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9/32

逃した一匹

 板橋の再点検は、昼前に終わった。

 プールは水を抜いて清掃済み、給食室の壁は塞いだままだった。何も出ていない。菊田さんが、缶コーヒーを二本くれた。

 その足で、私は世田谷の個人宅へ回った。床下のシロアリ。八万円の仕事だ。

 夕方、川崎の倉庫から電話が来た。追加の相談だった。

 錦糸町の天井裏を、私は翌日に回した。

 朝から詰まっていたからだ。

 それだけの理由だった。

 その日の私の予定は、こう書いてあった。

 六時発。板橋、九時半。世田谷、十二時。書類、十五時。川崎、十六時半。錦糸町の天井裏、十九時。

 最後の一行を、私は前の晩に消した。

 消したときに、何も感じなかった。

 三か月前なら消さなかった。三か月前は、一日に二件しか入れていなかったからだ。


 連絡が来たのは、その夜の十一時過ぎだった。

 管理会社の担当者の声が、裏返っていた。

「加納さん、あの、人が」

「どこです」

「地下です、地下の、二軒目の店の」

「怪我人は」

「アルバイトの子です。救急車が今」

 私は靴を履きながら聞いた。

「刺されましたか」

「わかりません。腕が、その、すごい血で」

 電話を切って、軽バンのエンジンをかけた。

 国道は空いていた。四十分で着く。

 その四十分のあいだ、私は昨日のことを順番に思い出していた。

 点検口の蓋を持ち上げたこと。中を照らしたこと。ダクトが横切っていて、噴霧器のホースが入らないと判断したこと。

 蓋を戻したこと。

 戻してから、次の現場の時間を計算したこと。

 そこまでは全部覚えていた。

 覚えていないのは、蓋を戻したあと、店の人間に何か言ったかどうかだった。

 言っていない。

 覚えていないのではなく、言っていない。


 現場に着いたときには、救急車は出たあとだった。

 通路に、血が残っていた。

 量を見た。動脈ではない。それだけは、すぐにわかった。

 警察がいて、ギルドの当直がいて、店の人間が四人立っていた。

 厨房の奥、洗い場の天井。点検口の蓋が、外れて床に落ちていた。

 私が昨日、開けなかった蓋だ。

「加納さん」

 当直の職員が近づいてきた。

「一体、討伐済みです。体長四十六センチ」

「どこにいました」

「天井裏です。学生さんが、洗い物のあと、上から音がするので脚立に乗って蓋を開けたそうです」

 私は蓋を見た。

 何も言えなかった。


 警察の事情聴取は、通路で三十分だった。

 昨日の作業内容、着手時刻、撤収時刻、施工範囲。私は手帳を見ながら答えた。手帳は毎日つけている。父の代からの習慣だ。

「開けたまま帰った理由は」

「翌日に別の現場を入れていたからです」

「危険だとは思わなかった」

「思っていました」

 刑事がペンを止めた。

「思っていて、帰ったんですか」

「はい」

 私はそれ以上、説明しなかった。

 説明すると、言い訳になる。


 店主が、厨房の入口に立っていた。

 六十くらいの男で、私を見ても何も言わなかった。

 怒鳴られたほうが楽だった。

「あの子、四月から入ったばかりでな」

 彼はそれだけ言って、厨房に戻っていった。


 私は昨日、あの点検口を見ている。

 十二メートル奥まで機材が入らないと判断した。

 そして「明後日やります」と言った。

 残り五箇所は塞いでいないと、私は知っていた。

 知っていて、蓋を閉めて帰った。

 その蓋に、注意書きを貼らなかった。

 テープで固定もしなかった。

 店の人間に「ここは開けないでください」と言わなかった。

 三隅に言わせれば、私は昨日、少し急いでいた。


 病院は江東区だった。

 夜中の二時に着いた。処置は終わっていた。

 二十歳の男子学生だった。右の前腕を、上から下へ切り裂かれている。腱まで達していた。

 母親が廊下にいた。私は名乗った。

「加納防除サービスの加納です。昨日、あの建物で作業をしていました」

 母親は、私の顔を見た。

 怒鳴られるかと思った。

「……直りますか」

 彼女はそう言った。

「息子、来年から就職なんです。手を使う仕事で」

「私にはわかりません」

「そうですよね」

「すみません」

 私は頭を下げた。

 それしかできることがなかった。


 明け方、事務所に戻った。

 三隅が先に来ていた。いつ来たのか、シャッターの前に座っていた。

「加納さん。俺が」

「あなたのせいじゃないです」

「でも、俺が昨日、天井裏やりますって言えば」

「私が明日でいいと言いました」

 私は鍵を開けた。

「判断したのは私です。人を増やしたのも私です。件数を増やしたのも私です」

 事務所の壁に、年間契約の控えが貼ってある。

 一千八百万円。

 三か月前、私は年に六百二十万で、一人でやっていた。一人でやっていたときは、こういうことは起きなかった。

 起きなかったのは、腕がよかったからではない。

 件数が少なかったからだ。

「三隅さん」

「はい」

「うちは、明日から二週間、新規の依頼を止めます」

「……止める、んですか」

「止めます」

 私は棚から、施工記録の綴りを下ろした。

 三か月ぶんある。神田、板橋、川崎、錦糸町。ほかに四十一件。

「全部、やり直します」

「全部?」

「私が三か月で入った現場を、全部です。塞いだ場所を一箇所ずつ、もう一度見ます」

 三隅が立ち上がった。

「二人でですか」

「二人でです」

「……何日かかりますか」

「わかりません」

 私は綴りを机に置いた。

「わからないので、今日から始めます」


 その週の日曜、私は父のところへ行った。

 市川の家で、母が世話をしている。父は去年から、日によって話せたり話せなかったりする。

 その日は話せるほうだった。

「仕事はどうだ」

「増えました」

「そうか」

「人も雇いました」

 父は天井を見たまま、少し笑った。

「お前が人を雇うとはな」

 私は錦糸町のことを言わなかった。

 言えば、父はたぶん何も責めない。責めないから、言えなかった。

 帰り際、玄関で母が言った。

「あんた、痩せたね」

「そうですか」

「うちの人も、昔そうだった。町が閉まる前の年」

 母はそれ以上言わなかった。

 私も聞かなかった。


 月曜の朝、事務所の電話が鳴った。

 ギルドからの案件だった。三隅が受話器を取って、私を見た。

「加納さん。板橋区の、今度は中学校だそうです」

「二週間、受けられないと伝えてください」

「……理由は」

「点検中と」

 三隅は、そのとおりに言った。

 受話器を置いてから、彼が聞いた。

「加納さん。これ、断ったら次が来なくなりませんか」

「来なくなるかもしれません」

「それでも止めるんですか」

「止めます」

 私は綴りの一冊目を開いた。

 一件目は、三か月前の中華料理店だった。三万円の仕事だ。

「うちの商売は、名前で来ます。名前は、直したかどうかで決まります」

 その日、電話は四回鳴った。

 四回とも、三隅が同じことを言った。

 四回目のあと、彼は少しだけ嬉しそうな顔をしていた。

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