけられてはどうでしょうか。腕にある黒子の位置だけで魔女だとされてしまえば? もちろん悪しき魔女がいるのであれば、それは裁かれねばなりません。しかし、その前にあなた方を裁こうとしている者の正体を、我々はよく見極めねばならないでしょう」

 ざわめきが生じる。疑いの目がサリュではなく審問する側であるはずのヤーガスに向けられ、どこからか同意の声が起きた。そのまま波紋のように広がっていく。

 聴衆の心に刃を突きつけるべく、最後の台詞を彼は言った。

「魔女は、あなた方の正しき良心をこそ迷わそうとしているのです」


 それで流れは定まった。あとは後押しがあればいい。そして、既にナイフを刺した彼ではなく、この場でそれを遂げるべき人物がいることをリトは知っていた。

「わ、わしは魔女などではない。魔女はそこの――」

 逃げを打とうとする老婆の視線がさまよい、自身の庇護者の姿を捜し求めた。だが、そんなものはない。前回の裁判において、妄信の炎を瞳に宿しながら自分を神のように崇拝するようだった公爵夫人、そのお忍びの姿が今この場にないことに、初めて気づいていた。その訳に思い当たることもできず、聞き取ることも容易ではない見苦しさで垂れ流す弁明を吹き飛ばすように、凛とした声がした。


「まずは自らの潔白をこそ明かされよっ!」


 陪審席に座るクリスが、堂々とした態度でそこに立ち上がっていた。その姿は人々にとって罪人を裁く女神そのものであり、同時に哀れな幼子を救う為に使わされた天使にも映っただろう。最も人々の望む形で。まったく、その姿は民衆の期待する貴族そのものだった。

 歓声が沸いた。

 ヤーガスを糾弾する叫びと、サリュの無実を訴える声。ファンファーレの鳴った舞台上で、リトは少しだけ仮面を外してため息をついた。

 やはり、くだらない道化だった。



 やがて異例の速さで判決へと進んだ裁判は、裁判長の厳かな声によって終焉を迎えた。

「被告人を無罪とする」

 歓声がさらに爆発した。正義の象徴となったクリスの手によってサリュの縛めが外され、拍手が巻き起こる。


 自らの与り知らぬところで一気に結末まで進まされてしまったサリュは、呆然とした表情でただされるがままになっていたが、クリスに肩を掴まれるとようやく我に返って、間のクアルごと彼女に抱きついた。柔らかな圧力に押され、クアルが悲鳴を上げた。


 ヤーガスは倍以上の年齢にでもなったように脱力して、憲兵隊に保護されている。他の陪審員達は正義を成した自分達に酔うように、聴衆に向かって手を振る者までいる始末だった。


 リトはゆっくりと二人に近づいた。クリスが感極まった様子を素直にさらけ出した表情で彼を迎え、彼女に合図されたサリュが戸惑ったように彼を見上げるのを、彼は無視した。

 他意があったわけではない。彼はまだ注意をといていなかった。

 講堂内の雰囲気が明らかに異常な盛り上がりを見せていた。結末が予想されていたはずの芝居の、見たこともないような逆転劇。そこに自らも参加していたという事実。誰もがその興奮を口にし、声に出されたそれが周囲をさらなる興奮へかきたてている。

「出口は?」

 不審そうな表情をつくるクリスに、彼は手短に告げた。

「危ない。場が壊れるかもしれない」

 周囲では大合唱が始まっている。ヤーガス。魔女。殺せ。ようやく異常に気づいて血相を変えたクリスの先導で彼らが足早に出口に向かった背後で、聴衆の一人が叫んだ。


「魔女を殺せっ!」


 その一言で、その場にいた聴衆全員が暴徒と化した。



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