逃した一匹
板橋の再点検は、昼前に終わった。
プールは水を抜いて清掃済み、給食室の壁は塞いだままだった。何も出ていない。菊田さんが、缶コーヒーを二本くれた。
その足で、私は世田谷の個人宅へ回った。床下のシロアリ。八万円の仕事だ。
夕方、川崎の倉庫から電話が来た。追加の相談だった。
錦糸町の天井裏を、私は翌日に回した。
朝から詰まっていたからだ。
それだけの理由だった。
その日の私の予定は、こう書いてあった。
六時発。板橋、九時半。世田谷、十二時。書類、十五時。川崎、十六時半。錦糸町の天井裏、十九時。
最後の一行を、私は前の晩に消した。
消したときに、何も感じなかった。
三か月前なら消さなかった。三か月前は、一日に二件しか入れていなかったからだ。
連絡が来たのは、その夜の十一時過ぎだった。
管理会社の担当者の声が、裏返っていた。
「加納さん、あの、人が」
「どこです」
「地下です、地下の、二軒目の店の」
「怪我人は」
「アルバイトの子です。救急車が今」
私は靴を履きながら聞いた。
「刺されましたか」
「わかりません。腕が、その、すごい血で」
電話を切って、軽バンのエンジンをかけた。
国道は空いていた。四十分で着く。
その四十分のあいだ、私は昨日のことを順番に思い出していた。
点検口の蓋を持ち上げたこと。中を照らしたこと。ダクトが横切っていて、噴霧器のホースが入らないと判断したこと。
蓋を戻したこと。
戻してから、次の現場の時間を計算したこと。
そこまでは全部覚えていた。
覚えていないのは、蓋を戻したあと、店の人間に何か言ったかどうかだった。
言っていない。
覚えていないのではなく、言っていない。
現場に着いたときには、救急車は出たあとだった。
通路に、血が残っていた。
量を見た。動脈ではない。それだけは、すぐにわかった。
警察がいて、ギルドの当直がいて、店の人間が四人立っていた。
厨房の奥、洗い場の天井。点検口の蓋が、外れて床に落ちていた。
私が昨日、開けなかった蓋だ。
「加納さん」
当直の職員が近づいてきた。
「一体、討伐済みです。体長四十六センチ」
「どこにいました」
「天井裏です。学生さんが、洗い物のあと、上から音がするので脚立に乗って蓋を開けたそうです」
私は蓋を見た。
何も言えなかった。
警察の事情聴取は、通路で三十分だった。
昨日の作業内容、着手時刻、撤収時刻、施工範囲。私は手帳を見ながら答えた。手帳は毎日つけている。父の代からの習慣だ。
「開けたまま帰った理由は」
「翌日に別の現場を入れていたからです」
「危険だとは思わなかった」
「思っていました」
刑事がペンを止めた。
「思っていて、帰ったんですか」
「はい」
私はそれ以上、説明しなかった。
説明すると、言い訳になる。
店主が、厨房の入口に立っていた。
六十くらいの男で、私を見ても何も言わなかった。
怒鳴られたほうが楽だった。
「あの子、四月から入ったばかりでな」
彼はそれだけ言って、厨房に戻っていった。
私は昨日、あの点検口を見ている。
十二メートル奥まで機材が入らないと判断した。
そして「明後日やります」と言った。
残り五箇所は塞いでいないと、私は知っていた。
知っていて、蓋を閉めて帰った。
その蓋に、注意書きを貼らなかった。
テープで固定もしなかった。
店の人間に「ここは開けないでください」と言わなかった。
三隅に言わせれば、私は昨日、少し急いでいた。
病院は江東区だった。
夜中の二時に着いた。処置は終わっていた。
二十歳の男子学生だった。右の前腕を、上から下へ切り裂かれている。腱まで達していた。
母親が廊下にいた。私は名乗った。
「加納防除サービスの加納です。昨日、あの建物で作業をしていました」
母親は、私の顔を見た。
怒鳴られるかと思った。
「……直りますか」
彼女はそう言った。
「息子、来年から就職なんです。手を使う仕事で」
「私にはわかりません」
「そうですよね」
「すみません」
私は頭を下げた。
それしかできることがなかった。
明け方、事務所に戻った。
三隅が先に来ていた。いつ来たのか、シャッターの前に座っていた。
「加納さん。俺が」
「あなたのせいじゃないです」
「でも、俺が昨日、天井裏やりますって言えば」
「私が明日でいいと言いました」
私は鍵を開けた。
「判断したのは私です。人を増やしたのも私です。件数を増やしたのも私です」
事務所の壁に、年間契約の控えが貼ってある。
一千八百万円。
三か月前、私は年に六百二十万で、一人でやっていた。一人でやっていたときは、こういうことは起きなかった。
起きなかったのは、腕がよかったからではない。
件数が少なかったからだ。
「三隅さん」
「はい」
「うちは、明日から二週間、新規の依頼を止めます」
「……止める、んですか」
「止めます」
私は棚から、施工記録の綴りを下ろした。
三か月ぶんある。神田、板橋、川崎、錦糸町。ほかに四十一件。
「全部、やり直します」
「全部?」
「私が三か月で入った現場を、全部です。塞いだ場所を一箇所ずつ、もう一度見ます」
三隅が立ち上がった。
「二人でですか」
「二人でです」
「……何日かかりますか」
「わかりません」
私は綴りを机に置いた。
「わからないので、今日から始めます」
その週の日曜、私は父のところへ行った。
市川の家で、母が世話をしている。父は去年から、日によって話せたり話せなかったりする。
その日は話せるほうだった。
「仕事はどうだ」
「増えました」
「そうか」
「人も雇いました」
父は天井を見たまま、少し笑った。
「お前が人を雇うとはな」
私は錦糸町のことを言わなかった。
言えば、父はたぶん何も責めない。責めないから、言えなかった。
帰り際、玄関で母が言った。
「あんた、痩せたね」
「そうですか」
「うちの人も、昔そうだった。町が閉まる前の年」
母はそれ以上言わなかった。
私も聞かなかった。
月曜の朝、事務所の電話が鳴った。
ギルドからの案件だった。三隅が受話器を取って、私を見た。
「加納さん。板橋区の、今度は中学校だそうです」
「二週間、受けられないと伝えてください」
「……理由は」
「点検中と」
三隅は、そのとおりに言った。
受話器を置いてから、彼が聞いた。
「加納さん。これ、断ったら次が来なくなりませんか」
「来なくなるかもしれません」
「それでも止めるんですか」
「止めます」
私は綴りの一冊目を開いた。
一件目は、三か月前の中華料理店だった。三万円の仕事だ。
「うちの商売は、名前で来ます。名前は、直したかどうかで決まります」
その日、電話は四回鳴った。
四回とも、三隅が同じことを言った。
四回目のあと、彼は少しだけ嬉しそうな顔をしていた。




